ふたつの足跡

Anthony-Blue

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3.囁き

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「やっと終わってくれたぜ。」

 5月も半ばを通り過ぎ、7時を向かえようとしているというのに空はしっかりと雲の陰影を見せてくれていた。展示会は、昼間は暇だったのだが、さすがに夕方ともなれば仕事帰りのサラリーマンとか家族連れの客で多少なりとも賑わいを見せた。

「営業所に近いから、直帰ってわけにもいかんよなぁ。」

「あたりまえだろ。車はどうするんだよ。俺だけ営業所に帰ってみろ、それこそ所長に何言われるか。」

「わかっとる。」

 望月は、ふてくされたような顔をして、頭の後ろで手を組んだ。

「じゃあさ、飲みに行こうぜ。」

「ダメ。」

「オレ車だし。ちょっとかたづけておきたいこともあるし。」

「ハイ、ハイ。営業のエースは残業でも何でもしてくだされ。」

 望月は、おどけながらたばこに手を伸ばした。今朝から、どうも胸の中のしこりがとれない。飲んで忘れるという手もあるのだが、今日は酔えないような気がしてならない。家で早々一人になる気にもならないので、残業という手段で時間を消費するつもりでいた。 営業所に着くと、さすがに辺りは暗くなり、事務所に点く蛍光灯の明るさだけが目立ち始めていた。事務所には、まだ数人の人影があり、その中に山口伸子の姿もあった。

「誰か、僕と飲みに行きませんかぁ。」

と、望月は事務所の連中に声をかけていたが、誰からも色よい返事はもらえず、

「付き合い悪ぅ。じゃあお先ぃ。」

と言いながら事務所を出て行った。

 僕は、今日の客の情報をパソコンに入力することに集中していった。

ふと、気がつくと30分ぐらいが経過しており、周りにはひとがいなくなっていた。少し離れたデスクには、まだ山口伸子の姿があり、彼女もこちらを見たところだった。

「ねえ、まだ終わりそうにないの?」

と、静かな事務所に彼女の声が響いた。

「いや、いつでも終われる感じなんですけどね。」

「じゃあ、食事でも行かない?私おなかすいたのよ。」

「食事、ですか。」

「何よ、私とは食事ができないって言うの?失礼な。」

「そんなことないですよ。まだ素面なのに絡まないでくださいよ。」

「私はね。酔っぱらっても絡みません。」

「ハイハイ。わかりました。僕も腹減りましたから行きますよ。」

「最初から、素直に言えばいいのにねぇ。」

 笑顔になった伸子は、パソコンをシャットダウンさせながら手際よく周りを片付け始めた。僕もつられて、机の上の書類を鍵付きの引き出しに放り込んだ。

 事務所の鍵を閉めながら、僕は言った。

「先輩、飲むんですか?」

「当たり前でしょ。仕事終わりのビールなくして、何の人生よ。」

と、彼女は胸を張った。

「オーバーだなぁ。」

「はい。行くよ。」

 僕を振り返ることもなく、伸子は駐車場に向かった。伸子の家は、僕の家と方向が一緒で、彼女の方が2駅ほど遠くにあった。新人の頃は、生活圏がだいたい同じこともあってよく飲みに行っていたのだが、最近はその機会も減ってきていた。

「橘君。橘君ちの近くの居酒屋でいいから。前によく行ってた。」

彼女は、車椅子を後部座席に押し込みながら僕に言った。

「帰りはどうするんですか?」

「大丈夫。終電までに切り上げて、自分で帰るから。」

「でも。」

「橘君も飲みたいでしょ?」

 早く出ろとでも言うように彼女は、人差し指を前方向に突き出した。

 結局、車を自分の家の駐車場に置き、近くの居酒屋にたどり着いた。八時過ぎということもあってか店はかなり混み合っていた。ちょうど二人分のテーブル席が空いたので、車椅子を押し込んだ。ビールと適当にお腹に入るものを頼んで、やっと一息ついた感じがした。「ねえ、橘君。美加ちゃんのこと、どうなのよ。」

 伸子は、ここからが本題だと言わんばかりにビール片手に少し身を乗り出した。

「えっ、高橋君のことですか。」

「そうよ。」

「いやぁ、別に。」

「何なのよ。その答え。」

「・・・」

「いい子だよ。明るくてまっすぐだし。」

 伸子は、少し顔を赤らめながらグラスに口をつけた。少し酔ってきたのか、興奮しているのか、僕にはわからなかった。

「橘君が、どう思ってるか知らないけど、美加ちゃんは好意を持ってるのは確かだわ。」

「もう、先輩酔ってるんですか?」

「会社以外のところで、先輩って呼ばないでよ。私には伸子って言う名前があるんだからさ。」

2杯目のビールを飲み干して、おかわりのオーダーを店員に告げながら伸子は話を続けた。

「彼女は、真面目だから自分からは言えないと思うの。だからさ、橘君の方から気にかけてやってよ。」

「はあ。」

「わたし、ああいう可憐な乙女タイプ、ほっとけないのよ。橘君、今好きな子いないんでしょ。」

「まあ。彼女、先輩に相談したんですか?そのことについて。」

「私にはしないわよ。私をライバルだと思ってるみたいだから。」

「はあ、ライバルって?」

「あっ、いや、そのことはいいから。嫌いじゃないんだったら、心にとめといてよね。」

 僕は、自分のことは二の次で、人のことを思いやれる伸子のようなタイプは嫌いではない。だから、こうやって食事にも付き合っているのだと思っている。

「先輩、じゃなかった伸子さんに、そんなこと言われたら、明日から絶対に意識しちゃいますよ。」

「いいのよ、少しでも話ができれば、彼女は喜ぶんだから。」

「はあ、そうなんですかね。」

 僕の困ったような顔を見て、彼女は少し安心したように微笑んだ。

「ところで、先輩。本社人事部の横山さんって知ってますよね。」

「ああ、知っているわよ。私も新人研修時にお世話になったから。」

「なんか、急に失踪されたって、聞いたんですけど。」

「その話なら、私も少しは聞いてるわ。」

「さほど問題にもならず、退職扱いになったとか。」

「誰から聞いたのよ。」

「明からなんですけど。」

「私でも、あんまり詳しい情報は入ってこないのよね。」

「明のやつがね、横山さんが歩行可能者で、ハンターに捕獲されたんじゃないかって、もっともらしく言うもんだから気になっちゃって。」

「へぇ、そんな噂が流れているんだ。気になるんだったら所長に聞いてみたら。一応、本社出身だから、その辺の情報にも詳しいかもよ。」

「あっ、いや、いいです。」

 僕は、グラスを持ち上げ、ビールをのどの奥に流し込んだ。もう、この話はやめようと思った。

「橘君。ハンターの存在って信じてる?」

 伸子は急に真面目そうな顔をして聞いてきた。

「オレ、そんなに興味ないですから。」

「そうなんだ。」

 伸子は、それ以上その話題には触れず仕事の話などで時間が過ぎていった。

一〇時も遙かに過ぎた頃、「明日があるから」と言うこととなり店を出た。

「送っていきましょうか?」

「いいわよ。大丈夫。そんなに酔ってないから。」

 振り返りもせず、後ろ手に頭の上で大きく手を振り伸子は駅の中に消えていった。酔いのせいで熱を帯びた体には、五月の夜の風は心地よく感じた。市街地でも見える数少ない星を眺めながら車椅子をこいだ。

 誰も見ていないなら、立ち上がって数歩でも良いから歩いてみたい衝動に駆られた。だが、それはしてはいけないことだと体が覚えていた。
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