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32.武術大会⑦
しおりを挟む体中の力が抜け、アイラはぺたりと地面に座り込んだ。
涙がポロポロと零れ落ちる。
アイラ自身の魔術で濡れていた団服は、先ほどの炎の熱によってほとんど乾いていたが、それでも震えが止まらなかった。
ふわり、と肩に何かが掛かる。それは副団長が着ける白いマントで、顔を上げて隣を見れば、フィンが悔しそうに表情を歪めていた。
「……ごめんね、遅くなって」
絞り出された声は、低く掠れていた。
そっとアイラの背中に手を添え、しゃがみ込んで目線を合わせてくれたのはリアムだ。
「大丈夫…ではないよね。ケガをしたのは肩と、他にある?」
今まで聞いた中で、一番優しい声音だった。アイラがゆっくりと首を横に振る。
反対側から頭を抱え込むように抱きしめられ、甘い香りがふわりと広がった。カレンだった。
「アイラ…!無事で良かった…!」
カレンの涙ぐんだ言葉に同意するように、背後でオーティスとギルバルトの声がする。
「……本当に良かったな」
「ね~、オレが心臓止まるかと思った。さすがだねぇ、あの人…アイラちゃんのお兄さんでしょ?」
アイラは前を向いた。巨大な炎の玉が消えた場所に、クライドが立っていた。
魔術を唱え続け、倒れた参加者の体を浮かし移動させ、騒動を引き起こした参加者をまとめて魔術具の縄で縛っている。
そんなクライドの元へ、他の魔術師が次々と駆けつけては、魔術で闘技場の抉れた地面を直し始めた。
その奥から、デレクが顔を真っ青にして駆け寄ってくる姿が見える。
「アイラ!アイラ、アイラ―――…」
「騒がしい。もうちょっと静かにしてよ」
リアムにたしなめられながらも、デレクはアイラの無事な姿を確かめるとホッと息を吐いた。
カレンがそっと体を離し、アイラの手を優しく握る。
「……アイラ、すぐに救護室に行きましょう。手当てを受けて、休むべきだわ」
「……カレン、私…」
「あ、動かないで。フィン副団長、いいですよね?」
カレンの言葉に、フィンはまだ顔を歪めたまま頷いた。
「アイラは救護室へ。付き添いはカレンに頼むね。それから、誰かアイラを運んで…」
「それは、俺の役目です」
いつの間にか近付いて来ていたクライドが、アイラの前に片膝を着いてしゃがみ込む。
優しく微笑むクライドの顔を見て、アイラはまた涙が溢れた。
「お、にい…さま……」
「うん、頑張ったな。ちゃんと見てたから」
くしゃりとアイラの髪を撫で、クライドはアイラを抱き上げた。
皆が見ているが、アイラはしゃくりあげながら声を出さずに涙を流し続ける。
また命を落とすかもしれないという恐怖からの解放感と、クライドの顔を見た安堵感で、涙は次々と溢れてきていた。
「では、アイラを連れていきます。俺も事の詳細を知りたいので、何か分かれば教えてもらえますか?」
「ええ。区切りがついたら、ここにいる皆で救護室へ向かいます」
クライドの言葉に、フィンが丁寧に返事をする。お礼を言って頷いたクライドは、カレンを見た。
「ええと、貴女がついてきてくれるのですか?」
「ひっ!い、いえ!お兄さんが一緒なら、あたしは、じゃ、邪魔なので!」
いつも自信に満ち溢れて堂々としているカレンが、ここまで動揺を見せる様子をアイラは初めて見た。
そんなカレンを、ギルバルトがニヤニヤと笑って小突き、お返しに拳を腹部に食らっている。
クライドは首を傾げ、「では、後ほど」と言ってアイラを抱き上げたまま歩き出す。
少しだけ冷静さを取り戻したアイラは、ハッとしてクライドを引き止めた。
「ま、待ってくださいお兄さま!」
「ん?」
「騎士さまがっ…、」
クライドの肩越しに後ろを確認したアイラは、そこで言葉を失った。
赤毛の騎士はやはり、忽然と姿を消していたのだ。
「騎士さまって、誰のことだ?ついてきてもらいたいのか?」
「……いえ、何でもありません」
アイラがそう答えると、クライドは再び歩き出す。しばらくして、くっくっと押し殺すような笑い声が耳に届いた。
「……どうして笑っているのですか、お兄さま」
「いやぁ、見事にむくれているなと思って」
「む、むくれていませんっ」
「戦場の天使が、すごい顔しているぞ?気になるなぁ、アイラの“騎士さま”」
