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第一夜

年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』

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 緑の草原が見えている。色は淡くどこかふわふわした心地がしていた。タイロン・メルシゴナは自分がどこにいるんかわからなかったが、誰かに抱きかかえられている感覚があった。目の間には冷たい風が吹きどこまでも続く草原が広がっている。
 現実味がまったくなかったがタイロンの横に馬の顔が現れ、すぐに馬の背に乗った男の姿があらわれた。風を切って走る二人はどこまでも草原をかけている。やがて男の乗る馬がタイロンの馬を追い抜き男の背をタイロンは目で追った。大きく逞しい背中。特徴的で硬そうな革製の椅子のようなものに跨り、足は薄汚れてはいるが頑丈そうな革の馬具を踏みしめている。足の馬具はどうやら馬の背を通っているらしく椅子の下へ続いていた。男が足元の馬具を馬に打ち付けると追い立てられたように馬は速度を速める。
 男の手には小さな弓が握られていた。馬上であるにもかかわらず両手を使おうというのであろうか。不思議な面持ちでタイロンは男の動作を見つめている。精悍で無精ひげの生えた顔が見つめる先はぼんやりとしている。足元の馬具を踏みしめると走る馬の上でもがっしりと安定するようでそのまま弓をつがえた。

「エルト・・・エルト・・・」

 どこかで誰かの名を呼ぶ声が聞こえる。しかしその声が段々と形を成さないように異国の言葉のように聞こえはじめ、やがてはっきりと自分の名を呼ぶ声に聞こえてくる。
 タイロンはその呼びかけに勢いよく両目を開けた。

「テルベ!良かった!」

 目の前にはカズンズ・コルピンと言葉の通じない異民族の少女の顔があった。一瞬遅れてユーラ・アボットが顔をのぞかせた。
 どうやらタイロンは川に落ちた後随分と気を失っていたらしい。生乾きの服が少し臭っている。少し混乱していたが辺りを見回すと、どうやらどこかの洞窟の中にいるようである。

「ここは・・・?」

 上半身裸のユーラが焚火に手をかざしている。

「俺らが落ちた川っぺりに横穴があったんだ。橋の下で何とか上にも昇れそうだ」

 カズンズがぼんやりとしたタイロンに状況を説明するが、どこか要領を得なかった。落下のショックからまだ少し混乱が直っていない。軽い脳震盪があった。上半身を起こす。

「頭の中に靄がかかってるよカズンズ」
「もう少し休むか」
「ここは?」

 薄暗く陽の光が僅かに差し込んでいる。一見してわかるが明らかに人の手によって掘られた横穴は苔むした岩を刳り貫いていた。茶褐色の特徴的な岩肌が綺麗に削り取られている。岩盤が相当に頑丈なのであろうかなり大きな横穴が奥まで続いていた。
 タイロンは首振り首筋を叩く。頬を数回自分で叩いて目の中にある靄を払った。

「奥に行った?」

 ユーラが首を振る。三人とも洞窟の特徴に感づいていないよであった。自然の洞穴だと思い込んでいるのである。カズンズは天井をぐるりと見渡す。剥き出しの石はパリスの街でよく使われる凝灰岩質砂岩である。タイロンは一目見てそのことに気づいた。つまりパリスの街に使われる建材を切り出したときに掘られた洞窟なのであろう。しかし切り出すだけならこのような形にしない。まるで何かの神殿のようにドーム状の通路が奥まで伸びている。
 大きく息を吐きだしタイロンは立ち上がった。まだ少し頭がはっきりしていない。足元がおぼつかなかった。

「テルベ!どうしたんだ?いきなり」
「奥に続いている。この洞穴人が掘ったやつだよきっと」

 ユーラとカズンズは状況が飲み込めず顔を見合わせた。おそらく何十年とこの洞窟は人目についていなかったであろう。もしかしたらヴァロの廃村に住んでいた物であれば何かしか知っていたかもしれないが、それも確かめることは出来ない。未知の空間、長い人の営みのなかで忘れ去られていたものが四人の前に広がっている。

