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はるのあと
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「はるのあと」
たまたま聞こえた歌。別に聴くつもりじゃなかった。
けれど私は、気付けば夢中になっていた。
*
「ねえ、何飲む?」
「俺、ドリンクバー全ミックスしていい!?」
「ばか、やめろって」
ギャハハ、と鳴り響く笑い声の方向から目をそらして、ふう、と目を閉じる。
重低音と微かに聞こえる歌声。楽しそうな足音。ドリンクバーではしゃぐ高校生たち。今日もここは変わらず平和。私はぱらぱらと落ちてきた髪の毛を耳にかけ直すと、背筋を正して向き直った。
姫川美咲、高校二年生。将来の夢はシンガーソングライターになることで、今はそれを目指しながら日々カラオケバイトに勤しんでいる。せわしないながらも穏やかな時間の流れるこのバイトは、私の肌に合っている。店長も仕事仲間も、みんな優しいし。変な客はたまにいるけど、まあ許容範囲。とはいえ会計の客もフードの注文も入らずただ突っ立っているだけというのは、なかなかに退屈だ。漏れ出そうなあくびをどうにか噛み殺していると、頭上から 「姫川さん」と声がした。
「お会計いいかな?」
「あ、はい!」
見上げた先にいたのは、うちのカラオケの常連客、雪ノ瀬時生さんだった。声こそハリがあって若々しいものの、全体的に青白いほど透き通った肌と、縦に長い割にあまり肉のついていないように見える細っこい体は、見るたびに不健康なものを感じさせる。
「つか平気? さっきあくびしてたよね、寝不足?」
「み、見られてましたか……。まあそうですね、寝不足、かな。遅くまでギターの練習してて……」
「へえ、ギター? 姫川さんギターやってんの?」
「はい! そういえば、雪ノ瀬さんもいつもギターケース背負われてますよね。ご趣味なんですか?」
そう、彼はここに来るときはいつもギターケースを背負っている。平日は仕事があるのかあまり来ないけれど、土日はいつも長いこと部屋にこもって、弾いたり歌ったりしているようだ。そんなに毎週毎週音楽漬けになっているのだから、きっとすごく音楽が好きなんだろうなとぼんやり思っていた。
「んー……まあ、趣味つーか、仕事?」
「えっ、お仕事?」
「そ、俺音楽教師的なのやってて……もっともここで弾いてんのはただの趣味だけど」
雪ノ瀬さんは、使い古されたレザーの財布をしまいながらそう言って笑った。
「えっ音楽教師!? すごい、楽器お上手なんですね」
「ええ? 上手かっつわれたらちょっとわかんねーけど……まあ、得意ではあるかな、さすがに仕事だし」
「えっ、じゃあその、いきなりなんですけど私にギター教えていただけませんか!?お金は払いますので!!」
勢いのままにそう告げる。彼は目を見開いて一瞬固まると、次の瞬間に目元を引き攣らせて 「俺が!?」と叫んだ。
「えっ、俺が姫川さんにギター教えんの!?」
「はい!私ずっと独学でやってるので、なかなか上達しなくて……自分ひとりでは限界かなと……。プロの方に教えていただければもっと上手くなれそうな気がするんです」
「そ、そう……? いや、まあ気持ちはわかるよ。やっぱ一人でやってると限界感じるよね。とはいえ俺の指導で……いや、いいや。ちょっと待って……はい、これID。登録しといて」
「あ、ありがとうございます!!助かります、また連絡させてもらいますね」
「おっけー。じゃ、またね」
雪ノ瀬さんは、IDを書いたメモを私に差し出すと、ひらひらと軽く手を振って帰って行った。かん、かん、かんと、鉄製の階段の音が徐々に遠くなっていく。耳を澄ませて完全に聞こえなくなったころ、私は手に持っていた紙を見やった。
「はらい、長っ」
細いボールペンで適当に、かつちゃんと読めるように記された彼の字は、なんというか想像通り、という感想を持つような字だった。私はその小さな紙を、ぐしゃぐしゃにならないように制服のポケットにしまって、残り三時間ほどの業務に戻った。
*
何週間か経って、私は雪ノ瀬さんとの待ち合わせのため、ひとり約束の楽器店の前に立っていた。背負われた大きなアコギケースはやはり人目を引くらしく、道ゆく人たちが私の方を振りむいてはそのままに去っていく。まあ別に、長いことギターをやってきてもう慣れたことだ。恥とか不快とかそんなのはどこかに捨ててきた。
あのあと、家に帰った私は手を洗うなり彼の連絡先を追加し、一日暇な日を見つけて雪ノ瀬さんに連絡を入れた。彼の気が変わる前に教えてもらわないと。せっかくプロの人に出会えたのだから、逃すわけにはいかない。
そうして意外なことに三分足らずで返ってきた返信は、またしても想像通りだった。特別ひょうきんだったり、絵文字や顔文字を使うわけではない。淡々とした文面。けれど、刺々しさのようなものは感じられなかった。
ああ、強いて言えば、変な実写の犬のスタンプを使っていた。
「てか、寒……」
夏が終わったと思ったら急激に冬めいてきて、空気はなんだか刺すように冷たい。さすがにもう少し厚着した方がよかったか、すっかり見誤った。などと、家を出る前の己を恨みながらかじかむ手を擦り合わせた。あたためるようなものも持っていないし、仕方ない、音楽でも聴いて気を紛らわせるかとイヤホンを取り出したところで、すこし遠くの方から私を呼ぶ声がした。
「姫川さん! ごめん、待たせたか」
声の主は雪ノ瀬さんだった。
彼は相変わらずの細長い体に、これまた細長いギターケースを背負っている。ストライプのシャツに黒いパンツのシンプルなコーデではあるものの、彼の細身な体型や儚げなオーラのせいか、とても美しく見えた。
「雪ノ瀬さん! いえ、特に待っていないので平気です。今日はよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。や、ていうか早い……早すぎない? まだ待ち合わせ十分以上前だけど」
「そんな、私が頼んだんですからお待たせするわけにはいかないですし。それで言ったら雪ノ瀬さんだって早いじゃないですか」
「ずっと年下の女の子待たせる男がいるかよ。つって結局待たせてんだけどさ。……でもアレだね、姫川さん」
「は、はい?」
雪ノ瀬さんは顎に手を当てて私をじっと見ると、眉間に皺を寄せて言った。
「バイトの時とはやっぱ雰囲気違うね。若い子のファッションはよくわからんけど、パンク系? っつーのかな、オシャレだねえ」
「あ、ありがとうございます。少し派手かと思ってたので、安心しました」
なんだ、やけに見られると思ったらそういうことか。たしかにバイトの時はいつもおとなしめの服装で出勤しているので、ここまで趣味全開の服を見せたことはなかった。正直個性的で賛否の分かれるファッションだと思うのに、彼が真剣にそれを肯定してくれたのは嬉しかった。
彼に楽器店の中に入ろうと促されて、開けてくれたドアをくぐり抜けて中に入った。彼の歩くままについていくと、通されたのは小さな個室だった。
「ここ狭いけど、割といいよ。あ、てかごめん、狭いとこ苦手だったりした?」
「いえ平気です! 初めてきました、こういうところ……。いつも家練なので」
「ああ、まあそりゃ戸建てなら家練が一番だよな」
彼は部屋の隅に背負っていたものを置くと、それの中から丁寧にギターを取り出した。姿を現したギターは、雪ノ瀬さんの体に比べるといささか小さく見える。しかし、とても大事に手入れされているのが一眼でわかるほどきらきら輝いている。照明が真っ白に光を落としているのが印象的だった。
「すごくきれいにされてるんですね、ギター」
「え? ああ、そうだね……。思い入れあるんだ、コイツ」
ネックを握りながらそう口元を歪ませた彼の笑顔は、どうにもすこし陰りがあるような気がした。だからと言って詮索などしないけれど。
雪ノ瀬さんは部屋の隅に置いてあった椅子を二つ引っ張ってくると、そこに腰を下ろしてギターを構えた。
「さ、姫川さんも座んなよ」
「あっ、はい!」
私も彼に続いて座る。ただのパイプ椅子なので座り心地はそれほどだが、高い椅子に座りにきているわけではないので気にしないことにした。
雪ノ瀬さんはついついとスマホをいじってなにかを確認すると、うん、と呟いてスマホをしまった。
「事前に送ってもらった内容で大丈夫? 追加の相談とかあったら聞くけど」
「あっ、えっとー……いえ、ないです! ありがとうございます、気を遣っていただいて」
「別にいいよ。特にないなら始めっか! じゃーまず……運指から行くか」
彼が 「一回弾いてみて」と短く言うので、私も言われるがままに奏で始める。路上演奏には慣れているものの、こうも至近距離で、しかも音楽を仕事としている人に見てもらうことなどまずない。私は珍しく緊張してしまって、なんだか調子が狂いそうだったので、つとめていつも通りの演奏をすることに専念した。正直いつも通りに弾けていたかと問われれば、そうではない気がするけど。
そうして最後まで弾き切ったあと、私は思わず苦笑が漏れた。
「ど、どうでしょう……」
「うん、筋がいいね。つってももう何年もやってんのかな。コードの持ち替えもきれいでばたつきもないし、ストロークも全然力入ってない。すごいね、独学でもちゃんと身についてる。まあただ、気になるところがあるとすれば……」
雪ノ瀬さんは、ひとしきり私を褒めると、すっと真剣な顔つきになって私の問題点を説明し出した。そのときの雪ノ瀬さんの目つきや、丁寧でわかりやすい指導から、私は彼が、このはかなげで不健康な容貌の裏に、確かな音楽への熱意を抱えていることを知った。
*
それから何時間ほど経っただろうか。ふと時計を見遣った雪ノ瀬さんが 「そろそろか」と呟いた。
「意外とすぐ終わっちまったな~。まあでも、聞かれたとこは全部答えられた、かな……」
「はい、もちろん! すごく参考になりました。自分じゃ気づけなかったようなことたくさん気づけて……。雪ノ瀬さんに頼んでよかったです、ありがとうございました」
「や、よかったよこちらこそ。俺の指導で将来有望な子を伸ばせるっつーのは楽しいね。指導者の醍醐味はこれだ」
私と彼はさっさと部屋を片付けて荷物を背負うと、その場をあとにして外に出た。季節はすっかり冬なので、ずいぶん陽が落ちるのが早くなったらしい。空は一面橙色で、遠くのほうは暗くなりはじめていた。
「さっむ! はあ、これだから嫌なんだよな冬は……。手痛えし……」
「ほんとですよねー。間違っても霜焼けとかになりたくないし」
雪ノ瀬さんはそうそう、と笑った。おそらく流れ的にここで解散だろうな、そう察した私は手早く頭を下げ、「今度お礼します」と伝えた。
「いつ頃空いてますか? 好きな時でいいです、なにか奢らせてください」
「は!? いや、いーって! 四十近いジジイが高校生の女の子に奢らせるとか、んなみっともない真似……」
「ダメです! 結局今日もお金払わせてくれなかったじゃないですか。ちゃんと対価は払わせてください、お願いします」
二十センチほど離れた彼の顔を見上げる。真剣な目つきでそうお願いすると、雪ノ瀬さんは額に手をあてて大きくため息をついた。
「押しに弱いんだよなあ、俺は……。これがダメなんだ。んじゃあ、わかったよ。今度一緒にカラオケでも行かないか、歌聴かせてくれよ」
「えっ……そ、そんなのでいいんですか? もっとなにか、ほかの……」
「これがいいんだよ。人の歌聴くの好きなんだ、頼むよ」
正直そんな、お礼にもならないような……なんなら、私だって彼の歌声を聴いてみたいと思っていたのにこれでいいのか、とは思ったけれど、雪ノ瀬さんが望む 「お礼」がこれであるなら、私に断る理由はない。
私が「わかりました」と頷くと、雪ノ瀬さんは片目を細めて笑った。その日そこで解散した私たちは、またそのすぐ後に会う約束をするのだった。
*
「あーっ最悪!なんで今日に限って……!」
突き刺すように冷たい空気を顔いっぱいに浴びながら、いつもの道を駆け抜ける。
最悪だ。今日は雪ノ瀬さんとのカラオケの日なのに寝坊してしまった。普段寝坊なんか滅多にしないのに!
