尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

文字の大きさ
8 / 48
第一章

(七)

しおりを挟む
 駿府へ戻ってより半年ほどが経った、ある夜のことである。氏勝は呼び出しを受けて、藪内匠正照の屋敷を急ぎ訪れていた。そうして告げられた唐突な話を、半ば呆気に取られながら聞いた。
「婚儀……で、ございますか。某に?」
「うむ。相手は元石清水八幡宮司、志水甲斐守が二女。名はお松というらしい」
「と……申されますと、まさか……」
 志水甲斐守という名には聞き覚えがあった。されど、それはこの中村の家中の者ではない。
「さよう。この話、徳川よりの内密な申し出である。そのお松という者の姉は、徳川内府の側女であるお亀の方」
 そのお亀の方は前年、家康の八男となる仙千代を生んでいた。つまりもし話を受ければ、氏勝はその男子の叔父になるということだ。
「莫迦な……何ゆえ、某ごときにさような話が?」
 肥前名護屋での出来事は、この内匠にだけは包み隠さず伝えてあった。ゆえ、氏勝が内府家康と対面したことは知っている。されどそれがかような話に発展するとは思わなかったようで、内匠とていまだ戸惑いを隠せぬ様子であった。
「むろん、お受けすることなどできませぬ。某は中村家の者ゆえ」
 氏勝は迷わず言い切っていた。この中村家は、徳川の関東入りにともなって駿府へ移封された。それはもしも徳川が大阪に向けて兵を動かしたときは、盾となって食い止める役目にあるということだ。豊臣家にとって潜在的な敵である徳川は、この中村家にとってもやはり敵なのである。では何ゆえ徳川は、その敵の家中にかような話を持ち掛けてきたのか。
「殿はこの話、受けよと申されておる」
「は……何ゆえでございまするか?」
 内匠はそれには答えず、抑揚のない声で淡々と続ける。そしてその言葉に、氏勝はさらに耳を疑った。
「ただしかような婚儀、表立っては受けるわけにゆかぬ。ゆえ、おぬしにはこの中村家より出奔し、徳川へ寝返ってもらうことになる」
「某にこの家を捨てよと……それは、某など中村の家には不要ということでございましょうか」
 内匠の突然の言葉に、思いのほか傷付いているおのれがいた。そして傷付いていることに驚いてもいた。正直なところ、氏勝としてはさほどこの中村式部少輔家に愛着を覚えているつもりはなかったからだ。
 そもそもがあてどなく諸国を放浪し、食い詰めていよいよ行き詰まっていたときに、偶々声を掛けられて拾われただけの家だった。その日の飯にありつければそれでいいと思っていたところが、小田原でいくらか役に立てたのか、以後も身を置くことを許された。とはいえ所詮は一兵卒、居心地が悪くなればいつでも去るつもりでいたはずだった。
 ただし何かにつけ目をかけてくれるこの藪内匠という男には、いくばくかは恩義めいたものも感じてはいた。とりあえず今日までこの中村家に身を置いていた理由も、強いて探せばそのくらいだ。もしかしたらその言葉が、他でもないこの内匠の口から出てきたことを、おのれは残念に思っているのであろうか。
 されど内匠は「案ずるな」と、小さく首を振って続けた。「出奔と言っても、むろん形ばかりじゃ。こちらからは、定期的におぬしへ遣いを送る。おぬしも徳川の様子を、知り得る限り伝えよ」
 そこまで言われたところで、ようやく氏勝にも話が見えてきた。それはつまり、おのれに間者かんじゃ働きをせよということである。
 内匠はようやく険しい表情を和らげた。そうしていっそう声を落とし、諭すような口調で言った。
「のう半三郎、おぬしとてわかっておるであろう。武家の婚儀とは、すべてが政にして謀よ。ならばこれもお役目と心得よ」
 そして穏やかな表情のまま、ずいと間を詰めて目を覗き込んでくる。その瞳に籠もった熱に氏勝は気圧されたが、それでもどうにか身を引かずに堪えた。
「わしはおぬしのことを見込んでおる。ただ武辺ばかりの男ではない、とな。頼母に預けて、肥前名護屋まで送り出したのもそれゆえじゃ。そして見込んだ通り、大きな魚を釣り上げて来おった」
「某にも政を……謀を学べと?」
「さよう、ここから先は獣の道。常に目を凝らし、耳をそばだてよ。されど見たものを見た通り、聞いたものをその言葉の通りに信じてはならぬ。智を巡らせ、裏の裏を読むのじゃ」
 以前、父より似たようなことを言われたことはあった。されどあれは、まだ齢五つか六つの頃だ。物覚えが早かった氏勝を見込んでの説諭だったのかもしれないが、そのときはさすがに意味を飲み込めなかったものだ。今ならば、おぼろげには理解できる。
 さらに、その父が受けた仕打ちを思い出す。この世は嘘と口実、騙し討ちや裏切りに満ちている。いまだ乱世は終わっていないのだ。されど。
「……某に、出来ましょうや?」
「出来ると見込んでおるゆえ、言うておる。出来ねば、野にむくろを晒すのみよ」
 
 
 内匠の屋敷を出ると、鬱蒼とした木立の中の夜道をひとり歩いた。ふと足を止めて頭上を仰ぎ見ても、木々の合間には月も星も見えなかった。おそらくは重く厚い雲でも垂れ込めているのであろう。それはまるで見通すことのできない、おのれの行く末そのもののようにも思えた。
 おのれはいったい何をしておるのだ。もはや何百回、何千回繰り返したかもわからぬ問いを、またおのれに投げかける。
 童の頃は、おのれは飛騨の山の中から出ることなく、その生を終えるのだと思っていた。そのことに不服もなかった。それがどういうわけか故地を追われ、京へ、大坂へ、近江へと流れ、兵として小田原へ赴き、肥前名護屋くんだりまで送られたかと思えば、今度は嫁を貰うため江戸へ向かえという。いったいこれは何だと問いたくなるのも無理はなかろう。天の戯れにしても、いささか度が過ぎている。
 いったいおのれは何をしておるのか。そしておのれはどうなってしまうのか。見上げた夜空に問いかけたところで、さあっと枝葉を揺らして風が通り過ぎた。その風は立ち尽くす氏勝の身の裡も吹き抜けて、ふと浮かんだ不安を霧のように散ってゆく。あとに残ったのは、ただ冷え冷えと醒めた心だけだった。
 別にどうもなりはしない。おのれの周りで世がどう動こうと、所詮おのれには関わりなきこと。ならばなるように任せればよい。どうせおのれごときには、何も変えられはしないのだ。
 氏勝は小さく息をつき、身の裡に残った最後の熱を吐き出すと、またゆっくりと歩き出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

日露戦争の真実

蔵屋
歴史・時代
 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。 日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。  日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。  帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。  日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。 ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。  ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。  深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。  この物語の始まりです。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』 この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。 作家 蔵屋日唱

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

田や沼に龍は潜む

大澤伝兵衛
歴史・時代
 徳川吉宗が将軍として権勢を振るう時代、その嫡子である徳川家重の元に新たに小姓として仕える少年が現れた。  名を田沼龍助という。  足軽出身である父に厳しく育てられ武芸や学問に幼少から励んでおり、美少女かと見間違う程の美貌から受ける印象に反して、恐ろしく無骨な男である。  世間知らずで正義感の強い少年は、武家社会に蠢く様々な澱みに相対していく事になるのであった。

処理中です...