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3色:蒼天の露草色
2.色のないモヤモヤ
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「彩、浮かない顔してどうかしたか?」
実験記録をまとめていたノートの横に、いい香りのするコーヒーのカップがこつんと置かれる。顔を上げると、優しい笑顔の恭介がこちらを覗き込んでいた。同じような角度で見下ろされているというのに、この体感温度の差はなんなのだろうと思わずため息をつきながら、手を止めてカップを手繰り寄せる。
「や、特になにもないんだけど」
「……そうか? あー、そういえばさ、彩って最近あの文学部の子とよく一緒にいるよな」
恭介は自分の分のコーヒーをずず、と啜りながらなぜか取ってつけたようにそう言う。まさにその「文学部の子」のことを考えていたおれは、小さく唸った。
「……蘇芳? まぁ、一緒にいるというかなんというか……恭介、あいつのこと知ってたんだな」
「なんかやたら優秀みたいだから、ちらほら聞こえてくる。今年の首席入学、あの子だろ」
「ふぅん……」
いつもなら心地良いはずの苦みが、なぜか喉にまとわりつく。恭介にまでそう言わしめるほどの能力を持って、その上自分のやりたいことも見失わないあの黒い瞳。目元に掛かる自分の金の髪が、なぜかものすごく頼りない色に見えた。無意識に、カップを握る指先に微かな力が籠る。
「……けど、恭介だって首席じゃん。それに優しいし、面倒見良いし」
恭介と蘇芳を比べたってなんの意味もないとは思いながらも、ついついそんな言葉が零れた。少し強い語調になったおれを、恭介は不思議そうに眺めて、それからふっと微笑んだ。
「なんだよ、そいつと喧嘩でもしたのか? 彩がそんなムキになるの珍しいな」
「……別に、喧嘩なんてしないけど」
喧嘩するほど、おれは蘇芳に向き合っているわけじゃない。しかも、張り合うネタが自分になさすぎるからって、よりにもよって恭介を持ち出そうなんて情けないにもほどがある。蘇芳の言葉が、コーヒーの苦みに混ざって喉元につっかえるような心地がした。
“彩さんが、何をしたいのかわかりません。”
「……おれだって、わからないよ」
本当に「色喰い」を止めたいのなら、蘇芳の手を借りるべきだ。
どうしても蘇芳を巻き込みたくないのなら、自分でどうにかできる方法を考えるべきだ。
そのどちらにも踏み出せないおれが、蘇芳の目にどう映っているのかはさすがに想像に難くない。
手元の実験記録をぼんやりと眺める。おれは植物の「色」に魅せられて、能力に頼らずそれを引き出せるようになりたかった。そうして引き出した色を、自分で使いたかったのか、誰かに使ってほしかったのか……このところこんな自問ばかりで、じめじめした天候以上に煮え切らない自分自身に嫌気がさしていた。
「……恭介!」
「ぅわっ……びっくりした。なんだ、どうした?」
「なんか難しい課題、くれ! 三日三晩くらい研究室に籠れそうなやつ!」
「……おれはどこぞの鬼教授じゃないぞ。やけになるなよ。なんか知らないけど、煮詰まってるときはむしろ一回離れた方がいいって」
恭介はそう言って苦笑すると、コーヒーを飲みながらおれの肩をぽんぽんと軽く叩いた。その、いつもどおりの温かさに性懲りもなく癒されていると、背後から呆れたような花村の声が響いた。
「そこの仲睦まじいおふたりさん。ふたりの世界なとこ悪いんだけど、そろそろ小柴くんを借りてもいいかしら」
「へ? あぁ、そういえば、なんで恭介がうちの研究室に?」
花村の言葉に、やっと我に返った。たしかに、おれと恭介の研究室は、互いに器具やら資料やらの貸し借りが多い関係で行き来が頻繁ではあるが、多忙な恭介がここまでよその研究室でくつろいでいるのは珍しい。
「今さらだなぁ……。花村が実験で行き詰ってるから見てほしいって、引っ張って来られたんだよ」
恭介はそう言って笑いながら、手元のコーヒーカップをおれの机に置いて、花村に向き直った。
「悪い悪い。花村以上に煮詰まってる奴を見つけちゃったもんだから、放っておくに忍びなくて」
もしかしなくても、それはおれのことだろう。恭介の面倒見が良いことは今に始まったことじゃないのだが、それでも恭介はおれの研究に手を出したりはしない。おれから相談に行けば的確な助言をくれるというだけだ。それは、恭介なりにおれをひとりの研究者として認めてくれていることの表れのような気がするから、おれはけっこう励まされるのだ。そういうところも含めて、この友人は本当におれの扱いが上手い。
「……うん。よし。ちょっと図書館で先行研究洗い直してくる。ありがとうな、恭介」
コーヒーを飲み干し、席を立つ。最終目標とか、目的とか、遠くのものを見失いそうなときは、無理に目を凝らさずに目の前を見てみればいい。これも、研究のなんぞやもわからぬまま、逸る想いで突っ走っては途方に暮れることの多かったおれに、恭介が教えてくれたことのひとつだ。
