誓いを忘れた騎士へ ―私は誰かの花嫁になる

吉乃

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第88話 未来への灯火

 季節は巡り、春の陽光が屋敷を柔らかく包み込んでいた。

 あの暗く重苦しい日々を越え、今は穏やかな空気が邸を流れている。
バルテルの体調は時に不調となりる事もある。それだけレナーテが与えた毒の様な薬が彼の身体に留まっていた。

 それでも時には車いすを離れ、庭に立って子供たちに剣を教えるほどには持ち直していた。
だが長く続ければ負担が大きく、日によっては再び座って休まざるを得ないこともある。

 

 その日は、リアムにとって特別な日だった。初めて学問の師が屋敷を訪れるのだ。

 朝から落ち着かない様子で机の前に座り、何度も手を膝に置いては立ち上がり、また座り直す。リリアナは微笑ましくその姿を見つめながら、緊張を解きほぐすように肩に手を置いた。
「大丈夫よ、リアム。今日は始まりの日。間違えても恥ずかしいことなんてないわ」
「……うん。でも僕、父上に恥をかかせたくないんだ」

 その言葉に、背後から穏やかな声が重なった。
「リアム。師は分かるまでゆっくりと教えてくれる。だから気負わなくてもいい」

 皆が振り返ると、ラファエルが笑顔で歩み寄ってきていた。
「ラファエル殿下……」

 バルテルはゆっくり腰を下ろし、深々と頭を垂れた。
「私がこのような体になってしまったために、ご迷惑をおかけしている。子供たちの面倒まで見ていただき、感謝の言葉しかない……いったいどう償えばよいか」

 リリアナも隣で膝を正し、頭を下げた。
「殿下。本当にありがとうございます。私たち家族は、殿下に助けられてばかりで……何もお返しできないことが心苦しくて」

 ラファエルは柔らかく首を振った。
「いや、どうか気にしないでください。これはあなた方だけのためではなく、この国そのもののためでもあるのです。私にできることをしているだけですから」

 そう告げると、彼はリアムの前にしゃがみ、少年の瞳をまっすぐに見つめた。
「リアム。お前には大きな未来が待っている。そのために今を頑張れ。父上や母上が誇れるような男になるんだ」

 リアムは力強く頷き、「はい、殿下!」と答える。
満足げに微笑んだラファエルは立ち上がり、静かに背を向けて去って行った。その背中を、家族全員が胸いっぱいの感謝を込めて見送った。


 師との初めての授業は、ぎこちなさに満ちていた。
筆を握れば文字は曲がり、数を数えれば途中で躓き、問いかけには答えが遅れる。

 けれどリアムは、決して諦めなかった。額に汗を浮かべ、唇を噛みしめながら、何度も書き直す。その小さな背中に、必死の決意が宿っていた。

 授業が終わると、胸を高鳴らせながら父母の部屋へ駆けていった。
「父上! 母上! 今日、僕……授業を終えました!」

 バルテルは書類から顔を上げ、ゆっくりと微笑む。
「そうか……よく頑張ったな」
 そして真剣な眼差しで続ける。
「今日の失敗を覚えておけ。そこからが学びの始まりだ」

 リアムは少し恥ずかしそうに笑みを浮かべ、けれどその瞳は輝いていた。
「はい、父上! 次はもっと出来るようになります!」

 その言葉に、リアムの瞳は輝き、胸を張って「はい!」と力強く答えた。

 その様子を、窓辺から覗いていたエアリスは、兄の姿に憧れを隠せず、見よう見まねで机に向かい、筆を握ろうとした。だが、うまく持てずに紙を破ってしまい、顔を真っ赤にして泣き出した。
「わああ……できない……!」