「奥行ってみる?」

 ユーラが生唾を飲み込んだ。カズンズがタイロンの後に続いた。カズンズはタイロンの前に立ち一番に奥に進もうとする。ユーラとノマドの少女も二人の背中を追う。

「テルベ何で奥に?」
「このままいくと岩山のほうに向かってる。上に昇れる場所もあるかもしれない。橋のとこからだとまたあいつが出てくるかもしれない」

 カズンズはタイロンの判断にいちいち頷いた。

「このままあそこに居座っててもしょうがない。帰るかそれとも最初の予定通りするかって考えたら奥に進んだほうが面白そうだと思ったんだ」
「奥に何かあるの?」

 タイロンの考えにユーラが後ろから声をかけた。タイロンは後ろを振り返らず答える。

「この洞穴、たぶんすごい古い時代に人が掘ったものだと思うんだ。だから奥に行けばどこかに通じてるはず」
「それが処刑場なのか?」
「わかんない。けどたぶん続いてると思う」

 ユーラはタイロンの背中を押しながら、不思議そうに聞き返した。

「なんでそう思うんだ?」
「あの川だよ。あの川っていうか渓谷がたぶん人が作ったものなんだよ。昔トラおじさんが教えてくれたことがあって、岩を切り出した後に川になった場所があるって聞いたことがあるんだ。石を切り出しているうちに渓谷になってそこに水をひいて石を運ぶのに使うようになった場所だって」
「あそこが?そんな馬鹿な」
「だからここに横穴があったのは何か理由があると思うんだ。もしかしたら昔ヴァロ村に住んでた人達はここを通って処刑場に行ってたかもしれないし、ほら死体を埋めたりする場所って特別な感じするじゃん」

 四人は急勾配の上り坂になっている洞窟をすすむ。しばらくすると緩やかな下り坂になる。どこかかしら光が差し込んでいるらしく薄暗い中に石の壁が見て取れた。中はひんやりとして過ごしやすく感じる。僅かにカビの匂いが鼻の奥を刺激してユーラが眉をしかめた。
 下り坂の先には大きな広間があった。何十年と人が入ったことが無かったであろうその広間の先からまた緩やかに上り坂が見えている。ほとんど一本道で上り坂の先から陽の光と揺れる植物の影が見えていた。

「出口だ」
「案外短かったな」

 タイロンは出口のほうをじっと見つめていた。タイロンが見ていたものは出口ではない。煤けた岩の肌であった。何がこの広間で起きたのかはわからない。しかし茶褐色の岩肌にははっきりと煤けた火の後が残っている。それも一部だけではなく天井まで黒ずみ不気味さを際立たせている。何十年、何百年か前にこの場所で何がおきたのかをタイロンは想像をめぐらしていた。

「どうした?」

 カズンズが立ち止まったタイロンのほうに振り向く。

「なんかね。昔何がここであったのかなって思ってた」

 そう答えるとタイロンはカズンズの後を少しバランスを崩しながらついて歩く。片手の彼にはこの上り坂は少々堪えていた。異民族の少女はユーラに手をひかれながらついてきている。
 やがて光のさすほうへ四人は向かい洞窟を抜けた。カズンズが最初に光の中へ降り立つ。そこは深い崖の底でカズンズの足元から7マナザル(約2m10cm)ほど下に底が見えている。円形の緩やかな螺鈿スロープが崖沿いに巡り洞穴から下まで降りることは出来そうであった。スロープは崖の上まで続いている。
 そしてその窪地は一面木々に囲まれ酷く荒れ果てている。螺鈿状のスロープの坂は明らかに人の手によるものであった。
 カズンズの横にタイロンとユーラが並ぶ。森の中を三人は目を凝らしてみる。その木々の中に何か巨大な建造物のようなものがあるのがなんとなくわかるが、あまりにも植物が絡まりすぎていまいち判別できなかった。

「なんだろう…」
「建物だな。なんかこう崖と一体化してる感じだ」
 
 絡まった建物の屋根の部分を目を細くして見つめている。スロープを回りながら昇り何かを確認していた。三人はその後に少し遅れてついていく。

「あれ…」

 ユーラが横に並びカズンズの指さすほうを見る。陽の光でわかりにくい。

「なんだあれ?杭かなんかが突き立ってるな」
「建物の屋根が崩れて平べったくなってるとこになんかある。あれなんだろう」

 スロープを昇れば行けなくはなかったが、タイロンが二人の見るものよりも建物のほうに気を取られていた。

「テルベ! 上に行ってみよう」

 カズンズの声にタイロンは我に返る。しかしどうしても建物のほうが気になって仕方が無かった。名残惜しそうに建物をみながらスロープを回りながら崖を昇っていく。崖はかなり深くそれだけ建物も立派である。
 四人はかなりの高さまで螺鈿スロープを昇った。昇っていくと地形がなんとなくわかってくる。崖と思っていたものは巨大な縦穴であり螺鈿スロープは地上までの道なのである。上部にいくとスロープは階段になり落下防止ようの壁が胸辺りまでついている。それも所々崩れていた。
 やがて地上付近まで来ると螺旋スロープが崩れ落ち先に進めなくなっている。しかしその先には下から見えていたものがはっきりと確認できた。

