浮雲の譜

神尾 宥人

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第三章 風雲

(三)

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 主君の決定が知れ渡ってなお、家中に混乱はなかった。おそらく皆心情的には氏理と同じく、成政に対して同情的だったのであろう。意見が割れていた若者たちも、いざ戦うとなると異論を口にすることもなく、心を一にして士気を高めていた。されどそこに、あの高遠城の兵たちのような悲壮感は感じられない。その様は、ただ劣勢の将に義によって合力するという、英雄的な行為に酔っているだけにも見えた。
 だが、今はそれでいい。善十郎はそう思っていた。兵がここで右往左往して、民の逃散でもはじまってしまえば、戦にすらならずにこの地は荒れ果ててしまう。だったら今はまだ、お目出度いくらいでいいのだ。
 それにしても……と、頭上に広がる夏の空を見上げて思う。この地に来て思いの外安穏とした日々を過ごしながら、天はいったいどうしておのれを生かしたのかと、折りに触れては考えてきた。されど、今に至ってようやく得心した。おそらく此度の戦は死地となろう。ならばきっと、おのれはこのときのために導かれたのだ。
 この地に来て、おのれが鍛えてきた若者たちの顔を思い浮かべる。できることであれば、誰も死なせたくはなかった。死なぬために鍛えてはきたが、正直まだまだ心許ない。ならば、おのれが盾になるしかなかった。
 さらに、主君である兵庫頭氏理。おのれをここに招いた備前守氏綱。かの者らを守るためであれば、心置きなく命も捨てられる気がした。死に損ないのおのれにとって、過ぎたる最期とさえ言える。この三年間の安穏な日々が、そんな愛着を抱かせるためにあったのならば、天もなかなか気の利いたことをしてくれるものだ。
 そんなことを考えながら庵に戻ると、いつもはせわしなく何かしらの小働きをしている蔦が、居住まいを正して囲炉裏の前に座っていた。そうして善十郎の姿を認めると、妙に恭しく平伏して迎える。
「お帰りなさいませ。今日もお務め、ご苦労さまでございます」
 逃げるわけにもいかず、その前に座った。女はゆっくりと顔を上げ、真っすぐに見つめて続ける。口元には、いつもの揶揄うような笑みを浮かべたまま。
「それで旦那さま、私に何か申すことがあるのではないですか?」
 善十郎は「……うむ」と唸ると、わずかな思案ののちに答えた。
「間もなく、富山へと出陣することに決まった。わしは寄騎よりきとして、若殿孫次郎さまをお護りすることとなる」
「さようでございますか」と、蔦は小さく頷いた。形ばかりは恭しげだが、どこかぞんざいにも見える。さようなことは訊いていない、とでも言わんばかりだ。
「それで、おぬしはどうする」
「どうする、とおっしゃいますと?」
「おぬしはおぬしで好きにするがよい。わしに同道するなり、あるいはここを捨てて何処かへ行くなり。いずれもおぬしの勝手じゃ。どうする?」
 女はその言葉にも興醒めした様子で、わずかに小首を傾げて思案する振りをする。ややあってまた空々しい顔でひとつ頷き、答えてきた。
「では、ここで旦那さまのお帰りを待つことにいたしましょう。ご武運、お祈り申し上げます」
 その返答に、今度は善十郎の方が拍子抜けした。てっきりこの女のことゆえ、来るなと言っても勝手に付いてくるものだと思っていたからだ。どうもまたおのれは読み違えをしていたらしい。三年共に暮らしてなお、依然として何を考えているのかわからぬ女であった。
「どうなさいましたか。ずいぶん面白いお顔をしておられますが」
「いや……おぬしがそれでよいなら、構わぬのだが……」
 そう答えると、その戸惑いぶりが可笑しかったのか、蔦はいつものようにくすくすと笑う。こちらが気にし過ぎなのであろうが、やはりどうしても嘲笑されているような心持ちになるような笑いであった。
「ただ、ここに残ったとて難儀なのは同じであろう。尾上どのはわずかな守勢で、敵の侵攻に備えねばならぬ。金森、遠藤といった羽柴方の将が動く恐れもある。そのときは、どうか力添えして差し上げて欲しい」
「欲しい、でございますか?」
 と、蔦はその言葉にもまた笑みを消し、首を傾げる。何か間違ったことでも言ったであろうか、と善十郎も訝った。慥かにこの女はただここにいるだけで、ともに内ヶ島家に仕えたわけではないが。
「私は貴方さまの下女にございます。頼むのではなく、命じてくださいませ」
 なるほどそういうことか、とようやく得心した。されど下女という立場は、この女が勝手に言っているだけだ。善十郎はそうは考えていない。偉そうに命など下せるはずもなかった。
 おそらく、これはつまらない意地なのかもしれない。されど善十郎としては、重ねてこう言うしかなかった。
「尾上どのをお助け差し上げてくれ。頼む」
 こちらも居住まいを正し、両の拳を床に突き、深く頭を下げた。やがて下げた頭の少し上から、呆れたようなため息とともに、ぽつりとつぶやくのが聞こえた。
「殿方というのは……まこと、面倒臭いものでございますなあ……」
 そろそろと顔を上げる。するとそこに、奇妙なものを見た。蔦が柔らかく笑い、こちらを見下ろしている。されどその笑みは、これまで女が見せてきたせせらうような笑みではなかった。
 不意に、まったく不意に。善十郎は幼き頃に、母の膝の上から見上げた面差しを思い出していた。
 

