異世界転生 剣と魔術の世界

小沢アキラ

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第三部・最終章 望む明日

第二十四話

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 この瞬間を、どれだけ待ち望んだか。
 本当に長かった。一年という時間が、果てしなく長く感じるほど、この瞬間を心待ちしていた。
 あの日──多くの仲間を失ってから、自分の時間は止まっていた。愛する者、信頼する者、親しき者を失ってから、全てを諦めていた。
 近くにセレナがいてくれたから、どうにか今日まで生きてこれた。もし彼女がいてくれなかったら、俺は毎晩孤独に怯え、悲しみに明け暮れていただろう。
 いや、違う。
 俺は今でも怯えている。全てを諦めている。
 眼前の──既に人ではない存在と対峙した瞬間に、自分は最初から全てを諦めていたことを痛感させられる。
 寂しい、辛い、苦しい。毎晩眠る前に、必ず脳裏によぎる。セレナが側にいてくれないと、不安で押し潰されそうになる毎日だった。
 何度も焔天剣を胸に突き立て、軽く押して死のうとした。時には、戴天に俺を殺すよう命じたこともある。
 でも俺は、惨めにも生きている。
 それはきっと、俺自身が《》と願っているから。彼女──セレナといたいと願っているから、今なおここに立っているんだ。彼女と出会い、隣で優しく穏やかな笑みを向けてくれたから、俺は生きたいと思えたんだ。
 彼女──セレナと出会えたことは、奇跡だったのだろう。
 見ず知らずの俺を愛する彼女と出会えたことで、俺は人として大切な感情を知ることができた。に、気付くことができた。
 そのお陰で、多くの仲間と出会い、分かり合えた。異なる世界で生まれたにも関わらず、彼らと心の底から分かり合うことができた。
 今ならば分かる。自分が異世界に転生してきた理由が。
 邪教神を倒し、この世界に住む人々を守るためだ。諸悪の根源を討ち倒し、人界も魔界も救うために、俺は特異点に選ばれたんだ。
 短い逡巡を終え、カズヤと邪教神の視線が合わさった。それだけで、ここに至るまでの記憶が鮮明に思い返される。
「…………本当に、長かったな」
 一瞬で巡った記憶や思い出を嚙み締め、感慨深く囁く。
 出会いと別れ。死ぬ覚悟をした試練や戦闘など、全てが輝いていた。嫌な思い出や悲しい思い出すら、今では懐かしく思える。
 もしかしたら、全ての事象はこの瞬間のために起きたのかもしれない。過酷な経験を積むことで屈強な精神を鍛え上げ、強大な存在に立ち向かう勇気を手に入れるために。
 そんな俺の思考を一瞬で見抜いたように、邪教神は黒い瘴気で隠れた口許を歪め、残忍で氷のような冷酷な笑みを浮かべて言った。
「単なる道具が……意思を持つな」
「道具だと……?」
 死の神が発した名称に、怪訝な表情と共に応じる。すると笑みを薄め、表情と呼べるものが読み取れなくすると、淡々と語り出した。
「いい加減気付いたらどうだ? お前は、私に生かされ、扱われる道具であることに」
 両手を広げ、上半身を仰け反らせながら、さらに続ける。
「貴様がその肉体に偶然的に乗り移ったがために、貴様を殺めることは避けてきた。分かるか? お前は、俺に生かされていたということに」
 確信とともに放たれた台詞は、意外にも長い時間耳に残り続けた。
 言われてみればそうなのかもしれない。邪教神は俺を倒そうとはしたが殺そうとしたことはない。大戦時も殺すのではなく、捕らえることを優先していた。
