明治あやかし遊郭~ジンガイ・セツクス・エデユケエシヨン~

百合川八千花

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36「人魚の舞」

 イツ禍の肌は月のように白く、髪は光を浴びた清流のように煌めいていた。

 鼠たちが奏でる三味線の音に合わせて、彼は一歩、また一歩と前に出る。
 動きはまるで、波の満ち引き。浅瀬に流れ込んだ水がさらりと舞い、静かに去っていく。

 指先が空をなぞるたび、空気が澄み渡るような錯覚がした。
 袖がふわりと舞い上がると、その下の細い腕が月明かりに透ける。
 その所作はけっして派手ではない。それなのに目を離せない。
 まるで、何か大切なものに触れてはいけない気がする──そんな、神聖さがあった。

「あの人は昔、自分の肉を人間に分け与えちまったらしい」

 だが、山王丸にはその神聖さが伝わらないのか、ぐびぐびと酒をあおりながら天に語り掛ける。
 イツ禍の優美な舞に目を奪われていた天は、その言葉に我に返った。

「人魚の肉を食った人間は不老不死になり、今もかつての姿でどこかで暮らしている」

 山王丸は天の答えなど待たず、酒を堪能しながら気持ちよさそうに喋る。

「人間でもない、妖でもないそいつは、今何を思って生きてるのかね」

 べん、べべん――

 三味線の音が響く。
 舞の合間に、イツ禍は静かに微笑んだ。
 喜びでも誇りでもなく、永く心に秘めた、あきらめとやさしさの笑み。

(……この人、こんな顔をするんや)

 天は胸の奥を掴まれたような気がした。
 舞をする姿はどこまでも優雅で、気品に満ちていたけれど、それが「二度と戻らない場所」への追慕のようにも思えた。

 やがて舞が終わる。
 イツ禍は静かに、客人に背を向けて座り、深々と一礼した。
 音楽が止まり、宴席の空気が凍ったように静まり返る。

「あはは! やっぱあんたの舞は逸品だな!」

 静けさを破ったのは山王丸だ。ぱちぱちと拍手を打ちながら、一献傾けてイツ禍をねぎらった。
 イツ禍は微笑みを顔に貼り付けたままその誘いを断り、「桃が泣いていますので」といってその場を去ってしまう。
 美しいものを見せつけるだけ見せつけて、水の流れる如く去っていく。人魚とは、儚く、そして残酷なほど人の心を掴む。

「……お膳でございます」

 ドン、と犲が乱暴に膳を置いた。
 突然食事作りを命じられたせいか、イツ禍が揶揄されたせいか、犲も相当に機嫌が悪かった。

(今日はなんか、いろいろおかしな日やで)

 大旦那とたった一人の遊女は喧嘩中、管理のイツ禍は揶揄われてその場を去り、犲はご立腹――ちなみに、猗は桃と共にささっと逃げ出してしまった。
 どれもこれもがたった一人の妖、山王丸のもたらした結果だ。
 存在するだけで回りが大騒ぎする、まるで嵐のような男。厄介な相手を連れ込んでしまったかもしれないと、天は今更ながらに後悔した。

「あはは、あけすけな飯だなあ」

 不機嫌な犲が出したのは、鰻、蛤の蒸し物、山芋のとろろ飯、黒豆の甘露煮……どれもこれも、性力増強の効果のある料理ばかり。
 ひとつひとつの食事ならまだしも、遊郭の宴席でこれらを並べるのは「さっさと抱け」と言わんばかりの大胆さだった。

「どうぞ。さっさとその女を抱いて消えてください」
「その女ってなんや。犲ちゃん態度悪いで」
「気のせいです」
「いや、ずっと悪いやん!」
 
 案の定、犲はわざとやっている。
 いつにもまして不機嫌そうな犲は食材を出すだけ出すと、彼もさっさといなくなってしまった。
 狼の尾が不機嫌そうに揺れ、どういうわけか彼が相当ご立腹であることが伝わってくる。

「……まあ、ええわ」

 突然山王丸なんて化け物を連れてきたのは天だ。あんまりな態度に呆れながらも、天は一人で接客を続ける。
 
「うなぎ、熱いうちに食べ」

 天が差し出したのは、香ばしく焼き上がった蒲焼き。
 山王丸は箸を持たず、そのまま指でつまむ。

 「あちっ……ふっ、いい匂いだ」
 「精がつくよ。……後で、大変なことになっても知らへんで?」

 ふいに天が笑う。
 その声が、酒より甘く、うなぎの脂よりねっとりと舌に絡む。

 「ふぅん……俺ぁ、今夜は寝かせてもらえねえんだな」
 「それはどうやろ?」
 
 どうにか夜の空気に持ち直した。
 山王丸はご機嫌な様子で天を膝の上に乗せ、膝をまさぐる。着物の割れ目から手を忍ばせ、太ももを触ると、また天はぴしゃりとその手をたたいた。

「食事中やで。我慢しい」

 酒と鰻で火照った体が天を熱くする。
 まんざらでもないという表情を浮かべ、天はまた箸で鰻をつまみ、山王丸の口元に寄せる。
 食で性に誘う仕草に山王丸の体も熱くなり、蕩ける様な熱い視線が二人の間で絡み合う。
 
「こんなに誘われたら、デカくなっちまうな」 
「いややわ、下品なこと」
「いやあ、文字通りさ」

 ふと、唇を寄せられる。
 口づけをするのだ、と天は察して軽く目を瞑った。

 その時だった。

 ばくり。

 客は大きな口を開け――

 ごくん

 と、天を飲み込んだ。

「ぎゃ、ぎゃあああああーーーーー!!!!」

 天はたまらず悲鳴を上げ、口内を暴れまわる。
 いや、ここは口内なのか? 粘液に包まれた謎の空間でじたばたともがくと幸運にも逃れることができた。

「だ……」
 
 ぜえはあと荒い息を吐くと、目の前には一丈五寸5メートルはありそうな巨大な男がにかっと笑っていた。
 
「だ、だいだらぼっちや!!!」

 天の叫びが遊郭にこだまする。
 イツ禍の言っていた、「無理」とは、物理的なまぐわいができないということだったのだ。
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