雪ノ瀬さんは 「ゆっくりおいで」と連絡をくれたものの、それだって待たせるわけにはいかない。走って走ったいつもの私のバイト先には大柄な男性が立っていた。
「雪ノ瀬さん、すみません! お待たせしました!」
「おー、姫川さん。ははっ、ゆっくりでいいっつったのに、走ってきた?」
「そりゃ、っ、もう! はあ、本当にすみません……」
雪ノ瀬さんは乱れた呼吸と髪を整える私を見てからからと笑うと、「気にしないでいいよ」と笑ってカラオケへの階段を登った。中で受付をしている時間、普段アルバイトとして働いている側の店に客として来るという不思議な感覚を体験した。その日レジに出ていた店長が 「美咲ちゃんは歌がうまいからね」などと雪ノ瀬さんに吹聴している。私は内心コラ! と言いたい気持ちでいっぱいだった。
そうして始まったカラオケ。正直歌のほうには自信があるし、歌い慣れているから緊張はしていない。最初どうぞ、という雪ノ瀬さんの言葉のままに、私は曲を入れ、マイクを手に取る。
「――――……」
歌うのは好きだ。大きな声が出せて気持ちいいし、なにも考えなくていいし。思うがままに歌うだけで、自分が一番強くなれたような気がする。いつか大勢の前で歌う日を夢見て、ただ歌う。
アウトロが終わって、マイクを机に置く。雪ノ瀬さんの顔を見て 「どうでしたか」と問うと、彼は楽しそうに笑って、手を叩いた。
「いや、すごいよ姫川さん! 本当に歌がうまいんだな……。褒めたいところはたくさんあるが、そうだな、姫川さんなら絶対に歌手になれるって確信したよ。聴かせてくれてありがとう」
雪ノ瀬さんはそう言って、なにか私ではないものを見た。ときどきなにか、遠くを見るような顔を見せる彼の視線の先にはなにがいるのか。私はまだ分からなかった。
彼は 「じゃあ、俺の番かな」と言ってデンモクをいじると、大きく息を吐いてマイクを口もとにやった。
「あんまうまくないから、期待しないでね」
そう前置きをして歌い出した彼を見て、私は目を見開いた。さすがに音楽教師というだけあるのか、声量と安定感、音感はバツグン。しかし、普段のハリがあって若々しい声とは裏腹に、繊細で、なんだか聴いていて悲しくなるような憂げな歌声。歌っている曲が、有名バンドの切ないバラードであることも相まって、彼の泣きたくなるような歌声が引き立つ。けれどその中に確かにあたたかみもある。
「……はあ、人前で歌うの久しぶりなもんだな。あーいや、授業では歌うけど、本気でっつーか。で、どうだった?」
「か、ぁ、感動しました!! すごく、なんというか……心に染みる歌声で、すごく素敵です。歌手として活躍しててもおかしくないくらい……」
「はは、ありがとね! 嬉しいもんだわ、歌褒められると。つーか俺がそんな褒められてたら世話ないな、俺が姫川さんの歌聴きたいっつったのに」
雪ノ瀬さんはうなじをかくと、照れ臭そうに笑った。私は内心、やっぱり私の目に狂いはなかった、なんて上から目線なことを考えていた。初めて会ってから気になっていた彼の歌声。ようやく聴いた歌声が、期待を大幅に上回るものであったので、私の雪ノ瀬さんに対する好感度はうなぎ登りにあがっていった。つくづく音楽オタクでしかない自分の単純さに笑ってしまう。もうすこし彼と仲良くなりたいとか、すぐに思ってしまうのだ。
そうこうして、歌って歌わせて語り合ってを繰り返しているうちに、あっという間に時間は経った。あまり長居すると金がかかるという雪ノ瀬さんの意見で三時間入室だったので、短く感じるのも当たり前なのだが。歌い足りないということもないし、聴き足りないということもない。互いに延長なしで合意した私たちは、会計を済ませて外に出る。
「今日本当に楽しかったです! 雪ノ瀬さんの歌、大ファンになりました。また聴かせてください」
「んははっ、褒め上手だねえ。俺も今日で姫川さんのファンになったから、これで将来姫川さんが歌手デビューしたとき古参ぶれるってもんだろ」
「ふふ、好きなだけ古参ぶってください。関係者席で招待しますね」
お互いに軽口を叩きながらの帰り路。もともとバイト先の常連でよく話したりしていたものの、プライベートで話すようになってからずいぶん距離が縮まったものだ。私よりずっと大人の雪ノ瀬さんが、私にたくさん気を遣って接してくれているのはわかる。それでも、すこし嬉しかった。なんだか友達が増えた気がして。
「そう、んでさあ新曲の……と、ごめん、電話だ」
「あ、はい! 黙っておきますね」
雪ノ瀬さんはデニムのポケットからスマホを取り出す。最新型のスマホのはずだが、彼の無骨で大きな手に比べると、それはどうにも小さく見えた。
鳴り響く着信音。スワイプすれば開けるはずだが、彼は固まったまま動こうとしない。彼の眉間に小さく皺が寄ったのがわかる。なんだか緊張した空気に不安を覚えた私が 「あの」と声をかけると、彼ははっとして着信を拒否した。
「ごめん、なんでもねえわ。迷惑電話だった」
「そ、そうですか? あの、顔色が悪いですけど……」
「え? ああ、さみーからかな。ごめん、ちょっと今日ここで帰るわ。悪いね、今日は楽しかったよ。また!」
「は、はいっ! ありがとうございました!」
雪ノ瀬さんは有無も言わさず私に手を振ると、振り返って走り去っていった。そのひょろ長い足で大股に駆けていく彼を見送りながら、私は雪ノ瀬さんを取り巻く 「なにか」がかたちになっていくのを感じていた。
遠くの空で、雨雲が夕暮れに混じっている。雨が降る前にはやく帰らないと。そちらに向かって走っていった雪ノ瀬さんに一抹の不安を感じながら、私は歩みを早めたのだった。
*
「じゃあね美咲! また明日ね!」
「うん、またね」
その翌日のことだった。雪ノ瀬さんには、あのあとお礼のメッセージを入れてから連絡がつかない。私はたびたびスマホの通知を気にしながら、一日を過ごしていた。
昨日の夜から雨が降り続いている。私は昨日の彼の様子が気がかりで仕方なかった。いつも朗らかな彼が、あんなに青ざめた表情だったからだ。
「……」
私はスマホを握りしめて、目の前に停まったバスに乗り込んだ。頭に乗った水滴を払って窓際の席に陣取る。発車したバスの勢いに合わせて、窓の水滴が追いやられていく。外の風景はあまりよく見えない。つたっていく水滴を指でなぞると、指先がひやっとして心地よかった。
ひとつ深呼吸する。雨の日はどうにもセンチメンタルらしくなって困る。……雪ノ瀬さんのことは気がかりだが、私にも私の生活がある。今日はバイトがないので、まず帰ったら課題をやって、それから、そうだな、久しぶりに弾き語り動画でも撮ろうか。
動画サイトのアイコンをタップして、チャンネルを開く。そこに載っているのは、大量の弾き語り動画。そう、この私が運営している弾き語りチャンネルは、実はなかなかに好評なのだ。基本万単位の安定した再生数を獲得しながら、着実に登録者数を伸ばし続けている。
特に人気なのは、シンガーソングライター 「鹿目春樹」の曲をカバーした動画。鹿目春樹は、現在世界中で大人気の男性歌手。端正な容姿と爽やかかつ甘い歌声で、女性層を中心に人気を博している。
彼が頭角を現すきっかけとなった 「はるのなか」は、繊細かつ力強く背中を押してくれる応援歌で、近年はこれを卒業式の合唱に起用する学校も増えてきたという。そんな彼の代表曲のカバー動画は、今や五十万再生に届きそうなほど。話題の歌手のカバー動画とはいえ、私の歌声や演奏を認めてもらえているようで、自信の芽が伸びていくのを感じる。
車窓に頭をもたげて、イヤホンから流れる彼の歌声に耳を澄ませる。鹿目春樹の歌声は、そう、甘くて優しいけれど、ときどき温度のないものを感じる。彼のことは好きだけれど、そこだけはいつも引っかかっていた。
不意に体が前に崩れて、バスが停車したのを自覚する。私はもう一度雪ノ瀬さんからの通知を確認すると、バスを降りて傘をさした。
「うわー、ひっどい雨……」
バスを降りてみると、さっきよりもはるかに雨足が強くなっていた。びちゃびちゃぼたぼたと傘をたたく雨の音で、人の声や他の音などなにも聞こえなくなってしまう。ああ、まったく雨は好きじゃない。頭痛はするし、靴に染みてくるし、湿気で楽器は傷むし。正直ろくなことがない。紺色のビニール傘に透かして見る水滴は、伝っては合体して大きくなり、そのまま地面に落下することを繰り返している。なんかこれって、集合体恐怖症の人は大丈夫なんだろうか。とか、こういう変なことを考える。
自宅までの道を歩き出す。お気に入りのロックを爆音で流しながら、もうすっかり雨で黒ずんでいるコンクリートを目で追った。
手や袖について鬱陶しい水滴を払いながら通りがかったいつもの公園のベンチに、なにやら大柄な男性が座っていた。この大雨だと言うのに傘もささず、ただ項垂れている。
あれは――。
「……雪ノ瀬さん、なんで」
彼だ。色素の薄い茶髪とよく着ているシャツを雨でいっぱいに濡らしながら、まったく動こうとしない。慌てる気持ちを抑え、雪ノ瀬さんの方に駆け出す。
「ちょっと、何してるんですか!?」
自分が濡れることも気にせずに、雪ノ瀬さんの頭上に傘を差し出した。雪ノ瀬さんは緩慢に顔を上げる。雨で崩れ切った彼の髪や顔から、雫がしきりに流れ落ちている。濡れたその顔は、まるで涙なのか雨なのか判別のつくものではない。心臓がざわつくのを感じる。
「……姫川さん、どうして」
「こっ、ちのセリフですよ! ……雨、ひどいですよ」
「……」
雪ノ瀬さんはなにも言えない、と言いたげな顔で私から目を逸らす。
もともとはかなげで、黙っていれば消えてしまいそうな雰囲気の彼だったが、今の彼が纏うのは、今すぐに命を絶ってすらしまいそうな危ういオーラだ。
「……いったん、屋根のあるところ行きませんか。立てます?」
「あ、ああ……」
雪ノ瀬さんはゆっくりとベンチから身を起こすと、その大きな体を傘の中に押し込んで歩き出した。この大きな公園には、雨の凌げる建物がある。私は彼の歩くペースに合わせ、彼を軒先の椅子に座らせた。
力なく倒れこむように座った彼の隣に、私も腰をおろす。乾いていたコンクリートに、靴底型のシミができる。彼の顔を覗き込むと、あまりにも蒼白で胸が痛む。血の気のなさとクマ、いつもより伸びた無精髭。こんな雪ノ瀬さんは見たことがなかった。
「雪ノ瀬さん、なにがあったんですか」
「……姫川さんに……聞かせるようなことじゃ、ないよ……」
「……そんなこと言って、はいそうですかってならないでしょ!? 大雨に濡れて項垂れてるような人見過ごすほど薄情じゃないので!」
柄にもなく大声でそう迫ると、雪ノ瀬さんは戸惑った表情をして視線を彷徨わせた。いけない、昨日からの心配が目の前でかたちになって、つい感情が噴出してしまった。私は焦って「ごめんなさい」と頭を下げる。
「何も知らないのに偉そうに……。無理に聞き出したいわけじゃなかったんです」
「いや、俺の方こそごめん。姫川さんは心配してくれたのに、冷たかった。……ちょっとだけ、聞いてもらっていいかな」
私ははい、と言葉にする代わりに、彼の目を見てすこし頷いた。雪ノ瀬さんは私のその動作を見て、一度目を伏せると、か細く息を吸った。
「姫川さん、さ、その……歌手の、鹿目春樹って……知って、るっつーか……まあ知ってる、よね?」
「あ、はい……もちろん知ってます、というか、好きですね」
「そっか、好きか……。好き、好きか」
「あの、それで、彼がどうかしたんですか……?」
雪ノ瀬さんは震える声で 「いや」とつぶやくと、目を覆って俯いた。
「俺は……俺と、春樹は」
彼は何度も口を開いては閉じ、なにを言えばいいのかを探しあぐねているようだった。春樹、という、妙にくだけた呼び方が引っかかる。彼と鹿目春樹になにか関係があるのか。
あまりに長い間に声をかけようかと思ったところで、雪ノ瀬さんが大きくため息をついた。
「……ごめん、やっぱ、言えねえな。気にしないでくれ」
そう言って、雪ノ瀬さんはゆっくり立ち上がる。雨音の合間に、彼が鼻をすする音が聞こえた。震える手を下ろし、おぼつかないながらも歩き出す彼は、まだびしょ濡れのまま。いやいや、帰らせるわけないでしょ。ちょっと、と彼の腕をつかむと、握られていたスマホが、はじかれる様に手から落ちた。
「ご、ごめんなさ……」
かつん、と音を立てて地面に転がる。ヒビなど入っていないだろうか。反射的にスマホを拾い上げると、ぱっと点いた画面にメッセージが表示された。
「あ、通知……」
瞬間、目に入ったメッセージに絶句する。そこに表示されていたのは「彼」の名前だった。
『時生、この間の件だけど、考えてくれた?お金は渡すし、今までみたいな曲を作って……』
表示されていた名前は 「鹿目春樹」。あの、鹿目春樹、だった。いやいや、鹿目春樹が? 同姓同名の別人じゃないのか。そう考えたかったけれど、私の中で疑念の思いはふくらんでいく。
「鹿目……?」
「っ、見るな……!」
「わっ!」
雪ノ瀬さんは私からスマホをひったくると、折れてしまうのではないかというほど力強く握りしめた。奪い取られた拍子に引っ掻かれたのか、手の甲に赤い傷ができている。温厚な彼が他人に怪我を負わせるほど焦っているなんて。
「すみません、勝手に見てしまって……」
「なんで……なんなんだよ、クソ!」
彼はすっかり乾ききった髪をがしがしかき乱すと、傍らに建っていた柱を、力のままに殴った。どすっと重たい音がして、彼の息を呑む音が聞こえる。雪ノ瀬さんは肩で呼吸をすると、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
「ゆ、雪ノ瀬さん、大丈夫ですか……」
「ごめん、姫川さん、ごめん」
彼の顔は影になっていてよく見えない。土砂降りの雨を降らす雲は、空を一面覆っている。遠くの方で雷が鳴った。
あたりに人は誰もいない。当たり前だ、こんな雨の中で出歩く人間などいるわけがない。雪ノ瀬さんはまた言葉を選んだようだったが、聞いてほしい、とつぶやいて、話し出した。
*
俺があいつに出会ったのは、大学一年の夏、アホみたいに退屈な講義がきっかけだった。
父も母も音楽好きの平凡家庭に生まれた俺は、それは当然のように、物心つく前には楽器を持たされ、弾かされていた。まあそんなことばかり教えられていたから、俺はまんまと音楽の魅力に憑りつかれ、小学校を卒業するころには、打楽器、弦楽器……うん、大概の楽器は最低限こなせるようになっていた。英才教育というやつだ。
そのまま成長した俺は、軽音部に入部。中高はバンド活動に明け暮れ、歌うことも好きになった。音楽ならなんだって聴いたし、人前に立って楽器を演奏するのは、この世で何よりの快楽だと知った。
そんな生き方してきたもんだから、進路は、まあ迷いはしたものの、音大一択だった。俺は将来、なにか音楽に関わる人間になるんだと決めていた。ろくに勉強してこなかったものだから、そっちの方はあいにくといった程度の実力しかなかったが、実技の授業はよく褒められた。生来人好きなところもあったから、友達も何人かできた。勉学にも人間関係にも困らず、結構いい毎日を送っていたと、今は思う。
そんな夏にさしかかった日だった。教室の中は、半袖ではすこし肌寒く、服装選びに失敗したな。そんなことを考えながらうわの空で受ける講義は、正直なにも頭に入ってこない。この授業、滑舌が悪すぎてなにを喋っているのかろくに聞き取れたもんじゃないし、そもそも説明がヘタクソすぎる。