「ここ…」
「あぁ風化刑の処刑場だ」

 建物の天井部分であったであろう場所が平たく切り開かれている。赤褐色の岩肌はどうやら洞口と同じ鉱物のようであった。建物そのものが掘りながら作られたのであろう。岩場と一体化している部分がある。しかし上から見ると建物は植物に隠れてしまい巨大な崖にしか見えないのである。唯一螺旋スロープだけが人の痕跡を残しているのであるが、処刑場から見る限り何処に繋がっているかはわからないようになっていた。

「誰が作ったんだろう…」
「ヴァロ村の人は気づかなかったのかなこれに」

 パリスでもこんな遺跡がある話は聞いたことが無かった。崩れ落ちた階段を四人は見つめていた。処刑場の杭はすぐ見えるところにある。どこからか登れる場所はないかとカズンズが見渡すが、一段下がっているため天井を崩すくらいしか方法が無かった。

「目の前なのにな」
「でも確認はできるね。やっぱり死体がないよ」

 タイロンの声に二人は頷いた。数日前に生きたままここに繋がれているはずの身体が無くなっている。
 ユーラが大きく息を吐いた。陽がずいぶんと高くなってきていた。

「腹減ったなぁ」

 間の抜けたことをユーラが言った。昼時はもう少し過ぎている。四人は螺旋スロープをもう一度下へと戻った。

「なんで無くなってるんだろ…」

 タイロンは声に出したことを頭の中で反芻する。なぜか建物の最上部は平たく切り開かれていた。おそらく凝灰岩質砂岩を掘りながら建造物を作るという恐ろしく面倒なことをしているにもかかわらず最上部を破壊している。処刑場を作った者たちは建物の最上部を見ていたにもかかわらずそこをああいう形にした理由。そしてその場所を処刑場にした理由がどこかにあると考えるとタイロンの頭の中は整理がつかなかった。
 ブツブツと小声で呟くタイロンにカズンズが声をかけた。

「どうした?不思議そうな顔して」

 四人は一度洞窟の中に戻り広場の近くで遅めの昼食をとることにした。ユーラは少女の近くに座り火を熾す。硬くなったパンを火に当て柔らかくすると少女に千切り渡した。食料は何かあったときのために三日分ほど用意してきていた。川に落ちたときにかなり濡らしてはいるが濡れたところで気にするような神経をユーラはしていない。
 カズンズとタイロンは火を挟んで反対側に腰かける。

「どうして、あの処刑場はあんな風にわざわざ平らにしてんだろう…」

 カズンズが干し肉を火に当てて縦に割いた。四つに割いた肉を全員に手渡す。

「元々ってことはないか?建物作ったときから平べったくしてたとか」

 ユーラが肉を齧りながら答えた。タイロンはそれを聞いて得心がいったように頷いた。

「そうか…元々ああだったんだ。ユーラきっとそうだ」
「なんだよ変なやつだな。それがなんか意味あるの?」
「あそこ、建物の頂上部分の平べったくなってる場所。あそこは作られたときからあんな風だったんだ。つまり作られたときから処刑場だったんだよきっと」

 カズンズがハッとしてタイロンの言葉の意味を理解した。

「祭壇…あの建物を作ったやつらはあそこで生贄を捧げていた…」
「そうだよ。ヴァロ村がパリスの衛星村になるよりずっと前からあそこは何かの祭壇だったんだよ。そのうち建物はあんな風になってしまって上からは見えなくなる。建物を作った人はどこかへ行ってしまってそのあとヴァロ村の民が住み着いたんだよ。でもあの場所で生きた人間を処刑するっていう風習だけがなぜか残って、それがパリスが支配した後も続いている」