「………!」
どうしてクライドが、アイラが陰で呼ばれている二つ名を知っているのか。
問いただしたい気持ちもあったが、アイラの頭の中はもう、赤毛の騎士への疑問で手一杯だ。
―――もう、次は逃がしませんからね。
アイラはそう思いながら、その瞳に闘志を燃やす。
涙はいつの間にか、止まっていた。
***
アイラの姿が見えなくなるまで見送ったあと、フィンはようやく大きく息を吐き出した。
それは周りの団員たちも同じだったようで、皆がそれぞれ緊張から解き放たれた顔をしている。
「いやぁ、アイラちゃんて厄災のど真ん中にいるよねぇ。命がいくつあっても足りなくない??」
ギルバルトだけは、いつも通りの調子で口を開く。
しかし、アイラを助けに行けるようになるまで、ずっと強張った表情をしていたことを、フィンは知っていた。
感情を誤魔化すのが上手いなぁと思いながらも、フィンはギルバルトに同意した。
「……全くだよ。心配のしすぎで頭がおかしくなりそうだね」
「ですよね~。一番近くにいたデレクなんか、生きた心地しなかったでしょ」
「……はは、本当にそうです」
話を振られたデレクは、疲れ果てた表情で苦笑した。至るところが傷だらけで、血が滲んでいる。
今更ながら、デレクも救護室へ向かうべきだとフィンは気付いた。
「ごめんデレク、君も救護室へ行っておいで」
「……いえ、俺は平気です。早くこうなった原因を調べて、アイラに教えてあげたいので残ります」
その強い意志の宿る黄緑の瞳を見て、フィンはこれ以上言っても聞かないなと判断する。
ならば、望み通り働いてもらうことにした。
「オーティス、第二騎士団が観客の誘導を、第三騎士団が外の警備を行っているけど、報告を聞いてきてくれ」
「はっ」
「ギルバルト、さっきアイラのお兄さんが拘束してくれた参加者の様子を確認し、城へ連れ帰ってくれ」
「はぁい」
フィンが先輩騎士二人に指示を出すと、カレンが小さく挙手をした。
「すみません、あたしはジスラン副団長のところへ戻ります。アイラが心配で、任務を放りだしてきてしまったので」
「分かった。……アイラのために動いてくれてありがとう」
フィンの言葉に、カレンは笑いながら豊満な胸元をトンと叩いた。
「当たり前じゃないですか。大事な友だちなので!」
オーティス、ギルバルト、カレンがそれぞれ動き出す。新人のデレクとリアムが、フィンの指示をじっと待っていた。
「……君たちはまず、動けなくなっている参加者の状況確認を。もう医者が駆けつけてくれているみたいだけどね」
フィンの視線の先には、地面に並んで横たわる参加者たちと、忙しなく治療をしている医者がいた。
それを邪魔しないようしながら、魔術師たちが闘技場を元通りに修復しようと、魔術を駆使して奮闘している。
「意識がある参加者がいたら、話を聞いてみて。デレクが見たものと擦り合わせたら、何か分かることがあるかもしれないし」
「分かりました」
「それと、重要参考人になりそうな赤毛の彼が見当たらないんだけど、どこにいるか知ってる?」
フィンはきょろきょろと辺りを見渡す。去年の剣術の部の優勝者が今年も現れたことには驚いたが、この混乱の中、アイラと共に戦っていたことにも驚いていた。
しかも、その手に持っていたのは対魔術用の剣である。
聞きたいことが山程あったが、闘技場内には赤毛の参加者の姿が見えなかった。
「それが…アイラのお兄さんがあの巨大な炎の玉を消したのを見て、安心したような顔をして…俺が一瞬目を離した隙に、もう姿が消えていました」
デレクは不思議そうに言いながら、「転移したとか?」と考えを述べた。
それまでずっと黙っていたリアムが口を開く。
「そもそも、剣術の部の参加者は、魔術と魔術具の使用はできないはずですよね?どうして参加者が次々と使い始めたのでしょうか」
「……それについては、要調査だね。不可解なことが多すぎる。早く調べて、報告がてらにアイラの話も聞かないとね」
このあと大量の書類仕事がやってくるだろうな、とフィンは遠い目をした。
しばらくは忙しい日々が続くだろう。そして、一番忙しくなるのは団長であるエルヴィスだ。
国王陛下や国の重鎮たちにも説明を求められるだろうし、武術大会の今後も話し合わなければならない。
できる限りエルヴィスのサポートをしようと、フィンは心に決めてから動き出す。