 つまり俺は、邪教神に生かされていたというのか。俺という存在だけを消し、完璧な肉体を手に入れるために。
 そんな真実を知ってなお、俺は落ち着いていた。
「確かに俺は、お前の道具かもしれないし、生かされていたのかもしれない……」
 無気力に告げ、視線を上げる。
「だが、道具に宿った意思はお前のものじゃない」
 確固たる意思を秘めた声で、邪教神に宣言する。
「俺がこの体を正しいことに使ってこれたのは、かけがえのない仲間がいたからだ。カムイさんが、セレナが、師匠が、沢山の仲間たちが……特異点である俺を作ってくれたんだ」
 純白の大剣を振るい、宙に白く透き通る軌跡を描く。軌跡には星のような輝きが煌めいており、暗く淀んだ空気を晴れやかに染め上げた。
「みんなが笑える世界を作る。そのために俺は、この力を使う!」
「そんな世界など来ない! 全てを破壊し、支配する!! それこそが、この世界に来たる結末だッ!!」
「決定された未来だとしても、俺は諦めたりはしない! 自分が信じる世界の……正義のために戦う! それだけが、俺がここにいる理由だ!!」
 叫び、純白の大剣を天高く掲げる。剣先に魔法陣が展開され、炎素・爆素・水素・凍素と多種の素因が出現する。それらは次第に姿形を剣へと変化し、やがて九本の剣へとなった。
 純白の大剣には多くの恩恵があった。元々特異点は空間魔素の扱いが得意であり、初歩的な素因ならば念じるだけで生成可能だ。
 これは創世神のお陰かもしれないが──大剣にも焔天剣同様の物質変換が備わっており、それを通じて素因の姿形を変換することができる。
 つまり、詠唱なしで魔術をイメージした形に変換できる。純白の大剣と特異点の肉体は、過去類に見ない相乗効果をもたらした。
 宙に浮かぶ九つの色彩の剣が一斉に狙いを定める。
「行けッ!!」
 九本の剣は虹色めいた軌跡を描き、邪教神へと襲いかかる。負のマイナス因子の前では魔術は意味ないのだが、あれらには全て鋼素を軸に生成されており、色彩はあくまで付与させているだけ。
 負のマイナス因子で付与した素因を消滅させようと、鋼素で出来た剣までは消滅できない。九本の剣が、そのまま邪教神を貫くだけだ。
 だが、カズヤは慢心せずに前に出た。
 人族が生成できる素因の上限は十個。残った一個に全精神を集約させ、神器にも引けを取らないほど強固な長剣を左手に出現させた。
 見た目ほどの重量ではない大剣を右手に、魔術で生成した長剣を左手に、九本の剣が描く軌跡の中央を疾駆する。
 九本を対処すれば俺に斬られ、俺を対処すれば九本の剣が邪教神の身を穿つ。
 徹底した戦術だと自負する気はない。ただ、可能な限り相手に反撃の隙を与えずに勝負を決めたいだけだ。
 ──行くぞ、邪教神!!
 邪教神は、一切の回避行動を取ろうとしなかった。
 薄笑いを浮かべたまま、ただその場で両手を広げる。
 青い闇を纏うその体に、九色の光が突き刺さる。
 わずかに上半身をぐらつかせた隙を逃さず、俺は右手の大剣で神の胴を薙ぎ払い、左手の剣で胸を貫いた。粘液質の闇が飛び散り、すれ違う俺の肌に冷気を残した。
 そのまま走り抜けて距離を取り、素早く振り向く。
 俺の視線が捉えたのは──。
 不定形に流出した闇をずるずると引き戻し、何事もなかったかのよう振り向く邪教神の姿だった。
 やはり。
 生半可な攻撃では倒せないというのか。
 交錯の瞬間、虚無の刃に撫でられた俺の右肩から、鎧をすり抜け、制服の布地と肉が抉られ、鮮血が飛び散った。
 
