上 下
34 / 47
◆Page27

文化祭二日目 ~美味しい石鹸⁈~

しおりを挟む
 初日のバスボム作りは予想を超える参加希望者のおかげで、満員御礼で終える事ができていた。
「さて、今日はどないやろうな…」
 二日目の手作り石鹸のワーキングショップの全指導担当である古谷が期待半分、不安半分といった様子で呟く。
「気になる事でもあるんですかぁ?」
 あおいが小分けした材料の点検をしながら古谷に訊いた。
「最近は液体せっけんを使う事が多いから、固形石鹸を作りたいって人間がおるんか、ちょっと気になっただけやねん」
「あ~、言われてみれば確かに。洗面所なんかには液体や泡のハンドソープを置いている所が多いし、お風呂もボディーソープを使っている人が多いかも…」
 古谷の言葉に小首を傾げながらあおいが言う。
「やろ? ——まあ、昨日は全講習満席やったから、今日閑古鳥が鳴いてても、赤字にはならんって言ってたから、気楽なもんやけどな」と古谷は少し複雑そうな表情を浮かべながら笑った。
「今日は日曜だし天気も回復したから昨日より来場者自体は多くなりそうですけどね」
 丸山はそう言うと、窓の外を覗き込んだ。
「今日のチラシ配りは高橋君と順ちゃんやったっけ?」
「香奈子先輩と静香先輩も、石鹸のサンプルを持ってチラシ配りに加わったみたいですぅ」
 石鹸というと白や茶褐色のシンプルなものを連想するので、プルプルしたゼリーのような石鹸が作れるのだとアピールする為に持ち出したらしい。
「現物を見た方が勧誘しやすいだろうって、香奈子先輩言ってました」と香奈子と静香の会話を聞いていた丸山が笑う。
「なるほど、視覚で訴える気か…あの子ららしいなぁ」
 女子らしい考えに古谷は苦笑いを浮かべる。
「実際、今回の石鹸、ゼリーみたいで色も綺麗だし可愛いから、作りたいとか欲しいって思う人、出てくると思いますぅ」
 黒板前の実験台の上に残された石鹸サンプルを手に取りながら、あおいが言う。
「先輩…冷却用のバットは各実験台に一つでいいですか?」
 深めの金属バットに水を入れながら丸山が古谷に尋ねた。
「それでええよ――氷の方は大丈夫?」
 石鹸を作る時に冷やし固めるという工程がある為、それには氷が必要であった。
「必要分は今朝買ってきて、冷凍室に詰めたんで大丈夫です」
「アイスを作る訳やないから、そんなには氷を使わへんとは思うけど、足らへんかったら途中で買い出しに行かなあかんな…」
 氷の買い出し係だった丸山に古谷がそんな話をしていると、廊下の受付から優子の声が聞こえてきた。
「——石鹸作りは約一時間です…あ、子供さんでも大丈夫です…はい…ありがとうございます」
「お客さんが来ましたぁ」
 受付の様子を伺っていたあおいが古谷と丸山に頷きかける。それを聞いた古谷は。白衣をさっと羽織ると、あおいと丸山に「ほな、今日の作業助手よろしくな」と小さく頭を下げた。
「だぁいじょうぶ、まかせて」
 語尾の後ろに音符マークが付いている様なあおいの言葉を聞きながら、若干不安を覚える古谷であった。

「ビーカーに入ったお水が沸騰したら、粉ゼラチンと書いてある小袋の中身を入れて割りばしでダマが無くなる迄よく混ぜて下さい」
 その後、小ビーカーに入った石鹸水を加熱したゼラチン水に混ぜるという古谷の作業工程の説明に従って、参加者たちはビーカーの中にゼラチンと石鹸水を入れて混ぜていた。
「混ぜ終わったら、ビーカーが熱いので軍手をして、火傷に気をつけながらシリコン型に材料を混ぜ合わせた液体をビーカーから流し込んでください」
 シリコン型は昨日のバブルボムで使ったものと同じで、可愛らしい様々な形のものがあり、参加者たちは好みの型を最初に選んでいる。
「型に液体を8分目まで流し込んだら、好みの色の食紅を割りばしでちょっとずつ入れて、混ぜて下さいね~」と言いながら古谷は各テーブルの様子を見て回る。
「石鹸水に色が混ざったら、シリコン型をそっと各テーブルの上にある金属バットの中に入れて冷やして下さい」
 古谷の指示に従って、作業が早い参加者たちは自分好みの色を付けた後、氷水が入っている金属バットの中に慎重に石鹸水が入ったシリコン型を入れて冷やし始めた。
 作業が遅い参加者にはあおいと丸山が側について、作業の補助を行っている。
「…ちゃんと連携出来てるみたいね」
 入口から実験室の様子を覗き見ていた優子が安心したような表情で呟いた。
「あおいちゃんが助手として大丈夫かちょっと心配だったけど、良かった…」
 優子の横で渉もホッとした様な表情を浮かべる。
 それを聞いた優子が「一応、あおいだってバイトできるぐらいの能力があるんだから、心配だったってのはちょっとひどいんじゃない?」と苦笑いする。
「いやぁ、あおいちゃんって、たまに突拍子もない言動とか、いろいろやらかすんで…」と渉が言い訳をしていると、実験室の中からあおいの「あつっ!」という声と何やらひっくり返したような破壊的な音が響き渡った。
「⁈」
 噂をすれば何とやらで驚いて実験室の中を覗き込むと、割れたビーカーや金属バット、シリコン型などの道具が散乱して、液体でびちゃびちゃになった実験台の前で茫然と立ち尽くすあおいの姿と、慌ててあおいに駆け寄る古谷の姿が目に飛び込んできた。
「あちゃ~、ちょっと行ってくる」
 優子は渉にそう言い残すと慌てた様子で実験室へ入って行き、「お騒がせしました」と参加者声をかけながら、事態の収拾をはかる。
 後からわかった事であるが、参加者から熱いビーカーを触るのが怖いので、混合石鹸水をシリコン型に移し替えるのをやってほしいと言われ、あおいは参加者の代わりに入れ替え作業をしようとして、手を滑らせた。その時、混合石鹸水がこぼれて手袋に浸み込んでしまいあまりにも熱かった為、反射的にビーカーを投げ出したという事だった。
「私がせいで、ごめんなさい」
 軽いやけどをしたあおいに参加者が申し訳なさそうに謝ると「大丈夫ですぅ~、私、こんなのしょっちゅうやらかしてますから」とあおいは笑顔で応えた。
 そんなあおいの言葉に何とも言えない表情を浮かべる参加者を優子が別の実験台に案内する。そこで新しいゼリー石鹸を作る機材一式が既に用意されていた。
――あおいが製作途中の石鹸がダメになってしまったので、そこで作り直してもらう為に優子が速攻で準備をした様である。
「作り直してい頂こうと思いますが、お時間大丈夫ですか?」
「…あ、大丈夫です」
 ひっくり返した機材のかたずけを始めたあおいを気にする様子だった参加者だったが、優子に訊かれて慌てて頷く。
「じゃあ、私が補助するんで、一緒に作りましょう」と言うと、優子はビーカーに入れた精製水を加熱する為に実験用バーナーに火を点けた。
「——え~、皆さん、型に入れた石鹸水の状態いかがですか?」
 トラブルがあった参加者も無事作業を再開したのを確認して、古谷が他の参加者たちの作業の進行状況を聞いて回る。
 シリコン型の淵の辺りは固まり始めていたが、全体が固まるまでにはまだ時間がかかるようであった。
「真ん中はまだちょっと緩いみたいやね…丸ちゃん、金属バットに塩を入れてくれるかな?」
 氷水の温度を下がる為に古谷が丸山に指示を出していると、参加者から「氷水に塩?」という不思議そうな声が上がった。
「——ちょっとした実験をします。氷水に塩を加えると氷水の温度が下がるという現象をお見せしますので、お集まりください」と言うと、古谷はまだ塩を投入していない氷水入りの金属バットに温度計を差し入れた。その様子を見ようと席が遠い参加者たちは立ち上がって、古谷の周りに集まって来る。
「今で氷水の温度は何度ですか?」
 古谷に訊かれた温度計のメモリが見やすい席に座っている参加者が「1℃」と答える。
「では、ここで塩を加えます」
 そう言うと、古谷は一旦、参加者のシリコン型を金属バットから取り出し、塩を氷水に投入しながら「塩分濃度25~30%になる塩を加えます」と言って、静かにかき混ぜて塩を溶かして見せて、横に置いていたシリコン型を金属バットの中に戻した。
「はい…温度計のメモリの様子を確認して下さい」
 どうなっていますか? という古谷の質問に、先ほど温度を確認した参加者が「あぁ!」という、驚きの声を上げる。
「どんどん温度が下がってる! -0.5℃…-1℃…-1.5℃。ええ⁈」
 メモリを読み上げる参加者の声に、様子を見に集まっていた参加者からもどよめきが起こった。
「この現象は「融解熱」と「凝固点降下」という二つの作用が原因で発生しているんですが、これを説明しようと思うと、物理の知識が必要となってくるし、説明がめんどくさいので…以下省略」と古谷が言った瞬間、参加者からどっと笑いが起きる。
「氷水に多めの塩を入れて混ぜると温度が下がる事を知っていれば、キャンプなんかで冷凍庫が無い場所でも、急いで缶ジュースやビールなどの飲み物を冷やしたい時や、アイスクリームが作れるので役に立つので覚えておいて損は無いです」という補足に、今度は感心したような声が上がった。
――冬場に積雪量が多い場所で使われる融雪剤は、凝固点降下の作用を利用したもので、融雪剤の主成分は塩化ナトリウムなどのいわゆる塩である。雪(水)と塩が結びつくと塩水となり、塩水が氷る温度は-22℃となるので、その気温まで下がらないと道路が凍結しないので利用されているのは余談である。

 塩入の氷水の冷却効果は絶大で、通常冷蔵庫で一時間は冷やさないと固まらないものが、講習時間が終わる頃にはちゃんと固まった。
 参加者たちはラッピングされた手作りのゼリー石鹸を嬉しそうに持って帰って行くのを見送ってから、実験室では緊急の話し合いが行われていた。話し合いの議題はもちろん作業工程についてである。
「お客さんにけが人が出なかったのは良かったけれど、午後からはビーカーを使うの考えなおした方がいいかも…」
「そうやな、今回はあおいちゃんが軽い火傷をするだけで済んだだけだったから良かったものの、お客さんにけが人が出たら大変やもんな」
 優子と古谷が話し合っている横で、渉もいい案が無いかと頭を捻る。
「参加者15名…移しやすい他の容器…調合は説明だけして、まとめて自分たちで作るか…いや、それだと作る楽しみが半減するしなぁ…」
 基本、生物実験室なので、ビーカーやフラスコなどの実験用具は授業でも使用するので小さいガラス器具は多数あるが、大量の液体を一度に加熱できる容器が思い浮かばなかった。
「次の講習はお昼からだし、お昼を食べてからにしましょうよぉ」
 渉がブツブツ言いながら考え事をしていると、あおいがお腹の虫が鳴きだしたと訴える。
「お腹の虫って…あおいの場合は年中鳴いてるんじゃないの?」
 そう言って優子が笑っていると、チラシ配りに出ていた一行が賑やかに戻って来た。
「ゼリー石鹸好評だったわよ」
 サンプル石鹸を持ち出して宣伝してまわっていた香奈子と静香がそんな報告をした後、優子や古谷、渉は思案顔なのに気が付いて、どうしたのかと尋ねる。
「ちょっと問題が発生しちゃったのよ…」
 そう言って優子が先程のあおいの火傷事件の話を聞かせた。
「あらら、あおいちゃん火傷したの? 大丈夫?」
 事情を聞いた香奈子が心配してあおいに訊くと、あおいは火傷よりお腹がすいた方が問題だと答える。それを聞いた香奈子と静香が笑いだす。
「あおいちゃんらしいっていうか、空腹の方が問題って事は、火傷は大した事はないって証明ね」
「そういう事ですぅ」
 あおいはそう言うと、空腹過ぎてサンプルの石鹸が美味しそうに見えると笑った。
「いくらゼリーみたいな石鹸だからって、これは食べらんないわよ」
 そんな静香の言葉にあおいは「学校の洗い場にある石鹸をカラスが食べているのを見た事があると言い出す。
「え? カラスが石鹸を食べる⁈」
 そんな事、見た事も聞いた事も無いと香奈子と静香が顔を見合わせていると、優子が石鹸に使われている材料と量によっては食べられないことはないと笑った。
「石鹸の材料によるって、そんなに種類があるんですか?」
 中途半端に残ったチラシの整理をしながら順子が訊ねる。
「石鹸は牛脂やラード、ココナッツオイル、ヤシ油なんかを水酸化ナトリウム…いわゆる苛性ソーダって呼ばれる劇物と混ぜ合わせて作ったものが多いんだけど、第一次世界大戦前までは油脂に灰汁を混ぜ合わせただけの原始的な手作り石鹸が一般的だったって言われているわ」
「灰汁…って?」
「植物の灰…いわゆる木灰を樽なんかに入れて、その上から水を入れて、数日放置して、樽の下から出てきたアルカリ性の灰汁溶液をそのまま使ったり、さらにステンレスなんかの鍋で灰汁溶液を煮詰めて結晶化させたものを灰汁って言っていたみたい」
 灰汁は苛性ソーダより腐食性が弱いので扱いやすく、一般人にも手に入れやすかったのでよく使われていたのだという。
「そういえば…フランスのマルセイユ石鹸っていう、オリーブオイルを原料とした植物性のフランス王家愛用の高級石鹸なんてのがあるって聞いた事があるわよ」
 静香がビューティー雑誌の記事か何かで読んだ記憶を思い出したのか、そんな話を口にした。
「…さすがにそんな高級石鹸を学校の洗い場に置いてあるとは思えないけど、主成分が油脂だから、それでカラスが食べていたのかもしれないわね」と優子が笑う。
「油脂って事は、石鹸って美味しいのかな?」
「昔、ママからいい石鹸は舐めると甘いけど、粗悪な石鹸は舌を刺す様な刺激と辛味の様なものがあるって話を聞いた事あるわよ」
 素朴な疑問を口にするあおいに、香奈子が答える。
「そんなんだ~、じゃあ、これも食べられるかな?」
 そう言ってあおいはサンプルのゼリー石鹸に手を伸ばした。
「ちょっ…あおいちゃん、それはあかんて」
 慌てて古谷があおいを制止する。
「この石鹸を作る時に混ぜてるの、100均のボディーソープやで」
 食べて大丈夫なものが入っているとは、とてもではないが考えられないと古谷は言う。
「じゃあ、甘い石鹸ってどんなの?」
「宝石石鹸を作る時に使うMP石鹸なんかは、主成分がグリセリンだから甘いとは思うけど、基本的に石鹸は食べ物じゃないんだから食べちゃダメよ」と優子はそう言うと、どうしても味が気になると言うなら、舐めるだけにしなさいと笑った。
――いやぁ、石鹸をわざわざ舐めるってのもどうかと思いますけど…。
 言葉としてツッコミを入れる勇気がなく、心の中で呟く渉であった。
しおりを挟む

処理中です...