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第一夜

年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』

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  綿畑を抜けるとアル・エイン河がデンサ山脈にぶつかり四方へ支流をちりばめ湖を作っている地点が眼下に見えている。そこから東には地平線の果てまで草原が広がっているのだが、そこは古来よりサルビム人たちの営みが続いているサウル盆地であった。
 トラーガル・ザウストラは荷車から降りて驢馬の轡を引っ張りながら歩いている。粗末な荷車はガタガタと揺れながら草が禿げた道を進んでいた。目の前にはパリスの巨大で黒い第一門が聳え立っている。荷車の後ろには汚い布といくつかの壺そして狭い隙間に左手を失った少年が麻のズボンと少しくたびれた綿の上着を着せられて横にされていた。昼過ぎになっているが昨晩から一度も起きることがない。
 眼下に広がるアル・エインの支流と湖のまわりに綿畑が広がっている。大量の水を必要とする綿花栽培には最良の環境であろう。そしてパリス周辺は中つ国の綿花が育つ最北端に位置している。
 

 トラーガルはパリスの門を抜けた。連れの二人は別れている。パリスによる予定はあるらしいが、サンサ村にとどまったのであった。気が向けば訪ねてくるであろう。パリスはアル・エイン河によって削られた山が一部残った地形を利用されて建てられた都市である。四層からなる都市は上層を荘厳な神殿と宗主の屋敷がずいぶん遠くからでも確認できた。ウル・アリーシャ高地はほぼ全域にわたり赤土や黄土で形成されているが、このパリス周辺だけは玄武岩で出来た地盤の強い地形をしている。単純に山脈の隆起がサウル盆地を生み出したわけではない一つの理由であったがこの時代の人々がそのようなことまで知る由もなかった。パリスはその黒い自然石の岩山を利用して建設されている。黒い神殿とそれを取り巻くように黒い城壁と建築物がパリスという都市の特徴であった。
 下層は市場と城外の他民族のための街が築かれている。そして第二層がパリスの氏族住居であった。トラーガルの実家であるザウストラ家もこの第二層に屋敷と綿加工の工場を持っていた。しかしトラーガルは直接実家へ向かわず下層にある煩雑な商店の集まる通りへと向かった。ほとんどが城外から入ってきている者たちで商人か旅人ばかりであった。ウル・アリーシャやサウルの旅で必要なものはほぼすべてこの通りで揃っていしまう。
 トラーガルは下層の大通りを抜けると第二層に続く坂道が現れるがその途中にあるひと際大きな商店の暖簾をくぐった。荷車と驢馬は店の前に止めたままである。
 
 広い店舗であった・・・。色とりどりの反物が棚の中に置かれている。樫の木で作られたカウンターの前には髪の毛を束ねた女性は一人座り台帳に目を通していた。奥に続く通路には暖簾がかかり中が見えない。年季の入った店舗は室内の調度品が黒を基調にしているのも理由なのであろう外からの光だけで薄暗かった。
 トラーガルは暖簾をわざとらしく両手で広げ顔だけ中にいれる。

「よぉ! 今帰ったよ」

 帳簿を見ていた女性が小さな頭を上げてトラーガルのほうがちらりと見上げる。切れ長の目と白い肌、歳の頃は20代の中ごろか後半であろうか、どこか少しくたびれたところもある。サルビム人らしい薄い栗色の髪の毛をしていた。その女が暖簾から出た顔を見止めると目をこれでもかと大きく見開いた。

「おにぃちゃん!」

 外まで聞こえそうなほど大きな声をだす。女の名はアセロ・ザウストラ・メルシゴナ。トラーガルの腹違いの妹でメルシゴナ家の三男トゥールーズに嫁いでいた。子供も一人いて10歳になる娘がいる。

