『見えざる相棒(バディ)』

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失われた記憶

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 翌朝、日高光彦は眠い目をこすりながら捜査本部の扉を押し開けた。殺害現場から一夜明けたが、事件の全容はいまだ白紙に近い。被害者の池内沙織について、断片的な情報しか集まっていないのだ。彼女の交友関係や家族構成、職場でのトラブルなどを洗い出そうとしているが、めぼしい手がかりはまだ何も出てこない。

 捜査会議は朝イチから始まっていた。捜査一課のメンバー十数名が長テーブルを囲み、書類を手に情報交換を行う。日高もすぐに席に着いた。
「現時点で判明しているのは被害者がフリーランスで翻訳の仕事を請け負っていたということだけだな」
 捜査主任の警部補が、開いたファイルに目を落とす。
「自宅を事務所代わりにしていて、社外の人間とのやり取りはメールか電話が主らしい。ここ数日、納品期限の近い案件を抱えていたことはわかったが、それが事件とどう結びつくのかはまだ不透明だ」
 周囲からため息交じりの声が漏れる。外部との接点が少ない在宅ワーカーだと交友関係やトラブルが見えにくいのは確かだ。
「池内のパソコンは解析中ですが、ロックがかかっていまして。まだ中身が全部見られないようです」
「SNSの類はどうだ?」
「特定のアカウントは見つかりません。やり取りの履歴も確認できず、知人たちに当たっても“連絡手段はほとんどメール”とのことです」

 会議室には、重苦しい空気が流れる。情報が少ないばかりか、密室状態での殺害という厄介さもある。ドアや窓に施錠の痕跡があり、外部侵入が困難と見られる一方、遺体にははっきりした外傷がない。そのせいで捜査方針も定まりにくい。
「とにかく他殺と断定できるかどうか、法医の結果待ちだな」
 主任がそう締めくくって席を立つ。日高もメモ帳を閉じながら、おぼろげな違和感を拭えないでいた。
(あの密室と薄い血痕。外傷の少なさ。何か見落としているはずだ。それに、昨夜の“幽霊”は一体……)

 日高は昼前に会議室を出ると、ひそかにパソコン端末へ向かった。警察内部のデータベースを検索するためだ。しかし表立って「幽霊を名乗る女性がいる」という情報を探すわけにもいかない。とりあえず、思い当たる限りのキーワードを試す。
(“平沢真梨子”、年齢不明、死亡事故や行方不明者の記録……)
 入力しても何の該当も出てこない。氏名検索ではヒットしないどころか、音が同じ名前すらリストにない。
(存在しない名前なのか? それとも……)

 捜査端末を操作しながら、日高は頭を抱えた。何もわからない状態では、これ以上の調査は難しい。そもそも昨夜の出来事が幻覚だった可能性を否定しきれない。
「お疲れさまです、日高さん」
 不意に声をかけられて振り返ると、同じく捜査一課の若手刑事・宮下が立っている。
「ああ……宮下か。どうした?」
「いえ、何だか元気ないように見えましたので。池内さんの件、やはり難航しそうですね」
「そうだな。まだ焦る段階じゃないが、犯行動機の糸口が見えないのは厄介だ」
 宮下は頷きながら、ファイルを手渡してきた。
「先ほど、新たに被害者宅で見つかった写真データの整理が届きました。これ、外付けハードディスクに入っていたらしいんですが……気になる映り込みがあったそうで」
「映り込み?」
「ええ、被害者が撮ったと思われる街角のスナップ写真に、何枚か奇妙な人物が写り込んでいるんです。データの日時は一週間ほど前。この辺りで何をしていたのか、まだわからなくて」

 日高はファイルを開き、プリントされた写真を眺めた。区画整理前の古い商店街らしく、再開発が進む一帯とは別の下町風景が写っている。その片隅に、フードを被った人物のシルエットが何度か映り込んでいた。
「この人物、同一人物かどうかはまだ断言できないが……不自然にフレーム内にいるな」
「はい。被害者が意図的に撮っていたのか、それとも単なる偶然か。仮に意図的なら、後をつけられているか、あるいは尾行していたか……何らかのトラブルに繋がるかもしれません」
 日高は思わず唸った。池内が翻訳の傍ら、別件で誰かを監視していた可能性もあるのだろうか? それとも何かの趣味か――判断はつかないが、怪しい影であることは間違いない。
「ありがとう。これ、もう少し大きなデータはないのか?」
「解析係が拡大して鮮明化を進めています。上がり次第、連絡しますね」
 宮下が去った後、日高はプリントを何度も眺めた。そこには確かに得体の知れない人物が繰り返し映り込んでいる。死の一週間前、池内は何を追いかけていたのか。