 慌てて駆け寄ったリアムが、弟の肩を抱いた。
「大丈夫だよ、エアリス。僕だっていっぱい間違えたんだ」
「ほんと?」
「ほんとさ。だから一緒に頑張ろう」

 小さなやりとりに、バルテルもリリアナも思わず笑みを交わした。
兄弟が互いに支え合う姿こそ、彼らが未来へ進む力になるのだと確信できたからだ。

 その日の午後、中庭では思わぬ騒ぎが起こった。
花祭りを控えて飾られた大きな花瓶を、エアリスが好奇心から覗き込み、うっかり倒してしまった。

 大きな音に驚き、侍女たちが駆け寄る前に、エアリスは床に座り込み、唇を震わせていた。
「ご、ごめんなさい……」

 だが、リアムがすぐに駆けつけて手を差し伸べる。
「大丈夫だよ、エアリス。僕も一緒に片付けるから」

 兄の言葉に、涙を零しながらも小さく頷く次男。その小さな肩を、バルテルが見守りながら言った。
「よいか、二人とも。兄は弟を守り、弟は兄を支える。互いに補い合ってこそ強くなるのだ」
「はい!」
兄弟の声が重なり、庭に明るく響いた。

 その夜、家族は小さな祝いの席を設けた。
季節の行事を兼ねた食卓には、温かな料理と花々が並び、蝋燭の光が部屋を柔らかく照らす。

 リアムは今日の学びを誇らしげに語り、エアリスは新しく覚えた言葉を何度も披露しては皆を笑わせた。

 笑い声が絶えぬ夕餉に、リリアナは思わず目頭を熱くし、そっと手で拭った。
気づいたバルテルが彼女の手を握り、低い声で囁く。

「大丈夫だ。今はただ、この幸せを噛み締めよう」
その言葉に、リリアナの胸は震え、涙は喜びへと変わった。

 その様子を、少し離れた席からライナトルとラファエルが見守っていた。二人は盃を傾けながら、静かに語り合う。

「……殿下。あなたが妹リリアナを想っていること、私はずっと気づいていました」
ライナトルの言葉に、ラファエルは小さく苦笑する。
「あぁ、そんなに分かりやすかったか」

「殿下……しかし、このままでは……」
複雑な思いを滲ませる義兄に、ラファエルは軽く肩をすくめ、わざと明るい口調で答えた。

「良いんだ。私は不器用だからな。彼女が幸せならそれでいい。政略で誰かと結婚するつもりもないし、兄も承知している。私は次男だから後継を産む義務もない。だから、せめて自由でいたいんだ」

 明るく笑ってみせながらも、その眼差しの奥に影が差していることを、ライナトルは見逃さなかった。


 そんな二人の会話を知る由もなく、リリアナとバルテルは食後、寝室へと戻る前に、二人の子を前に立たせていた。

「リアム。やがてお前は学院へ入り、多くを学ぶことになる。その日まで胸を張って努力を続けなさい」
「はい、父上!」
「エアリス。お前は兄を支えよ。お前にしかできぬことがある。忘れるな」
「……わかった!」

 二人の小さな声が夜に響く。リリアナはその光景を胸に焼きつけながら、夫の言葉を噛み締めた。
 そしてバルテルは、彼女に静かな眼差しを向ける。

「リリアナ。君がいてくれるから、私は生きられる」
「あなた……」

 二人は互いの手を取り合い、深く抱きしめ合った。
 窓から差し込む月明かりが、その姿を柔らかく包み込み、星々が静かに見守っていた。

 ――こうして日々は積み重なり、数年の月日が流れた。

 リアムは学院に入学する年を迎え、凛とした姿で制服に袖を通す。背を見守るバルテルの瞳は、誇らしさと切なさに揺れていた。体は弱りつつあったが、それでも息子の未来を見届ける力だけは、まだ残されていた。

 リリアナはその横顔を見つめながら、心の奥で静かに祈った。  
――神よ、この家族をどうかお護りください。  
子供たちが健やかに成長し、夫と共に笑い合う日々が、どうか永く続きますように。
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