「いつ帰ってきたの!? ちゃんと連絡くれないと!」

 早口でまくしたてながらカウンターから外に出てくる。いつまでもフラフラと所在が定まらない異母兄のことがアセロの心配事の一つであった。

「なんでぇ。そんなに心配してくれてたのかい?」
「バカばっかり言ってないで、それで家には帰ったの? ちゃんと顔出さないとおいちゃんも心配してるよ」
「わかった。わかった。全くお前はいつまでも小言が多いねぇ。それよりトゥールーズはいるか?」
「トゥさん今お父さんのとこに行ってる」
「そうか。ところで折り入ってお前に頼みがあるんだが・・・」

 アセロの眉間に皺がよる。だいたい異母兄がこういう言い回しをするときは碌なことが無かった・

「なに…? お金の相談?」
「うんにゃ、そういうことじゃないんだよ。まぁ外に‥‥」

 言うが早いかトラーガルは店の外へ出ていく、アセロはおっとり刀で後に続いた。驢馬は荷車から外れて飼葉を食んでいた。荷車の布をトラーガルが引きはがす。胡椒と塩そしてホップの壺が敷き詰められたその荷車の中央に傷だらけの少年が寝ている。

「おにぃちゃん‥‥」
「サンサ村からパリスにくる道中で倒れてたんだ」
「どうする気なの? どこの子かもわからないしそれにこの格好って奴隷よね」
「そうはいっても傷だれけでほうって置いたら死んじまう。見捨てるわけにもいかねーだろ。しばらく家に置いておいてやって欲しいのよ」
「それはかまわないけど…だれがおいちゃんに説明すんのよ」
「ほらそこんとこをだな。可愛い可愛い妹君とそのお連れ様に頼もうって寸法よ。お前らに口添えしてもらったらよ。流石においちゃんも無下にできないじゃねぇか。後生だこの通り」

 そう言うとトラーガルはアセロの両手を握りしめて頭を深く下げる。

「ありがとう。そうかそうか。おらぁ物分かりのいい妹をもって幸せ者だ。じゃ!そういうわけでいい塩梅によろしく伝えておいておくれ。お兄ちゃんはちょっと行かなきゃいけないところがあるんでな。そうそうその壺そいつは家に帰ったらメルシゴナの家にも分けて、明日の朝市に持っていくやつだから。ほんじゃよろしく」

 そう告げると、トラーガルはさっさと踵を返し早足にそれこそ逃げ出すように店を後にした。取り残されたアセロは抗議の声をだす。

「ちょっと! この子どうするのよ」
「夕方には帰るから」

 深くため息をついてアセロは異母兄の背中を見送った。あっという間にトラーガルの姿は町の中へ消えていった。パリスの一層には鹿角街とよばれる雑多な繁華街がある。そこへ向かうのかと思ってみていたが、どうやら二層へと向かう門のほうへ向かって歩いていくようであった。
 アセロが振り返ると、鼻水を垂らした男児が二人こちらを見ている。近所に住む綿織物の色付け職人の子供で大人を揶揄うのが好きな悪ガキ兄弟だった。

「何見てんの!?」

 二人はビクリとして早足に逃げ出す。アセロは荷馬車に近づいて中で寝ている少年の顔を覗き込んだ。髪の毛がそり落とされてはいるが、すでに薄く生え始めている。顔だけ見ればどこにでもいそうな少年であった。それだけに左手の先が無くなっている姿が異様さを際立たせていた。
 店の奥から数人手伝いに出ている女たちがガヤガヤと店先に出張ってきた。

「おかみさんどうしました?」
「ちょっとこれみんなで中に入れて頂戴。さっきお兄ちゃんが返ってきたの。明日の朝市に出すものだから動かしやすい場所でいいわ。それと奥に広間に寝床を用意して」

 そう伝えるとアセロは寝息もたてていない少年を抱きかかえると手伝いの女たちの間を割って店の奥へと入っていく。若い娘が怪訝な顔でその後ろ姿を目で追いかけると、年増の女が聞こえない声と身振りで若い女を制した。