「じゃあ、二人は参加者の状況確認をしながら、情報を集めて。俺は一度、大会の責任者のところへ話しに行くから…」
「いや、その必要は無い」
この場から聞こえるはずのない声が聞こえ、フィンは幻聴が聞こえたのかと思った。
けれど、デレクとリアムも同じような反応を示しており、幻聴ではないと判断する。
黒髪と黒いマントを靡かせ、颯爽と現れたのはエルヴィスだった。
「……どうして団長がここに?」
「机仕事が落ち着いたから、様子を見ようと来てみたら、何やら騒がしかったから…大会の責任者に話を聞いてきた」
フィンは長年の付き合いから、これは嘘だなと思った。
国の重鎮に嫌味を言われ、スラスラと口からでまかせを並べて言い負かすときと、同じ顔を今のエルヴィスはしている。
けれどフィンは、いちいち指摘しなかった。きっとアイラの試合を見たくてこっそり来ていたのだろうと、斜め上の発想で納得する。
―――いや。それならアイラが危険だったとき、団長なら真っ先に駆けつけるか…。一番に駆けつけたのは俺だからね。お兄さんを除けば。
「……それで、責任者はなんて言ってたんです?」
「訳が分からない、の一点張りだった。つまり収穫は無しだ。他から情報を得るしかないな」
「そうですか…。デレク、リアム、もう行っていいから」
エルヴィスの登場に緊張していたのか、じっと固まっていた二人にフィンが言うと、サッと礼をして駆けて行った。
相変わらず存在感がある人だな、とフィンはエルヴィスを見ながら思う。
珍しい黒髪に、燃えるような紅蓮の瞳。それに整った顔立ちが相まって、そこに立っているだけで人目を惹く。
フィンは自分の容姿に自信があったが、エルヴィスには敵わないと思っていた。
これで愛想が良ければ女性が群がってきていただろうに、本人はいつも真面目な顔を崩さない。
フィンが一度指摘してみたところ、「騎士団長がずっとへらへら笑ってたら、威厳がないだろ」と一蹴された。
「……もう少し肩の力を抜いてもいいのに」
「ん?」
「いえ、なんでも。そうだ団長、アイラがまた巻き込まれて、今は救護室にいます」
どこかで見ていたかもしれないが、一応報告の形を取っておこうと、フィンがそう言う。
エルヴィスはぴくりと眉を動かした。
「……そうか」
「ここは俺に任せて、様子を見に行って来てもいいですよ?」
「いや……兄がついているなら心配ないだろう。俺は魔術師に話を聞く」
そう言ってくるりと背を向けるエルヴィスを、フィンは生暖かい目で見た。
兄のクライドが一緒にいるだなんて、一言も言っていない。それを知っているということは、どこかで見ていたのだ。
子どもの初恋を見守っている気分になりながらも、フィンはようやく動き出した。
***
「……つまり、第三者の仕業だということですか?」
救護室のベッドで上半身を起こしながら、アイラは眉をひそめた。
何故か広めの個室を用意してもらえたが、アイラを除いて六人の男性がいる部屋は、だいぶ狭く思える。
フィンがベッド脇の椅子に座り、長い足を組んで言った。
「そういう見解に行き着くしかないんだよね。捕らえた者は五名全員、魔術を使用して暴走した記憶が無かった」
それは、とても信じられない話だった。全員が嘘をついている可能性だってある。
「確かに、目が虚ろで様子がおかしかいなとは思いましたけど…。誰かが裏で操っていた、ということですよね」
「魔術で人を操ることはできるのですか?」
オーティスが問い掛けたのは、アイラの側で立っていたクライドだ。
魔術師側の代表として、アイラの身内として、話に参加してもらっている。
クライドは少し考えてから口を開く。
「……できるかできないかで言えば、できます。ただし禁術となるので、術者には相当な負担がかかるはずです。それを一度に五人ともなると…命を落としかねないかと」
「そこまでして、武術大会をめちゃくちゃにする理由は無いか…。なら一体何だろう?」
フィンの言葉に、皆が一斉に口をつぐんで考える。
「変な薬でも盛ったとかじゃないですかー?そんな薬あったら怖いですけど」
ギルバルトがのんびりとそう言い、オーティスが初めて隣にいることに気付いたかのような顔をした。
「……ギルバルトお前、副団長から捕らえた者を城へ連れていくように指示を受けていなかったか?」