  ***

 邪教神グーリは、焦ることもなく静かに現状を見定めていた。
 目障りな騎士と創世神は満足に動けない。となれば、最後の障害を即刻無力化し、我が悲願を叶えるのが論理的な判断だろう。しかし邪教神は成長した敵にほんのわずかな興味を覚えて、その場で立ち尽くしていた。
 一見したところでは、ただの子供にしか見えない。
 先に戦い、相討ちとなった壮年の剣士と比較すれば、威圧感などなきに等しい。
 それでも、油断ならない相手ではある。特異点の力を使い、なおかつ常識の枠から踏み外した戦い方は敵ながら興味をそそられる。
 特異点の肉体を手に入れ、世界をゼロに戻したあとは、自分だけの世界を隅々まで好みに合うように構築しなくてはならない。特異点の体を効率的に動かすためにも、若者の動きを見て覚えておくのも悪くない。
 邪教神は薄い笑みを浮かべ、九つの色彩を周囲に配置した少年に向けて語りかけた。
「三分与えてやる。貴様の正義とやらを、我に見せてみろ」
 
  ***

「……気前のいいことだな」
 俺は、指先の一撫でで右肩の傷を塞ぎながら呟いた。
 邪教神の攻撃は、あらゆる障害物をすり抜けて目標に直接攻撃というものだと、すぐに理解できた。
 だとしたら、鎧は意味を成さない。
 傷が塞がられるた瞬間、受け継いだ鎧を外す。
 その隙を逃さず、邪教神は地面を音もなく滑り、剣の間合いに滑り込む。
 ノーモーションで繰り出された突き技の速度は、驚くべきものだった。十字にクロスさせた二本の剣で、下からすくい上げるように受ける。
 ぎじゅっ!
 と異様な音とともに、青黒い闇の剣が俺の鼻先で停止した。
 大剣と長剣が激しく軋む。かろうじて消滅はしないものの、いわば虚無そのものと斬り結んでいるようなものだ。剣に巨大な負荷がかかっていることは想像に難くない。
 しかし、バックステップで回避せず、あえてクロス・ブロックしたのは作戦のうちだった。俺は、邪教神の闇の剣を強引に斬り下ろそうとする力に逆らわず、体を右に流しながら渾身のハイキックを浴びせた。
「ラァ!!」
 気合とともに、赤色の光を引きながら跳ね上がった爪先が、尖った顎を捉えた。ボッと闇が飛び散り、邪教神は上体を仰け反らせる。
 ──どうだ!?
 左の足裏で宙を蹴り、バク転で距離を取りながら俺は敵の様子を確かめた。斬撃で駄目でも打撃ならば。
 かくん、と頭を戻した邪教神は、しかし表面的にはまったくの無傷だった。
 顎から飛び散った黒い闇は、すぐに凝集して滑らかな皮膚を再生させた。そこを左手で撫でながら、敵はにやりと笑った。
「これが貴様の世界にある、マーシャル・アーツと呼ばれる格闘術。なるほどな……」
 びゅっ!!
 と空気を鳴らし、言葉半ばで、邪教神の全身が黒く霞むほどの速度で突っ込んできた。左上から振り下ろされる剣を、俺は反射的に大剣で弾き、同時に長剣で反撃した。敵の肩口に刃が食い込み、まるで高濃度の粘液に包まれたかのような手応えとともに動かなくなる。
 伸びきった俺の左腕に、するりと絡みつくものがあった。邪教神の右腕。太い蛇のように巻きつき、たちまち関節を極められ──。
 ごきっという嫌な音とともに、俺の脳天に電流にも似た激痛が走った。
「ぐあっ……」
 呻く俺の顔を間近から覗き込み、邪教神は囁いた。
「──こういうことか」
 直後、猛烈なラッシュが開始された。
 虚無の剣が、無限にも思える回数の連続技を超高速で撃ち込んでくる。それは特異点の力《能力向上》で視力を上げ、右手の大剣だけでどうにか捌こうとするが、防御を抜けてきた一撃が、体のあちこちを浅く抉り取っていく。へし折られた右腕を回復させるあてに精神を集中する暇などまったくない。
「く……おっ……」
 思わず呻き声を漏らし、俺は距離を取るべく後方へ大きく飛ぶ。
 全力でバックしながら、剣を握るだけで精一杯の左腕に右手の指を這わせる。
 白い光が集まりかけた、その時。
 邪教神がすっと左手を掲げ、鉤爪のように五指を曲げてから、一気に開いた。
 十本以上の漆黒の稲妻が放射状に広がり、途中で鋭角に折れ曲がって襲い掛かる。
 俺は歯を食い縛り、九本の剣で防御壁を展開した。今は集中力の半分を腕の治療に割いている──という認識それ自体が、剣の強度を減少させ──。
 鈍い振動が、体の数箇所に生じた。
 剣を貫通した闇の光線三本が、胴と両脚を穿ったのだ。痛みよりも先に、凄まじい冷気が感覚を駆け巡る。見れば、貫かれた箇所には青黒い虚無がまとわりつき、俺の存在そのものを喰らおうとしている。
「ぐ……」
 再び唸りながら、大きく息を吸い、気合を放つ。ようやく虚無は消し飛んだが、新たな傷口から大量の鮮血が飛び散る。
「ハハハ」
 乾いた声に顔を上げると、邪教神が虚ろな相貌を歪め、笑っていた。
「解っただろう! 希望や愛などと曖昧な信念では我には勝てぬことが! 絶対的な力こそが、この世の真理なのだとッ!!」
 今回ばかりは、言い返すことができなかった。
 もしかしたら俺も、心のどこかでそう思っているのかもしれない。力があれば、みんなの希望にもなれるし、愛してもらえると。
 