 考えが堂々巡りを続けるうち、日高は無性に落ち着かなくなり、思わず自販機でコーヒーを買って一口含んだ。苦味が舌を刺激する。昨夜の違和感が頭を離れない。
(“平沢真梨子”……名乗っていたあの女性。もしかすると、池内の撮っていた何かと関係があるのか?)
 そんな考えがちらついた瞬間、視界の端で何かが揺れた。ひらり、とスカートの裾がたなびくような――。
「……?」
 日高は反射的に振り返る。そこには誰もいない。けれど、どこからともなく声が届いた気がする。
「聞こえますか……?」
 それは、昨夜のあの声にそっくりだった。日高は思わず廊下の隅へ目を凝らす。人気のないその場所の空気が、かすかに歪むような気がした。

 ゆっくりと、そこに人影が浮かび上がる。昨日、車の中で見た姿――長い黒髪の女性、平沢真梨子。いつ消えて、いつ現れるのか。そのメカニズムはまるでわからないが、彼女がまた姿を見せたのは確かだった。
「あなた……こんなところに来て大丈夫なのか?」
 日高は声を潜める。警察署の廊下で独り言を話すようにしか見えない光景に、もし同僚が出くわしたら一大事だ。
「たぶん、問題ないわ。誰も私が見えないもの。聞こえてもいない。……あなた以外は」
「それは、そうかもしれないが……」
 日高は戸惑いつつ辺りを窺う。人の気配はないが、いつ誰が通るとも限らない。
「わたし、思い出したことがあるの」
 真梨子の瞳が、昨夜よりも少しだけはっきり輝いている。
「あなたが現場にいたとき、呼びかけようとしたら、わたし……何かを思い出しそうになった。だけど、うまく言葉にできなかったの。……この名前、知ってる?」
 そう言って、彼女は言葉を綴るように指を動かす。“三浦総合開発”という会社名のようだ。

「三浦……総合開発?」
 日高は訝しんだ。警視庁の捜査一課とは縁がなさそうな法人名だが、大手デベロッパーなのかもしれない。
「昔、取材で聞いた名前かも。わたし、記者だった気がするから……。けど、どうしてその会社と自分が関係していたか、まだ思い出せないの」
「記者だった……ということは、何かを調査していたのか?」
「……うん。漠然としてるけど。わたし、誰かに会いに行った。でも、その後のことが思い出せない。何かを掴みかけたはずなのに……」
 真梨子はギュッと拳を握りしめる。悔しげな表情が痛々しい。日高は彼女を幽霊だと理解しつつも、その表情の生々しさに胸を衝かれた。
「わかった。とにかく“三浦総合開発”という名前を手がかりに調べてみる。部署の端末で検索できるかもしれない」
 そう告げた瞬間、廊下の奥から人影が見えた。日高は慌ててそちらに意識を向け、もう一度振り返ると、真梨子の姿は消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように。
「日高さん? こんなところでどうしたんです?」
 声をかけてきたのはまたしても若手刑事の宮下だ。日高は咄嗟に笑みをつくり、「ちょっと疲れただけだ」とごまかす。

 自席に戻った日高はすぐに端末を開き、“三浦総合開発”という社名を入力して検索をかけた。全国規模の不動産会社らしい。再開発プロジェクトをあちこちで手掛けている。
 ざっと調べた範囲では、おかしな噂や事件への関与は出てこない。だが、大きな案件をいくつも抱える会社ではあるようだ。
(真梨子が追っていたのは、この会社が絡む何かの“闇”かもしれない……)
 そう思ったとき、ふと昨日見せてもらった“フードを被った人物”の写真が脳裏に蘇る。池内沙織も何かを追っていた。二人に接点があるのだろうか。
「池内が撮っていた人物と、三浦総合開発……何か繋がりがあるかもしれない」
 日高はそうつぶやき、ひとつ深呼吸をする。幽霊の言葉に踊らされている気もするが、この感覚を無視できない自分がいた。むしろ、そこに事件の核心に迫るヒントが隠されている気がしてならない。

 午前中の捜査作業を終えた後、日高は少しの休みを利用して外出することにした。表向きは池内沙織の周辺を探るためだが、密かに“三浦総合開発”の足跡を辿るのが真の目的だ。会社が管理している開発物件や関連施設に行けば、何かしらの手がかりが掴めるかもしれない。
 警察署を出て、雲の切れ間からわずかに差し込む日差しを感じる。あれだけ降り続いた雨はようやく上がったようだ。タクシーを拾って車内に乗り込むと、またしても背後からあの独特の気配がよぎる。
 振り返ると、案の定そこに真梨子が座っていた。青ざめた顔色は昨日よりも少しマシだが、全身からはまだどこか不安定な雰囲気が漂っている。
「来たんだな」
「うん……あなたが、私の唯一の手がかりだから」
 日高は運転手の視線を気にしつつ、小声で続ける。
「“三浦総合開発”を調べに行く。思い当たるところがあるなら、教えてくれ。俺も当たってみる」
「ありがとう……。わたしも、何か思い出せるといいんだけど」

 タクシーが発進し、街並みがゆっくりと後方に流れていく。日高はスーツのポケットから携帯端末を取り出し、警察内部で許可されている範囲のネット検索を続ける。
 やがて、三浦総合開発が最近力を入れている再開発エリアのひとつが、池内沙織が暮らしていた世田谷の近隣区画であることがわかった。ちょうど一週間ほど前に地元の商店街との意見交換会が開かれている。
「池内さん、あの写真を撮った一週間前って……まさにその商店街のあたりじゃないのか?」
 日高は思わず真梨子の方を見る。彼女も同じ推測に行き着いたようで、わずかに目を見開いた。
「そこに何が……」
 低くつぶやく真梨子の声が、タクシーのエンジン音にかき消されそうになる。
 再開発の裏で、何らかの不正や利権のもつれが起きているのか。それを池内が知り、写真に収めた相手から恨みを買った? それとも偶然の重なりでしかないのか。
 はっきりしたことはわからない。だが、“平沢真梨子”の死の謎と、“池内沙織”の殺害事件の間に、一条の糸が繋がり始めたのを日高は確かに感じていた。
 そして、このまま手繰り寄せれば、きっと何か重大な事実に辿り着く。――その直感は、日高が刑事になって以来、いくつもの真相を掴んできた“嗅覚”が告げている。
 タクシーは信号待ちで一時停止し、日高は窓の外に目をやる。そこには、再開発のために取り壊された建物の更地が広がり、高層マンション建設の看板が立っていた。
(あの看板に書かれた社名が“三浦総合開発”。まずは、現地を巡ってみるか)

 視線を前方に戻すと、隣に座るはずの真梨子はもういなかった。姿を消すタイミングはいつも唐突だ。運転手は何も気づいていない様子で、ただ目的地まで車を走らせる。
 まだ生死の境を越えた相棒とは呼べないかもしれない。しかし、日高にとってはすでに彼女が不可欠な“存在”になりつつあった。謎を解き明かすための鍵としても、そして……なぜだか、放っておけない人間としても。
「三浦総合開発か。さて、何が出てくるか――」
 ぼそりとつぶやき、日高は窓の外に広がるビル群を睨んだ。この先に待つのは単なる利権絡みのトラブルか、それとももっと深い闇なのか。
 予感は、雨上がりの空気のように冷えきっているが、どこか鋭く切り込んでくる。それは、自分だけが会話できる“幽霊の記者”が秘めている未知の世界への扉なのかもしれない。

 ――次第に浮かび上がる過去の取材と、再開発をめぐる不可解な動き。日高と真梨子の奇妙なバディ捜査は、さらなる深みへと足を踏み入れていく。殺害された池内沙織の“真の目的”も、そこに隠されているのだろうか。ふたりはまだ何も知らない。だが、ひとたび真相に近づけば近づくほど、真梨子が失った“記憶”の真実と、池内を襲った“闇”が重なり合い、やがて大きな渦を巻くことになる――。
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