いつか自由に羽ばたいて

きゃる

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鷹華の恋

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 うつむく私の頭を、樂斗さんの大きな手がポンポンとでる。

「無理に思い出す必要はない。鷹華は、好きなだけここにいればいいんだ」
「樂斗さん……」

 不意に胸が熱くなる。
 そのままでいいとか、ここにいていいとか。私は、そんな言葉が欲しかったような気がするの。

「あたし、お邪魔かしら?」
「だからそういうの止めろって。鷹華が嫌がる」

 顔をしかめた樂斗さんが、姉に言い返す。嫌じゃない。嫌というよりむしろ……
 火照った顔を見られたくなくて、私は別の意味で顔を伏せた。

 思い返せば私の記憶は、三年前に樂斗さんと出会ったところから始まる。ガス灯に浮かび上がる、緑の屋根に白い壁の洒落しゃれたカフェ。閉まったばかりの店の横に立つ白い服の女――それが私。黒に青の制服で帯刀した彼が、私に近づき声をかけた。

『君、こんな所でどうした。そんな恰好で何を?』

 とっさに逃げなければ、と思い身をひるがえす。でも疲れ切っていたようで、身体に力が入らず転んでしまう。倒れる寸前、彼の腕が伸びてきて私の腰を支えた。

『危ない! いや、色んな意味で。若い女性が薄着一枚では危険だ。ほら』

 樂斗さんは、自分の上着を脱いで私に着せ掛けた。その時初めて私は顔を上げ、彼をじっくり眺める。藍色のサラサラした髪、精悍せいかんで整った顔、琥珀こはく色の瞳は優しい光をたたえていて。直感で信頼できると感じた私は、彼の腕の中で気を失った。
 
 目覚めた私は、お店の二階にある和室で布団に寝かされていた。だけど驚くことに、私は自分のことを何一つ覚えていない。いえ、たった一つ。『鷹華(ようか)』という名前だけは、すぐに答えることができた。
 芽衣子さんが、汚れていた私の身体をいてくれたらしい。その時に、太ももの内側にあざのようなものを見たと言う。それすら私の記憶にはないけれど、手掛かりはそれだけ。私はためらいもなく、着せられていた浴衣ゆかたすそをまくる。

『あ、本当ですね』

 芽衣子さんのそばには樂斗さんもいる。私はそのことをすっかり忘れていて、恥ずかしい姿を見せてしまったのだ。

「……華、鷹華」

 いけない、考え事に没頭していた。
 樂斗さんの声で、私は我に返る。

「はい。何でしょう?」
「明日は店も休みだし、俺も非番だ。たまにはどこかへ行くか?」
「いいですね! 芽衣子さんはどこがいいですか?」
「あたし? もちろん遠慮しておくわ。馬にられたくないもの」
「馬ですか? この辺にいるとは思えませんが……」

 帝都は都会なので車が多く、馬車は滅多めったに通らない。首をかしげる私を、呆れ顔で見る芽衣子さん。樂斗さんは困ったような表情をしていた。



 次の日、私は樂斗さんと一緒に帝都近くの河原に来ていた。私達は二人共着物姿だ。

「本当にこんな所で良かったのか?」
「はい。ずっと気になっていました」

『川はいいぞ。緑と水には、心をいやす効果があるらしい』。お客さんがそう話すのを聞き、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
 座って川を眺めていると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。過去を忘れた悩みなど、なんてこともないような。建物でさえぎられないために、大好きな空も広く青い。
 樂斗さんが川に石を投げ入れると、あら不思議。ただの石が水面をピョンピョン飛んでいく。

「すごいです! どうすればそのようにできるのですか?」
「簡単だ。平らな石をこう握って、回転させれば……」

 彼の大きな手が、私の手を包んで石を握らせる。ただそれだけのことなのに、近づく距離に胸が苦しくて――

「すみません。握り潰してしまいました」
「そっちの方がすごいな」

 石が砕けてバラバラに。
 怪力だし、いくら何でも嫌われてしまう。
 泣きそうな私に、彼はどこまでも優しかった。

「気にするな。それよりこれ。今度は強く握らずに持っていてほしい」

 そう言って樂斗さんが袖のたもとから取り出したのは、桃色のリボンがついた金色の鈴だった。彼はそれを私の手のひらに乗せる。

「これは?」
「街で手に入れた。可愛い音だと思って」

 私は金色の鈴を、顔の前で振ってみた。

「本当ですね! 綺麗きれいな音です。でも、どうしてこれを?」
「鷹華にあげたかったんだ。もうわかっていると思うけど、俺は君が好きだ。このままずっとそばにいてほしい」

 突然の告白に、私の心臓は早鐘を打つ。
 驚きと喜びがごっちゃになっているみたい。けれど――

「過去を思い出せない女など、気持ち悪くはないですか?」
「どうして? 鷹華は鷹華だろう? 一生懸命な所も笑顔も好きだ」
「私には何の取りもありません。だから笑うしかなくて……」
「明るい君に癒される者は大勢いる。だが、つらい時には無理して笑わなくていい。そのままでいいんだ。いろんな鷹華を俺に見せてくれ」
「樂斗さん……」

 夕日に輝く水面を見ながら、私は優しい人の優しい言葉を胸中で反芻はんすうしていた。



 そんなある日、小麦粉を買いに行くことになった。忙しい時間に抜けても平気なのは私だけ。妙な所で自信があるけれど、樂斗さんはドジな私でも可愛いと言ってくれる。
 張り切って買い物をした帰り道、私は黒い車から降りてきた黒服の男達に、囲まれてしまう。

「お前が鷹華だな?」
「そうですが、あなた方は? キャッ」

 いきなり車に連れ込まれそうになったので、買い物かごを振り回した。途端にその場が粉だらけに。

「お前達! 何をしている」
「樂斗さん!」
「チッ、官憲か。相手が悪い」

 偶然通りがかった彼に、私は助けられた。
 理由がわからずふるえが止まらない。彼らは、そして私は何者なの?
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