 ──違うよ、カズヤくん。
 
 懐かしい声。
 氷のように凍えた左手に、かすかな温もり。
 
 ──私がカズヤくんを愛したのは、あなたが優しいからだよ。
 ──そして、あなたが多くの人を愛し、守ろうとしているから。
 ──あなたの愛は、大きく、広く、深い。世界の全てを背負おうとするほどに。
 
 そうだったね、セレナ。
 力とは、虐げるためでも、支配するためにあるんじゃない。
 大いなる使命を果たすため。そして──。
 愛する者を守るためにあるんだ。

  ***
 
 邪教神は、少年の頬に細い涙の筋が伝うのを見た。
 ようやく、絶望したのか。
 死にゆく者の恐怖と絶望こそ、邪教神が唯一共感できる感情だった。
 遥か昔、同族を殺した時から、多くの人間を手に掛けてきた。多くの恐怖を味わうことで、渇きを癒してきたのだ。
 あれほど自信に満ちていた少年が死に際に迸らせる絶望は、どんな味わいだろうか。
 体の底から湧き上がる飢えと渇きを感じ、舌先で唇を舐めながら、邪教神は左手の指先を高く持ち上げた。
 小さな黒球が幾つも出現し、蠅のように唸る。
 指を振り下ろすと、黒球から極細の光線が迸り、少年の体のあちこちに突き刺さった。少し間を置いて鮮血が噴き出し、霧のように漂う。
「ハハハハハ!!」
 哄笑しながら一気に肉迫した邪教神は、虚無の剣を引き絞り。
 無造作に、少年の腹を貫いた。
 黒い制服に覆われた胴体が、荒れ狂う虚無に引き裂かれ、呆気なく分断された。
 飛び散る血の肉。骨。臓器。
 紅玉のように美しいその輝きに、邪教神は左手を突き入れた。
 少年の上半身からぶら下がり、尚も脈打つ最大の宝石──魔石を摑み、引き千切る。
 掌のなかで、淡く発光する宝石をそっと口許まで引き寄せ、邪教神は虚ろな表情で宙に漂う瀕死の少年に向かって囁きかけた。

  ***

「貴様の感情、記憶、魂の全てを……いま、喰らってやるぞ」
 そう言い放つ死の神の姿を、俺は、半眼に閉じた瞼の下から見詰めた。
 邪教神は、色のない唇を大きく開け、まるで熟した林檎を齧るように、俺から奪った魔石に鋭く尖った歯を立てた。
 ……がりっ。
 という怖気をふるうような音が響いた。
 白面が大きく歪み、その口から俺のものではない血が大量に溢れる。
 当然だ。
 あれは、鋼素から生成した擬似魔石で、内部には無数の小刃が入っていたのだから。
「ぐっ……」
 唸り、口を押さえて後退する邪教神に、俺は掠れた声で言った。
「そんな……石ころに、心も、記憶もあるものか。体なんか……ただの入れ物だ。思い出や、意思は……いつだって……」
 ここにある。
 俺という存在そのものと融けあい、一体となり、永遠に分かたれることはないのだ。
 魔石を引き千切られた痛みは、もう痛みとも呼べぬほどの凄まじいものだった。しかしこの一瞬こそが、最大最後の機だ。逃せば二度目はない。
 俺は両手で純白の大剣を掲げ、鮮血を飛び散らせながら叫んだ。
「リベラシオンッ!!」
 純白の閃光が炸裂し、暗い空を明るく照らす。
 闇に覆われた空が晴れていき、邪教神が纏う闇をも遠ざけていく。
 青空はたちまち地平線まで達し、さらに彼方へと広がり続ける。
 