だめだ、どうにも眠くなる。いけないと思いながらも漏れ出るあくびを噛み殺せない。はあ、と目を開けた瞬間、横から 「ねえ」と声が飛んできた。
「は?」
「ふふ、ごめん、急に。退屈そうだったからさ」
そう笑って声をかけてきたのは、思わず面食らうほどの美男子だった。
優し気で、二重幅のきれいな垂れ目。それと対照的な、形のいいきりっとした眉。高く通った鼻に、厚みのあるピンクの唇。肌荒れのひとつも見当たらない、輝く白い肌。なにより、色気のある左目の涙ぼくろ。おいおいまさか、こんなイケメンが俺の大学にいたとは。俺はまじまじ顔を見てしまいそうな気持ちを捨て去り口を開く。
「あー……ははは、恥じーな、見られてた?」
「うん、あくびしてるの見ちゃった。きみ何年生? 僕、今年入ったんだ」
「あ、俺も一年なんだ! 同じだ、俺、雪ノ瀬時生。お前は?」
「時生! 僕、鹿目春樹っていいます。よければ友達になろうよ、時生」
「ああ、よろしく! よろしく、春樹」
すっと差し出された左手を握る。あたたかくて、でも、指先の皮が厚くて。ギタリストの手だな、そう思った。そのとき目が合って微笑んだ春樹の、つややかに輝く黒髪をよく覚えている。
そこからどう仲良くなったのかは。正直言ってあまり覚えていない。もう俺たちは、まるでそういう巡り合わせだったように、あっという間に距離を縮めていった。その講義の日は絶対に隣に座るようになって、その間じゅう、こっそり話をした。どうせなに言ってるかわからないんだし、なんて失礼なことを言って。
大学生活はじめての夏休みに入っても、俺と春樹は頻繁に待ち合わせてはCDショップに行ったりセッションをしたり、特に目的もなくだらだら時間を潰した。それでも楽しかった。
春樹は頭の悪い俺とは違って本当に頭がよく切れる。座学がからっきしの俺にとって、春樹は誰よりわかりやすい先生だった。それから、歌手を目指しているということも教えてもらった。これを教えるのは時生が初めてだと言うのを聞いて、不覚にも嬉しくなった。正直、春樹ならどうやったって歌手になれてしまうだろう、俺はそう確信しているくらい春樹の才能を買っていた。実際、春樹の甘くてみんなを虜にする歌声は天性のものだ。ただうまいだけじゃなく、飾らないのに人の心を揺り動かすなにかがあった。どの楽器だって俺よりずっと上手だった。誰が見たって春樹は音楽に愛されていたし、同じように音楽も春樹を愛していたと思う。……少し作曲は苦手なようだったが、それも克服できる範囲だった。
お互いの家に行くこともあった。俺の両親は春樹をよく歓迎していた。それから、そんな実家暮らしの俺とは違って、春樹はアパートで一人暮らしだった。
家に入ってしばらくして、 「両親は?」と俺がつい口にすると、春樹は苦笑しながら俺の前に麦茶の入ったマグカップを置いた。
今思えば、俺はなんと不躾な質問をしたのだろうと今は思う。それでも嫌な顔をしたりせず、春樹は話してくれた。
「別に、隠してるつもりじゃなかったんだ」
春樹の両親が、昔から音楽活動に肯定的でないこと。それでも春樹は音大進学を諦めず、そうであればと半ば勘当される形で単身上京してきたこと。そんななか、家の中が音楽で溢れているような俺を見て、内心、少しうらやましさすら感じていたことを、春樹は終始、どこか切なそうな表情で話してくれた。目を伏せるたびに、綺麗な長いまつ毛が光を受けていた。
俺は、春樹のそんな告白を聴いて、勝手にコイツをなんでも持っていると思い込んだ己の浅ましさを恥じた。そして、俺を羨ましいと思っていた春樹の境遇を想像して、涙すら溢れてしまった。
春樹はそんな俺を見て、 「どうして時生が泣くんだよ」と、困ったように笑った。俺はごめん、と謝りながら、差し出されたティッシュで涙を拭っていた。でも春樹なら、絶対にいつかそんな両親も見返してやれるだろと、そう思った。
そんな俺と春樹の関係は、結局卒業までなにも変わることはなかった。ギリギリの課題をお互いに励まし合いながら完成させたり、バカをやり合って大声で笑いながら朝を迎えたり。それから、俺が二十歳の誕生日を迎えた日、春樹は誰よりもはやく連絡をくれて、そのまま春樹の家で人生はじめての酒を開けた。たったひと缶ですぐ酔いが回ってしまった俺と違って、春樹はいくら飲んでも顔色ひとつ変わらなかった。おぼろげな意識の中、涼しい顔の春樹が 「大丈夫か」と俺に声をかけたのを見て、コイツとんでもねえ、と思った。俺はそのあと吐いた。
卒業後の進路が徐々に定まってきたころ、春樹は無事音楽レーベルへの所属が決まった。俺はというと、都内の高校で音楽教師として働けることが決まっていた。
教職の道に進むと春樹に打ち明けたとき、それはそれは驚かれたものだ。俺も最初はそのつもりはなかったのだが、春樹に作曲を教えたり、友達に楽器の扱いを教える中で感じたのだ。俺は人に教えるのが肌に合っているのかもしれないと。いつか春樹の子どもにも教えてやる日が来るかもな、なんて言ったら、春樹は恥ずかしいだろと笑った。
そんな卒業を目前に控えたある日の日曜、もうすっかり暇を持て余していた俺が実家のソファでだらけきっていると、母親が呼んだ。行ってみれば春樹からの電話だったので、「どうした」と聞くと、春樹は 「お互いのギターを選びに行かないか」と言う。なにも支度なんてしていないし、あまりに突然すぎる誘いではあったが、俺は二つ返事で承諾して、大急ぎで待ち合わせ場所へ向かった。
「春樹!」
待ち合わせ場所へ着くと、既に春樹は俺を待っていて、絶え絶えの息でごめん、と謝る。
「待たせたな……」
「待ってないさ、謝るなよ。来てくれてありがとう、いきなり誘ったのに」
「いやいや、むしろ誘ってくれてうれしいよ! お前のギターを選べるなんて夢みたいだ、早く行こう!」
「あ、ああ……!」
その日、はじめて人のために楽器を選んだ。星の数ほどあるギターの中から、誰かを思ってひとつを選ぶというのは思っていたよりずっと難しかった。音、重さ、材質、持てるすべての知識を使って選んだギターを、春樹は嬉しそうに受け取って、ありがとうと笑った。春樹が俺のために選んでくれたギターも、今まで俺が使ってきた他のどのギターより、音もなにもかも、ずっといい気がした。今思えば、舞い上がっていたんだと思う。それでも、この先このギターを相棒にしていくんだという気持ちは募るばかりであった。
「大事にするよ、ずっと」
大学生活四年間の中で、きっと一番の思い出で、春樹との最後の思い出。嬉しくて、ほんとうに、このギターがあればお互いきっと頑張っていけると思った。
よく晴れた春の日、新品のギターケースを背負ってふたりで歩くコンクリートに夕暮れの影が伸びていた。歩調に合わせてふらふら動く影を見ていると、柄にもなく寂しくなった。
「もう卒業になるんだな」
「……だな。時生と出会って四年経つなんて、信じられないよ」
「ほんとだよな! いきなり話しかけられてびっくりしたんだぜ、あんとき」
「あはは、だろうね! 僕、結構前から君のこと知ってたよ。独特の雰囲気だなと思って、ちらちら見てた。あのとき、思い切って話しかけてよかったな」
「えっ、初耳だぞそれは……」
ははは! と楽しげに笑う春樹につられて、俺も笑う。知らなかった、春樹が俺のことを知っていたなんて。嬉しいと同時に、そんなに目立ってたのか、と気恥ずかしい気もする。談笑するうちに、別れ道は近づく。背中でごとごと鳴るギターを背負い直して、春樹の背を強めに叩いた。
「いった!! なんだよ時生!?」
「ははっ! 絶対有名になれよ春樹! そんで、アリーナでライブして、俺をそこに呼んでくれ。それが、俺の夢だ」
「……ああ、もちろんだ。最前で見ててくれ」
俺より少しだけ背の低い春樹の影が、俺を追い越していく。気軽に会えなくなるのは寂しいが、なにも今生の別じゃない。また会えるんだ。俺と春樹は、互いに 「またな」と告げると、お互いの帰路を急いだ。俺の大学生活最後の思い出。春樹のおかげで楽しかった四年間の閉幕だった。
*
そうして俺たちは卒業し、そのまま、一年ほど経った。
俺はまあ、新任教師ということで日々忙しくしつつも、大好きな音楽を人に教えるということに毎日やりがいを感じていて、寝不足でも腹が減っていても楽しい毎日だった。
……反対に春樹はというと、歌手としての芽がどうも思ったようには出なかったらしい。テレビで見かけることも、街中で話を聞くこともない。心配になってたびたび電話をかけると、いつもあまり元気のない声が出たものだ。
そのたびに俺は「お前には才能がある」「いつか絶対売れる」と励まして、春樹を元気づけていた。俺にできることがあれば手伝うとも言った。なにもお世辞じゃないし、嘘じゃない。本心だったんだ、すべて。
それから、どれほど経っただろう。たぶん、もう一年くらい回ったところかな。日曜昼下がりの、あくびが出るような陽気だった。静まり返った部屋に、大音量で電話が鳴る。
「わーっ!! なっ、と、もしもし!?」
そのころ俺はもう一人暮らしを始めていて、実家暮らしのころより余計に気が抜けきっていた。ちょうどそのときも、怠惰だとは思うが、ソファに座りながらまどろんでいたところだった。
俺は心臓が止まりそうな思いで飛び起きると、急いで電話を手にして耳につけた。
「……もしもし、時生?」
電話から聞こえる声は、春樹だった。連絡をとるのはずいぶん久しぶりだ。俺が忙しくなってしまって、あまり話せなかったから。
「春樹!? ひさしぶり! どうしたんだ、いきなり」
「ああ、ひさしぶり。ごめんな、急に……。ちょっと、頼みたいことが……あるんだ」
久しぶりに聴いた春樹の声は、ずいぶん大人びたというか、すこし疲れている気がした。まだ歌手として成功はできていないようだし、生活が苦しいのか……。いや、そうじゃないよな。きっと、焦っているんだ。
「あ、ああ。どうした? というか、なんだか疲れてそうだな、大丈夫か?」
「……いや、平気だよ。ちょっと寝不足なだけなんだ。それで、折り入って頼みたいんだが……時生、よければ僕に、曲を作ってくれないかな」
「えっ?」
春樹は申し訳なさそうに、消え入りそうな声でそう言った。まるで断られるのを確信しているように。
けれど俺は、俺は急に笑顔が湧いて出て、まじかよ! と、心の中で大きく叫んだ。
「もちろんだよ春樹! ぜひ俺にやらせてくれ!!」
「ほ、本当か!?ああ、ありがとう時生……。本当にありがとう、ごめん」
「謝るなよ! お前のために曲を作れるなんて、これ以上にうれしいことはないよ。本当にうれしい、絶対にいい曲を作るからな」
そこからは一瞬だった。どういう曲調がいいかとか、締め切りはいつかとか、捲し立てるように一方的に聞いて、気おされ気味に答える春樹を気にも留めず、ひたすらメモをし続けた。電話の最中に即興で浮かんだフレーズすら忘れないように書き留めた。
一通り必要なことを聞き終えると、「絶対売れるの作るから、待ってろよ」と大きな声で宣言して電話を切った。
ああうれしい、うれしくて、電話の前でひとりガッツポーズをすると、さっそくパソコンを立ち上げて作業に取りかかった。中学のころぐらいにまったくの独学ではじめた作曲だったが、俺の作る曲は昔から褒められることが多く、高校のころには文化祭のテーマソングを依頼されたこともあった。春樹に出会ってからも、作った曲を聴かせてやるたびに、春樹は俺を羨望の眼差しで見たものだ。
いずれ春樹の役に立ちたいと思っていた。それがまさかこんな形で、俺の得意な作曲で協力できるなんて、こんなにうれしいことはない!
春樹の曲を作れる。春樹が俺の歌を歌う。俺の名前が載った曲が、春樹の声で世界に届く。その想いを原動力に、俺はその日から、寝る間も惜しんで作曲にいそしんだ。もちろんちゃんと仕事もした。朝起きて仕事に行って、帰ってきて、それから夜はひたすら作曲。そんな生活は長く続いた。一、二……うん、数ヶ月。
春樹になんとしても喜んでほしくて、気に食わないところがあれば納得がいくまで修正に修正を重ねた。それも、苦痛じゃなかった。むしろ作曲だけに集中していると、なにもかも忘れてただ何時間も自分だけの世界に没入できる。ひたすら音を足して、消して、重ねて。それだけを繰り返した。
そして、ついに。
「……でき、た」
俺渾身の一曲は出来上がった。苦節うんヶ月、出来上がったのは、夜を徹して作業をしてすっかり日が昇りきったときのことだった。俺の持てる限りの情熱と技術をすべて詰め込んだその曲は、今まで俺が作ってきた曲の中で、一番輝いて見えた。もう寝不足と曲が完成したアドレナリンで心臓がバクバクだった。もう一度最後まで自分で聴いて、歌って、ああこれなら完璧だ、そう確信した。
「春樹おはよう! ついにできたよ! ようやく、ようやくだ!」
「えっ、えっ!? 曲のことか? もうできたのか!?」
徹夜の朝八時半。電話越しの春樹の、依然元気のない声とは裏腹に、俺の声は近所迷惑になりそうなほどうるさかった。
「ああ……! 喜べ春樹! コイツは、コイツならお前は絶ッ対に売れる!!」
「……ははっ! 自信満々だな、時生。ああ、本当にありがとう。迷惑をかけたな。……聴くのが、楽しみだよ」
春樹の言葉がうれしくて、ああ、頑張ってよかった。と思った。徹夜で動いているのに、微塵も眠気を感じなかった。春樹の声がなんだか暗いのも、気にも留めなかった。
*
曲を春樹に渡してからは、それがテレビから聞こえる日を心待ちにした。自分の曲なのに毎日のように口ずさんでは、やっぱりいい曲だなんて喜んで。
春樹からの連絡はなかなか来なかったが、まあいろいろ忙しいんだろうな、なんて考えて気にしていなかった。
そしてついに、「その日」はやってきた。
「たでーま」
夕飯の買い物から帰ってくると、狭い部屋にはカーテン越しに夕日が差し込んでいた。そこかしこ一面真っ赤で、まるで火の中のようだ。ずうっと遠くで、子どもの笑い声がする。部屋の中にあるのは、時計の機械音と俺の足音だけ。
「……」
俺はなんだか、その静けさに妙に不安を覚えた。普段こんなことないのに。そして、反射的にテレビの電源を強く押した。
「……あっ!!」
ぶわっと画面に色がつく。映っていたのはニュース番組で、なんと、取り上げられていたのは俺の歌。あの日俺が春樹に贈った、俺と春樹の歌だった。
「オイオイ、嘘だろ……!? んだよ、テレビで取り上げられるほど人気になってんのか! はははっ、やったな春樹、ついに……!」
ニュースキャスターの女性は、ちょうどこの曲について語り終えたところらしかった。一歩出遅れた、と思ったが、不意に彼女が 「スタジオにお呼びしたいと思います」なんて、よく聞き慣れた言葉を吐いた。
その言葉に数秒遅れて、春樹は、昔と変わらない歩き方でスタジオに入ってくる。
「春樹……!」
画面の向こうの春樹は、いつにもましてきれいで、精悍な顔をしていた。ずいぶん髪型や雰囲気が変わった気がするな。体型も、痩せたかもしれない。すこし心配になった。
久しぶりにまた会いたいけれど、テレビに出てしまったら、会えなくなっちまうかもなあ。とか、遠くなってしまった気がして苦笑する。ソファにどかっと腰を下ろして、春樹が喋り出すのを待つ。ニュースキャスターの女性が口を開くのを見て、思わず身構えた。
「さて、今回の『はるのなか』という曲についてですが、この曲をつくられたのはどうしてですか?」
「……え?」
この曲を、つくる? 春樹が?