 トラーガルの持ち込んだ胡椒や塩はそのまま荷車ごと店の裏手にある置き場へと移される。パリスもそうだがスタルメキア文化圏、つまり宗族と呼ばれる直系・長子・相続制度による城塞都市統治家系とその血統を維持する氏族(支族ともいう)社会は完全な縦割り社会でもある。都市に持ち込まれた交易品は基本的に店舗か朝と昼に開かれる市で取引される。市場の入り口には城門があり都市の治安維持を請け負っている氏族が、同時に門番の役回りを請け負っている。武装を認められている氏族は宗家との繋がりも深い。そして市場へ入るために門を通る際通行税を納めなくてはならないのである。この通行税を通称『シュラ』と呼ぶ。通行税はそのまま宗家の財産となるのである。
 しかしここで問題が起きる。市場には良い立地と悪い立地というものがある。どうしても奥まって目につかない場所が生まれるし、店の開き方によってはお互いに争いごとにまで発展してしまうことすらあった。そういう問題を解決するのも門番を受け持っている氏族なのである。彼らはあれこれと差配をして店舗の立地や置き方を指示し争いが起こればその仲裁をするのである。品物を出す側はなるべく良い立地を求め揉め事が起きた場合に便宜を図ってもらうため彼らに袖の下を渡すことも厭わなかった。この賄賂のことを『ズウ』と呼ぶ。シュラとズウこの二つがスタルメキア文化を知るのに最もわかりやすい事象であった。後年統一国家らしきものが生まれてもこの徴税方法はそれほど変わることが無く。都市と宗族の独立性を現すことになる。そして巨大なシュラの徴収構造こそがスタルメキア統一文化圏を形成する最大の力になっていく。

 この時代パリスの宗家はセルウィス家であった。宗主は53歳のテリデス・セルウィスで元はサビム人らしい栗色であった髪の毛に白い者が混じって斑になっている。痩身と切れ長の目をして、万事に隙がない。見た目通り抜け目がなく良い意味でも悪い意味でも実力のある男であった。宗主としても人間としても有能なのだが自分にも他人にも厳しいところがある。これは彼が子供の頃にウル・アリーシャとサウル盆地全域で起きた疫病の経験が理由であった。パリスが四重層構造になっているのもこの疫病が原因なのだが、テリデスの父親が宗主であったとき高熱と痘が出来るこの疫病を防ぐため外来人とパリスの住民を分けるため第二城壁を作り、さらに宗家に入らぬように宗家を隔離するため第三城壁が作られたのであった。この行動はパリス市民の不信感を抱かせたが、結果としてパリスは疫病の被害が比較的小さかった。父親の英断は今でこそ賞賛されているが、当時は宗家の息子であるという理由だけで相当に批判されたのである。
 セリウィスの血統を支えているのが四つの氏族で、コルピン、アケドナ、マッシュハガ。そしてメルシゴナ家の四つの家である。パリス市民はこの四家に何らかの形で血の繋がりがあり、セリウィス家の遠縁にあたる。四家は月替わりで門番の役回りとセリウィス家の執事職、裁判官を担っているのであった。四つの家を互いに牽制させ様々な考えを公平に判断するための宗法なのである。
 古い時代には一つの都市、一つの街、一つの村に宗族、宗主、宗法があったものだが、疫病や災害そしてほぼ毎日起きる人災から一族を守るためこうして一つの場所に宗族が集まりその中から宗家を定めそれを支える氏族社会が出来ていったのである。生き残るためにこのような社会構造をスタルメキア語圏の諸民族は生み出した。強固な城壁に守られた安全な場所である城塞都市の中に住む権利は、その城塞都市を統治する宗族との間に血のつながりを持ち、義務を果たすことで成立する。それがスタルメキア人社会の揺るぎない繁栄の礎で、城壁と城門に囲まれた生活こそが彼らの原風景であった。
 四家を中心に血縁関係を結び出来上がった社会構造は問題も生んでいる。四家は互いにパリスの差配にからみ複雑な相互利権構想を作っている。どの家はどの家と結びついているかによって立場を取らざる得ないわけであった。城壁の中身はこのように互いにいがみ合って入るのだが、一度都市に危機が及べば全ての市民は協力して外敵にあたった。中つ国で城塞に住む民は公共に尽くし家に尽くすことが美徳なのである。家ひいては都市のためにその身を捧げることが彼らの最も大切な価値観だった。



