白狼と虎と竜神

朱々丸

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第一章

一話

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リュゴニア王国、ルダン領。

ハクラ伯爵邸の執務室は、魔導具が放つ柔らかな琥珀色の光に満たされ、静謐な温もりに包まれていた。
護衛騎士ウォルカは、いつものように完璧な静止画のごとく控えていた。

漆黒の騎士服に、手入れの行き届いた量感豊かな白銀の毛並みが鮮やかに映える。ダブルブレストのコート越しにも、鍛え上げられた強靭な逆三角形の肉体と、厚い胸板の存在感が際立っていた。 床を優雅に撫でる大きなふさふさとした尻尾は、彼の洗練された所作の一部と化している。

二十年前にこの主に拾われて以来の変わらぬ忠誠をもって、今日もハクラ伯爵の身辺を隙なく守護していた。

机に向かい、穏やかな手つきで羽根ペンを走らせていたハクラが、ふと動きを止めて顔を上げた。

白馬の獣人らしい気品ある毛並みが光を弾き、その青灰色の瞳が泳ぐ。
頬には微かな朱が差し、その表情には、領主としての威厳よりも少年のような初々しい気恥ずかしさが浮かんでいた。

「ウォルカ、今夜は少し出掛けようと思うんだ。『薔薇の館』へ……」

その一言に、ウォルカの長い睫毛が微かに震えた。
薔薇の館。黒豹の獣人リザルフが在籍する、街でも随一の高級娼館だ。

これまでも主君の夜の営みに供をすることはあったが、常に相手を邸宅へ招くのが常道であった。

五年もの歳月を重ね、睦まじく恋人のような情愛を育んできた相手の元へ、自ら足を運ぶ。
――何かが、決定的に違っていた。

ウォルカは静かに眉根を寄せ、射抜くような紅い瞳で主を見つめた。

「主様。何か心境の変化でも? いつもリザルフ様をこちらへお呼び立てされていたはず。それに今夜は、重要書類の精査があったと記憶しておりますが……」

穏やかで優雅な声音。しかし、その内側では鋭い警鐘が鳴り響いていた。

二人の関係に亀裂が生じたのか、あるいは、主が新たな悦楽を求めているのか。
そんな不敬な懸念が脳裏をかすめるだけで、胸の奥がざわつくのを抑えきれない。

「もちろん、主様のご意向であれば喜んでお供いたします。ですが……もし何かご不安やご不満がおありでしたら、何なりとお申し付けください。微力ながら、このウォルカがお力になれるやもしれません」

紅い瞳には、忠義という名の深い憂色が宿っていた。

「それに『薔薇の館』へ出向かれるとなると、どうしても人目がつきまといます。領主である主様が頻繁に出入りされるのは、決して好ましい事態ではありません。……リザルフ様の身に、何か変事でも?」

ハクラは苦笑を漏らして首を振り、ポケットから小さな箱を取り出すと、机の上にそっと置いた。
コトリ、という繊細な音が、静まり返った部屋に重く響いた。

「これがね、ようやく出来上がったんだ。……呼び出してプロポーズするのも、いささか情緒に欠けるだろう?」

シンプルな意匠の指輪の箱。

その瞬間、ウォルカの思考は瞬時に凍結した。
――プロポーズ。
主様が、あのリザルフに。
胸の奥を、鋭利な刃で抉られたような痛みが走り抜ける。

今まで、忠義という名の清廉なベールで覆い隠してきた感情が、今、残酷なまでに鮮明な形を成した。

恋慕。

二十年間、揺るぎない忠誠心だと信じ込んできた想いは、実はもっと卑俗で、個人的で、身勝手な独占欲だったのだ。

心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く乱れる。
白い尻尾が微かに震えるのを、強靭な自制心で床に押し止めた。
後ろへ倒れようとする耳を必死で律し、動揺を悟られぬよう静かに目を閉じ、深く息を吸い込む。

「……なるほど。そういう、ことでしたか」

声は辛うじて平静を保っていた。だが、喉をせり上がる震えを誤魔化すように、一度短く咳き込む。

「……それは、それは、おめでたいことでございます」

喉が癒着したように言葉が継げない。無理に絞り出した祝辞は、どこか空虚で、血の通わない棒読みのように響いた。
己の声が、これほどまでに無機質なものに成り下がるとは、思いもしなかった。

ハクラは照れ臭そうに、柔らかな笑みを浮かべた。

「リザルフは訳ありの身だからね。自由には外へ出られないし、驚かせたいんだ」

娼夫には二種類居る。好んでその職に就いている者とそうでない者だ。リザルフは後者であり、年季奉公という枷に縛られていた。

「悪いが、指名を入れておいてくれないか? そういう訳だから、特別なことは他言無用だよ」

はにかむ主君の姿に、ウォルカの心は再び激しく疼いた。

だが、彼は護衛騎士だ。その痛みから逃れるように退室し、廊下に出た途端、肺にある熱をすべて吐き出すように深く息を吐いた。

魔導通話器を取り出す指先。薔薇の館への連絡。
いつもの落ち着きを装いながらも、その声の端には隠しようのない硬質さが混じっていた。

全ての手配を終え、再び執務室の重い扉を開ける。

「主様、手配が整いました。魔導馬車も即座に出立可能です」

ハクラは高揚を隠せぬ様子で立ち上がり、白い毛並みの頬を薔薇色に染めていた。

「身嗜みを、手伝ってくれるかい? 華美にする必要はないけれど、みっともない姿で行くわけにはいかないから」

大柄な体躯が近づいてくる。
ウォルカがかつて主へと選んだ香水の香りが、残酷なほど優しく鼻腔をくすぐる。
ウォルカは息を呑み、必死で「忠実な僕」を演じ続けた。

「畏まりました、主様」

上質なシャツとジャケットを選び抜き、丁寧に肩にかけ、ボタンの一つ一つを留めて襟元を整える。
指先が、微かに震えていた。
指をかすめる主君の体温。甘く漂う香りが胸を圧迫する。

「香水は、今夜は控えめにされるのがよろしいかと。リザルフ様はきっと、主様ご自身の香りを何より好まれるはずですから」

最後に髪を整え、その完璧な姿を見渡す。

「ふふ、ありがとう」

主の満足げな笑顔が胸を締め付ける。
自覚した途端、これほどまでに世界は痛みに満ちていた。

馬車に乗り込み、道中は深い沈黙に包まれた。

ハクラの緊張が、すぐ隣で伝わってくる。その少年のような横顔が、愛おしく、そして耐えがたいほどに切ない。

「主様。……少し、緊張なさっておいでですか?」

「少しだけね。……まさか、自分が誰かにプロポーズする日が来るとは、思ってもみなかったから」

ウォルカは小さく、微かな微笑を浮かべた。

「主様は、いつまでも若々しく、魅力溢れるお方です。……リザルフ様も、きっとお喜びになります」

平然と言葉を紡ぎながら、心の奥底では濁流のような感情が渦巻いていた。

主の幸福を願う騎士としての献身。そして、その幸福から永久に疎外されることへの、底知れぬ恐怖。
感情を殺し、窓の外を流れる夜の街を見やる。

「『薔薇の館』までは、もう間もなくにございます」

街灯の光が幻想的に揺らぎ、ルダンの夜が二人を静かに飲み込んでいった。
ウォルカはただ、主君の未来に幸多からんことを――。
静かに、切なく、祈り続けた。
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