「ええ、そうですね。歌手として伸び悩む自分に向けて応援歌をつくろうかと考えたのがきっかけで……」
いやいや、おい。なんでだよ。疑問の言葉が次々と浮かんくる。なにが起きているのか、わからない。理解できない。
俺が、すべて俺が作ったはずの曲。何ヶ月も朝から晩までかけて、魂を込めた曲。春樹への最大の応援歌。それを春樹は、まるで自分がつくったかのように、淀みなく語り続ける。俺の意志とはまったく違うようなことを、春樹はためらいなく語るのだ。
「……おい」
歌詞でよく聞く、時が止まるというやつだな、これは。
「……春樹、あれはどういうことなんだ。説明……して、ほしい」
深夜二時に差し掛かる頃、俺は受話器を握りしめ、春樹にそう問いかけた。
「ごめん、本当にごめん時生。僕は言ったんだ、僕の親友が作った曲なんだって。けど、事務所が……。すべて僕の名義で発表するって、聞かなくて……!」
受話器越しの春樹は、悔しそうな口ぶりでそう言った。俺はもうそのころには、感情の波なんてすっかり立たなくなっていて、ああ、そういうもんなのか、とすっかり納得していた。納得しいたというより、ろくに考えられなかった。
「……俺は……プロじゃないからよくわかってやれないけど、そういうこともあるんだな。そうか」
「っ、ああ……。本当に、ごめん……。春樹の努力を、僕は、踏みにじるような真似を……!」
「いや、いいんだ、気にしないでくれ。俺の方こそ、お前を責めるようなことをしてすまなかった。……曲、売れてよかったな、応援してるよ。それじゃ」
俺は春樹の言葉を遮るようにそう言うと、受話器を置いて、そのままベッドに転がった。まるで魂が抜けてしまったようだ。体と心が重くて動かない。涙も出ない。こころのなかで輝いていたはずのなにかは、春樹に向けていたあれやこれは、すっかり消えてしまった。
……ちゃんとわかってる。春樹は、春樹は。
「春樹は、悪くないん、だ……」
それから、春樹は一躍時の人となり、瞬く間にメジャーな歌手としての地位を築いた。街中で春樹の歌声を聴かない日はなかったし、その名前や顔をテレビで見ない日はなかった。ライブも、すっかり大きいステージに立つようになった。
ずっと応援していたはずの親友がうれしそうに笑っていて、うれしいはずなんだ。自分のことのように喜べて応援できると、思っていた。けど違った。この世界のだれも。俺の名前を、俺が作った曲を知らない。あれは、もう、春樹だけのものになったのだ。
……ときおり、親友のよしみだとでも言いたいのか、春樹の膨大な印税のごく一部が俺にも入ってきた。最初はいらないと拒んだが、春樹がどうしてもと言うのでそのままにしておいたからだ。おかげで、生活に困窮することはなかったが、それは俺にとってはたいしたことではなかった。
そのうちに仕事が手につかなくなった。楽しかったはずの職場ですら、春樹の話題であふれている。すれ違う生徒、会話する教師、いつも春樹の話をしていて、そのたびに心がすりおろされるような気分だった。あの曲はすばらしい、天才だ。本来なら俺に向けられていたはずの言葉は、画面の向こうの男にすべて投げられて消えていく。言ったって信じてもらえるはずもない。気がふれたのだと思われて終わるだろう。
俺はとうとう耐えがたくなって仕事をやめた。なにもできなくなってずいぶん体重は減ったし、もうすこし血色感のあったはずの肌は、気づけば青白くなっていた。連絡のろくにつかなくなった俺を心配した両親が、無理やり病院へ引きずっていった。医者からは心を病んでいると言われた。そのまま薬を飲み続けて数年。俺の精神状態はずいぶん回復し、非正規ではあるものの、結局また教師の道に戻った。俺には他の道で働いてやっていけるような知識はなかったし、やはり音楽が好きだから、誰かに教えたいと思った。俺のもてることで、誰かの力になりたかった。
そうこうしているうちに、スマホが広まりSNSもはやりだした。春樹の連絡先も、いつの間にか追加されていた。正直、いつ交換したのか、というか、この付近の記憶は未だにあまりはっきりしない。なんとかギリギリでやり過ごしていたことだけは、覚えている。とはいえ、春樹から連絡をとってくることはまったくと言っていいほどなかったし、俺もあまり思い出したくなくて、連絡は取らなかった。
そのころになると、春樹の人気は全盛期ほどではなくなっていた。外に出て春樹の話をしている人はあまり見なくなって、俺はなんだかほっとしたような、いや、やはり寂しいような気持ちもあった。
あの曲以降、おそらく春樹が、すべて自分自身の力で作ったであろう曲たち。ちゃんと一度は聴いた。たしかによかったけれど、いまいちハマらない。正直盛り上がらない。そんなものだから、当然世間の評価もあまり上がらなかった。
すっかり俺と春樹は疎遠になったし、きっとこのまま春樹と俺の縁は切れていくのだろうな。どうにもはまりの悪い春樹の曲を聴きながら、俺はそう思った。春樹と出会ってからいいことも悪いこともあった。縁が切れる悲しみもあるが、それは救いでもあるのだ。
*
二十八になったころ、 また突如として、俺を大きく脅かす出来事が起こった。
雪ノ瀬、の苗字に違わず、うまいことクリスマスに生まれてきた俺だが、毎年冷え込んだ年の瀬に、祝ってくれる人もいないのに歳をとっていた。
その年も例に漏れず、ひとり寒い家で炬燵にこもりながら、職場の人たちが 「少し早いけど」と言いながら贈ってくれたケーキをちまちま食べていた。今日の帰り道は、うっすら初雪が積もっていて綺麗だった。冬は嫌いじゃない。少なくとも暑いのよりよっぽどマシ。ただ、ふわふわの新雪は、踏み固めると泥でぐちゃぐちゃに汚れてしまう。それはどうにも見苦しくて、かわいそうで、俺的には許せない。
「はー、ケーキうま!」
クリスマスケーキと誕生日ケーキを兼ねた、ちいさな祝福。でも、そもそも三十路が見える歳になって誰が喜ぶものか。ストレスでずいぶん白髪も増えたし、悪いことしかない。
やけくそになって、チョコケーキを大きく口に放り込む。上に乗っていたビターチョコが口の中でじんわり溶ける。かなり甘い。甘いが、うまい。フォークを口に咥えたまま、左手に握っていたスマホでSNSを開き、タイムラインをスクロールする。この国のどこかの、名前も知らないカップルが手を繋いでいる写真。俺は上下の歯でフォークをかちかち噛みながら、ただひたすらスクロールし続ける。
「……ま、俺には関係ねーけど」
いやいや、俺だって彼女の一人やふたりいたことはある。ただ、すぐ振られてばかりだった。もちろん大事にしてないつもりじゃない、ちゃんと愛してるつもりだった。でも、ほら、音楽が大事すぎたんだ。……いや、俺が悪いけど。
写真越しのイルミネーションに目を細める。羨ましくないわけじゃないけど、そんなこと言っても仕方ない。ばからしくなって、スマホを机に置こうとしたとき、ちいさくスマホが震えた。
「ん?」
ぱっと画面に表示されたメッセージが目に入る。
春樹からだ。
「……なん」
『時生、久しぶり。ごめん、また僕に曲を書いてほしいんだ』
「はるき」
喉が締まって、変な声が出た。
スマホが膝をかすめて床に落ちた。ざわざわざわざわ、心が騒ぎ立つ。
わかってる、春樹は悪くない。悪いのは、俺の名前を使うことを許さなかった、コイツの事務所だ。
「春樹……」
断るのか、受け入れるのか。道なんて最初からひとつのようなものだった。すっかり冷静さを欠いた俺は、どうしたらいいかわからなくなって、メッセージを開いたまま固まる。
既読をつけてしまった。はやく返さないと。
でもどう返したらいい、なんて返すのが正解か。スマホを握って、肩で呼吸をする。どうしたらいいんだ、どうしたら。
「……い」
軽快な音楽がけたたましく鳴る。またも俺は、心臓が止まる思いをした。
着信だ、春樹からの。
「……ああ」
俺はボタンを押すと、スマホを耳につけてひたすらに呼吸を落ち着けることに徹した。
「……ああもしもし、時生? 悪い、返信がなかったから」
「い、いや、ごめん。ちょっと……」
「急にごめんな、さっきメッセージでも送ったんだけど……また曲を作って欲しいんだ。今度こそ絶対にお前の名義で発表するから、頼む!」
ぐちゃぐちゃだ。なにも考えられない。
呼吸が浅い。心臓が痛くてうるさくて、うまく声が出ない。
「……ぁ、の」
「……時生、お願いだ」
「……、あ……」
自分の心臓の音しか聞こえない。
言え、言え。無理だと言え、言え!
「…………わかった」
ぐちゃぐちゃに、綺麗だった雪がぐちゃぐちゃになる。昔からそれが汚くて嫌だった。嫌だった、のを、思い出していた。
*
「……三十七年間生きてきて、俺は今までずっと、春樹の曲を書いてる。俺は、アイツの……ゴーストライターを、やってる」
雪ノ瀬さんは、顔を伏せたまま、苦しそうに、本当に苦しそうにそう搾り出した。
私はというと、そりゃ当然ショックだった。私が知っていた彼は、彼の作曲の才能は、すべて嘘だったんだ。尊敬していたのはまがいもので、今私の横で、大きな背中を丸めるこの人こそが、彼の「才能」そのものなのだ。それはすぐには信じられないが、でも、きっと全部真実なんだ。私は自分が信じていた鹿目春樹の顔が、黒く塗りつぶされていくような、怒りや失望に似たものを覚えていた。
「雪ノ瀬さん、それ……それ、騙されてるんですよ、春樹……さん、は、雪ノ瀬さんの作曲の才能を、自分のモノにしようとして……」
「わかってる! 俺だってなにもそこまでバカじゃない。春樹が俺を騙してることはもう、ずっと昔に知ってる。でも、でもわからないんだよ、自分が。苦しいし嫌だけど、逃げられないんだ。春樹を前にすると、自分がわからなくなる……」
その声は葛藤と苦痛に満ちている。いつも穏やかで、大人びていて、優しい雪ノ瀬さん。そんな彼が、今はなんだかひどく小さく見えた。道に迷って泣いている子供のようだった。
「雪ノ瀬さんは、もう……やめたいんですか?」
「……やめたいんだ、と、思う。もう疲れたんだ、春樹に、人生を振り回されるのは」
「だったら、ちゃんとそう伝えないと、ずっとこのままですよ! ごめんなさい、無責任で。でもそうしないと、雪ノ瀬さんもう、本当に壊れちゃいますよ……私、それは嫌だ……」
うつろにこちらを見た彼の顔は、やはりまだ、恐ろしくなるほど青白いように見えた。
外は依然ひどい雨だ。ざあざあ打ち付ける雨が跳ねまくって、ときおり雨のにおいが鼻をかすめる。彼の肩口のシャツは、びしょびしょに色を変えていて、まだ乾く気配はない。透けそうなほど色素の薄い毛先からも、ぽたぽた雫が落ち続けている。きっと寒いだろう。
私が 「使ってください」とハンカチを差し出すと、雪ノ瀬さんはおずおずとそれで頬を拭いた。
「苦しいし、やめたいよ。でも、でも、いいのかわからないんだ」
雪ノ瀬さんは、ハンカチを握っていた手をいっそう強く握って、ぐしゃぐしゃに顔を歪めた。ひどく泣きそうな顔をしている。
「……春樹のことは、もう信じられない。きっと事務所の圧なんてのも、嘘だ。でも俺はまだきっと、この期に及んで春樹に、まだ、友達だって、思ってるんだ」
しゃがみ込んだままの雪ノ瀬さんに、私はなんと声をかければいいかわからなかった。
でもこのままでは、彼をこのままにしておいてはいけない。彼が本当に春樹さんを親友だと思っていて、大好きだったからこそ、こんな扱いを受けてもまだ情が残ってしまっているんだ。なんて甘い人なんだろう。真っ直ぐすぎて、悩んだに違いない。だから私は、春樹さんのことを否定することはできない。
言えることがあると、すれば。
「……私、春樹さんの曲を聴いて、歌手を目指すようになったんです。もう、ずっと子供のころ……」
はっ、と気づいたように雪ノ瀬さんが私の顔を見た。
そう、まだ小学生だったころ、父が流していた音楽。私は自分の部屋で漫画を読んでいて、たまたま喉が渇いて下に降りたのだ。そのとき通りがかって耳にした音楽。それが春樹さんの、雪ノ瀬さんの曲、『はるのなか』だった。歌詞とメロディラインに、子どもながらに一瞬で胸を射抜かれた。それからずっと、ずっと何年も聴き続けて、今だって大好きなんだ。これを聴いて私は、絶対にこんな曲を作る歌手になろうと心に決めた。
その日から作曲も勉強し始めた。彼をテレビで見るたびに、曲を聴くたびに、いつか絶対あの人の隣で演奏するんだという夢を描いていた。
「大好きなんです、あの曲が。それを……それを作ったのが、雪ノ瀬さんだったことが嬉しい。けど、私はあの曲が、雪ノ瀬さんが作ったんだって自分で言えるようになってほしいです。才能を、世界に知らしめたい……。私の、エゴですけど、そのために戦って、ほしい」
そう、そうだ。こんなにも素晴らしい才能を持って生まれた人が大手を振って歩けない人生など、あってよいものか。口にすると、意外とするする言葉が出てくるものだ。
これは全部私のエゴに過ぎないことはわかっている。でも、雪ノ瀬さんが精魂込めて作ったものを、この人が我慢して生きていかないといけないのはおかしいじゃないか。私は、あの曲を作ったのは自分なんだって、雪ノ瀬さんに胸を張ってほしいのに。
雪ノ瀬さんの目が見られない。十秒ほど経っただろうか、雪ノ瀬さんが不意に、「俺だって」と呟いた。雨の音はすこし弱まっている。
「……俺も、あれは俺が作ったんだって、言いたい。俺を評価してほしい。春樹のことは、好きだ。あいつが俺の曲で人気になったのはうれしい。……でも、そうだ、俺は、俺を知ってほしかったんだ、もともとは……」
雪ノ瀬さんは、すこしずつすこしずつ絞り出すようにそう言った。顔を上げると、彼はなにかに気付いたような顔をしていた。抑えきれないなにかに堪えるように息を吐くと、ぐっと立ち上がって、もう一度大きくため息をついた。
「……ごめん姫川さん、春樹に会いに行こうと思う。いま、から」
「えっ、今から!?」
「ああ。家は知ってるし、アイツも俺なら入れてくれるはずだ。……もしかしたら留守かもしれねえけど」
そう言った雪ノ瀬さんの瞳は、さきほどよりずっと生気に満ち溢れていた。でも、いくらなんでもいきなり単身乗り込むなんて。
「じゃ、じゃあ! ……私も、ついていきます」
「えっ、姫川さんも!?」
「はい。口出しはしませんから……。ひとりで行かせるのは、不安なんです」
「……はは、俺ってホント情けねー男に見えてんだ……。わかった、じゃあ一緒に行こう」
ぐしゃぐしゃと髪を乱してそう言った雪ノ瀬さんに、私ははい、と頷いた。
そうこう話しているうちに雨はすっかり上がっていた。空は嘘のように晴れ渡って青々としている。雨上がりの澄んだ空気。まだ地面はぬかるんでいるけれど、空には微かな虹がかかっていた。冬の雨上がりだ、空気は刺すように冷たい。吐く息が白くなる。それでも雪ノ瀬さんの表情は、自分の進みたい道を見つけられたような安心感があった。
私は行こう、と背を向けた雪ノ瀬さんのあとをついていく。なにが起きるのか未知数で、少しだけどきどきしていた。
*
「……ここだ、春樹の家」
電車を乗り継いで四十分ほど経ったろうか、春樹さんの家は、意外にも街の中に建っていた。いや、まあ人の家なのだから当たり前なのだが、芸能人も同じ世界に住んでいるのだと実感する。ただ、眼前にそびえる彼の家は、とんでもない豪邸だった。写真の中でしか見たことがないような、大きくて豪華で……。一人で住む家か、これが?