 トラーガルは第二層と三層つまり宗主の屋敷と神殿へと続く大通りから小さな横道へと進む。その先には寂しく墓石がならぶ墓地がある。墓地の敷地内にはパリスの守護神である戦と決断の女神『パーリウィス』の横顔が描かれた真っ白な建物があった。死去した住民の祭祀を担当する低い位の神官がその建物を管理している。そこは市民のための集会所であり市民の葬儀が行われる場所でもあった。神官はもちろん宗家の出身者でテリデスの従兄弟の一人で名前をカシュガルという。パリスの宗家には幾人もの男子がいるが、それぞれ親が違う。五代ほど前の宗主の息子の家系が3系譜ありその血筋で系譜を保っているのであった。
 ちなみにスカージ家ともなるとかなり系譜が多くなっており、フェリ王の玄孫になるフェリポン王の子供が4人いたのであるがこの四つの系譜を中心に合計で12系譜で宗家の系譜を形成している。一見すると同じスカージ家なのであるが、スカージ家の中で異なる系譜が多数あるため後世の歴史家たちの頭を悩ませる原因にもなっている。初代で創始者の血にどれだけ近いかによって神の加護が決まると信じられていた古い宗法がそうさせているのであった。

 トラーガルは墓地集会所の前を通り過ぎ墓地の中へと足を踏み入れる。乱雑に背の低い墓石が並んでいる中で比較的大きな墓の前に立つ。そこにはザウストラの文字と使者の名前が彫られていた。集会所の前の店で売られていた百合の花をその墓石の前に置くとそのすぐ横にある小さな墓の前に移る。名前も掘られていない小さな墓石がザウストラの墓に寄り添っている。ここに眠っているのはトラーガルの母親だった。踊り子だった彼の母はザウストラ家の妾となってトラーガルを産んだのだが、本妻が女児しか産まなかったこともあり男児のトラーガルを正式に息子と認めたことでトラーガルはザウストラの姓を名乗ることになった。しかし彼の母親は死ぬまでザウストラ家には認められずパリスの下層で外来人として一人で生活していが、何度かあった天然痘によって十数年前に亡くなった。同じ時にトラーガルとアセロの父も本妻も同じ病気に犯され続くように死んだため、トラーガルの叔父が哀れに思い同じ土地に墓石を立てたのである。
 ぼんやりと母親の墓石を眺めていると、誰もいないはずの墓地に落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。反射的にトラーガルが振り返ると、6マナザル3マセル(約2m)ほどの大男が後ろに立っている。手にはシダ箒を持ち青白い顔には疱瘡の後が残っていた。歳の頃は30代であろうが確かなことはわからない。男はこの墓地の墓守で痘痕顔という意味のジョダと呼ばれている。本名は誰も知らない。極端に無口で15年ほど前パリス周辺を襲った天然痘罹患者の生き残りである。パリスの外に住んでいたようだが村も家族も失いこの墓地の墓守として雇われていた。
 トラーガルはわかったというように片手をジョダに振ると立ち上がった。ジョダは何も言わず向き直り集会所のほうへ歩いていく。トラーガルはその後に続いた。集会所には初老と言っていいだろうか、宗主のテリデスと同世代にみえる男が大きなテーブルの前でパーリウィスの像を見つめている。背が低く髪と髭は真っ白で、堀の深い顔はいつも少し難しい顔している。カシュガル・セリウィスその人であった。墓地と集会所の管理だけでなくパリスの子供に読み書きを教えたりとパリスの若い者はカシュガルの世話になっていない者はいない。みな親しみを込めてカシュガルのことを「御前様」などと呼んでいた。