 タイロンはカズンズに向かって力説し始めた。おそらくあの建物の中にその答えはあるとタイロンもカズンズも感じていた。

「カズンズはパリスの建国の話は知ってる?」
「あぁ小さな集落だった四家の村がノマドに襲われてたのを宗家の祖先が集めてノマドに対抗したのが始まりだったっけ?じいちゃんにしょっちゅう話して聞かされてたのにあんまり覚えてないな」

 パリス建国はハーン王が青石を神の台座に封じるよりも前に遡ると言われている。おとぎ話のような話でサルビム盆地の都市国家群ができる最初期にあたる。サルビム人たちは血縁関係によって集落を作っていたのであるが、常に異民族との争いが隣り合わせの生活であった。サウル盆地、ウル・アリーシャ高地に住むサルビム人はその環境の中で近くの集落同士が血縁関係を結ぶことによって人口を増やしたという歴史がある。中には絶滅させられた宗族も数多くあったことであろう。
 そのなかでパリスはいち早く周辺集落を統合し強固な相互防御関係を構築することで、異民族との争いに打ち勝っていったわけである。

「そう。四家とセルウィス宗家は最初別々の場所に住んでいたんだ。でもある時大規模なノマドの攻撃があった」

 タイロンの話にユーラが口を挟む。

「それ知ってる。追い詰められた宗家と四家が今のパリスがある丘の上に逃げ込んだんだろ?それまで誰も登ろうとしなかった死者の丘だか何だかって呼ばれてたパリスの丘で戦ったんだよたしか」
「それ。その話死者の丘って呼ばれてた話が色々違っててね。パリスの建国史にはなんて書いてあると思う?」

 タイロンの話にカズンズが応える。ユーラはタイロンの話をそれほど熱心に聞いていない。

「テルベそんなもん読んだの?あのくっそ分厚いやつ」
「俺、パリスに来た時だれも知り合いいなくてさやることもないし、ずっと神殿の資料読んでたんだよ。パリス語もよくわかんなかったから何とかしようってのもあって、それであれを読んだんだよ」
「で?なんて書いてあるの公式には」

 カズンズが興味深そうに続きをせかした。タイロンはパリス建国史の一節を言葉に出した。

「マルキシス・セルウィスとその郎党はあの黒き天守へとあがり、雪の降る40日を耐え忍んだ。そして春の訪れととともに馬の民は何処かへと去っていく。この日黒き天守は神の加護を讃えパリスの名を与えられん」
「黒き天守?なんだそれ?」

 タイロンの言葉にカズンズは不思議そうな顔をする。

「俺も最初はなにかわからなかった。でも今あの建物みて一つ思いついた。パリスの丘の上にはここの石と同じような黒っぽい石で作られた遺跡かな何かがあったんじゃないのかって」

 タイロンの言葉にカズンズの心は躍り上がりそうであった。好奇心が彼らの身体と心を支配して鼓動を速くしているのが分かる。もしもパリスの丘の上にもあの遺跡と同じものが古代にあったとしたら、ここはパリス建国以前からこの周辺の土地にまつわる最初の文明の名残が残っているという証拠になる。こんな冒険心をくすぐられることが目の前に現れて心躍らない子供はいないであろう。
 しかし遺跡に行くべきか行かざるべきか。少年は冒険心を刺激されていても危険がありそうなあの場所へ向かうことを言い出せずにいた。

 ユーラは二人の話を興味深そうに聞いてはいたが、会話には入らずパンをもう一枚手に取った。少女がその手をじっと見つめている。すっかり失念していた少女に向かってユーラは思うところがあった。

「お前、名前は?」

 ユーラの問いかけに不思議そうな顔をする。やはり言葉は通じないようであった。自分に何かを問いかけられているのはわかっているようであったが、理解はしていない。
 ユーラは自分を指さす。

「俺はユーラ、ユ・ウ・ラ」

 少女はその声に続きユーラの名を呼ぶ。ユーラは少女を指さし問いかける。

「お前の名前はなんだい?」

 少女はなんとなくユーラが自分の名前を伝えていることを理解したようで、自分を指しているのは名を聞いているということが分かったようであった。少女は自分を指さすとユーラに名を告げた。

「マイン、ナイズ、オァー。フェリン」
「ん?何?」
「フェ、リ、ン。フェリン」
「フェリンか?フェリンっていう名前だな?」
「オァー」
「良い響きだなフェリンって、いい名前だ」

 ユーラの言葉を理解したのかどうかはわからないが、屈託のない笑顔をユーラに見せた。その様子を会話していた二人がいつの間にか見ている。

「フェリンか」
「ノマドっぽくない名前だね」

 ユーラが頷く。パリス近辺に現れる移動民はもう少し硬い響きの名前や氏族名が多い様。彼らの名にくらべるとフェリンというのはサルビム人の音に近かった。ユーラとフェリンを見る二人の目が少し悪戯っぽく輝いている。

「なんだよ…」

 ユーラが抗議の声を上げようとしたその時入口のほうから、低いうなり声のような音が聞こえてきた。ぎょっとして四人がそちらのほうに目を向ける。薄い暗がりの中にわずかに入る陽の光が人の影を映していた。
 奇妙に曲がった腰と抜け落ちた頭髪、先ほどいた小さいやつとは明らかに姿が異なっている。身長だけでも倍近くはあるだろう。全身から異様な臭気を漂わせ、そのなかに血の臭いが混じっていた。

「ゲ、ゲフゥシュルゥゥ」

 言葉とも息ともいえない者が口から発せられる。歯をむき出して高い音が口の中から発せられた。気持ちの悪い歯ぎしりの音が洞窟の中にこだます。
 突拍子もなくカニバルが現れ四人は一瞬固まった。タイロンとカズンズがゆっくりと焚火を回り込みユーラたち側へと動く。カニバルは目が悪い。明らかに四人の場所が分かっていないようであった。
 カニバルの右手には奇妙なものが握られている。最初腰からぶら下がって揺れているように見えていたがだんだんと明かりに照らされそれが何かわかったときユーラが小さく声をだしてしまった。カニバルの手に握られていた物それは、腰から上の男の身体である。それも左半分が無くなり内臓も抜かれていた。肋骨に肉が僅かに残っているが胸が左右に割かれ肋骨が飛び出ているのが分かる。虚ろな表情が現実感を失わせていた。顔はサルビム人ではないことだけは見て取れた。
 ユーラの声にカニバルが振り向いた。その刹那四人は建物のほうに光に向かって走り出した。カニバルはなんとなく臭いで気づいてはいたようで、四人の後を追いかけるが、目の前に焚火が現れると反射的に後ろに下がる。後ろを振り返らずに逃げ出した四人は入口付近で一度カニバルの姿を確認する。四人とも息があがっていた。

「あんまり目は良くなさそうだな」
「そうだね。あと火もダメみたいだ」

 カニバルは鼻をヒクヒクと動かしている。どうやら悪い視力を嗅覚で補っているらしい。四人の痕跡をたどるように坂道をへばりつく様にゆっくり上がってくる。

「やばい」
「向こうだ!」

 カズンズが螺旋スロープを一気に飛び降りる。地面は背の高い草でクッションになる。ユーラと少女が後に続き一番最後にタイロンが飛び降りた。すぐにカニバルが洞穴から出てくるが、そこで四人の痕跡が辿れなくなり空中に顔を突き出して臭いをかいでいる。

「行こう!」

 カズンズが小声で指示をだす。その先には植物と蔓に絡まった赤茶けた古代の遺跡があった。四人は植物に覆われた窪地の底を泳ぐように遺跡へと歩き出す。腰まで伸びた茅や蔦をわけながら進み、その先に口を開ける遺跡の入り口を見つけた。巨大な入口は劣化が進みいたるところの石積が崩れている。入口を覆い隠すように背の高い植物が茂りその中に四人は勢いよく突っ込んだ。中はやはり薄暗いがどこからか光が入る作りにになっていた。
 ずっと高い場所に天井が見えている。ふさぎ込んだタイロンにユーラが手を貸す。

「まだだ追ってくるかもしれないから上に行こう」

 四人は遺跡の階段を駆け上がった。古びた石造りの階段は埃が積もって、独特な黴臭さが動くたびに鼻についた。全員が二回にまで上がると、カズンズは下を確かめるように顔をのぞかせる。

「大丈夫みたいだ。入ってきてない」


 フェリンはかなり息があがっていた。四人の中では一番体も小さく体力もない。顔が上気している。遺跡の中は吹き抜けで天井まで見えているが階段があり、四階建てになっている。下からでも確認できるが棚が並んでいるように見えた。
 カズンズを先頭にして四人は並んだまま石の階段を昇る。二階の途中まできてようやく全容がわかった。棚のように見えていたのは全て石板が置かれた台座である。とはいえ石板自体は数えるほどしかない。数百以上あったであろう石板はほとんどが消え失せていた。それが四階分続いているのである。そしてどのようになっているのかわからなかったが天井から大きな小部屋が空中に浮いてゆっくりと回っている。

「・・・すげぇ」
「あそこどうやって行くんだろ」

 あたりを見回すが渡れそうな場所はなかった。

「あの部屋の真上が処刑場だね…」

 タイロンの言葉にカズンズとユーラは生唾を飲み込んだ。処刑場の真下で供物を必要としたなにかがこの小部屋に閉じ込められていると思うと得も言えぬ恐れに心を掴まれ鼓動が速くなる。
 三人が中央に浮く小部屋をまんじりともせず眺めている横で、タイロンはいくつか散らばった石板を手に取り、埃を払った。そこには古代文字が刻まれていた。眉間に皺をよせ石板を睨んで見せる。

「駄目だ。これ読めるやつ残ってない」

 タイロンの声にカズンズが振り返る。

「テルベその文字読めるの?」
「読めるやつと読めない奴があるよ。僕は青の文字は読めるんだけど、ここにあるのは他の文字が書かれてる石板だ。もっとたくさんあったと思うけどどっかに持ってかれてるね」

 タイロンが石板がはめ込まれていたであろう石の台座を指先でなでる。積もりに積もった埃が指先につくが、石にこびりついたような埃は全て取れることはなかった。

「古の石板は中つ国の民に神の知恵を授ける…か」

 タイロンは皆に聞こえないほどの小声でローハン建国史の一節を呟いた。ユーリアによって青の文字は解読されたと言われウル・アリーシャやサウル盆地の古代遺跡のほとんどが調べつくされていた。読める石板はローハンへと運ばれ続けている。おそらくここの石板もはるか昔に青の文字が読めるサルビム人・スタルメキア人の手に渡ったのであろう。その中で読めなかったものが残っているわけであった。黄の文字も解読されて百年が経っている。ここに残る石板は損傷が激しく放置されてしまったものなのであろうか。タイロンはその時気づかなかったが、彼が持っている石板はほとんど目で確認できないほど淡く緑がかった色をしていた。一見するとカビか何かかと思われるほど薄い緑色をしている。
 何気なくフェリンが小部屋を見上げる。ゆっくりと回る小部屋の一部が鮮やかなエメラルドに輝いて光が漏れているように見えた。一瞬であったがその光をフェリンは確かに見た。すぐ横にいるユーラの袖を引き小部屋を指さす。
 袖を引かれたユーラはフェリンの顔を覗き込む。目を見開き上を見上げるフェリンの視線を追い。同じような顔になってしまう。

「どうした?二人とも」

 指をさしている先をタイロンとカズンズも見上げた。ゆっくりと回る小部屋の一部からあざやかな緑色の光が出ている。光は縦に伸びて遺跡の中を照らしていた。場所を変えれば中が確認できそうであった。

「あっちからなら中見れそうだな」
「テルベ冷静でいられんな。あんなけばけばしい緑色あんまりみねーぞ普通」

 ユーラの焦りを無視してタイロンは光がさしているほうへと歩いていく。三人はその後ろに続いた。光を真正面にして小部屋を覗き込む。やはりどこにも小部屋は繋がっていない。完全に浮いて天井に繋がっているのはかろうじてわかる。
 タイロンはまじまじと小部屋の中をのぞく。最上階のその場所は小部屋とほぼ平行位置であった。この場所ならはっきりと小部屋の中が見える。

「人だ…」

 カズンズが思わず声に出した。そこにいたのは豪華な椅子に座るミイラ化した死体であった。そしてその周りにはぎっしりと石板が並べられている。文字は判別が出来ないがその文字が緑の光をわずかにはなっている。大量の石板の光が合わさり外に漏れているのであった。
 恐ろしくもあり幻想的でもあるその光景に四人は目を奪われていた。タイロンとユーラだけはその死体ではなく別のものを見ている。死体が座る豪華な椅子の後ろにはっきりと二人は見ていた。赤黒く変色した小さな塊を

「テルベ…あれって」
「黒鉄のナイフ…? でも刺さってるから長さが…」

 タイロンがユーラに応えようとしたとき、聞き覚えのある不愉快な声が四人の耳に届いた。四人は一斉に下を見下ろす。入口に首を左右に振り鼻を突き出し臭いをかぐ背の高いカニバルの姿があった。
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