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4「チューベローズ:冒険」
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「イツ禍」
禁が何者かの名を呼ぶ。
間を置かずしてすっと扉が開かれると、長髪の男が現れた。涼やかな水色の髪、着物の裾から覗く足からは魚の鱗が見える。
「にん……ぎょ……」
「わかるか。さすが退魔師だ」
イツ禍とよばれた男の正体を言い当てると、禁は嬉しそうに微笑んだ。天の着物をはだけさせ、代わりに絹でできた上等な着物を掛布団代わりに被せる。
イツ禍は音も立てず隣に立つと、指先を切って滴らせた血を天の口に運ぶ。
「イツ禍の血には回復作用がある。安心せよ、不老不死にはならん」
天の唇に触れた血は、思っていたよりも温かかった。
ひたり、と喉を通る感覚に思わず咳き込みそうになるが、不思議と苦くも怖くもない。
「……これで少し楽になります」
イツ禍の声は海の底のように静かで、冷たさの奥にどこか優しさがあった。
天の荒い呼吸がゆっくりと整うと、禁がそっと天の額に手を当てる。
「まだ産まれぬか」
「ひ、人の子は……そんな簡単に出てけぇへん……!」
天は苦しげに笑いながら言った。
腹がぎゅうっと締めつけられる。息が詰まり、涙がにじむ。
「う、あ……っ」
禁は天の手を取り、まるで珍しい花でも扱うように指を絡めた。
「怖れるな。お主らは我らが必ず守って見せる。人が命を繋ぐ様を、どうか教えておくれ」
「……それ、今じゃないとあかんか……!?」
情けない声が漏れる。
けれど禁は、叱るでも励ますでもない。ただ、じっと天を見る。
「教えておくれ。今何を考えている? 何故苦しむ? 望んだ命が生まれようというのに」
「何を、て……」
ぐらりと、腹の底で何かが動く。
「怖い……!」
怖い、怖い、怖い。
天は恐れた。産んでしまうことが怖い。先の見えぬ未来が怖い。この子を愛せない自分の姿だけが、はっきりと見えてしまう。
「人は、妖以外を恐れるのか」
「旦那様。もうすぐです」
禁の言葉をイツ禍が止める。
イツ禍は天の下腹にそっと手を添える。
その掌はひんやりとして、触れられたところだけ痛みがやわらぐ気がした。
「天殿、吸って……吐いて」
静かな声に導かれ、天は息を吸い、吐く。
ふう、と力が抜けた瞬間――
──ぷつん。
小さな音がした気がした。
「……こわい」
天は息をのみ、布団を握りしめる。
「う……ぁああああああ……!」
閨に、天の声が響く。
イツ禍が慎重に身をかがめ、禁も天の肩を支えた。
「何も恐れることはない。この子は無事だ、お前も無事だ。決して死ぬことなど――」
「それが怖い……っ!」
天は歯を食いしばり、涙を流し、そして――
「っ……ひ……!」
胸の奥で何かが弾けた瞬間。
──ふぎ…… ふぎゃああああ……!