「すみません。御前様。急な我儘を聞いてもらっちまって」

 カシュガルはトラーガルに向きなおると久しぶりにパリスに帰還していきなり集会所を貸せと言ってきたこの風来坊に笑顔を向けた。

「本当だ。お前はいつもいつも他人に迷惑をかける」
「すんませんこって」
「それで、なにか大事な話でもあるのか?とうとういい娘でも見つけて来たか?」
「へぇ。そんな結構なはなしならいいんですがね。いやいや。俺の結婚なんて御前様に気にかけてもらっちまったら勿体ない」
「お前にその気があるならいくらでも紹介してやるがな。そうすりゃお前もフラフラ外にでてわけのわからん生活見直すいい機会になるだろ」

 一方的に揶揄われているのだが、トラーガルは頭の後ろを掻いて誤魔化すことしかできなかった。わがままで頑固物なうえに怒りの導火線が普通の物より少し短めのトラーガルでも頭の上がらない者が数人はいる。カシュガルはそのうちの一人なのである。
 二人がそんな話をしていると、集会所の重い扉が開き中に陽が差し込んできた。同時に二人の男が姿を見せる。一人は大男で暑苦しい髭を生やし、息が上がっている。かなり急いできたらしかった。もう一人はその男と並ぶと肩くらいまでしかない。髭男の上背が高すぎるだけなのだが、並ぶと小さく見えてしまう。少し疲れた顔をしていた。
 髭面の男の名はダルダン・メルシゴナという。現メルシゴナ家の当主でトラーガルの妹であるアセロの義理の兄にあたる人物でトラーガルとは成人してから義兄弟の盃を交わした間柄であった。昔からの兄貴分でトラーガルがフラフラと風天生活を続けれるのはこの男の義理が他の都市で通っているからなのである。もう一人はパリスの上層にあるパーリウィス神殿の神官パミルタス・セリウィスであった。この人物はテリデスとカシュガルの甥にあたる。次期宗主候補の有力者なのであるが、本人はあまりその気がなく神官職から離れようとしていない。彼は宗族と氏族の利害関係の外にいたためなのかそれだけに様々な厄介ごとを引き受けていた。ある意味パリスの人間関係における緩衝地帯のような存在なのである。
 ダルダンがトラーガルの顔を見つけると無駄に大きな声を張り上げた。

「貴様! 帰ってきたならなんで実家に顔出さねーんだ。わざわざこんなところに呼びつけやがって!」
「うるせぇや。こっちだって色々都合があるってんだ!」

 罵りあいながらも二人は互いに抱き合い肩を叩いた。昔から子供の頃かこの関係は変わっていない。ガキ大将とその子分として大人に迷惑をかけまくったあの日々。二人で決めこの集会所で盃を交わし義兄弟となった夜。そしてトラーガルの義理の妹とダルダンの弟が結婚して本当の身内になったその時もこの二人は変わることない。彼ら二人の関係こそ典型的な中つ国の横の繋がりヴァルドである。

「よく無事で帰ってきた」
「兄貴こそ変わりなく」

 二人は体を離す。パミルタスがトラーガルの前に両手を出し挨拶をする。トラーガルはその姿に恐縮してしまう。

「宗家のお身内にそんな丁寧な挨拶されちまったら。おいら返すものなにもありませんよ」
「ザウストラ家のご出身でメルシゴナの当主の義兄弟でいらっしゃる方が何をおっしゃいますか」

 パミルタスはそういいながら顔は笑っている。トラーガルは初対面であったが決して話の分からない頭が固い人物ではなさそうであった。恥ずかしそうにトラーガルは頭を掻きむしった。
 その姿を見てカシュガルが良い間を取ってトラーガルに問いかけた。

「それで、なんでわざわざここに人を呼んだんだ?しかもできれば宗家で信頼のおける人物をなどと注文までつけて、トラよ聞けばお前今日の朝ようやくパリスについたそうじゃないか。随分焦って何を隠してる」

