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~香奈子の推し活~

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 長いと思っていた夏休みもあっという間に終わり、二学期が始まったある日のこと。
 放課後の生物準備室で香奈子が窓際に置かれた三角フラスコを真剣な表情で眺めていた。
「何を見てるんですか?」
 自分が入ってきた事にも気が付かない様子の香奈子が気になって渉が声をかける。
「わっ! びっくりした」
 よほど集中していたのか、香奈子は渉の存在に全く気が付いていなかったらしく、渉が声をかけた瞬間、文字通り驚いて飛び上がった。
「そんなに驚かなくても…」
 香奈子のびっくりした顔を見た渉は、苦笑いを浮かべる。
 照れ笑いの様な表情を浮かべ「全然気が付かなかったわ…」という香奈子に、渉はもう一度何を見ていたのか尋ねた。
「ミドリムシを見てたの」
「それは見ればわかりますが…」
 準備室の窓際には10個ほどの三角フラスコが置かれていて、その中でミドリムシを培養しているという事は渉も知っていた。
「ミドリムシ見ていて楽しいんですか?」
 ミドリムシは植物性と動物性プランクトンの性質を兼ね合わせている微生物なので、ちまちまと動き回る姿を観察すれば暇つぶしぐらいにはなりそうではあるが、周囲の事が判らなくなるほど集中してみるようなものでもない様な気がする。
「あ、違うの。観察してたんじゃなくて、食用に加工するにはどのくらいのミドリムシを培養しないといけないかなぁ…って」
「食用⁈」
 香奈子の言葉を聞いて渉は耳を疑う。
「ミドリムシって健康食品のユーグレナの事なんだけど、知らなかった?」
「え…ええ⁈」
 ドラックストアなどの健康食品コーナーなどで目にするユーグレナと、目の前にある三角フラスコの中身が同じであると思わなかった渉は驚きの声を上げる。
「正しくはユーグレナ植物門ユーグレナ藻網ユーグレナ目の鞭毛虫の仲間のミドリムシ属——だったかしらねぇ」
 そう言いながら香奈子は首を傾げる。
「…そんな長い名前、よく覚えてますね」
 研究者でもマニアでもない人間からすればどうでもよいような名前を覚えている香奈子に、半分呆れながら渉が笑う。
「昔はユーグレナムシって呼んでいた事もあるみたいだけど、最近は生物なんかの授業ではミドリムシ。商品名としてユーグレナって名前で使い分けをしているみたい」
「健康食品の名前がミドリムシは…ちょっと飲むの躊躇うなぁ…」
 と渉がそう言うと、香奈子が笑う。
「ムシって名前がそういう印象与えるんだと思うけど、藻の一種でビタミンやミネラル、魚なんかに含まれるDHAやEPA、飽和脂肪酸なんかも含まれるし、繊維質も豊富なスーパーフードなのよ」
「へぇ…」
 渉自身、ユーグレナが健康食品として売られているのは知っていたが、具体的にどんな成分が含まれていて、どんな効能が期待できるのかなんて考えた事もない。
「渉君は美容とか健康、ダイエットには興味無さそうだもんねぇ」
「まあ、俺は普通の何処にでもいる普通の高校生の男子ですから…」
「でも、最近はメイクをする男子も増えてきてるから、メンズの化粧品が良く売れているらしいじゃない。ああいうの興味は無いの?」
「ああ…あれは俺には理解できないですね」
 メンズのファション誌などで男子のメイク特集などを見掛ける事もあるが、渉的には不自然で気持ち悪く感じるので、いつも読み飛ばしている項目である。
「まあ、私も芸能人でもないのに男性がメイクしてるのって変だと思うタイプだから、どうでもいいけどね」
 そう言いながら香奈子はミドリムシが入った三角フラスコを手に取る。
「光合成をする植物の能力を持ちながら、原始的ではあるけれど自ら動き回る能力も兼ね備えている。培養も簡単なのに、すばらしい栄養バランスで食物繊維もたっぷりだからダイエットにもぴったり――バイオ燃料としての研究も進んでいるみたいだし、ミドリムシの可能性って無限大だと思わない⁈」
「…まあ、そうですね」
 まるで健康食品の販売員のような香奈子の説明に渉は曖昧に相鎚を打つ。
「そんなミドリムシを使った食品の大試食会を文化祭でやったらどうかって考えていたの」
