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3色:蒼天の露草色
8.蒼天を衝く青き龍
しおりを挟む「……呼吸を、合わせるんだ」
「え?」
「この筆は、呼吸する。色を見る。おれたちと同じだよ。感覚を澄ませばわかる。呼吸を合わせれば、拒絶されない」
そう言って、白衣のポケットから取り出した朱塗りの筆を差し出す。蘇芳はためらうことなく長い指でそれに触れた。ばち、っと電気が走るような音が響くが、蘇芳はその涼し気な表情を崩さない。完全に掌に収めた筆を握り込む。それから、満足げに口角を上げた。
「……おれがおまえに合わすか、おまえがおれに合わすか……。まぁ、おいおい決めればいい」
「……いや、怖いんだけど。何者なんだよ、おまえは……」
おれが言うのもなんなのだが、異形の力まで圧倒しそうな蘇芳の迫力におれは思わず後ずさった。とんでもない奴に相棒を任せてしまったような気がするのだが、今さら後の祭りだ。けれど、蘇芳の手に収まった筆は心なしか生き生きとして見えた。居場所を見つけた、みたいに。
「ただの学生です。そんなことより、早く『色』」
「……はいはい」
こいつはもう、他のことなんて考えていない。その強く鋭い眼は、目の前の空間に、自分がこれから描くものだけを見る。蘇芳の姿を見ていると、必要なものを選び取る強さは、その他のものに惑わされない強さと同義なんだと思う。おれがそんな風に思いながら見ていることも、こいつにはきっとどうでもいいことなんだろうけど。
『明誉の、名のもとに命ず』
唱えると、雨に濡れた露草の花が揺れた。こんなに小さな花なのに、その色は凛として、背筋を伸ばして、現れない青空をひたむきに待っている。
『汝の魂の色、涙に染まらぬ尊厳、蒼天を貫く群青を現せ!』
小さな花弁からにじみ出た深い深い青が、待ちかねていたように蘇芳の持つ筆の穂先に吸い込まれる。蘇芳は雲に覆われた空を見上げ、それからゆったりと筆を持つ手を動かした。波間に揺られるような柔らかな動きで、滑らかな曲線を次々に繋いでいく。すぐに、美しい青色の、輝く鱗を身に纏った大きな魚影が二匹、蘇芳の前に姿を現した。
「……鯉?」
「行って来い」
蘇芳が最後の一筆で生き生きとした瞳を描き入れると、二匹の鯉はぱしゃりと雨粒に濡れた尾ひれを動かし、そのまま競い合うように、雨の線を辿って天に向かって泳ぎ出した。
「……え? 空、飛んでる……?」
「『登竜門』伝説、ですよ。元は『後漢書』に記された伝説です。流れに逆らい、滝を登り切った鯉は、その姿を変え……」
「あ……」
二匹の鯉は空から降る雨粒の流れに逆らい、ダイナミックな動きで力強く天に昇ってゆく。見る見るうちに、その姿は雨雲で覆われた灰色の空に達し……厚い雲に触れたかと思ったら、光り輝く美しい青龍の姿になった。光そのもののような姿が、一瞬にして厚い雲を晴らし、その向こう側にあった突き抜けるような蒼天を連れてきた。
「龍に……なった……」
「童謡の歌詞にもなっていますよ。『百瀬の滝を登りなば、忽ち竜になりぬべき』……。彩さんの描いた龍も可愛かったですけどね」
おれの知っている「こいのぼり」の童謡とは違うようだが、この光景を見れば頷かないわけにはいかなかった。久しぶりの青空を見上げ、少し眩しそうに目を細めた蘇芳は、そう言ってにやりと笑う。
「……う……あいつは……別物、ということにしといてくれ」
「あの子はあの子で、立派な龍でしたよ。自分ができることを、きちんと果たした。飼い主》》が自信なさげな分もカバーして、堂々としてたじゃないですか」
「……そう、だな。そうだった」
つぶらな瞳で、満足げにおれを見上げた大きなとかげ。空が飛べないからなんだとばかり、自慢の尻尾で色喰いを叩き落としてくれたのだ。できないことに縛られているおれよりも、ずっとしっかりとした「魂」だ。蘇芳の言葉の意味がわかったら、なんだかすっといろんなことが腑に落ちて、目の前の曇り空の残滓が溶けていくような気がした。
おれは、蘇芳のように強くはない。必要なものだけをきちんと選べないし、いろんなものに目移りして、ふらふらしている。情けないことに変わりはないけれど、情けないなりに自分が望んでいることがわかった気がした。そして、もうひとつ、おれが「したい」ことが見えた。朱の筆を持ち、雨に濡れて艶やかに光る髪、黒の彩りを身に纏う蘇芳を眺め、見つけた答えを小さく告げる。
「……おれ、やっぱり……おまえの描く絵が、見たいよ」
おれが引き出す、自然の魂の色は、こいつに預けたい。投げ出したものを押しつけるんじゃなくて、ちゃんとしっかり持って、渡せばいい。
「……おまえに、この力の、半分を預ける。力を借りても、いいか?」
蘇芳は、久しぶりの青空を眺めていた漆黒の瞳をこちらに向けた。手に持った朱塗りの筆を長い指ですっと撫でると、おれに向かって不敵に微笑む。
「安くないですよ」
「……え」
「ふらふらしてないで、しっかり目ぇ開けて、極上の『色』を取り出してください。おれを、駆り立てるくらいの」
蘇芳の言葉は、不遜なようで、でも驚くくらいにすっと身体に沁み込んだ。それはおまえの役目だ、と言われた気がした。その言葉は、ずっとなんとなくおぼつかなかったおれの足元を、少しならして、固めてくれるような気がした。
「……うん。善処する」
「便利な日本語ですねぇ……まぁ、いいです。あなたといると、退屈しませんから」
蘇芳はそう言って、雨に濡れた黒髪を掻き上げると薄く笑った。
「おれは、蘇芳の退屈しのぎ用玩具じゃないからな……」
「え、違ったんですか? 初耳です」
「おまえなぁ……」
「それより、早くあの子呼んできてあげた方がいいんじゃないですか。こんな快晴、またしばらく拝めないかもしれないですよ」
久しぶりに見る青空の下では、さっきまで重苦しかった雨の滴が散りばめられた宝石のようにキラキラと光る。ずっと、なんとなく直視できなかった、この底知れない後輩の表情が不思議と柔らかく見えるのは、この雨上がりの景色の鮮やかさのせいだろう。
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