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四方山話:食えない後輩のバイト事情
2.暑さも避けて通るらしい
しおりを挟む恭介が置いていってくれたスポーツドリンクを飲み干し、ごうごうと音を立てるクーラーの風がなるべく当たる場所を探してちょろちょろと動き回り、そんなことをしながらしばらくの間過ごしてみたものの、いまいち体感温度は下がらなかった。しかたなく、扉の外の熱線降り注ぐ灼熱地獄を憂鬱な気持ちで眺め、覚悟を決めて足を踏み出した。
一歩踏み出すごとにHPが削られていく感満載で、のろのろと歩を進める。すれ違う生徒たちは、みな軽やかな夏の装いを身に纏い、暑そうではあるもののどこかエネルギーに満ち溢れた表情で元気に言葉を交わしている。カフェテリアで最近発売され人気らしい、カラフルなパッションフルーツのシロップがかかったミニかき氷を手に持ち、友人と味を交換し合いながら歩いている子も多い。そんな姿が微笑ましくもあり、羨ましくもあり……ひとつづきの空間に存在するというのに、キラキラ感の欠片もないおれは、なるべく日陰を探して縫うようにキャンパスを横切り、研究棟を目指した。
生き生きと生い茂る樹々の緑が投げかけてくれる木陰だけを頼りに、ジグザグと進んでいくと、研究棟近くの芝生に座って、真剣な表情でデッサンをしている蘇芳を見つけた。相変わらず隙のない黒い髪、黒い瞳。こいつの周囲だけ、熱気すら避けて通るのだろうかと思うほど、その涼し気な風貌は変わらない。さすがにジャケットは着ていない、シンプルな黒のTシャツ姿だったが、トレードマークの洒落たストールはいつもどおりその肩の上で緩やかに揺れていた。
「…………」
HPゲージがもはや数ミリ単位のおれは、おそらく回れ右をして、研究棟に向かう別ルートを探し出す方が賢明なのだとは思った。それでもそうせずに蘇芳の方に向かって歩き続けたのは、単に今いる場所からの日陰を辿った最短距離上に蘇芳がいたから。そして、そのあまりにも涼し気な様相に、本当にこいつの傍だけ涼しいんじゃないだろうかとちょっと本気で思ってしまったからだ。
いつもは肉食獣顔負けの嗅覚でおれの気配を察知する蘇芳は、周囲の風景を染め変えるような鋭い集中力で流れるように鉛筆を滑らせ続け、その視線は一切揺るがない。かなり近づいたところで、一区切りついたのかふーと息を吐いてスケッチブックを閉じ、初めてこちらに目を向けた。
「……ひとり肝試しでもしてるんですか。そんな亡霊みたいな顔をして」
「……自分が亡霊になったら、肝試しにならないだろ」
重だるい表情筋をなんとか動かして顔をしかめて見せると、蘇芳は「まぁ、そうですね」と適当な返事をしながらスケッチブックを黒いリュックの中に押し込んだ。蘇芳の目には、この地面から立ち込めるような熱気に覆われた世界がどのように見えているのか……ついさっきまで描いていたデッサンを見てみたいと思ったが、そんな交渉をするには手持ちの体力がなさすぎる。諦めて、蘇芳の隣に腰を下ろした。
「……? なんか、用ですか」
蘇芳は隣に座り込んだおれをまじまじと不思議そうに眺めて尋ねた。冷たい物言いに聞こえなくもないが、そんなことはもはやどうでもいい。というか、蘇芳に関しては今さらだ。
「……いや、おまえが涼しげ~な顔してるもんだから、ここ、涼しいのかと思って……」
「……だいぶ暑さにやられてますね。彩さんの場合、普段からぼんやりしてるから判別がつきにくいですけど」
「……おぅ。おまえはいつもどおりだなぁ……。っていうか、別にここも涼しくないじゃん」
蘇芳の座っていた場所は、当然だがフツーに暑かった。むしろ、地面に近い分照り返しが強い気がする。コンクリートの道よりは、芝生の緑の方が目には優しいような気がしたが、かといってこの熱気が軽減されるわけでもない。落胆のため息をついたおれを、蘇芳は呆れ顔で眺めた。
「当たり前でしょう。なんでおれの周りだけ涼しいとか思うんですか。仮にも科学者の端くれでしょうが」
「……あらゆる可能性を考慮できるのも、科学者の資質のひとつだ」
「現実に起こり得るあらゆる可能性を、ですよね。まぁ、彩さんに言っても説得力ないですけど」
ため息まじりにそう言いながら、蘇芳はおれのジーンズのポケットに差してある朱塗りの筆をちらりと一瞥する。先日の一件で、おれはこの筆をこいつに託すことを決めた。とはいえ、どのみちおれが「色」を取り出さなければ蘇芳はこの筆を扱うことはできないし、一応妖力の宿ったいわく付きの代物だ。普段はおれが持ち歩き、管理をするということには、蘇芳は特に異を唱えなかった。
「おれの力よりも、この暑さの方がよっぽど不可解だよ……恐ろしいよ……なんなんだよ、この壮絶な不快指数は…………」
唸るようにそう言って、地面に突っ伏しそうになったおれを、先に立ち上がった蘇芳は片腕で軽々と支えて引っ張り上げる。なんで、この男はこの灼熱地獄で、春のそよ風に吹かれているような顔をして平然と立っていられるのだろうか。少し上にある蘇芳の表情をなんとなく見返すと、心底憐れむような表情を向けられた。
「そんなことおれに愚痴られても、気象なんてどうにもなんないでしょ。盆地の暑さはこんなもんですよ。そんなに暑さに弱いなら、家なり研究室なりで大人しくしとけばいいじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけど……恭介にちゃんと飯食えって言われたから」
「メシ? 食ってないんですか?」
「食う気がしないんだよ……」
恭介の心配を無下にもできず、一応食堂までは行ってみたものの、案の定食欲はわかなかった。蘇芳は整った顔を情けなさそうに緩めて、ぐずぐずとしょうもないことをのたまうおれを眺める。いくら暑さで頭が茹っているとはいえ、よりにもよって蘇芳相手に、なんでおれはこんなにコドモっぽく絡んでいるのだろうか。
「大の男がなに情けないこと言ってんですか……。はぁ……厄介なもん拾いました。けど、おれはでろでろに溶けたスライムみたいな彩さんを介抱するほどお人好しでも、暇でもないんですよね」
「……蘇芳に介抱してほしいとか、そこまで危機管理能力を失ってるわけじゃないから。変な絡み方して悪かったよ……じゃあな」
肩をすくめた蘇芳にそう言って、重い脚を踏み出して脇を通り過ぎようとすると、蘇芳はブラックジーンズのポケットから黒い革のカードケースのようなものを取り出し、その中から摘まみ出した名刺大の紙をおれに押しつけてきた。
「まぁ、これでも一応手を組んだ仲ですからね……。このまま倒れられても寝覚めが悪いんで。夕方ちょっと涼しくなってからでいいですから、この場所に来てください。どうせ大学の近くだから、来れるでしょ」
簡潔にそう言って、蘇芳はひらひらと後ろ手に手を振って去って行く。ふわりと揺れるストールの影が、芝生の上に踊って緑色をさらに濃く染めた。いまいち回転速度の覚束ない頭で、ぼんやりと蘇芳の言葉を反芻し、手元の白いカードを見下ろす。流れるような洒落た字体で、ホームページのアドレスらしい英文字と、大学の近くの住所が印刷されていた。
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