 その問いかけにトラーガルは神妙な顔を作った。そしてテーブルの上に抱えていた丈夫な綿の風呂敷を置く。みながテーブルの前にあつまる。

「どうにも俺は運がないらしい。ちょっとこんなものを帰る途中で拾っちまってな。一人で抱え込むには大変そうなんでさ」

 そう呟くとトラーガルは風呂敷包みを広げた。中には少年の持ち物とされた緑の衣と青石。そして翼のある獅子の刺繍が施された手ぬぐいと銀製円形の首飾りであった。
 緑の服と綿の手ぬぐいに印された紋章を見たときパミルタスとカシュガルは目を大きく見開いた。



 少年は長い夢を見ていた。断片的な夢でどこか現実味がない。自分がどこにいるかもわからず、さらには自分自身の名前やどこから来たのかも思い出せない。何度か意識が戻っていたが考えることがどうにも億劫ですぐに目を閉じてしまう。全身に疲労感と鋭い灼熱感がある。
 少年の見ている夢はいつも一緒だ。複数の屈強な兵士たちに囲まれた一人の女がこちらを見ている。そこから女の脇腹に短刀が刺され女は少年のほうに悲しそうな眼を向けたまま手を伸ばす。女の表情ははっきりと覚えていない。その回想が終わると、薄暗い森の中で一人の頭が剃りあがった男が恐ろしい顔で近づいてくる。男の表情はなく右手には手斧と松明をもっている。男は少年の顔に手をかざす。目の前が真っ暗になり少年はそのいつまでも続く暗黒に恐怖を覚えたところで目覚めるのである。少年はトラーガルに助けられてから何度か目覚めていたが、現が幻か判断がつかなかった。最後の記憶は自分が奴隷になり一人の奴隷商人によってひたすら『教育』を受けているところで、少しでも奴隷らしくない態度をとると容赦なく鞭打たれた。傷が増えるたびに少年の心の奥底に卑屈な奴隷根性が植え付けられていったのをぼんやりと覚えている。
 いつまでも現実味の無い風景が少年の前にある。少年の枕もとには見覚えのない女性が座り彼の横で何かの本を読んでいた。女性は少年の目が開かれているのを見ると驚いたように駆け出し部屋を出て行く。
 少年は自分がまだ夢の中なのだと思い込みもう一度目を閉じた。何をしても感覚がないただ背中に床なのか何か少し柔らかいものが当たっているのだけはわかる。自分が立っているのか寝ているのかさえ分からなかったが、女性の顔が横を向いていたことからどうやら自分が何かに寝させられていることだけはなんとなくわかった。

 部屋で少年の様子を見ていたアセロがトラーガルを引っ張って戻ってくる。

「だからさっき目が開いたんだって!」

 パリスの二層目にあるザウストラの家に戻らずアセロの店へ戻ってきていた。戻ってくるなり酒瓶を抱え込んでいる。ほろ酔いになったトラーガルは盃を持ったままだった。

「そりゃ生きてんだから目も覚めるだろうよ。そんなに大きな声出すなよ」
「でも・・・」

 トラーガルは少年の顔を覗き込む。やはり目は閉じたまま規則正しい寝息を立てている。その姿を見てトラーガルは安心していた。拾ったときにはかなり衰弱していたことを思うとずいぶんと状態は良くなっているように見えた。

「そのうち腹でも減ってきて起きてくるさ」

 トラーガルは大きく伸びをする。夕刻には実家に戻り今後の話をしなければならなかった。わがまま放題の人生で無頼を極めたような男だが初めて誰かに本気で物を頼むことにトラーガルは少し気分が高揚していた。
 二人の声を聞いたかどうかわからないが少年はいきなり上半身を起こした。いきなりだったので二人はぎょっとして少年のほうを振り返ったまま固まる。少年の目には光がない。

