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 並木がゆっくりと鮮やかに染まっていき、街は深い秋の様相を呈していった。それは何も街の中だけの変化ではなくて、例えば僕は冬を乗り越えるために冬毛になりつつあったし、喫茶店の客も次第に衣服が分厚くなっていった。
 神無月も終わりが近づいてきたある日。

 僕たちバイトメンバーは夜にマスターの部屋へと呼び出された。

「こんな時間に一体何の用だろうね?」

「何のってお前そりゃあ……ってああ、お前はまだここに来たばかりだった」

 人間姿の僕の肩に乗るミネルバが、首をクルクル回しながら僕のことを馬鹿にしようとして、その声音を変えた。

「随分となじんでいるものね。ミネルバの時とは大違いだわ」

「え?ミネルバの時はどんな感じだったの?」

「それは――」

「ええい、やめろ!そんなことはどうでもいいだろ!ほら、さっさと行くぞ!」

 僕と同じく人間姿をとっているエメリーの言葉をミネルバが声と、羽ばたきで遮る。それほど広くない廊下で両翼を広げて見せるから、その片翼が僕の顔面に直撃した。
 止めるならエメリーの口をふさぐべきだと思うんだ。

 先を進んでいたシトラスが立ち止まり、少しだけ首をかしげながら僕たちのことを見ていた。その目は、「まだ?」と僕たちのことをせかしているように見えた。

 ドアをノック。
 マスターの返事を聞く前に、シトラスは扉を開いて中へ入って行ってしまった。普段はしっかりしているのに、こういうところで我の強さがでるのがシトラスという猫又だった。

「……来た」

 実に短い言葉をマスターに告げたシトラス。けれどその真っ黒な瞳は、これまで見たことがないほど輝いて見えた。

 マスターはしわの刻まれた顔をくしゃりと変えて笑い、つかつかと歩み寄ってシトラスの頭を撫でた。シトラスも、黙ってそれを受け入れていた。
 ふたりの年齢は知らないけれど、僕には祖父と孫が戯れているように見えた。

 それからマスターは、シトラスと僕、そしてエメリーに一つずつ茶封筒を手渡した。

「これは?」

 どこかから手紙でも来たのだろうかと、僕は封筒をひっくり返して確認するけれど、そこには宛先はもちろん、切手だって貼られていなかった。

「何言ってるのよ。給料よ、給料」

 エメリーの言葉を聞いて、僕はああ、と思い出したように声を上げた。
 そう、僕はこの喫茶店に勤めることで衣食住を手に入れたわけだが、バイトをすることになった最大の理由は、旅の軍資金を手に入れることだった。
 そのことをすっかり忘れていた僕は、マスターの顔を確認し、それから急いで封筒の中を確認した。

 久しぶりに見た人間のお金は、とても感動ものだった。何より、前世と現世ともに、初めて自分で稼いだお金が、そこにあった。
 それは、まばゆい黄金色の輝きを放っているように見えた。

「ふおおおおおおお!」

「……うっせぇなぁ」

 歓喜の声を上げる僕。無表情で懐に給料をしまうシトラス。無造作に封筒を片手でつかんだままのエメリー。
 そんな中、僕の耳に低温の、冷え冷えとした声が聞こえてきた。

「…………ミネルバ?ミネルバは?」

 ミネルバは、給料を受け取っていなかった。人化ができなくて給料をもらっても使えないからだろうか?いや、別にミネルバ自身が店に出向く必要はない。ネットで購入だってできるし、僕たちにお使いを頼んでもいい。だからミネルバが給料を受け取っていないのは、もっと別の理由のはずで――

「ほら、さっさと話しておかないからいけないのよ」

 エメリーの言葉に、ミネルバはふん、と一声つぶやいて、半開きになっていた扉を器用に開けてその奥へと消えていった。

「ミネルバの給料はないの?」

「あいつの分は損失の補填にあてがわれているのよ」

 どうにも要領を得ないエメリーの言葉に、僕は首をかしげるばかりだった。損失って、お店の損失?それをミネルバの給料から?そんな馬鹿な――

 話は後だ、とでもいうように首で退出を促してくるエメリーに従って、僕はシトラスと一緒にマスターの部屋から退出した。
 廊下にて、顔を半分後ろに向けたエメリーが、困惑している僕に説明するために口を開く。

