尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第二章

(四)

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 その間にも、事態はますます風雲急を告げていた。度重なる上洛の要請に応じず、それどころか悪罵を連ねた書状を送り付けて挑発に及んできた上杉に対して、内府家康はついに討伐の意志を固めたのである。そして諸将を参集して兵を揃え、上杉領である会津へと進軍を開始した。上方の守りはわずかに三千ほどを残したのみの、ほぼ全軍挙げての遠征であった。
 六月十六日に大阪を発った家康は、翌十七日には伏見に入り、鳥居彦右衛門尉元忠を留守居役に任ずる。そして翌日東上の途に就き、一週間をかけて駿府へと入った。そして兵たちを城下に宿営させると、家康はかつての居城である駿府城へと赴いた。すでに日は暮れ夜も更けようとしていたが、帯同していた氏勝も同行するようにと呼び出されていた
 向かった先は、駿府城二の丸にある中村家重臣・横田内膳村詮ないぜんむらあきらの屋敷であった。するとそこには内匠もおり、恭しく出迎えてくる。内匠は険しい表情でちらりと氏勝を見やったが、すぐに家康へと向き直り、深く頭を垂れた。
「内府さま。どうぞ、中へとお進みくだされ」
 家康は「……うむ」と小さく頷き、ゆっくりと足を踏み出した。横田内膳の屋敷はさすが重臣だけあって広く、槍を持った守兵たちがずらりと並んでいる。その全員が、内匠に倣って家康に礼を払っていた。
 そして中庭の中央には、信じられぬ人物の姿があった。往時の雄姿は見る影もなく、まるで老人のように窶れ、内膳に支えられてようやく立っていられるようであったが、慥かにそれはかつての主君、中村式部少輔一氏その人であった。
「これは……これは、式部どの」
 家康は早足で歩み寄り、その腕を取った。そうして内膳と両側から一氏を支えながら、屋敷の中へと入って行く。氏勝は内匠と並んで、その背中を見送った。
 そうしてまだ立ち尽くしたままの氏勝の背に、野太い声がかけられた。それは慥かに聞き覚えのある声だった。
「大儀であった、半三郎……いや、今は信濃守か」
「藪さま……」ここまで来て、ようやく氏勝にも子細が見えてきていた。「殿は、徳川方に付くのでございますね?」
 内匠は重々しく頷いた。そうしてまるで顔を隠すように俯き、声を落として答える。
「最後まで迷われておられた。お身体のことさえなければ、かような決断はせなんだろう」
「殿はいつから……?」
「はじめて倒れられたのは、五年も前のことだ。それから今日まで、よく頑張られたものよ」
 五年前といえば、おのれが徳川家に来るときにはもう病に侵されていたということだ。
「つまり某は今日この日のためだけに、徳川へ遣わされていたということでございますか」
 返答はなかった。されどその沈黙こそが答えであった。徳川の抑えとして配されていた十四万石の中村家が、徳川方へと与する。そのことがどれだけ情勢に影響を与えるかは、氏勝にもよくわかっていた。尾張の福島、三河の堀尾はすでに篭絡されており、これで東海道に障害はなくなったことになる。いざ上方でことが起これば、家康は関東の大軍を速やかに西上させることができるようになったのだ。いよいよ天下の趨勢は、大きく徳川へと傾くこととなろう。
 それだけに反徳川の陣営も、中村家の動向には目を光らせていたはずであった。その中でこうして極秘に会談を行うには、細心の注意が払われていたことであろう。迂闊に動けば、大坂方も必死で妨害を謀ることは容易に想像できた。ゆえにおのれが、事前に徳川へと遣わされていた。一氏が決断をしたとき、その意志を密かに家康へと伝えるための、いわば双方合意の下の間者であったというわけだ。
「すべては一学さまのためであろう。お心を察せよ」
 一学とは、一氏の嫡男・一忠のことである。その齢はまだ十一であった。さような若さでこの難局は乗り切れまい、もっと大きな庇護が必要だと考えての決断か。
「では、これにて某はお役御免というわけですね。これよりはどうすれば?」
「中村家に戻りたいか?」
 問いを返されてもすぐに答えることができず、氏勝はぼんやりと夜空を見上げた。いったいおのれはどうしたいのであろうと考えて、すぐに思い出した。そもそもおのれの胸の中には、もう望みなどというものはない。ならばどこにいようと、どこに行こうと同じことだ。
「わからぬならば、そのまま徳川にいるが良い。それがおぬしのためじゃ。おぬしの才も、きっとそのほうが生かされよう」
 内匠はいつぞやと同じように、優しげな声で言った。されど、と氏勝は苦笑する。
「ただ徳川に、今後も身の置き場があればでございますが」
 おのれごとき小人には、役目さえ終えればもはや利用する値打ちもなかろう。それに此度のことで、お亀の方にはすっかり不興を買ってしまった。慥かに先だっては許すようなことも言っていたが、それも口先のみであろう。生まれてくる子の傅役になどという話も、どうせあの場限りの戯れに過ぎぬ。
 だが、それならそれでよし。氏勝はそう割り切った。徳川にいられなくなったなら、また牢人にでもなればよい。どうせ望みなどない身である。再仕官の先が見つからなければ、ただ野垂れ死ねばよいだけのことだ。
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