子宮で眠るアリスさん

アサキ

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双子

隻眼アリスの修理と生まれる不一致

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「落ち着いた?」
 帽子屋のお姉さんの問い掛けに頷く。それでもまだ鼻水は出るのですすって、貰ったばかりの綺麗なハンカチで拭う。
「はい、おかわりどうぞ」
 良い香りと共にそう言って、空になったティーカップの隣に新しいものを置いてくれた。
「このハーブティー、私のお気に入りのブレンドなの」
「ありがとうございます……」
 遠慮せずに手を伸ばす。暖かい陶器に口をつけると、また鼻水が出てくる。
 つんつんとお姉さんがお皿を指してくるので、乗っていたクッキーも一枚頂戴する。
「美味しい」
「嬉しい! せっかく作っても、ここだと食べてくれる人もあまりいないから」
「可愛くて手先が器用で、お菓子も美味しいってずるい」
「あらあら、誉めても何も出ないわよ?」
 と言いつつ、立ち上がるお姉さん。
「とっておきとシフォンケーキ、出しちゃおうかな」
 ふふと笑い、鼻歌交じりで彼女は奥へと消えていった。

 イモ虫との一件の後──無傷にも関わらず、私は再びこの帽子屋へ訪れていた。

 猫にはあらかじめイモ虫の言葉は妄想だから鵜呑みにしてはいけないと強く言われていたが……あの姿、世界への絶望。たとえ虚言と分かっていても、そんな彼を消したことに強い罪悪感が残った。
 悲しくて、彼の絶望が悲しくて。だけど私に何が出来ると思い──帰りたい気持ちの反面、誰かを傷付けることにどうしようもない憤り。でも帰らなければ、たとえ夢の世界の住人を傷付けてでも。

 そんな葛藤のバランスが崩れ、イモ虫の家を出てから私はただ泣いていた。泣くことしか出来ない私を猫はここへ預け、しばししたら来るようにとだけ残して去っていった。

──そうして今。帽子屋のお姉さんに話を聞いてもらっていた。

 お陰で大分落ち着きを取り戻す。彼女の温かいもてなしに、決して否定することなく傾聴してくれる姿勢はとても心地よく、有り難いもの。

「シフォンケーキなら生クリームとラズベリージャム、どちらがお好き?」
 大きなケーキを手に奥から戻ってきたお姉さんはそんなことを尋ねてきた。
 本当に……嬉しかった。
 得体の知れないこんな世界でも友達のような、姉のような──そんな存在。優しくて温かくて、支えてくれる人。
 もし猫に言われても、この人とだけは何があっても戦いたくないと強く思った。


 出されたケーキを二人で平らげ、はちきれんばかり膨れたお腹を撫でて一緒に笑う。もう食べられないと言うと、彼女も楽しそうに笑った。
「やっと笑ってくれたね」
──本当に、敵わないと思った。
 今度は嬉しくて泣きそうになるが、お姉さんを心配させない為にもぐっと堪える。
「このままここにいればいいのに。そうしたら何も悲しいことはないよ」
 カップに口をつけ、呟くお姉さん。私はカップの紅茶に映る自分の顔を見つめる。
「ううん……帰らないと」
「どうして?」
「おばあちゃん、待っててくれるから。学校に友達もいるし」
「私はお友達じゃない?」
「そんなことない! お姉ちゃんみたい──」
 答えに困っていると、優しく微笑んでくれる帽子屋さん。冗談よ、と小さく笑った。
「おばあちゃん子なの?」
「うん」
「そっか。私もね、おばあちゃん子なんだ」
 気のせいか、笑っているはずの彼女の表情が少し悲しそうに見えた。
「同じですね」
「ふふ、そうね。一緒」




──どれくらいかそうしてして。

 ふと猫との約束を思い出す。落ち着いたらまた出ておいで、と。

 時計がないこの部屋を見渡しても無駄。暗いこの世界で時間の流れは自分の感覚しか当てにならないが、半日は過ぎている気がした。幾らあのおかしな猫とはいえ、いつまでも待ちぼうけさせるには気が引ける。
「行く?」
「はい。ご馳走になりっぱなしですみません」
「いいのよ。一緒にティータイムしてくれる人がいるだけで私は嬉しいから」
 またおいでと言ってくれるお姉さん。私は遠慮も考えずすぐに、はいと言っていた。