 
 すっかり顔馴染みになった門番と軽く会釈を交わし、蔦は帰雲屋敷の奥へと向かって行った。すると裏庭のほうから、わっと賑やかな声が聞こえてくる。ふふっと小さく笑い、その声のほうへと足を向けた。
 すると広い裏庭の隅のほうで、ちょっとした人だかりができていた。善十郎が槍を教えている馬廻の若衆が泥だらけになって蹲り、それを女衆が輪になって囲んでいる。中心にいるのは他でもない、「お方さま」こと阿通の方であった。
「何ごとでございますか?」
 そう声をかけると、阿通の方が嬉しそうに顔をほころばせた。「おお、蔦ではないか。見よ、この立派な芋を」
 言われて覗き込むと、深く掘った穴の底から若衆が顔を出し、ちょうど掘り起こしたばかりの自然薯を頭上に掲げてみせる。なるほど立派に育ったもので、五、六尺ばかりの長さはありそうだった。
「去年の今頃にな、この裏庭の隅を借りて、種芋を植えておいたのよ。それがここまで大きくなりおった。我らだけでは到底掘り起こすことなどできなかったわ」
「……いえ」と、若衆のひとりが顔の泥を拭いながら言った。「お方さまには、いつも良くしていただいておりますゆえ。ご恩返しにございます」
「何を言う。今宵はおぬしらにも馳走してやるゆえ、楽しみにしておるがいい。何せおぬしらは、間もなく戦じゃ。たっぷりと精を付けねばの」
 そんな何か含みのある言葉に、女衆がどこか下卑た笑い声を上げた。まだ十四、五と見える若衆たちが、耳を赤くして俯く。
 どの顔にも、これからはじまる戦への不安は見られなかった。むしろ何やら大きな祭りの前のような、浮かれた空気が漂っている。もちろんそれはこの阿通の方が、意図して作り出した空気であった。大したものだ、と蔦は正直に感心する。
「ところでお方さま、お忙しいところを相済みませんが」
 そう小声で呼びかけた。すると阿通の方も何かを読み取ってくれたのか、「……ふむ」と小さく頷いて、先に屋敷のほうへと戻ってゆく。そうして裏庭を望む縁にふたりで座り、向かい合った。
「何やら、大事な話のようよの」
「はい」と、蔦は深く頭を下げた。「篠野しののふさのふたりを、しばらく私にお貸しいただきたく存じます」
「篠野と房を、のう……」
 ふたりとも、この屋敷で阿通の方の侍女を務めている女衆である。また蔦にとっては、武田にいた頃より旧知の者たちでもあった。主を失ったのちは歩き巫女をして食い繋いでいたふたりと再会したかの女は、ふたりを帰雲にとどめ、おのれの手下としていた。そうしてこの阿通の方の協力を得て、屋敷で下女として働かせながら、ときおり近隣の諸国に送り込んで動向を探らせていたのである。特に郡上ぐじょうの遠藤家はこのお方さまにとっても因縁の相手だけに、入念にその様子を調べ、逐一報告していた。
「構わぬぞ。元は、おぬしが連れてきた者たちじゃ。良き者たちを紹介してくれたと、感謝しておった」
「事と次第によっては、お返しすること能わぬやもしれませぬが……そのときは、どうかお許しくださいませ」
 蔦のその言葉にも、阿通の方は表情を変えなかった。ただ手を伸ばし、こちらのそれにそっと重ねただけだった。
「それは、おぬしも帰らぬやもしれぬということか」
「事と、次第によりましては」
 蔦はその言葉を繰り返した。今はまだ、それだけしか言えなかった。
「何の為の覚悟ぞ?」
「それはもちろん、お家の為」
「偽りを申すな」そう言って、阿通の方はくすりと笑った。「男であろう?」
 その問いには、答えを返すことができなかった。しかしそれは、首肯したも同じであった。
「愚かなことよ。男なぞ、どれほど尽くしたところで何も返してはくれぬぞ?」
「よく、存じております」
 そう答えると、重ねていた手がゆっくりと離れて行った。そうして、阿通の方は静かに立ち上がる。
「無事に戻ること、祈っておるぞ」
 おのれが無事に戻るということは、この屋敷も、またこの女性もまた無事で済むということでもあった。そうなればいいと考えているおのれに気付き、蔦は顔に出さずに驚いていた。
 この地に来てからこのかた、次第に内ヶ島という家に溶け込んでゆく善十郎とは違い、一線を画して深入りはしないよう努めてきたつもりであった。おのれはただ、あの「旦那さま」がどのように生きてゆくのかを、近くで窺っていられればよかったからだ。一度失った死に場所を探し求め、得られず、そして失望するさまを眺めて、おのが心の慰めにさえできればよかった。されどいつしか、おのれもまたこの地で少しずつ変わりつつあるのか。とっくに凍り付いてしまったと思っていたこころも、気付かぬうちに動きはじめているのであろうか、と。
 
 
 屋敷をあとにすると、蔦はすぐには庵には戻らず、あまり活気のない城下をあてもなくぶらぶらと歩いた。やがて集落のはずれまで来ると、裏山の斜面を上り小高い頂に立つ。そうして、小さな谷間をぐるりと見回した。
 さて、旦那さま。誰にも聞こえないのは承知で、そう小声で語りかける。残念ですが、貴方さまは富山では死ねませぬぞ、と。
 富山城の内蔵助成政の様子については、逐一耳に入っていた。浜松より戻ったのちの成政は、兵をすべて富山へ引き、目立った動きは見せていない。浜松での交渉が頓挫したことでついに諦観したのか、あるいは厳冬の立山越えで何かを悟りでもしたのか、成政自身も人が変わったように穏やかになったという。家臣たちに細やかに気を配り、羽柴方に寝返った者たちへも理解を示し、庶務を終えると静かに写経に勤しむ日々を送っているのだとか。
 むろんいまだ羽柴への恭順の姿勢は見せていないが、その様子を鑑みるに、内心ではすでに降伏の意志を固めているのではないかと思われた。たとえ屈辱的な条件を受け入れ、領地のほとんどを手放すことになったとしても仕方ないと。今はそのための根回しを行いながら、時期を探っている段階と思われた。おそらくは、戦にもなりはすまい。
 むしろその前に、この地こそが死地となる。蔦は情勢をそう読んでいた。敵は金森法印。飛州を押さえ、富山城を南からも脅かせという関白秀吉の下知は、すでに下されていると聞いている。戦の支度が整い次第、大野を発って侵攻を開始するであろう。帰雲を発った兵たちは蜻蛉返りして、それを迎え撃つこととなるのだが、はたして間に合うのかどうか。間に合わねば、それまで備前守氏綱と百足らずの兵で持ち堪えねばならない。
 背後で、かすかに木の葉が擦れる音がした。振り返るまでもなく、誰が来たのかはわかっていた。
「早いの、篠野」
「甚太郎さまのお呼びとあらば」
 もう「その名では呼ぶな」とは言わなかった。またしてもおのれは、その名に戻らねばならなくなりそうであったゆえ。
「房はどうしておる?」
「今も郡上におりまする。すぐにも戻るよう使いは出しておりますが」
「それはよい。郡上におるなら、そのまま左馬助の動きを探らせよ」
 柳ケ瀬の戦で柴田修理に与し、戦後秀吉に恭順して赦された遠藤左馬助慶隆は、その後は羽柴に対して過剰なまでの追従をみせるようになる。そうしてかの長久手の戦では無謀な三河中入り勢に加わって敗走し、遠藤弥九郎や日置主計といった長年の寵臣の多くを失うこととなった。その後もかなりの無理をしながらも紀州征伐に加わっており、さらに飛州攻めの軍勢を出せる余力があるかは微妙である。されど、決して警戒を緩めることもできぬ相手であった。
「となると、こちらのほうの手が回りませぬ。このところ、城下に潜り込んでくる間者がとみに増えました。見付け次第刈ってはおるのですが、さすがにすべてというわけにもいかず……」
「わかっておる」と、蔦は労わるように言って、首を振った。おそらくは金森の手の者であろう。
「こちらはもうよい。探りたければ、好きに探らせてやれ。それよりも、おぬしも大野へ向かってはくれぬか」
「大野へ……」はっと、篠野は顔を上げた。
「さよう、間者が増えたは戦が近い証。近いうちに、金森法印は必ず兵を出してくる。その兆候が見えたなら、即座に伝えよ」
「畏まりました。あとは」
「この山道は慣れぬ者には隘路あいろ案内人あないにんが必要なはず。素性がわかれば、それも伝えるのじゃ」
 短く「……はっ」と頷くと、篠野は煙のように姿を消した。蔦はまた、眼下に広がる風景へと目を戻す。
 鋭角に突き出した屋根が並び、煮炊きをしているのであろう湯気や煙があちこち細くたなびいている。その向こうの山肌は鬱蒼とした木々で覆われ、傾きかけた陽光がその緑を鮮やかに照らし出している。もう少しすれば葉は色付き、一面が燃えるような赤に包まれるであろう。
 そのとき、おのれはどう思うのか。それを美しいと感じるのだろうか。さような風情など、もうとっくに失ってしまっていたはずだった。されど、もしかしたらという期待も胸の中にある。おのれの中にももしかしたら、そうしたこころがまだ残っているのかもしれない、という仄かな期待が。
 それを慥かめるためには、この地を守るしかなかった。何としても守り抜き、再び紅葉の季節をこの場所にて迎えるのだ。
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