「あんたはこの店に何をしに入ってきたのよ?」

「え?行き倒れてたら拾われたんだよ?」

 ああそうだったわね、と頭痛をこらえるように頭に手を当てたエメリーがため息をついた。

「ここは、妖が経営してる。……とっても珍しい」

「そう、ですね。正直、妖がこうも人間社会に普通に混じっているのは不思議でした。こういった場所は多いんですか?」

「いいえ、多くないわ。というか、ここが特別なのよ」

 エメリー曰く、このアニマル喫茶テルセウスは背後に人間社会でも強い権力を有する、人間戸籍を持って人間として生きている妖の大家がいるそうだ。彼らが妖たちへの救済措置として各地に設けている場所の一つがここの喫茶店で。

「そんな巨大な妖ネットワークを構築している理由は色々あるのだけれど。当然妖の雇用は需要があってのことなのよ」

「需要、というと、何か望みがあってバイトのみんなが雇われているということですよね?」

「そうよ。多いのは、平穏に生きたい、人間のお金が欲しい、暇つぶし、それから、人間の戸籍が欲しい、といったあたりね」

「戸籍、ですか?」

「そう。店の従業員として雇われたバイトは、同時に本家に性格なんかを分析されるの。その試験に突破して、そのうえで望めば、彼らの分家の養子になったり、婿入りだったり嫁入りだったりを許可されて、人間として生きていくことが可能になるのよ」

 人間の、戸籍。僕はそれが欲しいだろうか。
 考えはしたけれど、僕の中に欲が生まれることはなかった。
 今の僕は、お母さんとの再会が何より大切で、ほかのことは二の次だったから。まあ、頭にユキメのことが浮かんだのは内緒だ。僕の中で、腐れ縁であり旅の連れであった彼女の比重はとても大きくなっている。
 こうして会えない時も、彼女のことを考えてしまうほどに――

「ちょっと、聞いてるわけ?」

「あ、うん。エメリーは戸籍が欲しいって話だよね。でも、どうして?」

「エメリーはロマンチスト。好きな人間の男がいて、彼と一緒になりたいって」

 珍しく長文を話したシトラスの言葉を聞いて、僕はエメリーに本当のことなのか尋ねようとして。
 視線の先に真っ赤な顔を見つけて、僕はぽかんとだらしなく口を開けてしまった。

「エメリー、かわいい」

 シトラスの次なる言葉を聞いて我に返ったのか、顔全部を真っ赤に染め上げたエメリーが、言葉にならない悲鳴を上げながらシトラスの両肩をつかんでがくがくと揺さぶった。

「うっ……きもち、悪い」

「あ、ああ、ごめんなさいね。でもシトラス、あなたが口を滑らせたのが悪いのよ」

 いまだに顔の火照りが取れないエメリーが視線を右往左往させ、それから呆然を彼女を見つめていた僕に気づいて、「何よ!」と叫びながら鋭い視線を浴びせてきた。
 蛇ににらまれた蛙のように僕は体を硬直させ、けれどすぐに首を振って恐怖を追い払った。

「……シトラスは、どうしてバイトをしてるの?」

「私は、暇つぶし」

「猫又の生は長いのよ。のんびり暮らしたいけれど、刺激がないのは耐えられない。そんな面倒な集団よ。まるでそわそわと孫の来訪を待つ老人ね」

「そう、刺激が必要。……エメリーをからかうのは、楽しい」

 仕返しとばかりにその年齢を暗に告げるエメリーに対して、シトラスの痛恨の仕返しが放たれた。
 パクパクと空気を吸う金魚のようになってしまったエメリーから視線をそらし、僕はシトラスに尋ねる。爆発まで、たぶんあと十秒ほど。

「それで、ミネルバは?」

「ルバは、本屋で盗みをしてた小悪党。つかまって、償い」

「ッ、あんたはねぇ――!」

 沸騰したように叫びだしたエメリーから逃げるように、両手で耳を覆って走り出すシトラス。それを追うエメリー。
 そんな二人を追いながら、
 ミネルバはどうやら相当なやんちゃをしていたらしい。知恵の獣は、その知識欲が大きすぎて盗みを働き、その果てに本家?につかまって奉仕させられているとのこと。
 だからミネルバは「妖怪」という言葉を嫌っていたのだと、僕は腑に落ちた。

 彼は、一歩対応が違っていれば、妖怪として退治されていたかもしれなかったのだ。

 悪いことはしないようにしよう。
 僕は妖狐として自分が人間だったころから価値観がゆがみつつあることを理解して、言い聞かせるようにつぶやいた。
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