 立ち上がり、扉に向かおうと──

「あ!」
 だけどそこで、突然大きな声を出す帽子屋さん。何事かと驚いて体が椅子へとまた戻ってしまう。
「目玉、直ってるよ。今持ってくるから待ってて!」
 思い出したかのように両手をぱちんと合わせて、そのまま奥へと入っていった。
 ああそうだ。頼んでいたのだと思い出す。

 目玉──うさぎに刺された左目。

 うさぎとの戦いの後、私は猫に連れられるがまま再びここを訪ねて傷を見てもらった。傷は深く、一度目玉を取り出して直さなければいけないと言われ、彼女に預けたままだった。
──ドライバーは網膜まで行っていたそうだ。
 だけど、それはむしろうさぎなりの気遣いであったのではないかと彼女には言われた。目を通り抜け、頭蓋骨も抜ければ……そこにあるのは脳。

 うさぎは私を消すことも出来たのに、あえてしなかったのかもしれない──そう言われた時、気持ちは複雑だった。申し訳なさと、感謝と、なぜと。

 そうこう思い出しているうちにお姉さんが戻ってきた。手には容器が握られている。
「タ、タッパー?」
「あら、だって乾燥したらいけないじゃない。ドライアイって痛いのよ?」
「そ、そうですか」
「なんちゃって」
「え?」
「確かに湿潤状態がいいけどね。ここなら乾いていても大丈夫そうだけど、ついつい水に浮かべちゃうのよね」
 慣れたら冗談も言うようになるのだなと少しの感心と……果たしてそれは冗談というのか疑問。まぁ大した問題ではないので気にしない。そうやってふざけた事柄を言える関係になれたことが、私には嬉しかった。
「すぐ終わるから我慢してね」
 開けたタッパーには黒い瞳の目玉が浮かんでいた。傷は透明な糸で縫われ、凹んだ状態だったものが今は丸い膨らみを帯びている。
「じぁあこっち向いて。しばらく動かないでね」
 見慣れた針と糸……それに今回はピンセットも机の上に用意して、私と隣に腰掛けるお姉さん。頷き、言われたように彼女の方を向いた。
「それじゃあ、まずは義眼取り出すからね」
 そして私の顔に手を伸ばす。元からそちら側の視界はないので怖くないが、ただ皮膚と目蓋を思い切り引っ張られる感覚に頬がひきつる。
 引っ張り、出来ただろう微かな隙間に指が入っていくのか……粘着質な音がした。でもそれですぐに終わり。机の上に今し方まで入っていたであろう金色の瞳が出ていた。
「あまり気持ちいいものじゃないでしょう」
「嫌な感じ……痛くないけど、ぬちゃっとしてて変な感覚」
「だから眼帯にすれば良かったのに」
 眼帯──その単語に、前回刺された目を治すために来た時を思い出す。
 治すためには一度目玉を取り出さなければならないと言われた。その間、中の支えを失った眼窩は凹む。それを隠すためにも何かをしなければ……そこで出された案が眼帯か、人形の眼だった。

『付け外しする時に違和感が大きいからお勧めしないわよ』
 それに義眼に使う人形の眼は予備が少なく、色の種類がない。眼帯の方が楽だと重ねて言われる。
 それでも、私がお願いしたのは義眼を入れることだった。

「眼帯が怖いだなんて、変なアリスちゃん」

──眼帯が怖い。
 どうしてか眼帯というものが怖く、着ける気にはなれなかった。

「じゃあ神経繋ぐから動かないでね」
 持ったピンセットを中身の入っていない目の穴へと運んでいく。やはり視界には入ってこないが……時折くすぐったい感覚が体の中を抜けた。
 残された片目で器用な手つきを見ていると、お姉さんは口を開く。
「やっぱり行ってしまうの──誰かと戦いに」
「そうですね」
「アリスちゃん自身も怖い目に合うのよ」
 少し眉を潜める様子は私の身を案じてくれているのだろうか。だったら嬉しい。
「それにそろそろ女王が貴方に目をつける頃だわ」
「女王──」
 何度目かになる単語。実物は知らなくても容易に想像できる存在を口の中で繰り返した。
 いつか──戦わなければならなくなる相手だろうか。
「やっぱり首をはねるのが好きなんですか、女王って」
「ううん、どこが大切なのか探すのが面倒臭いからミキサーにかけちゃうの」
「み、ミキサー?」
「そうよ。いつも双子も狙われているの」

──双子?

