五分間の幻

志智ろく

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遅刻

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 いけない、遅刻する!
 その言葉が声にすら出てこない。脱ぎ散らかされたパジャマに、布団の上に投げ出されたストッキング。キッチンではぼさぼさ頭のスーツ姿が慌ただしくトースターにパンを突っ込んだところであった。
四郷秋絵の朝の風景である。パンが焼きあがるまであと三分、それを咥えて家を飛び出せば、ぎりぎり職場最寄りまで行く電車には乗れるだろう。
歯磨きは既に済ませていた。化粧は、この際会社のお手洗いでやればいい。

「あーっもう!」

 キッチンを飛び出しストッキングを履く。慌てているとなかなかうまくいかないものだ。どうにか履き終えて鞄の中身をチェック、財布と定期とメイク道具が入っていればあとはどうでもいい。リビングを飛び出してテレビをつけて――そこではたと気づく。

「あれ、三分経ってる……?」

 チン、という音なんて何も聞こえていなかったのだが。
 嫌な予感に恐る恐るトースターを覗き込む。

「っ……あああああ! 生! 食! パン!」

 秋絵は床にくず折れた。
 もうこれは生のまま食パンを咥えて飛び出せということか。時間は迫っている。こんなことをやっている場合ではないのである。

「もういい! 行ってきます!」

 テレビを消してトースターから食パンを出して咥え、それから鞄を持って家を飛び出した。鍵? 今時のマンションはオートロックだ。鍵を一々閉めるだのなんだの、気にしていられるものか。そういったものから逃れるために、秋絵は高くても駅の近くで、かつオートロックのマンションにしたのだから。
 走る走る。ヒールを鳴らして、必死の形相で走る。
 もう先ほどの三分からさらに二分が経とうとしていた。駅には乗りたいと思っている電車が止まっているのが見える。
待って、お願い、待って……!
 まぁ、そう秋絵が願ったところで電車が律儀に待ってくれるはずもなく。
 電車は無常にも動き出してしまったのである。

働く秋絵の嵐のような五分間は終わった。あとはとぼとぼと駅へ向かうだけである。
 あぁ、会社に電話をしなきゃ。そう思ったところで、はたと気づく。口の中の生食パンがねとりとして、やけに不快だった。

「スマホ、家に置いてきちゃった……」

 公衆電話があるし、そう思っても会社の電話番号を覚えていないのである。
 秋絵は泣く泣く自宅に戻り、さらに一本電車を逃してしまったのだった。
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