こんなの、どう過ごしたって持て余してしまう。いや、本当に。
「お、大きすぎる……。規格外じゃないですか、さすが一流歌手……?」
「っはは、本当だよな! ……行く、か」
雪ノ瀬さんは、すっかり乾いた髪をぐっとかきあげる。相変わらず色の白い額が露出して、いつも通りの彼の髪型に戻ったようだ。それを見て私がすこしほっとしたのも束の間、彼は苦しそうに震える指でインターホンに触れて、ゆっくりと、押した。
ドア越しに、チャイムが鳴り響くのがわかる。ぽーん……と、最後の音が霧散していく。
彼がいるか、いないか。また、いたとして、返事をしてくれるか。静かな空間に返事はない。やっぱり……。
「……いない、か」
そう彼が低くつぶやいた。帰ろう、と言いたげに背を向けた瞬間、ばたばたという足音とともに、重たげにドアが開かれた。
「時生! どうしたんだよいきなり。来るなら来るって言ってくれよ!」
「は、春樹……いたんだな、いきなり来て悪かった。ちょっと話したいことがあって」
大きなドアの影から姿を表したのは、テレビで見ているのとなんら変わらない鹿目春樹だった。大きくて優しいタレ目、真っ白で若々しい肌、ツヤツヤで柔らかい黒髪。それとは対照にコントラストが美しい、高そうな生地の赤いニット。雪ノ瀬さんよりはわずかばかり背が低いが、それでも十分、彼は大きかった。
私より二十センチ近く離れていそうな彼が、ゆっくりと私に目を合わせる。
「はじめまして、えーと、どちら様かな?」
「あっ、えっと、姫川、です……。はじめまして」
「はじめまして! 立ち話もなんだし、上がっていけよ。そちらの、姫川さんも」
「は、はい! ありがとう、ございます」
大きな玄関ドアを潜り抜けて、家の中に足を踏み入れる。家の中はひんやりとしていて、すこし身震いする。私たちが玄関に入ると、春樹さんがゆっくりとドアを閉める。黒いドアが、重たく、冷たく、がちんと音を立てて閉まる。さっきまで背後に差し込んでいたはずの陽の光は消えて、今私たちを照らしているのは温度のない人工照明だけ。
私たちは家主の先導に沿って、冷たいフローリングを進んでいく。リビングに通されると、そこには高級そうなソファやテーブルが並んでいた。人生ではじめて見る高級なインテリアに思わず呆然としていると、春樹さんが、大丈夫? と私に声をかけてきた。
「そこのソファーに座っていいよ。楽にしてくれていい、飲み物はコーヒーでいい?」
「は、はい。お構いなく……。」
雪ノ瀬さんとともにソファに腰をかけた私を見ると、彼は微笑んでキッチンへ姿を隠した。はじめて生で、しかも至近距離で見た彼の顔つきは、穏やかで優しくて、とてもじゃないが、人を騙すような顔には見えなかった。雪ノ瀬さんと同じ、目尻の深い笑いじわも、黒々と大きい瞳も、どれも惚れ惚れするほど美しい。けれど、春樹さんは雪ノ瀬さんを、壊しかけたのだ。
彼は、至極穏やかな笑顔でふたたびキッチンから出てくると、湯気ののぼるコーヒーをふたつ、私たちの前に置いた。
「お待たせ、はい、コーヒー」
「わ、悪いな、わざわざ」
「気にするなって! ……で、何の用だ、いきなり? そのお嬢さんとの交際報告、とか?」
「っ……はは、冗談はよしてくれ、春樹」
「ああ、違ったか。で、本当にどうしたんだ?」
春樹さんは、私たちの対角にあるソファに腰を下ろした。スプリングが軋んで、そのまま無音がやってくる。控えめに時を刻む時計の針の音以外、ここに音はない。対面する彼は、その美しい顔でにっこりと笑っている。だが不思議なことに、その笑顔は底なしに冷たい気がした。瞳は笑っていない。こちらに有無を言わせようとしないような威圧感に、思わずぞっとした。
「そ、その、だな、春樹」
「うん」
雪ノ瀬さんは震える声で切り出した。私は膝に置いた手を強く握り締める。
「俺は……ごめん、単刀直入に言わせてもらう。もうお前のゴーストライターは、できない」
「……」
春樹さんは微妙に驚いたような顔をした後、すっと表情を消して、はあ、と短くため息をついた。それに呼応して、隣の彼がびくっと震えるのがわかる。
「そうか……。ああ、残念だ。でも時生、それは人聞きが悪い。僕はお前をゴーストライターにしたつもりなんてないよ、事務所が……」
「じ、事務所が事務所っていつもそういうけど、だとしても、お前がそれに抗議しないのはおかしいじゃないか! 俺のこと、親友だと思ってるなら……」
ぴくりと、彼の眉間にしわが寄った。それを皮切りに、春樹さんは途端に雰囲気を変えた。苛立ちを表すかのように、彼の右足は細かく揺れている。次第に空気が重くなっていく気がして、思わず背中に冷や汗が伝う。
机の上のコーヒーはなにも知らず湯気を立てているが、誰も口をつけようとはしない。次の瞬間、彼は再びため息をついた。今度はもっと、怒りを含んでいるようだ。
「親友って……。お前、まだそんなおめでたいこと思って生きてたんだな」
「え……春樹?」
「親友ね、そうだったかもな、昔は。だが時生、今のお前は僕にとって、都合のいい作曲マシンだ。僕の中でお前はもう、親友でもなんでもない!」
彼の語気は徐々に強まる。彼の歌手としてのイメージには似つかわしくない言葉と攻撃的な表情に、私は驚いて、幻想が一気に崩れていくのを感じていた。
「僕とお前は、はなから出会うべきじゃなかったんだよ。……今更お前が僕に、僕がお前に謝ったところでどうにかなる関係じゃないって、お前ならわかってくれるだろ。僕たちはもう、やり直せないんだよ!」
彼は、そう叫ぶと同時にソファから勢いよく立ち上がり、机に手をついて私たちに詰め寄った。いつも画面越しに見ていたあでやかに笑う目で雪ノ瀬さんを強く睨みつけている。ひたすらに射抜くように、その瞳で怒りを伝えている。雪ノ瀬さんの方は、この世のすべてが止まったような顔で彼の目を見つめ返していた。
「春樹……。俺がお前のことを傷つけてたなんて、全然、思いもしなかった。俺はお前のこと親友だって、今までずっと思ってたから。……なあ、ごめん、謝るから、そんなふうに言わないでくれよ、俺が今までどんな思いでお前の曲を……」
雪ノ瀬さんはそこで言葉を詰まらせた。春樹さんは一度顔を強くしかめてから、部屋中に響き渡る悲痛な声で叫んだ。
「僕はずっとお前が憎かったよ、十年以上前から!!」
眉は醜く歪み、下瞼がときおり痙攣している。そしてそんな彼と同じように、雪ノ瀬さんは顔をくしゃくしゃに歪めて、泣きそうな表情を浮かべていた。
「お前は、僕にないものを全部持ってたよな、時生? 恵まれた家庭も、人望も、音楽の才能も!! 全部! 僕にはなにひとつないのに!!」
「は、春樹」
「なんなんだよお前は! お前に近づけば近づくほど、僕が惨めで仕方なくなるんだよ!! 自分の家庭環境に同情されて泣かれるのがどれだけ惨めかわかるか? 自分で書いた曲はろくに評価されないで、お前が書いた曲ばっかもてはやされるのがどれだけ苦しいかわからないんだろ!? 親友を憎むことが僕をどんなに蝕んだか、お前にはわからないんだろ……?」
「……俺がお前をそんなに傷つけてたなんて、知らなかった。ごめん、俺が悪いんだよな、謝らせてくれ……」
雪ノ瀬さんのその言葉を聞いて、春樹さんは失望したような表情を浮かべた。そのまま乾いた笑いを浮かべると、とうとう涙をこぼした。
「お前はなんにもわかってないんだな。何が悪いかなんてわかってないくせに謝るなよ。……僕が父さん母さんに音楽を否定され続けてきた横で、お前は心から楽しそうに、のびのびと音楽をやってたよな。お前はただ音楽が好きだっただけで、僕はそんな無邪気なお前に、気が狂いそうなほど嫉妬してただけだ。……あぁ、お前は嫉妬がどんな感情かも知らないのか。僕がいるはずだった場所に、お前がいることだよ」
雪ノ瀬さんは春樹さんの泣き顔と、自分にぶつけられている感情の両方に驚いているようだった。雪ノ瀬さんは視線を彷徨わせたが、消え入る声ででも、と呟いた。
「で、でも、俺が持っていなかったものを持ってるのは、お前も同じじゃないか」
「……お前がなにを持ってないって? 僕はこの歌声しか持ってない、でも歌は僕だけじゃない、お前だって持ってる。お前は僕がしたかったことを全部やれるだけの環境も能力も、センスもあった。……だから時生、お前にも味わわせてやったんだよ! 自分がいるはずの場所に他人がいることの苦しみを! 本当は、僕はお前みたいな人間に、生まれるはずだったんだ」
春樹さんは目元を拭って、雪ノ瀬さんから視線をそらした。
「本当にみじめだ、僕は。お前の気持ちを、利用し続けた。わかってる、僕は最低だ、全部わかってるんだ」
すっかり呼吸の落ち着いたらしい彼は、打って変わって冷たい声でそう言い切ると、はあぁ、と、彼はひときわ深いため息をついた。そして、そのままゆっくりと床に膝をついて、なにも見たくないと言いたげに手で顔を覆った。
「時生、僕は世間に言わなくちゃならない。今までのヒット曲は、全部お前のものだったって……。僕は、それを歌っていただけだって、言わなくちゃいけない。僕は、お前にはなれなかったから」
春樹さんはぽつりぽつり、懺悔するように呟いた。春樹さんはもはや、顔を上げようとすらしない。彼がどんな顔をしているのかはわからないが、彼の声は全てを諦めたかのようだった。
「……俺は、お前のこと、なんもわかってなかったんだな。一番理解してるつもりで、なんも……。俺のせいで、お前が追いつめられてったんだと思うと、俺は死にたくなるよ。……でも、お前がちゃんと世間に公表するっていうなら、俺はいいと思う。お前が、ちゃんとお前の人生を歩むには、それしかないだろうから」
雪ノ瀬さんは絞り出すようにそう言った。
「僕が時生だったら、僕のこと一発殴ってるよ」
春樹さんは脱力したように、床に座り込んで力なく笑った。彼の大きな黒目は、悲涙をたたえて揺れている。雪ノ瀬さんはゆっくり立ち上がって、心底切なそうな声で「俺は殴らないよ」と言った。
*
それから、ずいぶん長い時間が経ち、あんなに寒かった空気にも温かさが戻って、あちこちが春めいてきた。開きはじめた桜の花が、公園を彩っている。空にももうあの日の面影はない。
あのあと、春樹さん自身によって、事実は全て白日の下に晒された。フラッシュを一身に浴びながらふらふら登壇する春樹さんは、覇気をすっかりなくしていて、私はとてもじゃないがその姿を正視することができなかった。この会見が世間に大きな衝撃をあたえたことはいうまでもない。
そしてそれから、春樹さんの、鹿目春樹のことは、一切テレビで見なくなった。いや、厳密に言うと毎日見るのだけれど、それはマイナスの報道ばかりで、あんなにみんなから愛されていた、 「一流歌手の鹿目春樹」は、ぱったりと姿を消した。事実ではないことを、勝手に妄想して喋り立てる人も何人もいた。それでも、春樹さんと作曲者の雪ノ瀬さんとの間に、今でも親友としての不思議な心のつながりがあることを指摘する人はいなかった。
……肝心の雪ノ瀬さんはというと、正直、私も知らない。実は、あの日から一切の連絡がつかなくなった。メッセージを送っても既読がつかず、電話も繋がらない。バイト先にも一度も来ていないようで、同じように店長も心配していた。
クリスマスには、気が引けたが誕生日祝いのメッセージも入れた。しかし、依然返信はない。ときおり気になってトーク画面を開くが、最後の連絡から動きはない。
連絡は返ってこなくても、もう会えなくともいい。せめて、生きていてくれれば……。
「姫川さん?」
「えっ」
目の前に現れた大きな影、そして、よく聞き慣れたあの声。ばっと顔を上げると、そこに立っていたのは、紛れもなく彼だった。
「雪ノ瀬さん!!」
「ああ、やっぱ姫川さんだ。髪伸びたね、久しぶり」
「おひさ、し、ぶりじゃないですよ……! 連絡取れなくなって心配してたんですから! あの、大丈夫ですか、いろいろと」
雪ノ瀬さんはばつが悪そうに笑うと 「うん」と返した。
「なんとかね。一時期は完全にやられちまったけど、最近ようやく持ち直してきたかな。仕事もそろそろ復帰する予定」
「そ、そうですか。よかった……」
「ごめん、連絡返せなくて。でもあの、これに関しては言い訳さしてくれ。スマホ水没させて壊しちまって……。データ飛んじまったんだ」
「ええ!? な、なんだ、そういうことだったんだ……。それならよかったです、本当に。また交換すればいいだけの話ですし。それよりも、生きててくれてよかった」
雪ノ瀬さんは私の言葉に面食らった顔をすると、からから笑って、 「そう簡単に死なねえわ」と言った。
その顔はもう、私がよく知っているあのいつもご機嫌な雪ノ瀬さんだった。
彼は私の隣に腰を下ろすと、後ろに手をついて、空を仰いだまま息を吐いた。
「……ちょいちょい、作曲の依頼がくんだ。まあ受けてはねーけど……俺の音楽が都合よく使われるのは、もう懲り懲りだしな」
彼は、どこか遠くを見た。春樹さんとその後どうなったかを聞くことはしなかった。聞いたらきっと答えてくれるだろうけど、もう別に、知りたいわけじゃなかったから。
「雪ノ瀬さん、私将来、歌手になるので」
「えっ? う、うん、またずいぶん急な……どうした?」
「私絶対、歌手になるので! それで、雪ノ瀬さんをあっと驚かせるくらい人気になって、アリーナでライブして、客席全部埋めます。そのとき雪ノ瀬さんは特等席用意しますから、私が歌う曲、作ってくださいね」
雪ノ瀬さんは、私の言葉に 「え!?」と叫ぶと、目を泳がせて引きつった笑顔を見せた。
さすがに唐突だったか。とは思ったけれど、私だって歌いたくなったのだ。彼の曲、彼が私のために作ってくれた曲。彼の才能と私の才能をかけ合わせて、最高な曲を作りたいと思ったのだ。
「……いや、でもその、無理にとは」
「あ、いや違う違う! 熱いこと言うなあと思って、恥ずかしくなっただけ。……うん、約束するよ、そんときゃ絶対、『はるのなか』よりいい曲作ってやる。だから姫川さんも、絶対俺の夢叶えてくれよ」
雪ノ瀬さんはいたずらっぽく笑った。私もそれを見て嬉しくなって、はい、と力強く返す。
桜の花びらが、ひとつ彼の太ももに舞い落ちた。そこで私は、ようやく本格的に春が訪れたことを実感する。
このあたたかな春のあとには、きっと二人の歌を歌うことができる新しい季節がくる。そんな予感も心のどこかに感じていた。
たまたま聞こえた歌。別に聴くつもりじゃなかった。
けれど私は、気付けば夢中になっていた。
*
「ねえ、何飲む?」
「俺、ドリンクバー全ミックスしていい!?」
「ばか、やめろって」
ギャハハ、と鳴り響く笑い声の方向から目をそらして、ふう、と目を閉じる。
重低音と微かに聞こえる歌声。楽しそうな足音。ドリンクバーではしゃぐ高校生たち。今日もここは変わらず平和。私はぱらぱらと落ちてきた髪の毛を耳にかけ直すと、背筋を正して向き直った。
姫川美咲、高校二年生。将来の夢はシンガーソングライターになることで、今はそれを目指しながら日々カラオケバイトに勤しんでいる。せわしないながらも穏やかな時間の流れるこのバイトは、私の肌に合っている。店長も仕事仲間も、みんな優しいし。変な客はたまにいるけど、まあ許容範囲。とはいえ会計の客もフードの注文も入らずただ突っ立っているだけというのは、なかなかに退屈だ。漏れ出そうなあくびをどうにか噛み殺していると、頭上から 「姫川さん」と声がした。
「お会計いいかな?」
「あ、はい!」
見上げた先にいたのは、うちのカラオケの常連客、雪ノ瀬時生さんだった。声こそハリがあって若々しいものの、全体的に青白いほど透き通った肌と、縦に長い割にあまり肉のついていないように見える細っこい体は、見るたびに不健康なものを感じさせる。