「そうですけど、突然団長が来て…これから城に戻るからついでに、って連れてってくれたんですよ~」
「エルヴィス団長が?ここへ?」
オーティスは眉をひそめ、アイラはその名前を聞いて心臓が跳ねた。フィンが困ったように頭を搔く。
「……あ~、仕事が早く片付いたから、様子を見に来たらしいよ。とりあえず、彼らは城でもう少し話を聞いて、無実が分かれば開放されるかな」
「……良かった。第二騎士団の同期がいたので…こんな暴走を引き起こすヤツじゃないので、操られたなら納得です」
「問題は、その操った方法ですよねぇ。新人組はどう思う?」
ギルバルトの瞳が、アイラ、デレク、リアムを順に見る。最初にデレクが肩を竦めた。
「さっぱり分かりません…間近で戦ったんですけど。ただ、ひたすら魔術で攻撃されたので、すんごい戦いづらかったです。……あれ、そういえば何で魔術が使えたんだ?」
「それは、私も疑問に思いました。参加者は魔力封じの腕輪を付けていたはずなのに、どうして魔術が使えたのか。腕輪を外したとしたら、どうやって外したのか…」
アイラが首を傾げていると、クライドは腕を組みながらため息をついた。
「……それに、魔術師側でも問題があった。観客席の前に防護壁を張った魔術師が消えたんだ」
「消えた?……どういうことですか、お兄さま」
「防護壁の解除は、作り出した術者本人が解除するか、無理やり破壊するかしかないだろう?闘技場内で魔術が使用され、お前が巻き込まれているとき、俺は真っ先に防護壁の一部解除をしてもらおうとしたんだ」
そのときの状況を思い出したのか、クライドは顔を歪めて続けた。
「……ところが、その魔術師は配置先にいなかった。魔術で気配を探っても見つからず、目の前で妹が危険な目に遭っているのに、防護壁があるせいで助けにも行けない…」
「……お兄さま。それでも、観客の方たちは防護壁のおかげで巻き込まれずに済みました。それに、お兄さまは私を助けてくれましたよ」
アイラはクライドのローブをそっと掴み、そう言って微笑んだ。
消えた魔術師の防護壁を破り、アイラに向かう炎の玉を消してくれたのはクライドなのだ。
「いいなぁ~兄妹愛。やっぱりオレも可愛い妹が欲しかったなぁ」
「……お前は少し黙った方がいいぞギルバルト」
ぼそりとギルバルトが呟き、オーティスがじろりと睨む。
アイラはそんな先輩騎士二人に笑いながら、ふとリアムを見た。先ほどから、ずっと気難しい顔をして唇をきゅっと結んでいる。
声を掛けようかと思ったが、フィンもリアムを気にしていることが分かった。
真珠色の瞳がアイラに向き、小さく首を振る。今は、話しかけるなということだろう。
―――どうしてかしら。もしかして…リアムは今回の騒動に、何か心当たりが…?それを、フィン副団長は察しているの?
アイラはモヤモヤとした気持ちを抱きながら、大人しくフィンに従った。ちらりと横目でリアムを見るだけに留める。
リアムが騒動を引き起こした第三者だとは思わないが、いつもと違う様子にアイラは心配になった。
「……とりあえず、この場で解決できる事件じゃないね。この先詳しい調査が入ると思う」
フィンはそう言うと、アイラの頭をポンと撫でてから立ち上がった。
「アイラは一旦、タルコット家にお兄さんと戻るといいよ。そこでゆっくり休めたら、騎士団に戻ってきてくれればいいから」
「……いいのですか?」
「うん。早く元気になってね」
ひらひらと手を振ったフィンは、他の皆に「さー行くよ野郎ども」と言って救護室を出て行く。
それぞれがアイラに声を掛けてからフィンに続いた。デレクと拳を交わしたあと、リアムの視線がアイラへ向く。
「……アイラ。………また、騎士団でね」
「うん、リアム」
何か言いかけながらも、リアムはそれだけ言うと出て行った。アイラは笑顔を返したが、嫌な不安が残る。
全員が出たあと、クライドは「…それで?」とアイラを見た。
「あの中に“騎士さま”はいるのか?美形揃いじゃないか」
「お兄さま……」
アイラはクライドを睨んだあと、ため息を吐いて窓の外を見る。
―――騎士団へ、城へ戻る。
そのときに真っ先に向かおうと思っている場所を思い浮かべ、アイラは瞼を閉じた。
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