 それは初めて聞く名前。お姉さんは私の様子に気付いたのか、付け足した。
「……私の友達なの。男の子と女の子の二人組」
「お姉さんの友達がいつも狙われているんですか」
「私達にはもっと沢山の仲間がいたの。でも女王がほとんどミキサーにかけてしまって……残っている双子を執拗に狙っているの」
 アリスの女王といい、ここの女王といい、どうしてそこまで執拗に狙うのだろうか。そんな疑問を投げかけたが彼女も首を傾げるだけだった。
「さぁ……私も詳しくは分からないわ。猫さんなら何か知っているかもしれないけど」
「猫が? アイツって一体何なの?」
「猫さんは導く人。今までの流れだったら、うさぎさんが私達にこの世界を案内して、猫さんがどうやって生きていくかを教えてくれたの。猫さんはきっと……この世界をよく知っているのね」
 分かるような、分からないような。その曖昧な回答にふうんとだけ呟いた。
「女王には気をつけてね」
「お姉さんは平気なの?」
「勿論狙われたことあるわよ。だからこうやってひっそり暮らしているの、お客さん待ちながら」
「寂しくない?」
「帽子が作れるなら──私は幸せよ」
 そこはやはり帽子屋らしい言葉を彼女は返してきた。ただ、寂しくないかという箇所に答えが無いのが気になった。

「私、また来ても良い?」
 そのせいか、現実へ帰りたいはずなのにそんなことを口走った。

 でも──それで微笑んでくれたのなら良しとしたい。

「勿論よ! 歓迎するわ」

 帰りたいはずなのに、また来たい──そんなジレンマ。この世界に染まってきてしまったのだろうか。どちらにせよ、私はこの人が好きだと思った。

「でも、帰りたいんでしょ?」
「あ……」
「いいのよ、ありがとう」
「私、帰ってもお姉さんのこと絶対忘れない」
「もう……ほら、動かないの」
「はーい」

 そうこう話しているうちに縫合が終わったのか、パチリと一度鋏の音。
「じゃあ戻すわね」
 押される感じがあるけど我慢してねと言われ、覚悟して衝撃を待つ……ずん、と目の奥に押し込まれる感覚があった。
「……見える!」
「よかった」
 ゆっくり目蓋をあげると、久しぶりに立体感のある視界が広がっていた。
 毎回のことながら適当な作りの体になってしまって恐ろしいと思うも、お陰で治りやすいのだからこれもありなのかもしれない。世界に慣れつつある自分がある意味で恐ろしかった。
「すごい! ありがとう!」
「いえいえ」
 戻った世界が嬉しくて思わず立ち上がり、周りを見渡した。
 これならまた戦える。

──そうだ、そろそろ猫の元へ行かないと。

 彼女の方へ向き直った。
「色々ありがとう、お姉さん。また来るね」
「ええ、また来てね」
 最初に出会った時と同じように、上品に顔の横で小さく手を振る。一方私は大きく両手を振るう。
──また来たいな。
 本当に本心だった。またなんて来ないで、このまま元の世界へ帰れたら一番良いはずなのに、そんなことを思った。
 手を振って……扉をくぐる。
 こうして帽子屋から離れた──。



 静けさを取り戻した帽子屋では、片付けをしようと机に広げてある物を見つめる。
「──あら」
 そこには本来この店には置いていない物……いや、奥の台所へ行けばあるのだが。恐らくは先程までいた客の忘れ物。

「……」

 彼女は置いていかれた包丁を一瞥した。


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