小さな、小さな泣き声が闇に灯りをつけた。
イツ禍が優しく赤子を抱き上げる。
水の膜のような薄い光が、赤子の肌を包んだ。
「元気な声の女子ですよ、天殿」
禁は驚いたように、しかしどこか嬉しそうに目を細めた。
「これが人の子。産声がこんなに温かいとは」
天の目に涙があふれ、頬を伝った。
自分でも理由のわからない涙だった。
「……産まれて、もうた……」
「抱くだろう?」
禁がそう言って赤子を差し出す。
天は逡巡したものの、震える手を伸ばし、小さな命を胸に抱き寄せた。
たまらなく愛おしくて、たまらなく怖くて、もうどうしようもない。
「どうしたらええの。私は……この子を……」
「我にもわからぬ。だから学べ。この華屋で」
禁は静かに微笑んだ。
「それと過ごして、人の母の心を学んでみよ。そして学んだことをどうか我らに教えておくれ」
天は赤子を見下ろし、か細く笑った。人の子が妖の元で何を学べと言うのやら。だが、不思議なことに胸いっぱいの恐れはどこかへと飛んでいった。
「……はい」
夜の華屋にひとつの産声だけが残る。
天は静かに瞳を閉じた――
「寝てはいけませんよ」
――のも束の間、爆裂な芳香を放つ花を鼻もとに充てられて飛び起きる。
「きっつ!!!」
「幽世で育てた月下香です。西洋では気付けに使われているとか」
「洋風の花とは粋だな。幽世で育つ花は現世よりも濃く逞しく生きる」
月下香(チューベローズ)の白い花弁から放たれる強烈な甘い香りの元ではとても寝ていられない。天は恨めし気にイツ禍を睨むが、イツ禍はすました顔で人魚の血を溶かした湯に赤子をつけていた。
「あなたは体が小さく、出産で多くの血を流している。今寝ればそのまま死んでしまいます。せめて私の血がいきわたるまでは起きていてください」
「アンタは……鬼か……」
「イツ禍は現世で医者をしていたことがある。どうか言う通りにしておくれ」
「鬼は我だ」と禁が苦笑いと共に天の頭をぽんぽんと撫でる。
「なんで花なんか……」
「現世では文字通りの花屋を構えようと思っていてな。幽世では季節を問わずなんでも育てられる」
「はっ、妖サンが風流なこと」
「何者も、余裕を忘れてはいかん」
天の皮肉をいなして、禁はごろんと天の隣に横になる。
「赤子はこのイツ禍にお任せください。旦那様は――」
「ここで母殿の話し相手をしている。眠らぬよう見張っているさ」
「かしこまりました」
それを聞いて安心したのか、イツ禍は月下香を少し遠くに置いてくれた。程よい距離を取れば花は甘く優しく香り、穏やかな気分に満たされる。
うとうととしたが寝ることは許されず「なあ、なあ」と子供の様に語り掛けてくる禁に「はいはい」と気だるげに答えていた。
「我は禁だ。お主は、名はなんと言う?」
ああ、そう言えば名乗ってもいなかった。
禁には名前も知らぬ女が名のない子供を産むのを手伝ってくれた義理がある。遊女になることは受け入れてはいないが、義理を果たすために渋々口を開いた。
「天」
「うむ」
天の言葉に、禁は感慨深そうに頷く。
「果てなく広がる、良い名だ――」
禁が何者かの名を呼ぶ。
間を置かずしてすっと扉が開かれると、長髪の男が現れた。涼やかな水色の髪、着物の裾から覗く足からは魚の鱗が見える。
「にん……ぎょ……」
「わかるか。さすが退魔師だ」
イツ禍とよばれた男の正体を言い当てると、禁は嬉しそうに微笑んだ。天の着物をはだけさせ、代わりに絹でできた上等な着物を掛布団代わりに被せる。
イツ禍は音も立てず隣に立つと、指先を切って滴らせた血を天の口に運ぶ。
「イツ禍の血には回復作用がある。安心せよ、不老不死にはならん」
天の唇に触れた血は、思っていたよりも温かかった。
ひたり、と喉を通る感覚に思わず咳き込みそうになるが、不思議と苦くも怖くもない。
「……これで少し楽になります」
イツ禍の声は海の底のように静かで、冷たさの奥にどこか優しさがあった。
天の荒い呼吸がゆっくりと整うと、禁がそっと天の額に手を当てる。
「まだ産まれぬか」
「ひ、人の子は……そんな簡単に出てけぇへん……!」
天は苦しげに笑いながら言った。
腹がぎゅうっと締めつけられる。息が詰まり、涙がにじむ。
「う、あ……っ」
禁は天の手を取り、まるで珍しい花でも扱うように指を絡めた。
「怖れるな。お主らは我らが必ず守って見せる。人が命を繋ぐ様を、どうか教えておくれ」
「……それ、今じゃないとあかんか……!?」
情けない声が漏れる。
けれど禁は、叱るでも励ますでもない。ただ、じっと天を見る。
「教えておくれ。今何を考えている? 何故苦しむ? 望んだ命が生まれようというのに」
「何を、て……」
ぐらりと、腹の底で何かが動く。
「怖い……!」
怖い、怖い、怖い。
天は恐れた。産んでしまうことが怖い。先の見えぬ未来が怖い。この子を愛せない自分の姿だけが、はっきりと見えてしまう。
「人は、妖以外を恐れるのか」
「旦那様。もうすぐです」
禁の言葉をイツ禍が止める。
イツ禍は天の下腹にそっと手を添える。
その掌はひんやりとして、触れられたところだけ痛みがやわらぐ気がした。
「天殿、吸って……吐いて」
静かな声に導かれ、天は息を吸い、吐く。
ふう、と力が抜けた瞬間――
──ぷつん。
小さな音がした気がした。
「……こわい」
天は息をのみ、布団を握りしめる。
「う……ぁああああああ……!」
閨に、天の声が響く。
イツ禍が慎重に身をかがめ、禁も天の肩を支えた。
「何も恐れることはない。この子は無事だ、お前も無事だ。決して死ぬことなど――」
「それが怖い……っ!」
天は歯を食いしばり、涙を流し、そして――
「っ……ひ……!」
胸の奥で何かが弾けた瞬間。
──ふぎ…… ふぎゃああああ……!
