2 / 4
鷹華の恋
しおりを挟む
うつむく私の頭を、樂斗さんの大きな手がポンポンと撫でる。
「無理に思い出す必要はない。鷹華は、好きなだけここにいればいいんだ」
「樂斗さん……」
不意に胸が熱くなる。
そのままでいいとか、ここにいていいとか。私は、そんな言葉が欲しかったような気がするの。
「あたし、お邪魔かしら?」
「だからそういうの止めろって。鷹華が嫌がる」
顔をしかめた樂斗さんが、姉に言い返す。嫌じゃない。嫌というよりむしろ……
火照った顔を見られたくなくて、私は別の意味で顔を伏せた。
思い返せば私の記憶は、三年前に樂斗さんと出会ったところから始まる。ガス灯に浮かび上がる、緑の屋根に白い壁の洒落たカフェ。閉まったばかりの店の横に立つ白い服の女――それが私。黒に青の制服で帯刀した彼が、私に近づき声をかけた。
『君、こんな所でどうした。そんな恰好で何を?』
とっさに逃げなければ、と思い身を翻す。でも疲れ切っていたようで、身体に力が入らず転んでしまう。倒れる寸前、彼の腕が伸びてきて私の腰を支えた。
『危ない! いや、色んな意味で。若い女性が薄着一枚では危険だ。ほら』
樂斗さんは、自分の上着を脱いで私に着せ掛けた。その時初めて私は顔を上げ、彼をじっくり眺める。藍色のサラサラした髪、精悍で整った顔、琥珀色の瞳は優しい光を湛えていて。直感で信頼できると感じた私は、彼の腕の中で気を失った。
目覚めた私は、お店の二階にある和室で布団に寝かされていた。だけど驚くことに、私は自分のことを何一つ覚えていない。いえ、たった一つ。『鷹華(ようか)』という名前だけは、すぐに答えることができた。
芽衣子さんが、汚れていた私の身体を拭いてくれたらしい。その時に、太ももの内側に痣のようなものを見たと言う。それすら私の記憶にはないけれど、手掛かりはそれだけ。私はためらいもなく、着せられていた浴衣の裾をまくる。
『あ、本当ですね』
芽衣子さんの側には樂斗さんもいる。私はそのことをすっかり忘れていて、恥ずかしい姿を見せてしまったのだ。
「……華、鷹華」
いけない、考え事に没頭していた。
樂斗さんの声で、私は我に返る。
「はい。何でしょう?」
「明日は店も休みだし、俺も非番だ。たまにはどこかへ行くか?」
「いいですね! 芽衣子さんはどこがいいですか?」
「あたし? もちろん遠慮しておくわ。馬に蹴られたくないもの」
「馬ですか? この辺にいるとは思えませんが……」
帝都は都会なので車が多く、馬車は滅多に通らない。首を傾げる私を、呆れ顔で見る芽衣子さん。樂斗さんは困ったような表情をしていた。
次の日、私は樂斗さんと一緒に帝都近くの河原に来ていた。私達は二人共着物姿だ。
「本当にこんな所で良かったのか?」
「はい。ずっと気になっていました」
『川はいいぞ。緑と水には、心を癒す効果があるらしい』。お客さんがそう話すのを聞き、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
座って川を眺めていると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。過去を忘れた悩みなど、なんてこともないような。建物で遮られないために、大好きな空も広く青い。
樂斗さんが川に石を投げ入れると、あら不思議。ただの石が水面をピョンピョン飛んでいく。
「すごいです! どうすればそのようにできるのですか?」
「簡単だ。平らな石をこう握って、回転させれば……」
彼の大きな手が、私の手を包んで石を握らせる。ただそれだけのことなのに、近づく距離に胸が苦しくて――
「すみません。握り潰してしまいました」
「そっちの方がすごいな」
石が砕けてバラバラに。