  ***
  
 サヤは、二人が消えた方角を無言で見上げた。
 暗い空が晴れていき、白い光が塗り潰していく途轍もない光景に、眼を奪われていた。
 ──なんて綺麗なの……。
 争いしかない世界を、一人の愛が優しく包んでいく。その愛は誰にでも向けられ、平等に与えられていく。
 いや……そんな言い方じゃ表せない。
 彼の愛はきっと、種族間の壁なんて物ともしないほど広く、深いものなんだ。だから獣人族である私を愛し、友として慕ってくれたんだ。
 真に強い力は、人と人との繋がり。ならば、彼は誰にも負けない。
 だって彼は、種族間や人種など関係なく人を愛し、繋がっているのだから。
「……ね、ワタル」
 サヤは晴天から視線を外し、ちらりと隣の友人を見やった。
「わたしね……やっぱり、カズヤが好き」
 ワタルも微笑み、答えた。
「僕もだよ」
 そして二人同時に、かすかな燐光を帯びる闇夜に顔を戻した。
 眼を閉じる寸前、それぞれのやり方で祈り、願った。自分たちが本当に望む明日を。

  ***

 大門に残る人界守備軍本隊と、天界の騎士ルキウス、下位騎士たちは、一様に言葉を失い、時ならぬ晴天を見上げた。
 彼らの胸中に去来する思いはそれぞれ異なっていたが、祈りと願いの強さは同じだった。
 ルキウスは、世を去った騎士長ヒサカゲが愛した世界のために祈った。
 他の騎士や衛士たちも、愛する世界に平和が戻り、永遠に続くようにと祈りを捧げた。

 魔界の北東の山岳地帯では山ゴブリン族が祈り、その西の荒野では平地ゴブリン族が祈った。
 南西の高台ではジャイアント族が祈り、中部の森林では夫や父の帰りを待つオーガ族が祈った。
 バルビエル城の城下町では騎士の親族が、デーモン族が眼を閉じ、祈った。

 晴天の訪れは、分断の壁を越え、人界にまでも一瞬で届いた。
 辺境の村、コドールの教会で、洗濯のための井戸水を汲んでいたシスターマムは、澄み切った青空に眼を奪われ、立ち尽くした。掌からロープが滑り、井戸に落ちた木桶がかすかな水音を立てたが、耳に届くことはなかった。
 唇から漏れた囁きは、ひそやかに震えていた。
「…………セレナ。…………カズヤくん」
 いま、まさにこの瞬間──。
 誰よりも愛する二人が、懸命の戦いを繰り広げていることを、シスターは朝風に感じ取った。
 シスターは短い草の上に跪き、両手を胸の前で組み合わせて、眼を閉じ、呟いた。
「お願い……二人とも、無事に帰ってきて」
 祈りとともに再び見上げた晴天は、曇りなど一切なかった。見れば、先刻まで中庭で遊び回っていた子供たちが、無言で地面に膝をつき、小さな手を握り締めている。
 教会前の広場では商人や主婦たちが。
 牧場や麦畑では農夫たちが。
 村役場の執務室では村長が、衛士の詰所ではペックが祈った。誰一人、恐れおののく者はいなかった。
 
 同じように、少し東に行ったところにあるサランの街の空にも、晴天が広がった。近郊のヤマテ農場でも、主夫妻と娘チルが、窓際に並んで祈った。
 人界の各地に点在する村や街の住民たちも、一様に無言の祈りを捧げた。
 さらに、人界の中央に位置する中都の市民たち。修剣学園の生徒たち、教師たち。
 中都統制教会に属する魔術師や司祭たちすら例外ではなかった。
 平和な世界が訪れますように、と。
 
 セレナは、朧げな意識の中で人界と魔界から流れる祈りを鮮明に感じ取っていた。
 人界の民も。
 魔界の民も。
 人族も。
 亜人族も。
 獣人族も。
 いま、世界は祈りのもとに一つになっている。
「カズヤ…………!!」
 セレナは剣士の名を呼び、高く左手をかざした。
 私の心も。偽りの騎士として、わずかな年月だけを生きてきたかりそめの心ではあるけれど、でもこの気持ちは──この胸に溢れる感動は、きっと本物だから。
 左手から、眩く煌めく光が放たれ、一直線にカズヤの剣を目指して飛翔した。