「どういたしまして。いい発見があったら教えてくれよ」
恭介はそう言って、いつものようにふわりと微笑んだ。
実験記録をまとめていたノートの横に、いい香りのするコーヒーのカップがこつんと置かれる。顔を上げると、優しい笑顔の恭介がこちらを覗き込んでいた。同じような角度で見下ろされているというのに、この体感温度の差はなんなのだろうと思わずため息をつきながら、手を止めてカップを手繰り寄せる。
「や、特になにもないんだけど」
「……そうか? あー、そういえばさ、彩って最近あの文学部の子とよく一緒にいるよな」
恭介は自分の分のコーヒーをずず、と啜りながらなぜか取ってつけたようにそう言う。まさにその「文学部の子」のことを考えていたおれは、小さく唸った。
「……蘇芳? まぁ、一緒にいるというかなんというか……恭介、あいつのこと知ってたんだな」
「なんかやたら優秀みたいだから、ちらほら聞こえてくる。今年の首席入学、あの子だろ」
「ふぅん……」
いつもなら心地良いはずの苦みが、なぜか喉にまとわりつく。恭介にまでそう言わしめるほどの能力を持って、その上自分のやりたいことも見失わないあの黒い瞳。目元に掛かる自分の金の髪が、なぜかものすごく頼りない色に見えた。無意識に、カップを握る指先に微かな力が籠る。
「……けど、恭介だって首席じゃん。それに優しいし、面倒見良いし」
恭介と蘇芳を比べたってなんの意味もないとは思いながらも、ついついそんな言葉が零れた。少し強い語調になったおれを、恭介は不思議そうに眺めて、それからふっと微笑んだ。
「なんだよ、そいつと喧嘩でもしたのか? 彩がそんなムキになるの珍しいな」
「……別に、喧嘩なんてしないけど」
喧嘩するほど、おれは蘇芳に向き合っているわけじゃない。しかも、張り合うネタが自分になさすぎるからって、よりにもよって恭介を持ち出そうなんて情けないにもほどがある。蘇芳の言葉が、コーヒーの苦みに混ざって喉元につっかえるような心地がした。
“彩さんが、何をしたいのかわかりません。”
「……おれだって、わからないよ」
本当に「色喰い」を止めたいのなら、蘇芳の手を借りるべきだ。
どうしても蘇芳を巻き込みたくないのなら、自分でどうにかできる方法を考えるべきだ。
そのどちらにも踏み出せないおれが、蘇芳の目にどう映っているのかはさすがに想像に難くない。
手元の実験記録をぼんやりと眺める。おれは植物の「色」に魅せられて、能力に頼らずそれを引き出せるようになりたかった。そうして引き出した色を、自分で使いたかったのか、誰かに使ってほしかったのか……このところこんな自問ばかりで、じめじめした天候以上に煮え切らない自分自身に嫌気がさしていた。
「……恭介!」
「ぅわっ……びっくりした。なんだ、どうした?」
「なんか難しい課題、くれ! 三日三晩くらい研究室に籠れそうなやつ!」
「……おれはどこぞの鬼教授じゃないぞ。やけになるなよ。なんか知らないけど、煮詰まってるときはむしろ一回離れた方がいいって」
恭介はそう言って苦笑すると、コーヒーを飲みながらおれの肩をぽんぽんと軽く叩いた。その、いつもどおりの温かさに性懲りもなく癒されていると、背後から呆れたような花村の声が響いた。
「そこの仲睦まじいおふたりさん。ふたりの世界なとこ悪いんだけど、そろそろ小柴くんを借りてもいいかしら」
「へ? あぁ、そういえば、なんで恭介がうちの研究室に?」
花村の言葉に、やっと我に返った。たしかに、おれと恭介の研究室は、互いに器具やら資料やらの貸し借りが多い関係で行き来が頻繁ではあるが、多忙な恭介がここまでよその研究室でくつろいでいるのは珍しい。
「今さらだなぁ……。花村が実験で行き詰ってるから見てほしいって、引っ張って来られたんだよ」
恭介はそう言って笑いながら、手元のコーヒーカップをおれの机に置いて、花村に向き直った。
「悪い悪い。花村以上に煮詰まってる奴を見つけちゃったもんだから、放っておくに忍びなくて」
もしかしなくても、それはおれのことだろう。恭介の面倒見が良いことは今に始まったことじゃないのだが、それでも恭介はおれの研究に手を出したりはしない。おれから相談に行けば的確な助言をくれるというだけだ。それは、恭介なりにおれをひとりの研究者として認めてくれていることの表れのような気がするから、おれはけっこう励まされるのだ。そういうところも含めて、この友人は本当におれの扱いが上手い。
「……うん。よし。ちょっと図書館で先行研究洗い直してくる。ありがとうな、恭介」
コーヒーを飲み干し、席を立つ。最終目標とか、目的とか、遠くのものを見失いそうなときは、無理に目を凝らさずに目の前を見てみればいい。これも、研究のなんぞやもわからぬまま、逸る想いで突っ走っては途方に暮れることの多かったおれに、恭介が教えてくれたことのひとつだ。
「どういたしまして。いい発見があったら教えてくれよ」
恭介はそう言って、いつものようにふわりと微笑んだ。
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