「つか平気? さっきあくびしてたよね、寝不足?」
「み、見られてましたか……。まあそうですね、寝不足、かな。遅くまでギターの練習してて……」
「へえ、ギター? 姫川さんギターやってんの?」
「はい! そういえば、雪ノ瀬さんもいつもギターケース背負われてますよね。ご趣味なんですか?」
そう、彼はここに来るときはいつもギターケースを背負っている。平日は仕事があるのかあまり来ないけれど、土日はいつも長いこと部屋にこもって、弾いたり歌ったりしているようだ。そんなに毎週毎週音楽漬けになっているのだから、きっとすごく音楽が好きなんだろうなとぼんやり思っていた。
「んー……まあ、趣味つーか、仕事?」
「えっ、お仕事?」
「そ、俺音楽教師的なのやってて……もっともここで弾いてんのはただの趣味だけど」
雪ノ瀬さんは、使い古されたレザーの財布をしまいながらそう言って笑った。
「えっ音楽教師!? すごい、楽器お上手なんですね」
「ええ? 上手かっつわれたらちょっとわかんねーけど……まあ、得意ではあるかな、さすがに仕事だし」
「えっ、じゃあその、いきなりなんですけど私にギター教えていただけませんか!?お金は払いますので!!」
勢いのままにそう告げる。彼は目を見開いて一瞬固まると、次の瞬間に目元を引き攣らせて 「俺が!?」と叫んだ。
「えっ、俺が姫川さんにギター教えんの!?」
「はい!私ずっと独学でやってるので、なかなか上達しなくて……自分ひとりでは限界かなと……。プロの方に教えていただければもっと上手くなれそうな気がするんです」
「そ、そう……? いや、まあ気持ちはわかるよ。やっぱ一人でやってると限界感じるよね。とはいえ俺の指導で……いや、いいや。ちょっと待って……はい、これID。登録しといて」
「あ、ありがとうございます!!助かります、また連絡させてもらいますね」
「おっけー。じゃ、またね」
雪ノ瀬さんは、IDを書いたメモを私に差し出すと、ひらひらと軽く手を振って帰って行った。かん、かん、かんと、鉄製の階段の音が徐々に遠くなっていく。耳を澄ませて完全に聞こえなくなったころ、私は手に持っていた紙を見やった。
「はらい、長っ」
細いボールペンで適当に、かつちゃんと読めるように記された彼の字は、なんというか想像通り、という感想を持つような字だった。私はその小さな紙を、ぐしゃぐしゃにならないように制服のポケットにしまって、残り三時間ほどの業務に戻った。
*
何週間か経って、私は雪ノ瀬さんとの待ち合わせのため、ひとり約束の楽器店の前に立っていた。背負われた大きなアコギケースはやはり人目を引くらしく、道ゆく人たちが私の方を振りむいてはそのままに去っていく。まあ別に、長いことギターをやってきてもう慣れたことだ。恥とか不快とかそんなのはどこかに捨ててきた。
あのあと、家に帰った私は手を洗うなり彼の連絡先を追加し、一日暇な日を見つけて雪ノ瀬さんに連絡を入れた。彼の気が変わる前に教えてもらわないと。せっかくプロの人に出会えたのだから、逃すわけにはいかない。
そうして意外なことに三分足らずで返ってきた返信は、またしても想像通りだった。特別ひょうきんだったり、絵文字や顔文字を使うわけではない。淡々とした文面。けれど、刺々しさのようなものは感じられなかった。
ああ、強いて言えば、変な実写の犬のスタンプを使っていた。
「てか、寒……」
夏が終わったと思ったら急激に冬めいてきて、空気はなんだか刺すように冷たい。さすがにもう少し厚着した方がよかったか、すっかり見誤った。などと、家を出る前の己を恨みながらかじかむ手を擦り合わせた。あたためるようなものも持っていないし、仕方ない、音楽でも聴いて気を紛らわせるかとイヤホンを取り出したところで、すこし遠くの方から私を呼ぶ声がした。
「姫川さん! ごめん、待たせたか」
声の主は雪ノ瀬さんだった。
彼は相変わらずの細長い体に、これまた細長いギターケースを背負っている。ストライプのシャツに黒いパンツのシンプルなコーデではあるものの、彼の細身な体型や儚げなオーラのせいか、とても美しく見えた。
「雪ノ瀬さん! いえ、特に待っていないので平気です。今日はよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。や、ていうか早い……早すぎない? まだ待ち合わせ十分以上前だけど」
「そんな、私が頼んだんですからお待たせするわけにはいかないですし。それで言ったら雪ノ瀬さんだって早いじゃないですか」
「ずっと年下の女の子待たせる男がいるかよ。つって結局待たせてんだけどさ。……でもアレだね、姫川さん」
「は、はい?」
雪ノ瀬さんは顎に手を当てて私をじっと見ると、眉間に皺を寄せて言った。
「バイトの時とはやっぱ雰囲気違うね。若い子のファッションはよくわからんけど、パンク系? っつーのかな、オシャレだねえ」
「あ、ありがとうございます。少し派手かと思ってたので、安心しました」
なんだ、やけに見られると思ったらそういうことか。たしかにバイトの時はいつもおとなしめの服装で出勤しているので、ここまで趣味全開の服を見せたことはなかった。正直個性的で賛否の分かれるファッションだと思うのに、彼が真剣にそれを肯定してくれたのは嬉しかった。
彼に楽器店の中に入ろうと促されて、開けてくれたドアをくぐり抜けて中に入った。彼の歩くままについていくと、通されたのは小さな個室だった。
「ここ狭いけど、割といいよ。あ、てかごめん、狭いとこ苦手だったりした?」
「いえ平気です! 初めてきました、こういうところ……。いつも家練なので」
「ああ、まあそりゃ戸建てなら家練が一番だよな」
彼は部屋の隅に背負っていたものを置くと、それの中から丁寧にギターを取り出した。姿を現したギターは、雪ノ瀬さんの体に比べるといささか小さく見える。しかし、とても大事に手入れされているのが一眼でわかるほどきらきら輝いている。照明が真っ白に光を落としているのが印象的だった。
「すごくきれいにされてるんですね、ギター」
「え? ああ、そうだね……。思い入れあるんだ、コイツ」
ネックを握りながらそう口元を歪ませた彼の笑顔は、どうにもすこし陰りがあるような気がした。だからと言って詮索などしないけれど。
雪ノ瀬さんは部屋の隅に置いてあった椅子を二つ引っ張ってくると、そこに腰を下ろしてギターを構えた。
「さ、姫川さんも座んなよ」
「あっ、はい!」
私も彼に続いて座る。ただのパイプ椅子なので座り心地はそれほどだが、高い椅子に座りにきているわけではないので気にしないことにした。
雪ノ瀬さんはついついとスマホをいじってなにかを確認すると、うん、と呟いてスマホをしまった。
「事前に送ってもらった内容で大丈夫? 追加の相談とかあったら聞くけど」
「あっ、えっとー……いえ、ないです! ありがとうございます、気を遣っていただいて」
「別にいいよ。特にないなら始めっか! じゃーまず……運指から行くか」
彼が 「一回弾いてみて」と短く言うので、私も言われるがままに奏で始める。路上演奏には慣れているものの、こうも至近距離で、しかも音楽を仕事としている人に見てもらうことなどまずない。私は珍しく緊張してしまって、なんだか調子が狂いそうだったので、つとめていつも通りの演奏をすることに専念した。正直いつも通りに弾けていたかと問われれば、そうではない気がするけど。
そうして最後まで弾き切ったあと、私は思わず苦笑が漏れた。
「ど、どうでしょう……」
「うん、筋がいいね。つってももう何年もやってんのかな。コードの持ち替えもきれいでばたつきもないし、ストロークも全然力入ってない。すごいね、独学でもちゃんと身についてる。まあただ、気になるところがあるとすれば……」
雪ノ瀬さんは、ひとしきり私を褒めると、すっと真剣な顔つきになって私の問題点を説明し出した。そのときの雪ノ瀬さんの目つきや、丁寧でわかりやすい指導から、私は彼が、このはかなげで不健康な容貌の裏に、確かな音楽への熱意を抱えていることを知った。
*
それから何時間ほど経っただろうか。ふと時計を見遣った雪ノ瀬さんが 「そろそろか」と呟いた。
「意外とすぐ終わっちまったな~。まあでも、聞かれたとこは全部答えられた、かな……」
「はい、もちろん! すごく参考になりました。自分じゃ気づけなかったようなことたくさん気づけて……。雪ノ瀬さんに頼んでよかったです、ありがとうございました」
「や、よかったよこちらこそ。俺の指導で将来有望な子を伸ばせるっつーのは楽しいね。指導者の醍醐味はこれだ」
私と彼はさっさと部屋を片付けて荷物を背負うと、その場をあとにして外に出た。季節はすっかり冬なので、ずいぶん陽が落ちるのが早くなったらしい。空は一面橙色で、遠くのほうは暗くなりはじめていた。
「さっむ! はあ、これだから嫌なんだよな冬は……。手痛えし……」
「ほんとですよねー。間違っても霜焼けとかになりたくないし」
雪ノ瀬さんはそうそう、と笑った。おそらく流れ的にここで解散だろうな、そう察した私は手早く頭を下げ、「今度お礼します」と伝えた。
「いつ頃空いてますか? 好きな時でいいです、なにか奢らせてください」
「は!? いや、いーって! 四十近いジジイが高校生の女の子に奢らせるとか、んなみっともない真似……」
「ダメです! 結局今日もお金払わせてくれなかったじゃないですか。ちゃんと対価は払わせてください、お願いします」
二十センチほど離れた彼の顔を見上げる。真剣な目つきでそうお願いすると、雪ノ瀬さんは額に手をあてて大きくため息をついた。
「押しに弱いんだよなあ、俺は……。これがダメなんだ。んじゃあ、わかったよ。今度一緒にカラオケでも行かないか、歌聴かせてくれよ」
「えっ……そ、そんなのでいいんですか? もっとなにか、ほかの……」
「これがいいんだよ。人の歌聴くの好きなんだ、頼むよ」
正直そんな、お礼にもならないような……なんなら、私だって彼の歌声を聴いてみたいと思っていたのにこれでいいのか、とは思ったけれど、雪ノ瀬さんが望む 「お礼」がこれであるなら、私に断る理由はない。
私が「わかりました」と頷くと、雪ノ瀬さんは片目を細めて笑った。その日そこで解散した私たちは、またそのすぐ後に会う約束をするのだった。
*
「あーっ最悪!なんで今日に限って……!」
突き刺すように冷たい空気を顔いっぱいに浴びながら、いつもの道を駆け抜ける。
最悪だ。今日は雪ノ瀬さんとのカラオケの日なのに寝坊してしまった。普段寝坊なんか滅多にしないのに!
雪ノ瀬さんは 「ゆっくりおいで」と連絡をくれたものの、それだって待たせるわけにはいかない。走って走ったいつもの私のバイト先には大柄な男性が立っていた。
「雪ノ瀬さん、すみません! お待たせしました!」
「おー、姫川さん。ははっ、ゆっくりでいいっつったのに、走ってきた?」
「そりゃ、っ、もう! はあ、本当にすみません……」
雪ノ瀬さんは乱れた呼吸と髪を整える私を見てからからと笑うと、「気にしないでいいよ」と笑ってカラオケへの階段を登った。中で受付をしている時間、普段アルバイトとして働いている側の店に客として来るという不思議な感覚を体験した。その日レジに出ていた店長が 「美咲ちゃんは歌がうまいからね」などと雪ノ瀬さんに吹聴している。私は内心コラ! と言いたい気持ちでいっぱいだった。
そうして始まったカラオケ。正直歌のほうには自信があるし、歌い慣れているから緊張はしていない。最初どうぞ、という雪ノ瀬さんの言葉のままに、私は曲を入れ、マイクを手に取る。
「――――……」
歌うのは好きだ。大きな声が出せて気持ちいいし、なにも考えなくていいし。思うがままに歌うだけで、自分が一番強くなれたような気がする。いつか大勢の前で歌う日を夢見て、ただ歌う。
アウトロが終わって、マイクを机に置く。雪ノ瀬さんの顔を見て 「どうでしたか」と問うと、彼は楽しそうに笑って、手を叩いた。
「いや、すごいよ姫川さん! 本当に歌がうまいんだな……。褒めたいところはたくさんあるが、そうだな、姫川さんなら絶対に歌手になれるって確信したよ。聴かせてくれてありがとう」
雪ノ瀬さんはそう言って、なにか私ではないものを見た。ときどきなにか、遠くを見るような顔を見せる彼の視線の先にはなにがいるのか。私はまだ分からなかった。
彼は 「じゃあ、俺の番かな」と言ってデンモクをいじると、大きく息を吐いてマイクを口もとにやった。
「あんまうまくないから、期待しないでね」
そう前置きをして歌い出した彼を見て、私は目を見開いた。さすがに音楽教師というだけあるのか、声量と安定感、音感はバツグン。しかし、普段のハリがあって若々しい声とは裏腹に、繊細で、なんだか聴いていて悲しくなるような憂げな歌声。歌っている曲が、有名バンドの切ないバラードであることも相まって、彼の泣きたくなるような歌声が引き立つ。けれどその中に確かにあたたかみもある。
「……はあ、人前で歌うの久しぶりなもんだな。あーいや、授業では歌うけど、本気でっつーか。で、どうだった?」
「か、ぁ、感動しました!! すごく、なんというか……心に染みる歌声で、すごく素敵です。歌手として活躍しててもおかしくないくらい……」
「はは、ありがとね! 嬉しいもんだわ、歌褒められると。つーか俺がそんな褒められてたら世話ないな、俺が姫川さんの歌聴きたいっつったのに」
雪ノ瀬さんはうなじをかくと、照れ臭そうに笑った。私は内心、やっぱり私の目に狂いはなかった、なんて上から目線なことを考えていた。初めて会ってから気になっていた彼の歌声。ようやく聴いた歌声が、期待を大幅に上回るものであったので、私の雪ノ瀬さんに対する好感度はうなぎ登りにあがっていった。つくづく音楽オタクでしかない自分の単純さに笑ってしまう。もうすこし彼と仲良くなりたいとか、すぐに思ってしまうのだ。
そうこうして、歌って歌わせて語り合ってを繰り返しているうちに、あっという間に時間は経った。あまり長居すると金がかかるという雪ノ瀬さんの意見で三時間入室だったので、短く感じるのも当たり前なのだが。歌い足りないということもないし、聴き足りないということもない。互いに延長なしで合意した私たちは、会計を済ませて外に出る。
「今日本当に楽しかったです! 雪ノ瀬さんの歌、大ファンになりました。また聴かせてください」
「んははっ、褒め上手だねえ。俺も今日で姫川さんのファンになったから、これで将来姫川さんが歌手デビューしたとき古参ぶれるってもんだろ」
「ふふ、好きなだけ古参ぶってください。関係者席で招待しますね」
お互いに軽口を叩きながらの帰り路。もともとバイト先の常連でよく話したりしていたものの、プライベートで話すようになってからずいぶん距離が縮まったものだ。私よりずっと大人の雪ノ瀬さんが、私にたくさん気を遣って接してくれているのはわかる。それでも、すこし嬉しかった。なんだか友達が増えた気がして。
「そう、んでさあ新曲の……と、ごめん、電話だ」
「あ、はい! 黙っておきますね」
雪ノ瀬さんはデニムのポケットからスマホを取り出す。最新型のスマホのはずだが、彼の無骨で大きな手に比べると、それはどうにも小さく見えた。
鳴り響く着信音。スワイプすれば開けるはずだが、彼は固まったまま動こうとしない。彼の眉間に小さく皺が寄ったのがわかる。なんだか緊張した空気に不安を覚えた私が 「あの」と声をかけると、彼ははっとして着信を拒否した。
「ごめん、なんでもねえわ。迷惑電話だった」
「そ、そうですか? あの、顔色が悪いですけど……」