  ***

 邪教神は、世界全土から集まる謎の意思に訝しんだ。
 全員が同じことを願い、祈っている。人界の民も、魔界の民ですら。
「ふ……ふざけるな!!」
 力なくして、支配などありえない。
 人の心を支配するのは痛みと恐怖だけ。愛や優しさでは支配などできない。
「認めぬ……我は絶対に認めぬぞ!」
 大きく開いた口から絶叫を放ちながら、邪教神は翼に剣を加えた七本の虚ろな刃を全方向に広げた。
 何も持たない左手を前に突き出し、少年の首を摑もうとしたその時。
 ようやく邪教神は、赤い空が青空に変わっていることに気付いた。
 
  ***

 純白の大剣から迸った光が、闇を遠ざけ、光が包んだ。
 異世界全土から無数に流れてきた光たちが、虹色の滝となって剣に流れ込んだ瞬間、俺は何が起きたのかを察した。
 純白の大剣は、人の、思いを吸収する。祈りや願い、希望を吸収し、力に変えるのだ。
 無限に降り注ぎ続けると思われる光の最後のひとつが剣に吸い込まれ。
 そして、たった一つだけ地上から舞い上がってきた光が刀身に融けた、その刹那──。
 純白の大剣が、数多の人々の意思を映して七色に輝いた。
 光は、柄から俺の腕へと流れ込み、体を満たしていく。邪教神に破壊された下半身も、温かな輝きの中で瞬時に再生する。
 光は左腕にも集まり、握られた長剣もまた眩く煌めいて──。
「お……おおおおおお!!」
 俺は、二本の剣を大きく広げ、叫んだ。
「があああああああ!!」
 眼前の邪教神が、奇怪な咆哮を放った。
 邪教神の姿は、もう完全に人のものではなくなっている。流体金属の如く不気味に輝く裸体を青黒いオーラが包み、眼窩から放たれるバイオレット・ブルーの光は地獄から漏れ出る業火のようだ。
 右手に握る、巨大な虚無の刃を高々と振りかざし、同様の刃へと変じた六枚の翼を四方に伸ばしている。
 直後、俺に向けられた左手から、密度のある黒いワイヤーが無数に溢れ、飛びかかってきた。
「……おぉッ!!」
 気合とともに九本の剣を飛ばし、それらを弾く。
 右の剣を前に、左の剣を後ろに構え、思い切り地を蹴る。
 彼我の距離はわずかなもので、フルスピードの突進は一秒にも満たないはずだった。しかし、俺はその時間がどこまでも引き延ばされるような加速感に包まれた。
 右側に、何者かの影が出現した。青い着流し姿に、鋼色の長剣を佩いている。剛毅な容貌ににやりと太い笑みを浮かべるのは、騎士長ヒサカゲ。
『少年、殺意は捨てろ。お前さんの剣には、そんなもん似合わねーからよ』
 続いて、左側に桃色の長髪の女性が現れた。消えたはずのユリが、優しい微笑みを浮かべている。
『あなたの剣は、多くの人を救うためにある。殺めるためにあるんじゃない』
 さらに、ユリの隣に、小さく可愛らしい兎が出現する。
 スコッドは、赤い瞳を俺に向け、囁いた。
『君の剣で、沢山の人を助けるんだ。大丈夫。君ならできる』
 そして最後に、俺の胸のすぐ前に、黒い修道服姿の女の子が現れた。金髪を二つに結えた、もう一人のセレナ。
『信じて、カズヤくん。あなたが愛し、あなたを愛する、沢山の人の心を』
 淡い微笑みの奥で、茶色の瞳が優しく煌めいた。
 そして、彼らの姿は消え──。
 最大最後の敵邪教神が、剣の間合いに入った。
 俺は、かつてないほどの力に満たされた両腕で、剣を振るった。
「う……おおおおおおお!!」
 意思の光に満たされた剣が、眩い軌跡を引きながら撃ち出されていく。
 同時に、邪教神の六翼一刃が、全方向から襲い掛かってくる。
 光と虚無が立て続けに激突するたび、巨大な閃光と爆発が世界を震わせる。
 速く。もっと速く。邪教神よりも速く。
「おおおおお────ッ!!」
 俺は咆哮しながら、意識と同化した体をどこまでも加速させ、二刀を振るう。
「ガキがああぁぁぁ──ッ!!」 
 邪教神も絶叫しながら七枚の刃を撃ち返してくる。
 十撃。
 十一撃。
 激突し、放出されるエネルギーが周囲の空間を飽和させ、稲妻となって轟く。
 十二撃。
 十三撃。
 胸の中にはもう、怒りも、憎しみも、殺意もない。全身に満ち溢れる膨大な祈りと──彼を救いたい願いだけが俺を動かしている。
 ──この世界の、
 十四撃。
 ──人々の意思の輝きを、
 十五撃。
 ──受け取れ!! 邪教神!!
 邪教神の人ならざる双眸が、勝利を確信してかわずかに細められた。
 十六撃目を放とうとする左手よりも一瞬速く、敵の右肩から伸びた黒翼が、俺の左腕を付け根から切り飛ばした。
 光に満たされた腕が爆散し、空中に長剣だけが流れた。
「これで!! 貴様は終わりだ! ハハハハハ────ッ!!」
 高らかな哄笑とともに、邪教神の右手に握られた虚無の剣が、黒い稲妻をまといながら振り下ろされた。
 ぱしっ、
 と頼もしい音が響き、俺のものではない二つの手が、宙に漂う長剣の柄を握った。
 鋼素の長剣が、虚無の刃をがっしりと受け止めた。
 剣を握るカムイが、笑いながら俺を見た。
『さあ──いまだよ、カズヤくん!!』
「ありがとうございます、カムイさん!!」
 確かな声で叫び返し。
「うお……おおおおお──────ッ!!」
 黄金の二翼を生やし、羽ばたかせる大剣を大きく振り上げ、十七撃目となる右上段斬りを、邪教神の左肩に渾身の力で叩き込んだ。
 漆黒の流体金属を飛散させながら深々と斬り込んだ大剣は、ちょうど心臓の位置で停止した。
 瞬間──。
 俺とカムイ、純白の大剣を満たす意思の光の全てが、虹色の波動となって邪教神に流れ込んだ。

  ***

 邪教神は、自身の内側に広がる虚ろな深淵に、無限の色彩を持つエネルギーが大瀑布となって流れ落ちてくるのを感じた。
「……ハ、ハ、ハ」
 心臓を少年の剣に貫かせたまま、邪教神は両腕と六翼をいっぱいに広げ、哄笑した。
「ハハハ、ハハハハハハ!!」
 無駄だ。
 私の飢えや渇きを、果てしなき欲を、光で満たそうなどと。
「意味ないんだよ!! その程度じゃな!!」
 邪教神は、両眼と口から青黒い光を迸らせ、叫んだ。
「無意味なんかじゃない! この力で、満たされない渇きから解放してやる!!」
 少年が、全身に黄金の波動を漲らせ、叫び返した。
 剣がひときわ強烈に輝き、凍りついた心臓に無限の熱と光を叩き込んでくる。
 
  ***

 俺に恐れはなかった。
 敵の内部を満たす虚無はまさしくブラックホールのようだったが、しかし俺の中には、人々の祈りが作り出した巨大な銀河が煌々と渦巻いている。
 邪教神の眼窩と口腔から長々と伸びる青紫色の光が、徐々にそのスペクトルを変移させ始めた。
 紫から赤へ。オレンジへ。イエローを経て──そして、純白へと。
 ぴしっ。
 とかすかな音が響き、純白の大剣を包み込む流体金属の身体に、ほんの小さな亀裂が走った。
 もう一本。さらにもう一本。
 亀裂からも、白い光が溢れ出す。背中の六枚の翼が、根本から炎に包まれていく。
 哄笑を続ける口許が大きく欠損し、肩や胸にも穴が開いた。
 全身のひび割れから四方八方に光の柱を伸ばしながらも、邪教神は笑うのをやめようとしない。
「ハハハハハハハハハハハハアアアアアァァァァァァ────」
 声はどこまでも高くなり、やがてそれは金属質の高周波でしかなくなり。
 黒い神の全身が、くまなく白い亀裂に包まれて──。
 一瞬、内側へ向けて崩壊、収縮し。
 解放され。
 恐るべき規模の光の爆発が、螺旋を描いて遙か天まで駆け上った。

  ***

 意思の光が消えると同時に全身を満たしていたエネルギーも去り、俺は疲れ果てた体を仰向けに倒れた。
 斬り飛ばされ、消滅したはずの左腕は──純白の大剣の解放術《創造》で再生していた。右手の中の大剣を、残された力で懸命に握り締めながら、俺は零れようとする涙を堪えた。
 激凍剣に宿り、いままで何度も俺を救い、励ましてくれたカムイの魂が、邪教神の刃を受け止めてくれたのを最後にとうとう燃え尽きてしまったことを俺は悟っていた。
 死者は還らない。
 だから思い出は貴く、美しい。
「……そうですよね、カムイさん……」
 呟いたが、答える声はなかった。
 俺はゆっくりと二本の剣を持ち上げ、剣帯に二つの鞘を創造し、収めた。
 純白の大剣──《光輝の剣》の光が作った青空は、澄み切ったブルーだけがどこまでも広がっていた。
 光輝の剣による解放術か、それとも何十万人の人々の祈りがもたらした奇跡なのかは定かではない。
 どのような理由があるにせよ、透明感のある蒼穹は泣きたいほどに美しかった。俺は、郷愁と感傷が強く揺れ起こされるのを感じながら、その青を胸いっぱいに吸い込んだ。
 瞼を閉じ、長く息を吐き、項垂れる。
 ──こつ。
 こつ、こつ。
 不意に、確かな密度を持つ音が、重なって響いた。
 こつ、こつ。近づいてくる。かすかな振動が指先に伝わる。
 空気が揺れる。仄かな、懐かしい香りが漂う。
 こつ。
 ……こつ。
 すぐ背後で、音が止まる。
 そして、誰かが、俺の名を呼んだ。
「……カズヤ」
 穏やかに澄んだ、愛おしい声。
「相変わらず、無茶苦茶だね。……でも、信じてたよ。あなたは負けないって」
 俺は、ゆっくりと瞼を持ち上げて、振り返った。
 両手を後ろに回し、少し首を傾げたセレナが、微笑みながらそこに立っていた。
 何を言えばいいのか分からなかった。だから俺は、いつまでも、いつまでもセレナの顔を、その懐かしい茶色の瞳を見上げ続けた。
 セレナは、微笑みを浮かべたまま、そっと右手を差し出した。
 白い掌から届いてくる仄かな温度は、俺がまだ生きていることを、確かにここにいることを告げていた。
 俺も手を伸ばし、セレナの小さな手をしっかりと握った。
 その手を支えに立ち上がり、改めて間近から、二つの美しい瞳を見詰める。
 やはり言葉は出てこなかった。
 しかし、何を言う必要もない気もした。だから、俺はただ、細い体を引き寄せ、強く抱いた。
 胸にすとんと頭を預けてきたセレナが、囁くように言った。
「……おかえりなさい、カズヤ」
 俺は、堪えた涙を流し、小さく笑った。
「ただいま、セレナ」
 俺たちは抱擁を解き、頷き合って、同時に聖邪の間がある方角を見やった。
 役目を果たせずに終えた聖邪の間は、世界の果ての柔らかな日差しの下で、静かな眠りについていた。
 振り向き、もう一度手を繋いで、戴天の背に跨る。愛竜は嬉しそうに鳴きながら翼を動かし、少しずつ高度を上げていく。
 深い青に染まる空の下、世界がどこまでも広がっていた。
 セレナが、俺を見て訊ねた。
「ね、これからどうするの?」
 俺は、しばらく沈黙を続けてから、真実を口にした。
「とりあえず、腹減ったから飯かな」
「……そうね」
 セレナは一つ頷いて、昔からまるで変わらない笑顔をにこりと浮かべた。
「私もお腹空いちゃった。中都に戻ったら、熱々の肉饅頭が食べたいな」
「……ああ、買いに行こう。するべきことはたくさんあるけど、まずは腹ごしらえからだ」
 そして俺たちは、手を取り合い、手綱を鳴らして、無限の蒼穹へと進んだ。
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