怪力だし、いくら何でも嫌われてしまう。
泣きそうな私に、彼はどこまでも優しかった。
「気にするな。それよりこれ。今度は強く握らずに持っていてほしい」
そう言って樂斗さんが袖のたもとから取り出したのは、桃色のリボンがついた金色の鈴だった。彼はそれを私の手のひらに乗せる。
「これは?」
「街で手に入れた。可愛い音だと思って」
私は金色の鈴を、顔の前で振ってみた。
「本当ですね! 綺麗な音です。でも、どうしてこれを?」
「鷹華にあげたかったんだ。もうわかっていると思うけど、俺は君が好きだ。このままずっと側にいてほしい」
突然の告白に、私の心臓は早鐘を打つ。
驚きと喜びがごっちゃになっているみたい。けれど――
「過去を思い出せない女など、気持ち悪くはないですか?」
「どうして? 鷹華は鷹華だろう? 一生懸命な所も笑顔も好きだ」
「私には何の取り柄もありません。だから笑うしかなくて……」
「明るい君に癒される者は大勢いる。だが、つらい時には無理して笑わなくていい。そのままでいいんだ。いろんな鷹華を俺に見せてくれ」
「樂斗さん……」
夕日に輝く水面を見ながら、私は優しい人の優しい言葉を胸中で反芻していた。
そんなある日、小麦粉を買いに行くことになった。忙しい時間に抜けても平気なのは私だけ。妙な所で自信があるけれど、樂斗さんはドジな私でも可愛いと言ってくれる。
張り切って買い物をした帰り道、私は黒い車から降りてきた黒服の男達に、囲まれてしまう。
「お前が鷹華だな?」
「そうですが、あなた方は? キャッ」
いきなり車に連れ込まれそうになったので、買い物かごを振り回した。途端にその場が粉だらけに。
「お前達! 何をしている」
「樂斗さん!」
「チッ、官憲か。相手が悪い」
偶然通りがかった彼に、私は助けられた。
理由がわからず震えが止まらない。彼らは、そして私は何者なの?
「無理に思い出す必要はない。鷹華は、好きなだけここにいればいいんだ」
「樂斗さん……」
不意に胸が熱くなる。
そのままでいいとか、ここにいていいとか。私は、そんな言葉が欲しかったような気がするの。
「あたし、お邪魔かしら?」
「だからそういうの止めろって。鷹華が嫌がる」
顔をしかめた樂斗さんが、姉に言い返す。嫌じゃない。嫌というよりむしろ……
火照った顔を見られたくなくて、私は別の意味で顔を伏せた。
思い返せば私の記憶は、三年前に樂斗さんと出会ったところから始まる。ガス灯に浮かび上がる、緑の屋根に白い壁の洒落たカフェ。閉まったばかりの店の横に立つ白い服の女――それが私。黒に青の制服で帯刀した彼が、私に近づき声をかけた。
『君、こんな所でどうした。そんな恰好で何を?』
とっさに逃げなければ、と思い身を翻す。でも疲れ切っていたようで、身体に力が入らず転んでしまう。倒れる寸前、彼の腕が伸びてきて私の腰を支えた。
『危ない! いや、色んな意味で。若い女性が薄着一枚では危険だ。ほら』
樂斗さんは、自分の上着を脱いで私に着せ掛けた。その時初めて私は顔を上げ、彼をじっくり眺める。藍色のサラサラした髪、精悍で整った顔、琥珀色の瞳は優しい光を湛えていて。直感で信頼できると感じた私は、彼の腕の中で気を失った。
目覚めた私は、お店の二階にある和室で布団に寝かされていた。だけど驚くことに、私は自分のことを何一つ覚えていない。いえ、たった一つ。『鷹華(ようか)』という名前だけは、すぐに答えることができた。
芽衣子さんが、汚れていた私の身体を拭いてくれたらしい。その時に、太ももの内側に痣のようなものを見たと言う。それすら私の記憶にはないけれど、手掛かりはそれだけ。私はためらいもなく、着せられていた浴衣の裾をまくる。
『あ、本当ですね』