「え? ああ、さみーからかな。ごめん、ちょっと今日ここで帰るわ。悪いね、今日は楽しかったよ。また!」
「は、はいっ! ありがとうございました!」
雪ノ瀬さんは有無も言わさず私に手を振ると、振り返って走り去っていった。そのひょろ長い足で大股に駆けていく彼を見送りながら、私は雪ノ瀬さんを取り巻く 「なにか」がかたちになっていくのを感じていた。
遠くの空で、雨雲が夕暮れに混じっている。雨が降る前にはやく帰らないと。そちらに向かって走っていった雪ノ瀬さんに一抹の不安を感じながら、私は歩みを早めたのだった。
*
「じゃあね美咲! また明日ね!」
「うん、またね」
その翌日のことだった。雪ノ瀬さんには、あのあとお礼のメッセージを入れてから連絡がつかない。私はたびたびスマホの通知を気にしながら、一日を過ごしていた。
昨日の夜から雨が降り続いている。私は昨日の彼の様子が気がかりで仕方なかった。いつも朗らかな彼が、あんなに青ざめた表情だったからだ。
「……」
私はスマホを握りしめて、目の前に停まったバスに乗り込んだ。頭に乗った水滴を払って窓際の席に陣取る。発車したバスの勢いに合わせて、窓の水滴が追いやられていく。外の風景はあまりよく見えない。つたっていく水滴を指でなぞると、指先がひやっとして心地よかった。
ひとつ深呼吸する。雨の日はどうにもセンチメンタルらしくなって困る。……雪ノ瀬さんのことは気がかりだが、私にも私の生活がある。今日はバイトがないので、まず帰ったら課題をやって、それから、そうだな、久しぶりに弾き語り動画でも撮ろうか。
動画サイトのアイコンをタップして、チャンネルを開く。そこに載っているのは、大量の弾き語り動画。そう、この私が運営している弾き語りチャンネルは、実はなかなかに好評なのだ。基本万単位の安定した再生数を獲得しながら、着実に登録者数を伸ばし続けている。
特に人気なのは、シンガーソングライター 「鹿目春樹」の曲をカバーした動画。鹿目春樹は、現在世界中で大人気の男性歌手。端正な容姿と爽やかかつ甘い歌声で、女性層を中心に人気を博している。
彼が頭角を現すきっかけとなった 「はるのなか」は、繊細かつ力強く背中を押してくれる応援歌で、近年はこれを卒業式の合唱に起用する学校も増えてきたという。そんな彼の代表曲のカバー動画は、今や五十万再生に届きそうなほど。話題の歌手のカバー動画とはいえ、私の歌声や演奏を認めてもらえているようで、自信の芽が伸びていくのを感じる。
車窓に頭をもたげて、イヤホンから流れる彼の歌声に耳を澄ませる。鹿目春樹の歌声は、そう、甘くて優しいけれど、ときどき温度のないものを感じる。彼のことは好きだけれど、そこだけはいつも引っかかっていた。
不意に体が前に崩れて、バスが停車したのを自覚する。私はもう一度雪ノ瀬さんからの通知を確認すると、バスを降りて傘をさした。
「うわー、ひっどい雨……」
バスを降りてみると、さっきよりもはるかに雨足が強くなっていた。びちゃびちゃぼたぼたと傘をたたく雨の音で、人の声や他の音などなにも聞こえなくなってしまう。ああ、まったく雨は好きじゃない。頭痛はするし、靴に染みてくるし、湿気で楽器は傷むし。正直ろくなことがない。紺色のビニール傘に透かして見る水滴は、伝っては合体して大きくなり、そのまま地面に落下することを繰り返している。なんかこれって、集合体恐怖症の人は大丈夫なんだろうか。とか、こういう変なことを考える。
自宅までの道を歩き出す。お気に入りのロックを爆音で流しながら、もうすっかり雨で黒ずんでいるコンクリートを目で追った。
手や袖について鬱陶しい水滴を払いながら通りがかったいつもの公園のベンチに、なにやら大柄な男性が座っていた。この大雨だと言うのに傘もささず、ただ項垂れている。
あれは――。
「……雪ノ瀬さん、なんで」
彼だ。色素の薄い茶髪とよく着ているシャツを雨でいっぱいに濡らしながら、まったく動こうとしない。慌てる気持ちを抑え、雪ノ瀬さんの方に駆け出す。
「ちょっと、何してるんですか!?」
自分が濡れることも気にせずに、雪ノ瀬さんの頭上に傘を差し出した。雪ノ瀬さんは緩慢に顔を上げる。雨で崩れ切った彼の髪や顔から、雫がしきりに流れ落ちている。濡れたその顔は、まるで涙なのか雨なのか判別のつくものではない。心臓がざわつくのを感じる。
「……姫川さん、どうして」
「こっ、ちのセリフですよ! ……雨、ひどいですよ」
「……」
雪ノ瀬さんはなにも言えない、と言いたげな顔で私から目を逸らす。
もともとはかなげで、黙っていれば消えてしまいそうな雰囲気の彼だったが、今の彼が纏うのは、今すぐに命を絶ってすらしまいそうな危ういオーラだ。
「……いったん、屋根のあるところ行きませんか。立てます?」
「あ、ああ……」
雪ノ瀬さんはゆっくりとベンチから身を起こすと、その大きな体を傘の中に押し込んで歩き出した。この大きな公園には、雨の凌げる建物がある。私は彼の歩くペースに合わせ、彼を軒先の椅子に座らせた。
力なく倒れこむように座った彼の隣に、私も腰をおろす。乾いていたコンクリートに、靴底型のシミができる。彼の顔を覗き込むと、あまりにも蒼白で胸が痛む。血の気のなさとクマ、いつもより伸びた無精髭。こんな雪ノ瀬さんは見たことがなかった。
「雪ノ瀬さん、なにがあったんですか」
「……姫川さんに……聞かせるようなことじゃ、ないよ……」
「……そんなこと言って、はいそうですかってならないでしょ!? 大雨に濡れて項垂れてるような人見過ごすほど薄情じゃないので!」
柄にもなく大声でそう迫ると、雪ノ瀬さんは戸惑った表情をして視線を彷徨わせた。いけない、昨日からの心配が目の前でかたちになって、つい感情が噴出してしまった。私は焦って「ごめんなさい」と頭を下げる。
「何も知らないのに偉そうに……。無理に聞き出したいわけじゃなかったんです」
「いや、俺の方こそごめん。姫川さんは心配してくれたのに、冷たかった。……ちょっとだけ、聞いてもらっていいかな」
私ははい、と言葉にする代わりに、彼の目を見てすこし頷いた。雪ノ瀬さんは私のその動作を見て、一度目を伏せると、か細く息を吸った。
「姫川さん、さ、その……歌手の、鹿目春樹って……知って、るっつーか……まあ知ってる、よね?」
「あ、はい……もちろん知ってます、というか、好きですね」
「そっか、好きか……。好き、好きか」
「あの、それで、彼がどうかしたんですか……?」
雪ノ瀬さんは震える声で 「いや」とつぶやくと、目を覆って俯いた。
「俺は……俺と、春樹は」
彼は何度も口を開いては閉じ、なにを言えばいいのかを探しあぐねているようだった。春樹、という、妙にくだけた呼び方が引っかかる。彼と鹿目春樹になにか関係があるのか。
あまりに長い間に声をかけようかと思ったところで、雪ノ瀬さんが大きくため息をついた。
「……ごめん、やっぱ、言えねえな。気にしないでくれ」
そう言って、雪ノ瀬さんはゆっくり立ち上がる。雨音の合間に、彼が鼻をすする音が聞こえた。震える手を下ろし、おぼつかないながらも歩き出す彼は、まだびしょ濡れのまま。いやいや、帰らせるわけないでしょ。ちょっと、と彼の腕をつかむと、握られていたスマホが、はじかれる様に手から落ちた。
「ご、ごめんなさ……」
かつん、と音を立てて地面に転がる。ヒビなど入っていないだろうか。反射的にスマホを拾い上げると、ぱっと点いた画面にメッセージが表示された。
「あ、通知……」
瞬間、目に入ったメッセージに絶句する。そこに表示されていたのは「彼」の名前だった。
『時生、この間の件だけど、考えてくれた?お金は渡すし、今までみたいな曲を作って……』
表示されていた名前は 「鹿目春樹」。あの、鹿目春樹、だった。いやいや、鹿目春樹が? 同姓同名の別人じゃないのか。そう考えたかったけれど、私の中で疑念の思いはふくらんでいく。
「鹿目……?」
「っ、見るな……!」
「わっ!」
雪ノ瀬さんは私からスマホをひったくると、折れてしまうのではないかというほど力強く握りしめた。奪い取られた拍子に引っ掻かれたのか、手の甲に赤い傷ができている。温厚な彼が他人に怪我を負わせるほど焦っているなんて。
「すみません、勝手に見てしまって……」
「なんで……なんなんだよ、クソ!」
彼はすっかり乾ききった髪をがしがしかき乱すと、傍らに建っていた柱を、力のままに殴った。どすっと重たい音がして、彼の息を呑む音が聞こえる。雪ノ瀬さんは肩で呼吸をすると、そのままずるずるとしゃがみこんだ。
「ゆ、雪ノ瀬さん、大丈夫ですか……」
「ごめん、姫川さん、ごめん」
彼の顔は影になっていてよく見えない。土砂降りの雨を降らす雲は、空を一面覆っている。遠くの方で雷が鳴った。
あたりに人は誰もいない。当たり前だ、こんな雨の中で出歩く人間などいるわけがない。雪ノ瀬さんはまた言葉を選んだようだったが、聞いてほしい、とつぶやいて、話し出した。
*
俺があいつに出会ったのは、大学一年の夏、アホみたいに退屈な講義がきっかけだった。
父も母も音楽好きの平凡家庭に生まれた俺は、それは当然のように、物心つく前には楽器を持たされ、弾かされていた。まあそんなことばかり教えられていたから、俺はまんまと音楽の魅力に憑りつかれ、小学校を卒業するころには、打楽器、弦楽器……うん、大概の楽器は最低限こなせるようになっていた。英才教育というやつだ。
そのまま成長した俺は、軽音部に入部。中高はバンド活動に明け暮れ、歌うことも好きになった。音楽ならなんだって聴いたし、人前に立って楽器を演奏するのは、この世で何よりの快楽だと知った。
そんな生き方してきたもんだから、進路は、まあ迷いはしたものの、音大一択だった。俺は将来、なにか音楽に関わる人間になるんだと決めていた。ろくに勉強してこなかったものだから、そっちの方はあいにくといった程度の実力しかなかったが、実技の授業はよく褒められた。生来人好きなところもあったから、友達も何人かできた。勉学にも人間関係にも困らず、結構いい毎日を送っていたと、今は思う。
そんな夏にさしかかった日だった。教室の中は、半袖ではすこし肌寒く、服装選びに失敗したな。そんなことを考えながらうわの空で受ける講義は、正直なにも頭に入ってこない。この授業、滑舌が悪すぎてなにを喋っているのかろくに聞き取れたもんじゃないし、そもそも説明がヘタクソすぎる。
だめだ、どうにも眠くなる。いけないと思いながらも漏れ出るあくびを噛み殺せない。はあ、と目を開けた瞬間、横から 「ねえ」と声が飛んできた。
「は?」
「ふふ、ごめん、急に。退屈そうだったからさ」
そう笑って声をかけてきたのは、思わず面食らうほどの美男子だった。
優し気で、二重幅のきれいな垂れ目。それと対照的な、形のいいきりっとした眉。高く通った鼻に、厚みのあるピンクの唇。肌荒れのひとつも見当たらない、輝く白い肌。なにより、色気のある左目の涙ぼくろ。おいおいまさか、こんなイケメンが俺の大学にいたとは。俺はまじまじ顔を見てしまいそうな気持ちを捨て去り口を開く。
「あー……ははは、恥じーな、見られてた?」
「うん、あくびしてるの見ちゃった。きみ何年生? 僕、今年入ったんだ」
「あ、俺も一年なんだ! 同じだ、俺、雪ノ瀬時生。お前は?」
「時生! 僕、鹿目春樹っていいます。よければ友達になろうよ、時生」
「ああ、よろしく! よろしく、春樹」
すっと差し出された左手を握る。あたたかくて、でも、指先の皮が厚くて。ギタリストの手だな、そう思った。そのとき目が合って微笑んだ春樹の、つややかに輝く黒髪をよく覚えている。
そこからどう仲良くなったのかは。正直言ってあまり覚えていない。もう俺たちは、まるでそういう巡り合わせだったように、あっという間に距離を縮めていった。その講義の日は絶対に隣に座るようになって、その間じゅう、こっそり話をした。どうせなに言ってるかわからないんだし、なんて失礼なことを言って。
大学生活はじめての夏休みに入っても、俺と春樹は頻繁に待ち合わせてはCDショップに行ったりセッションをしたり、特に目的もなくだらだら時間を潰した。それでも楽しかった。
春樹は頭の悪い俺とは違って本当に頭がよく切れる。座学がからっきしの俺にとって、春樹は誰よりわかりやすい先生だった。それから、歌手を目指しているということも教えてもらった。これを教えるのは時生が初めてだと言うのを聞いて、不覚にも嬉しくなった。正直、春樹ならどうやったって歌手になれてしまうだろう、俺はそう確信しているくらい春樹の才能を買っていた。実際、春樹の甘くてみんなを虜にする歌声は天性のものだ。ただうまいだけじゃなく、飾らないのに人の心を揺り動かすなにかがあった。どの楽器だって俺よりずっと上手だった。誰が見たって春樹は音楽に愛されていたし、同じように音楽も春樹を愛していたと思う。……少し作曲は苦手なようだったが、それも克服できる範囲だった。
お互いの家に行くこともあった。俺の両親は春樹をよく歓迎していた。それから、そんな実家暮らしの俺とは違って、春樹はアパートで一人暮らしだった。
家に入ってしばらくして、 「両親は?」と俺がつい口にすると、春樹は苦笑しながら俺の前に麦茶の入ったマグカップを置いた。
今思えば、俺はなんと不躾な質問をしたのだろうと今は思う。それでも嫌な顔をしたりせず、春樹は話してくれた。
「別に、隠してるつもりじゃなかったんだ」
春樹の両親が、昔から音楽活動に肯定的でないこと。それでも春樹は音大進学を諦めず、そうであればと半ば勘当される形で単身上京してきたこと。そんななか、家の中が音楽で溢れているような俺を見て、内心、少しうらやましさすら感じていたことを、春樹は終始、どこか切なそうな表情で話してくれた。目を伏せるたびに、綺麗な長いまつ毛が光を受けていた。
俺は、春樹のそんな告白を聴いて、勝手にコイツをなんでも持っていると思い込んだ己の浅ましさを恥じた。そして、俺を羨ましいと思っていた春樹の境遇を想像して、涙すら溢れてしまった。
春樹はそんな俺を見て、 「どうして時生が泣くんだよ」と、困ったように笑った。俺はごめん、と謝りながら、差し出されたティッシュで涙を拭っていた。でも春樹なら、絶対にいつかそんな両親も見返してやれるだろと、そう思った。
そんな俺と春樹の関係は、結局卒業までなにも変わることはなかった。ギリギリの課題をお互いに励まし合いながら完成させたり、バカをやり合って大声で笑いながら朝を迎えたり。それから、俺が二十歳の誕生日を迎えた日、春樹は誰よりもはやく連絡をくれて、そのまま春樹の家で人生はじめての酒を開けた。たったひと缶ですぐ酔いが回ってしまった俺と違って、春樹はいくら飲んでも顔色ひとつ変わらなかった。おぼろげな意識の中、涼しい顔の春樹が 「大丈夫か」と俺に声をかけたのを見て、コイツとんでもねえ、と思った。俺はそのあと吐いた。
卒業後の進路が徐々に定まってきたころ、春樹は無事音楽レーベルへの所属が決まった。俺はというと、都内の高校で音楽教師として働けることが決まっていた。
教職の道に進むと春樹に打ち明けたとき、それはそれは驚かれたものだ。俺も最初はそのつもりはなかったのだが、春樹に作曲を教えたり、友達に楽器の扱いを教える中で感じたのだ。俺は人に教えるのが肌に合っているのかもしれないと。いつか春樹の子どもにも教えてやる日が来るかもな、なんて言ったら、春樹は恥ずかしいだろと笑った。
そんな卒業を目前に控えたある日の日曜、もうすっかり暇を持て余していた俺が実家のソファでだらけきっていると、母親が呼んだ。行ってみれば春樹からの電話だったので、「どうした」と聞くと、春樹は 「お互いのギターを選びに行かないか」と言う。なにも支度なんてしていないし、あまりに突然すぎる誘いではあったが、俺は二つ返事で承諾して、大急ぎで待ち合わせ場所へ向かった。