小さな、小さな泣き声が闇に灯りをつけた。
イツ禍が優しく赤子を抱き上げる。
水の膜のような薄い光が、赤子の肌を包んだ。
「元気な声の女子ですよ、天殿」
禁は驚いたように、しかしどこか嬉しそうに目を細めた。
「これが人の子。産声がこんなに温かいとは」
天の目に涙があふれ、頬を伝った。
自分でも理由のわからない涙だった。
「……産まれて、もうた……」
「抱くだろう?」
禁がそう言って赤子を差し出す。
天は逡巡したものの、震える手を伸ばし、小さな命を胸に抱き寄せた。
たまらなく愛おしくて、たまらなく怖くて、もうどうしようもない。
「どうしたらええの。私は……この子を……」
「我にもわからぬ。だから学べ。この華屋で」
禁は静かに微笑んだ。
「それと過ごして、人の母の心を学んでみよ。そして学んだことをどうか我らに教えておくれ」
天は赤子を見下ろし、か細く笑った。人の子が妖の元で何を学べと言うのやら。だが、不思議なことに胸いっぱいの恐れはどこかへと飛んでいった。
「……はい」
夜の華屋にひとつの産声だけが残る。
天は静かに瞳を閉じた――
「寝てはいけませんよ」
――のも束の間、爆裂な芳香を放つ花を鼻もとに充てられて飛び起きる。
「きっつ!!!」
「幽世で育てた月下香です。西洋では気付けに使われているとか」
「洋風の花とは粋だな。幽世で育つ花は現世よりも濃く逞しく生きる」
月下香(チューベローズ)の白い花弁から放たれる強烈な甘い香りの元ではとても寝ていられない。天は恨めし気にイツ禍を睨むが、イツ禍はすました顔で人魚の血を溶かした湯に赤子をつけていた。
「あなたは体が小さく、出産で多くの血を流している。今寝ればそのまま死んでしまいます。せめて私の血がいきわたるまでは起きていてください」
「アンタは……鬼か……」
「イツ禍は現世で医者をしていたことがある。どうか言う通りにしておくれ」
「鬼は我だ」と禁が苦笑いと共に天の頭をぽんぽんと撫でる。
「なんで花なんか……」
「現世では文字通りの花屋を構えようと思っていてな。幽世では季節を問わずなんでも育てられる」
「はっ、妖サンが風流なこと」
「何者も、余裕を忘れてはいかん」
天の皮肉をいなして、禁はごろんと天の隣に横になる。
「赤子はこのイツ禍にお任せください。旦那様は――」
「ここで母殿の話し相手をしている。眠らぬよう見張っているさ」
「かしこまりました」
それを聞いて安心したのか、イツ禍は月下香を少し遠くに置いてくれた。程よい距離を取れば花は甘く優しく香り、穏やかな気分に満たされる。
うとうととしたが寝ることは許されず「なあ、なあ」と子供の様に語り掛けてくる禁に「はいはい」と気だるげに答えていた。
「我は禁だ。お主は、名はなんと言う?」
ああ、そう言えば名乗ってもいなかった。
禁には名前も知らぬ女が名のない子供を産むのを手伝ってくれた義理がある。遊女になることは受け入れてはいないが、義理を果たすために渋々口を開いた。
「天」
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