「お兄ちゃん・・・」
「起きたよ・・・」

 アセロが恐る恐る近づくが少年はぼんやりと自分の足を見つめているだけだった。



 トラーガル・ザウストラとアセロ・メルシゴナは少年を連れてパリスの第二層にあるトラーガルの実家へと戻ってきていた。アセロの連れであるトゥールーズも夕刻前にはザウストラの家へと到着してトラーガルの商品を検分していた。やはりホップの需要が大きくなると予想されているらしく、メルシゴナ家が売買の差配をしたいと申し出てきて相場よりも若干高めで全て買い取ることとなった。これだけでトラーガルは相当な利益が出ていた。塩と胡椒は半分をアセロとトゥールーズの店にもう半分を朝市へと出すことした。店舗に出せば時間はかかるが高値で売れる。朝市では相場通りだがその日のうちにパリス硬貨へとなるのである。
 鋳造貨幣技術はすでに随分と広く伝わっていた。しかしその都市と周辺村落でしか流通が利かないものがほとんどで各々勝手にデザインを決めている。その中でもやはりローハンが作っているものはどの都市でも流通していた。
 少年が目覚めてから二日経っているが大人たちはこの不幸な少年のことはとりあえず後回しにしてトラーガルの持ち込んだ商品の差配をしていたのである。トラーガルは大方の物を売りさばくと改めてパリスの絹製品と綿製品を実家から元値で買い込んだ。パリスの藍色の綿と茜の刺繍が入った絹はどこに行っても高く売れるのである。
 トゥールーズとパリス金貨とローハン金貨を見比べている。背が高く色白で兄とはあまり似ていない。優しげな顔をしていて、末っ子でおっとりしているこの男は二つの金貨の出来栄えがなぜこんなに違うのかと不思議そうに見つめていた。ローハン金貨は曲がりもなくすり減りも少ない。金の含有量ははるかに多くパリス金貨3枚分でウル・アリーシャではよく使われている。トゥールーズとアセロはザウストラ家の奥の間で居間で起きている叔父と甥の喧嘩から逃げてきていた。二人の怒鳴り声と罵りあう声がここまで届いている。トラーガルが返ってくると何かしら叔父は説教じみたことを言って聞かせトラーガルがそれに反発し食事もそこそこにこうなるのであった。
 アセロは少しの粥を食べた後にもう一度横になった少年の傍らに座っている。少年は目覚めてから意思疎通をしていない。起きているときは常に虚空を眺めている。アセロやトラーガルが世話を焼くが反応がなかった。それでも空腹はあるらしくわずかばかり何かを口にすることはあった。

(こりゃこの坊主、心が壊れちまってるなぁ)

 トゥールーズは心底少年に同情していた。よくよく見ればすっきりとした顔をしている。わずかに生え始めた髪の毛はどうやら亜麻色だった。瞳はスタルメキア人やサルビム人らしくない。特徴的な深い色の赤で、どちらかといえば西や北の騎馬民族に多い外見的特徴といえる。年齢はおそらく七つか八つくらいであろう。十は出てはいない。幼ないこともあるのか少女のようにすら見える。見た目がいいだけに喪失した左手がよりいっそう痛々しく見えた。
 部屋には娘のケイラもいる。アセロに似ていると言われることが多いが性格は空気が読めないくらいはっきりしていた。つまりトラーガルに似ているところがあるのだ。気が強すぎると嫁の貰い手が無いななどと親としてはどうでもいいことを考えてしまうものである。
 トゥールーズがケイラを膝の上に乗せてぼんやりとつまらないことを考えていると、遠くのほうから怒鳴り声が聞こえてくる。トラーガルと叔父のカシガラがいつものように罵り合っているのは少年のことであった。トゥールーズは立ち上がると居間へ戻ることにした。
 今では初老で細面の頭が禿げあがった男がトラーガルと言い争っている。

「お前みたいな根無し草がどうやってあの坊主を育てるんだ!? 風天生活させるつもりか?」
「だから何度も言ってるだろ? 仕送りはするからここに置いてくれって、それでいっぱしになるまで勉強とか色々面倒見てほしいって頼んでるんだろう」
「それだ。お前はいっつも後先考えず誰かが助けてくれるものだと思ってる。わしはそういう考えが甘いと言っとるんだ!」
「じゃあなにかい!? おいちゃんは片手無くなった可哀想な少年があのままどうにかなっても良かったっていうのかい? そりゃあんまりじゃないか」
「そういう偉そうな物言いは、しっかり独立したやつの言うことだ。お前みたいな風来坊が言っていい事じゃない」