芽衣子さんの側には樂斗さんもいる。私はそのことをすっかり忘れていて、恥ずかしい姿を見せてしまったのだ。
「……華、鷹華」
いけない、考え事に没頭していた。
樂斗さんの声で、私は我に返る。
「はい。何でしょう?」
「明日は店も休みだし、俺も非番だ。たまにはどこかへ行くか?」
「いいですね! 芽衣子さんはどこがいいですか?」
「あたし? もちろん遠慮しておくわ。馬に蹴られたくないもの」
「馬ですか? この辺にいるとは思えませんが……」
帝都は都会なので車が多く、馬車は滅多に通らない。首を傾げる私を、呆れ顔で見る芽衣子さん。樂斗さんは困ったような表情をしていた。
次の日、私は樂斗さんと一緒に帝都近くの河原に来ていた。私達は二人共着物姿だ。
「本当にこんな所で良かったのか?」
「はい。ずっと気になっていました」
『川はいいぞ。緑と水には、心を癒す効果があるらしい』。お客さんがそう話すのを聞き、いつか行ってみたいと思っていたのだ。
座って川を眺めていると、自分がちっぽけな存在に思えてくる。過去を忘れた悩みなど、なんてこともないような。建物で遮られないために、大好きな空も広く青い。
樂斗さんが川に石を投げ入れると、あら不思議。ただの石が水面をピョンピョン飛んでいく。
「すごいです! どうすればそのようにできるのですか?」
「簡単だ。平らな石をこう握って、回転させれば……」
彼の大きな手が、私の手を包んで石を握らせる。ただそれだけのことなのに、近づく距離に胸が苦しくて――
「すみません。握り潰してしまいました」
「そっちの方がすごいな」
石が砕けてバラバラに。
怪力だし、いくら何でも嫌われてしまう。
泣きそうな私に、彼はどこまでも優しかった。
「気にするな。それよりこれ。今度は強く握らずに持っていてほしい」
そう言って樂斗さんが袖のたもとから取り出したのは、桃色のリボンがついた金色の鈴だった。彼はそれを私の手のひらに乗せる。
「これは?」
「街で手に入れた。可愛い音だと思って」
私は金色の鈴を、顔の前で振ってみた。
「本当ですね! 綺麗な音です。でも、どうしてこれを?」
「鷹華にあげたかったんだ。もうわかっていると思うけど、俺は君が好きだ。このままずっと側にいてほしい」
突然の告白に、私の心臓は早鐘を打つ。
驚きと喜びがごっちゃになっているみたい。けれど――
「過去を思い出せない女など、気持ち悪くはないですか?」
「どうして? 鷹華は鷹華だろう? 一生懸命な所も笑顔も好きだ」
「私には何の取り柄もありません。だから笑うしかなくて……」
「明るい君に癒される者は大勢いる。だが、つらい時には無理して笑わなくていい。そのままでいいんだ。いろんな鷹華を俺に見せてくれ」
「樂斗さん……」
夕日に輝く水面を見ながら、私は優しい人の優しい言葉を胸中で反芻していた。
そんなある日、小麦粉を買いに行くことになった。忙しい時間に抜けても平気なのは私だけ。妙な所で自信があるけれど、樂斗さんはドジな私でも可愛いと言ってくれる。
張り切って買い物をした帰り道、私は黒い車から降りてきた黒服の男達に、囲まれてしまう。
「お前が鷹華だな?」
「そうですが、あなた方は? キャッ」
いきなり車に連れ込まれそうになったので、買い物かごを振り回した。途端にその場が粉だらけに。
「お前達! 何をしている」
「樂斗さん!」
「チッ、官憲か。相手が悪い」
偶然通りがかった彼に、私は助けられた。
理由がわからず震えが止まらない。彼らは、そして私は何者なの?
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
86
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる