音のないパン屋

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第二話:クロワッサンが語る、友情の原点

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 その日、ユウタは学校からの帰り道、いつもの道を通らず、わざと遠回りをしてみることにしました。
 スマートフォンはポケットにしまいっぱなし。イヤホンもつけず、リュックの肩ひもを片方だけで背負って、ユウタはアスファルトの歩道をゆっくりと歩きます。

 春のやわらかな日差しが街に降り注ぐには、まだ少し足りない、どんよりと曇りがちな午後でした。
 ユウタの胸の中には、まるでうすいモヤがかかったような、重苦しい気持ちがありました。
 
 放課後、教室で誰かの視線が気になって、そんなことを気にしている自分にも嫌気がさして、気がつくと、教室を飛び出していました。
 別にいじめられているわけではありません。ただ、友達との会話が、どうもうまくかみ合わないのです。何を話しても、なんだか空気が重くなってしまう。
 ほんのちょっと前までは、もっと気楽に話せていたはずなのに、どうしてだろう?

 信号が変わるのを待っていると、ふわりと、甘くて香ばしい匂いが風に乗って漂ってきました。
 それは、どこか懐かしいのに、まるで遠い昔の記憶をそっと思い出させてくれるような、そんな香ばしい匂いでした。
 ユウタは匂いをたどって、小さな路地へと入っていきました。するとその奥に、可愛らしい木造のパン屋さんが現れたのです。

 古い木の扉には、白い紙が貼られていました。
 
「あなたの記憶に寄り添うパン」

 ユウタはしばらく戸の前で立ち止まっていました。
その文字が、どんな意味なのか、ユウタにはよくわかりませんでした。
 だけど、どうしてだろう。ユウタは、このまま家に帰る気にはなれませんでした。

 ガラリ、と扉を開けると、フワッと温かい空気に包まれ、店内にはやわらかな焼きたてパンの香りが満ちていました。
音楽もなく、テレビもなく、ただ時間だけが、ゆっくりと流れているように感じられる空間でした。

 まるで、誰かの大切な「思い出」の中に、そっと迷い込んでしまったようでした。
カウンターの奥に立っていたのは、穏やかな表情の中年の男性でした。

 その人は、声を出すことはなく、会釈と微笑みだけでユウタを迎えてくれました。
 ユウタは黙ったまま、棚に並ぶパンを見つめました。
派手なトッピングもない、素朴なパンが並ぶ中で、ユウタの目をひいたのは、ひときわ美しく焼き上がったクロワッサンでした。
 幾重にも重なった層は、まるで金色の波のようにきらきらと光り、外はカリッと香ばしく、内側はふんわりと柔らかそうです。
 
「あの、これ、ひとつください」

 そう告げると、店主はゆっくりとうなずいて、クロワッサンを丁寧に袋へ入れてくれました。
 レジに表示された金額を見て、ユウタは財布から小銭を出します。
 代金を受け取ると、店主は小さなホワイトボードに、サラサラと何かを書いて、ユウタの方へ差し出してくれました。
 
「風が、気持ちいい日ですね」

 そのたった一言が、ユウタの胸の奥を、ほんの少しだけ、そっと緩めてくれた気がしました。
 パンを手にしてお店を出たあと、ユウタは少し歩いた先の公園のベンチに腰を下ろしました。
 袋の口を開くと、焼きたてのクロワッサンから、甘く香ばしいバターの香りがふわりと立ちのぼってきました。
 ひとくちかじると、表面のパリッとした心地よい食感と、中のもちっとした生地の組み合わせがたまらなく、ユウタの口元には自然と笑みがこぼれました。
 
 ——その、次の瞬間でした。

 ユウタの心の奥にある、小さな記憶の引き出しが、音もなく、そっと開きました。
 するとそこから、もう忘れていたはずの、大切な光景が、あたたかい波のように、ユウタの心に押し寄せてきたのです。

 それは、空に雲ひとつない、気持ちのいい春の日でした。
小学三年生の遠足。ユウタのリュックには、水筒と、お母さんがぎゅっと詰めてくれた、ちょっぴり潰れたおにぎりが入っていました。
 公園の広場にはブルーシートが敷かれ、みんなが輪になってお弁当を広げていました。
そのときです。ユウタのすぐそばに、ひとりの男の子が、ちょこんと座りました。
 タクヤ。ユウタの隣の席の、いつも元気いっぱいの男の子です。
 
「ユウタ、ほれ、パン、やるよ。食べすぎちゃってさ、お腹がふくれたんだ」

 彼はそう言って、コンビニの袋からクロワッサンを取り出しました。
 袋を破くと、バターの香りがふわりと広がりました。
 
「え、いいの?」
「うん、いいんだよ。ユウタ、細いんだからもっと食べなよ」

 なんてことない、やり取りでした。だけど——
ユウタがもらったそのひとくちは、驚くほど、あたたかくて、とってもおいしかったのです。

 表面はパリッと香ばしく、中はしっとりとしていて、甘さはちょっぴり控えめ。
 その味は、ユウタの心の奥まで、じんわりと、あたたかいもので満たしてくれました。
 それは、食べ物というよりも、まるでタクヤくんの「優しい気持ち」を、そのまま受け取ったような、そんな不思議な感覚でした。
 
「なあ、ユウタって、何を考えているのかわからないって、みんな言うけどさ」

 そう言ったあと、タクヤくんはクロワッサンの包装紙を広げて、パタパタと顔を扇ぎながら、空をじっと見上げました。
 
「俺はさ、ユウタのこと、けっこう好きなんだよな。なんか、静かで、一緒にいると落ち着くっていうかさ」

 そのとき、ふわりと優しい風が吹いて、ユウタのリュックの肩ひもが、かすかに揺れました。
 その瞬間、ユウタの胸の奥がカーッと熱くなって、涙がポロリとこぼれ落ちそうになりました。
 だけど、ユウタは、何も言葉にできませんでした。代わりに、もうひとくち、クロワッサンをかじりました。

 それが、ユウタが生まれて初めて、「本当の気持ち」をもらった瞬間だったのかもしれません。
 だけど、そんな温かい時間は、だんだんと遠ざかっていきました。

 進学で別々になり、スマートフォンのメッセージも、既読だけがついて、返事が来ることはなくなりました。
 いつの間にか、タクヤくんの明るい笑顔も、ユウタの心から消えてしまっていたはずなのに。
 ユウタは、クロワッサンをそっと、もうひとくちかじりました。
 そのクロワッサンの味は、少しも変わっていませんでした。あの日の記憶の中の、そのままの味だったのです。
 
 ——もしかしたら、ユウタはあの頃から、誰かの気持ちを避けるように、過ごしてきたのかもしれません。
 人と一緒にいるのが怖くなって、嫌われたくなくて、黙ってしまうようになって、誰にも本当の気持ちを話せなくなってしまった。

 だけど、あのときパンを半分くれたタクヤくんは、何も話さないユウタに、ごく普通に話しかけてくれました。
何も構えることなく、疑うこともなく、ただ「一緒に食べよう」と言ってくれたのです。

 本当の「たいせつなこと」って、きっと、そういうちいさなことだったのかもしれない。ユウタはそう思いました。
ユウタは、ゆっくりと立ち上がると、ポケットからスマートフォンを取り出しました。

 メッセージアプリを開いて、久しぶりに、あの名前を検索してみました。
 メッセージの入力欄に、「元気?」とだけ文字を打ち込みます。ほんの少しだけためらいながらも、ユウタは送信ボタンを、そっと押しました。
 すぐに返事が来るなんて、思っていません。
 だけど、今の自分なら、ほんの少しだけ、変われるような気がしたのです。

 パンの袋の底に残った、小さなクロワッサンのカスを見つめながら、ユウタはもう一度だけ、ふわりと優しい笑顔を浮かべました。
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