 話は平行線でまったく解決の道はなかった。つまるところカシガラは少年の面倒を見る気がないのである。面倒なことを極力したくないという貧乏根性が底に見え隠れしている。とはいえトラーガルのように情に訴えて安請け合いしていい事でもなかった。トゥールーズは二人のやり取りを聞いて深いため息をついた。


 少年は遠いところで怒鳴り声を聞いていた。状況はあまり把握できていなかったが、いつの傍らにいる女性が自分を助けてくれていることはなんとなくわかっていた。しかし何も感じることが出来ないでいた。感情が表に出せないのである。
 いつも体がだるく眠くなってしまうので目を閉じるとやはりあの悪夢を見てしまう。奴隷に対する教育と亜麻色の髪をした女が全身を切り刻まれながら何人もの男に犯される。そして最後に髪の毛の無い男に目を塞がれ左手に鋭い痛みと灼熱感を感じるあの夢。しかしその時少年は女の夢を随分と長く見ていた。経緯はよくわからないしかし女は少年のほうを向き手を伸ばしている。いや逃げろと伝えていた。
 女は少年の目の前で男たちに押さえつけられる。殴られ蹴られ顔を踏まれる。下半身を丸出しにされ何本もの男性器を差し込まれそのままナイフで乳房や腹の肉を切り刻まれる。その様子を少年はぼんやりと眺めているのだ。しばらくすると顔も身体も血まみれで肉と骨が見えた塊の姿でかろうじて息をしている女が光の消えかかった目でこちらを睨んでいるのであった。
 感覚のない少年の深層心理に残された映像に彼はとうとう気づいてしまった。激しい動機が少年を襲いそして目覚めた。目の前にはいつもいる女性がいる。少年の目には光が戻っていた。
 上半身を起こしたまま少年はだらだらと涙を流していた。何が悲しいのか自分でも理解していない。唯々感情が沸き上がり涙が止まらずにいた。

 アセロはいきなり涙を流し始めた少年を訝し気に覗き込んだ。隣のケラも不思議そうにしている。アセロは少年の涙の意味は解らなかったが、少年に近づいた。少年はおもむろにアセロに抱き付くと声を上げて泣き始める。少年はアセロの膝を涙で汚しながら壊れたように泣き叫んだ。ほとんど声にならないような叫びだったがアセロはたった一つの言葉だけは理解できた。少年ははっきりと母親を呼んでいた。
 アセロは泣き叫ぶ少年の背を優しく撫でた。なにが彼の身に起きたのかはわからなかったが哀れな少年を慰める方法を彼女はわからなかった。アセロはその姿を見て少し涙ぐみそれを誤魔化すように天井を見る。そのときアセロの心は決まっていた。
 少年が落ち着くとアセロは居間へ向かう。その顔はすこし怒りを含んでいたように思う。居間に入りトゥールーズの横に座ると言い争う男二人に向かってはっきりと言い切った。

「おいちゃん! お兄ちゃん! 私が育てる」

 殴り始めそうなほど言い争っていた二人だけでなく、トゥールーズも驚いたようにアセロの顔と見た。そこには得体のしれない女の怖さが含まれている。

「おい・・・お前」
「もう決めた!」

 頑固な性格は父親譲りでそのことを三人ともよくわかっている。こうなったアセロは絶対に引かないであろう。トゥールーズだけはアセロが言い出したことに責任を持たなければならないと考え小さくため息をついた。



 かくしてこの不幸な元奴隷の少年はパリスのメルシゴナ家に保護されることとなった。自らの名を思い出すことが出来なかった彼はタイロンと名付けられることとなる。
 タイロン・メルシゴナ。この数奇な運命をたどる男のことを私はもう少し語らなければならないだろう。

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