「ああ…そういう事か」
 そこまで聞いてようやく話の流れが見えてくる。
「去年の文化祭、うちの部の企画失敗だったから」
「その話…優子先輩に聞きました」
 夏休みの初めの頃の出来事を思い出して渉が苦笑いを浮かべる。
「なら、話は早いわ。企画成功のカギは話題性!」
 握りこぶしを作ってそう主張する香奈子を見ながら――大丈夫か? 俺の初めての高校の文化祭…。渉は密かに一抹の不安を抱くのだった。

 二学期に入って実力テスト、中間テストと学校のテストスケジュールの合間に生物室に集まった生物部の部員たちは、いつものように生物実験室でお茶をしながら文化祭の企画を相談していた。
「優子の企画はクラフトコーラ…と」
 そう言いながら静香が黒板にチョークでクラフトコーラと書く。
「私はユーグレナ入りのお菓子を考えているのだけど…」という香奈子の提案を聞いて、ユーグレナという文字が黒板に追加された。
「はーい! 私はプラナリアちゃん!」
 手をあげたあおいの発言に他のメンバーから疑問符が飛ぶ。
「プラナリアをどうするの?」
「佃煮…あ、冗談です。プラナリアちゃん可愛いから何か出来ないかなぁ…って」
 あおいの発言を聞いて、プラナリアの佃煮を本気で想像した優子と香奈子は胸をなでおろす。
「古谷君と渉君は何かやりたい企画ある?」
 静香に訊かれた古谷と渉は首を振る。
「爬虫類系って一般的には怖がられるか気持ち悪がられるから、みんなに任せるわ」
 グリーンイグアナと触れ合うといった企画でラッキーを触ってもらうというのを少し考えたが、ラッキーにストレスがかかって可哀想だという理由でやめた古谷であった。
 渉も特に何のアイディアも持ち合わせていなかったので、企画はみんなに任せるとという事で話が進む。
「…じゃ、今年の文化祭は喫茶店って方向で決まりね」
 そう言いながら静香が黒板に喫茶店と書いて、その文字を丸で囲う。
「飲食系だと、保健所に模擬店の申請を出さないといけないわね…」
 一応、元生徒会執行部の一人であった静香が呟く。
「——確か模擬店で取り扱える飲食物の規定とかいろいろあったはずやで」
「そうなの?」
 古谷も一年生の時、学年代表として生徒会執行部のひとりだったので、文化祭前に模擬店に関する問題がいろいろあったのを記憶していた。
「ちょっと確認するわ」
 そう言って古谷はスマホをポケットから取り出し、操作を始める。
「調理が簡単で食べる時に加熱調理された奴は大丈夫なんで、お好み焼きとかたこ焼き、ホットドック、ポップコーン、回転焼きなんかは問題無し。加熱調理された市販品をそのまま流用するのも問題無し。市販の業務用の氷を使ったかき氷も大丈夫やね――衛生的な問題で生ものとか、食中毒の可能性があるやつはあかんみたいや」
 保健所のホームページを確認したのか、古谷が記載されている内容をかいつまんで説明する。
「クラフトコーラは市販のスパイスを煮だしたものに砂糖なんかを加えて、市販の炭酸水で割るからたぶん問題は無いと思うけど、ユーグレナをどうするかよね…」
 優子が腕組みをして考え込む。
「…って事は、うちの実験室で培養したミドリムシを乾燥させて使うのは」
「食品衛生法に引っ掛かる可能性があるんじゃない?」
 静香に指摘されて香奈子はがっかりした様な表情を見せた。
「じゃあ、市販のを使えばいいんじゃないですか?」
 渉の提案を聞いた古谷は、ユーグレナの価格を調べ始める。
「ユーグレナの値段ってピンからキリまであるなぁ――そんな大量に必要な訳やないから、みんなで手分けしてお試しの安い奴を取り寄せたらかなり安く仕入れられそうやけど…」
「ただそれをやると、家にDMが来るようになると思うけどね」と静香が古谷の考えの問題点を指摘する。
「ドラックストアとか安売りの量販店なんかの値段をチェックしてみるしかなさそうね」
 そう言う香奈子はまだユーグレナ入りのお菓子を諦めていないらしい。そして諦めていない人間がもうひとり…。
「そこにプラナリアちゃんを入れる余地ないですか~?」
 最近のお気に入りであるプラナリアをあおいは何とか企画の中に入れたいようである。
「プラナリアねぇ――食べる訳にはいかないから、キャラクターとして入れるぐらいしか出来ないと思うけど…」
「じゃあプラナリアの形のクッキーなんかはどうですか?」
「形がシンプルだから作れない事はないけど…」
 香奈子がそう答えると、あおいは「プラナリアクッキー! 素敵です!」と興奮気味にそう言って目を輝かせる。
 どうもプラナリアの形をしたクッキーを焼かなければおさまりがつかない展開になってしまい、困惑を隠せない香奈子であった。

 文化祭の企画を話し合った数日後——放課後の生物実験室再び。
「試作作ってみたんだけど…」
 そう言いながら香奈子はカバンから紙袋を取り出した。
「お、美味しそうな匂い」
 岡部とオセロをして遊んでいた藤木が紙袋から漂う甘い香りに反応して鼻をひくつかせる。
「文化祭で出す予定のお菓子の試作品なんですけど…」
 そう言いながら香奈子は紙袋を開け、藤木達に差し出した。
「…イカ型クッキー?」
 何も知らない藤木は奇妙なクッキーの形を見て首を傾げる。
「プラナリアのつもりなんですが…」
 三角頭が藤木にはイカに見えたらしく、香奈子はすぐに訂正を入れた。
「ずいぶんまたマニアックだな…」
 そう言いながら藤木はしげしげとクッキーを見ると「——で、プラナリアなのにどうして緑?」と疑問符を飛ばしながらクッキーを口の中に放り込んだ。
「ユーグレナ…ミドリムシを混ぜ込んであるんで…」
 香奈子の説明を聞いて藤木はクッキーの咀嚼を止めて固まる。そんな藤木に香奈子は笑いながら「ユーグレナは市販の健康食品のやつですから大丈夫」と説明を加えた。
「ああ、びっくりした。三角フラスコのミドリムシをぶち込んだのかと思った」とクッキーを飲み込んで藤木が笑う。
「そうしたかったんですけど、模擬店で使う食品に使っちゃダメなんだそうです」
「禁止されてなかったら?」
「間違いなく入れていたと思います」
 岡部に訊かれて香奈子はにこやかに微笑みながら即答した。
「クッキーを緑色にしたかったんなら抹茶で良かったんじゃないのか?」
 藤木の素朴な疑問に香奈子はミドリムシがいかにすぐれた栄養を持っているかと語り始める。香奈子の話が終わるのを待って藤木は「要するに青木の推しはミドリムシって事だな」とだけ言うと、興味を失ったのかゲーム途中のオセロ盤に視線を戻した。
「可でも不可でもないって感じね…」
 ユーグレナクッキーを食べた藤木と岡部の反応は思ったよりも薄く、香奈子は少し期待を裏切られた気分になる。
「模擬店で扱える簡単で加熱調理をするお料理ねぇ…」
 とりあえず安売りの量販店でユーグレナを安価で購入した香奈子は、焼き菓子以外にユーグレナを入れられそうな料理は無いかと頭を捻っていると、恒温室に置いてある私物を取りに来た華に声をかけられた。
「香奈子ちゃん、何か悩み事?」
「あ…先輩」
 良い所に来たとばかり香奈子は華に事情を説明して、何かアドバイスがないかと尋ねる。
「模擬店に出すユーグレナを使ったメニューねぇ…」
 奇妙な相談内容にも関わらず華も香奈子と一緒に頭を捻る。
「ミドリムシ…緑…緑色…」
「模擬店と言えば粉もの――緑のお好み焼きとか、緑のたこ焼き、緑のクレープなんかもできそうだけど…」
「優子ちゃんはクラフトコーラを企画してるんで、コーラと合いそうな粉ものは良いかもしれませんね」
 お菓子に拘る必要はないかもと思い始めた香奈子に、華は「いっそ、セットにして全部とか?」と笑う。
「全部ですか⁈」
 単品しか考えていなかった香奈子は、全部という事はこれっぽっちも考えていなかった。
「ノーマルサイズのお好み焼きは焼くのに時間が掛かるから、10cmぐらいのミニサイズにして、それとたこ焼き3個セットとか…ユーグレナを生地に混ぜ込むとなると大量に必要になるから、青のり代わりにふりかけて消費量を抑えるってのもアリだと思うわよ」
「なるほど…」
 生地に混ぜ込む事ばかり考えていた香奈子にとっては目からうろこである。
「そっか…トッピングとして使うなら、他にもいろいろ考えられますね」
「文化祭迄あとひと月あるんだから、まだ焦る必要は無いと思うわよ」
 華は香奈子に「頑張ってね」と言うと、準備室を出て行く。
「決戦は文化祭…」
 ミドリムシが推しという香奈子もまた、間違いなく生物部の部員のひとりであった。
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