「春樹!」
待ち合わせ場所へ着くと、既に春樹は俺を待っていて、絶え絶えの息でごめん、と謝る。
「待たせたな……」
「待ってないさ、謝るなよ。来てくれてありがとう、いきなり誘ったのに」
「いやいや、むしろ誘ってくれてうれしいよ! お前のギターを選べるなんて夢みたいだ、早く行こう!」
「あ、ああ……!」
その日、はじめて人のために楽器を選んだ。星の数ほどあるギターの中から、誰かを思ってひとつを選ぶというのは思っていたよりずっと難しかった。音、重さ、材質、持てるすべての知識を使って選んだギターを、春樹は嬉しそうに受け取って、ありがとうと笑った。春樹が俺のために選んでくれたギターも、今まで俺が使ってきた他のどのギターより、音もなにもかも、ずっといい気がした。今思えば、舞い上がっていたんだと思う。それでも、この先このギターを相棒にしていくんだという気持ちは募るばかりであった。
「大事にするよ、ずっと」
大学生活四年間の中で、きっと一番の思い出で、春樹との最後の思い出。嬉しくて、ほんとうに、このギターがあればお互いきっと頑張っていけると思った。
よく晴れた春の日、新品のギターケースを背負ってふたりで歩くコンクリートに夕暮れの影が伸びていた。歩調に合わせてふらふら動く影を見ていると、柄にもなく寂しくなった。
「もう卒業になるんだな」
「……だな。時生と出会って四年経つなんて、信じられないよ」
「ほんとだよな! いきなり話しかけられてびっくりしたんだぜ、あんとき」
「あはは、だろうね! 僕、結構前から君のこと知ってたよ。独特の雰囲気だなと思って、ちらちら見てた。あのとき、思い切って話しかけてよかったな」
「えっ、初耳だぞそれは……」
ははは! と楽しげに笑う春樹につられて、俺も笑う。知らなかった、春樹が俺のことを知っていたなんて。嬉しいと同時に、そんなに目立ってたのか、と気恥ずかしい気もする。談笑するうちに、別れ道は近づく。背中でごとごと鳴るギターを背負い直して、春樹の背を強めに叩いた。
「いった!! なんだよ時生!?」
「ははっ! 絶対有名になれよ春樹! そんで、アリーナでライブして、俺をそこに呼んでくれ。それが、俺の夢だ」
「……ああ、もちろんだ。最前で見ててくれ」
俺より少しだけ背の低い春樹の影が、俺を追い越していく。気軽に会えなくなるのは寂しいが、なにも今生の別じゃない。また会えるんだ。俺と春樹は、互いに 「またな」と告げると、お互いの帰路を急いだ。俺の大学生活最後の思い出。春樹のおかげで楽しかった四年間の閉幕だった。
*
そうして俺たちは卒業し、そのまま、一年ほど経った。
俺はまあ、新任教師ということで日々忙しくしつつも、大好きな音楽を人に教えるということに毎日やりがいを感じていて、寝不足でも腹が減っていても楽しい毎日だった。
……反対に春樹はというと、歌手としての芽がどうも思ったようには出なかったらしい。テレビで見かけることも、街中で話を聞くこともない。心配になってたびたび電話をかけると、いつもあまり元気のない声が出たものだ。
そのたびに俺は「お前には才能がある」「いつか絶対売れる」と励まして、春樹を元気づけていた。俺にできることがあれば手伝うとも言った。なにもお世辞じゃないし、嘘じゃない。本心だったんだ、すべて。
それから、どれほど経っただろう。たぶん、もう一年くらい回ったところかな。日曜昼下がりの、あくびが出るような陽気だった。静まり返った部屋に、大音量で電話が鳴る。
「わーっ!! なっ、と、もしもし!?」
そのころ俺はもう一人暮らしを始めていて、実家暮らしのころより余計に気が抜けきっていた。ちょうどそのときも、怠惰だとは思うが、ソファに座りながらまどろんでいたところだった。
俺は心臓が止まりそうな思いで飛び起きると、急いで電話を手にして耳につけた。
「……もしもし、時生?」
電話から聞こえる声は、春樹だった。連絡をとるのはずいぶん久しぶりだ。俺が忙しくなってしまって、あまり話せなかったから。
「春樹!? ひさしぶり! どうしたんだ、いきなり」
「ああ、ひさしぶり。ごめんな、急に……。ちょっと、頼みたいことが……あるんだ」
久しぶりに聴いた春樹の声は、ずいぶん大人びたというか、すこし疲れている気がした。まだ歌手として成功はできていないようだし、生活が苦しいのか……。いや、そうじゃないよな。きっと、焦っているんだ。
「あ、ああ。どうした? というか、なんだか疲れてそうだな、大丈夫か?」
「……いや、平気だよ。ちょっと寝不足なだけなんだ。それで、折り入って頼みたいんだが……時生、よければ僕に、曲を作ってくれないかな」
「えっ?」
春樹は申し訳なさそうに、消え入りそうな声でそう言った。まるで断られるのを確信しているように。
けれど俺は、俺は急に笑顔が湧いて出て、まじかよ! と、心の中で大きく叫んだ。
「もちろんだよ春樹! ぜひ俺にやらせてくれ!!」
「ほ、本当か!?ああ、ありがとう時生……。本当にありがとう、ごめん」
「謝るなよ! お前のために曲を作れるなんて、これ以上にうれしいことはないよ。本当にうれしい、絶対にいい曲を作るからな」
そこからは一瞬だった。どういう曲調がいいかとか、締め切りはいつかとか、捲し立てるように一方的に聞いて、気おされ気味に答える春樹を気にも留めず、ひたすらメモをし続けた。電話の最中に即興で浮かんだフレーズすら忘れないように書き留めた。
一通り必要なことを聞き終えると、「絶対売れるの作るから、待ってろよ」と大きな声で宣言して電話を切った。
ああうれしい、うれしくて、電話の前でひとりガッツポーズをすると、さっそくパソコンを立ち上げて作業に取りかかった。中学のころぐらいにまったくの独学ではじめた作曲だったが、俺の作る曲は昔から褒められることが多く、高校のころには文化祭のテーマソングを依頼されたこともあった。春樹に出会ってからも、作った曲を聴かせてやるたびに、春樹は俺を羨望の眼差しで見たものだ。
いずれ春樹の役に立ちたいと思っていた。それがまさかこんな形で、俺の得意な作曲で協力できるなんて、こんなにうれしいことはない!
春樹の曲を作れる。春樹が俺の歌を歌う。俺の名前が載った曲が、春樹の声で世界に届く。その想いを原動力に、俺はその日から、寝る間も惜しんで作曲にいそしんだ。もちろんちゃんと仕事もした。朝起きて仕事に行って、帰ってきて、それから夜はひたすら作曲。そんな生活は長く続いた。一、二……うん、数ヶ月。
春樹になんとしても喜んでほしくて、気に食わないところがあれば納得がいくまで修正に修正を重ねた。それも、苦痛じゃなかった。むしろ作曲だけに集中していると、なにもかも忘れてただ何時間も自分だけの世界に没入できる。ひたすら音を足して、消して、重ねて。それだけを繰り返した。
そして、ついに。
「……でき、た」
俺渾身の一曲は出来上がった。苦節うんヶ月、出来上がったのは、夜を徹して作業をしてすっかり日が昇りきったときのことだった。俺の持てる限りの情熱と技術をすべて詰め込んだその曲は、今まで俺が作ってきた曲の中で、一番輝いて見えた。もう寝不足と曲が完成したアドレナリンで心臓がバクバクだった。もう一度最後まで自分で聴いて、歌って、ああこれなら完璧だ、そう確信した。
「春樹おはよう! ついにできたよ! ようやく、ようやくだ!」
「えっ、えっ!? 曲のことか? もうできたのか!?」
徹夜の朝八時半。電話越しの春樹の、依然元気のない声とは裏腹に、俺の声は近所迷惑になりそうなほどうるさかった。
「ああ……! 喜べ春樹! コイツは、コイツならお前は絶ッ対に売れる!!」
「……ははっ! 自信満々だな、時生。ああ、本当にありがとう。迷惑をかけたな。……聴くのが、楽しみだよ」
春樹の言葉がうれしくて、ああ、頑張ってよかった。と思った。徹夜で動いているのに、微塵も眠気を感じなかった。春樹の声がなんだか暗いのも、気にも留めなかった。
*
曲を春樹に渡してからは、それがテレビから聞こえる日を心待ちにした。自分の曲なのに毎日のように口ずさんでは、やっぱりいい曲だなんて喜んで。
春樹からの連絡はなかなか来なかったが、まあいろいろ忙しいんだろうな、なんて考えて気にしていなかった。
そしてついに、「その日」はやってきた。
「たでーま」
夕飯の買い物から帰ってくると、狭い部屋にはカーテン越しに夕日が差し込んでいた。そこかしこ一面真っ赤で、まるで火の中のようだ。ずうっと遠くで、子どもの笑い声がする。部屋の中にあるのは、時計の機械音と俺の足音だけ。
「……」
俺はなんだか、その静けさに妙に不安を覚えた。普段こんなことないのに。そして、反射的にテレビの電源を強く押した。
「……あっ!!」
ぶわっと画面に色がつく。映っていたのはニュース番組で、なんと、取り上げられていたのは俺の歌。あの日俺が春樹に贈った、俺と春樹の歌だった。
「オイオイ、嘘だろ……!? んだよ、テレビで取り上げられるほど人気になってんのか! はははっ、やったな春樹、ついに……!」
ニュースキャスターの女性は、ちょうどこの曲について語り終えたところらしかった。一歩出遅れた、と思ったが、不意に彼女が 「スタジオにお呼びしたいと思います」なんて、よく聞き慣れた言葉を吐いた。
その言葉に数秒遅れて、春樹は、昔と変わらない歩き方でスタジオに入ってくる。
「春樹……!」
画面の向こうの春樹は、いつにもましてきれいで、精悍な顔をしていた。ずいぶん髪型や雰囲気が変わった気がするな。体型も、痩せたかもしれない。すこし心配になった。
久しぶりにまた会いたいけれど、テレビに出てしまったら、会えなくなっちまうかもなあ。とか、遠くなってしまった気がして苦笑する。ソファにどかっと腰を下ろして、春樹が喋り出すのを待つ。ニュースキャスターの女性が口を開くのを見て、思わず身構えた。
「さて、今回の『はるのなか』という曲についてですが、この曲をつくられたのはどうしてですか?」
「……え?」
この曲を、つくる? 春樹が?
「ええ、そうですね。歌手として伸び悩む自分に向けて応援歌をつくろうかと考えたのがきっかけで……」
いやいや、おい。なんでだよ。疑問の言葉が次々と浮かんくる。なにが起きているのか、わからない。理解できない。
俺が、すべて俺が作ったはずの曲。何ヶ月も朝から晩までかけて、魂を込めた曲。春樹への最大の応援歌。それを春樹は、まるで自分がつくったかのように、淀みなく語り続ける。俺の意志とはまったく違うようなことを、春樹はためらいなく語るのだ。
「……おい」
歌詞でよく聞く、時が止まるというやつだな、これは。
「……春樹、あれはどういうことなんだ。説明……して、ほしい」
深夜二時に差し掛かる頃、俺は受話器を握りしめ、春樹にそう問いかけた。
「ごめん、本当にごめん時生。僕は言ったんだ、僕の親友が作った曲なんだって。けど、事務所が……。すべて僕の名義で発表するって、聞かなくて……!」
受話器越しの春樹は、悔しそうな口ぶりでそう言った。俺はもうそのころには、感情の波なんてすっかり立たなくなっていて、ああ、そういうもんなのか、とすっかり納得していた。納得しいたというより、ろくに考えられなかった。
「……俺は……プロじゃないからよくわかってやれないけど、そういうこともあるんだな。そうか」
「っ、ああ……。本当に、ごめん……。春樹の努力を、僕は、踏みにじるような真似を……!」
「いや、いいんだ、気にしないでくれ。俺の方こそ、お前を責めるようなことをしてすまなかった。……曲、売れてよかったな、応援してるよ。それじゃ」
俺は春樹の言葉を遮るようにそう言うと、受話器を置いて、そのままベッドに転がった。まるで魂が抜けてしまったようだ。体と心が重くて動かない。涙も出ない。こころのなかで輝いていたはずのなにかは、春樹に向けていたあれやこれは、すっかり消えてしまった。
……ちゃんとわかってる。春樹は、春樹は。
「春樹は、悪くないん、だ……」
それから、春樹は一躍時の人となり、瞬く間にメジャーな歌手としての地位を築いた。街中で春樹の歌声を聴かない日はなかったし、その名前や顔をテレビで見ない日はなかった。ライブも、すっかり大きいステージに立つようになった。
ずっと応援していたはずの親友がうれしそうに笑っていて、うれしいはずなんだ。自分のことのように喜べて応援できると、思っていた。けど違った。この世界のだれも。俺の名前を、俺が作った曲を知らない。あれは、もう、春樹だけのものになったのだ。
……ときおり、親友のよしみだとでも言いたいのか、春樹の膨大な印税のごく一部が俺にも入ってきた。最初はいらないと拒んだが、春樹がどうしてもと言うのでそのままにしておいたからだ。おかげで、生活に困窮することはなかったが、それは俺にとってはたいしたことではなかった。
そのうちに仕事が手につかなくなった。楽しかったはずの職場ですら、春樹の話題であふれている。すれ違う生徒、会話する教師、いつも春樹の話をしていて、そのたびに心がすりおろされるような気分だった。あの曲はすばらしい、天才だ。本来なら俺に向けられていたはずの言葉は、画面の向こうの男にすべて投げられて消えていく。言ったって信じてもらえるはずもない。気がふれたのだと思われて終わるだろう。
俺はとうとう耐えがたくなって仕事をやめた。なにもできなくなってずいぶん体重は減ったし、もうすこし血色感のあったはずの肌は、気づけば青白くなっていた。連絡のろくにつかなくなった俺を心配した両親が、無理やり病院へ引きずっていった。医者からは心を病んでいると言われた。そのまま薬を飲み続けて数年。俺の精神状態はずいぶん回復し、非正規ではあるものの、結局また教師の道に戻った。俺には他の道で働いてやっていけるような知識はなかったし、やはり音楽が好きだから、誰かに教えたいと思った。俺のもてることで、誰かの力になりたかった。
そうこうしているうちに、スマホが広まりSNSもはやりだした。春樹の連絡先も、いつの間にか追加されていた。正直、いつ交換したのか、というか、この付近の記憶は未だにあまりはっきりしない。なんとかギリギリでやり過ごしていたことだけは、覚えている。とはいえ、春樹から連絡をとってくることはまったくと言っていいほどなかったし、俺もあまり思い出したくなくて、連絡は取らなかった。
そのころになると、春樹の人気は全盛期ほどではなくなっていた。外に出て春樹の話をしている人はあまり見なくなって、俺はなんだかほっとしたような、いや、やはり寂しいような気持ちもあった。
あの曲以降、おそらく春樹が、すべて自分自身の力で作ったであろう曲たち。ちゃんと一度は聴いた。たしかによかったけれど、いまいちハマらない。正直盛り上がらない。そんなものだから、当然世間の評価もあまり上がらなかった。
すっかり俺と春樹は疎遠になったし、きっとこのまま春樹と俺の縁は切れていくのだろうな。どうにもはまりの悪い春樹の曲を聴きながら、俺はそう思った。春樹と出会ってからいいことも悪いこともあった。縁が切れる悲しみもあるが、それは救いでもあるのだ。
*
二十八になったころ、 また突如として、俺を大きく脅かす出来事が起こった。
雪ノ瀬、の苗字に違わず、うまいことクリスマスに生まれてきた俺だが、毎年冷え込んだ年の瀬に、祝ってくれる人もいないのに歳をとっていた。
その年も例に漏れず、ひとり寒い家で炬燵にこもりながら、職場の人たちが 「少し早いけど」と言いながら贈ってくれたケーキをちまちま食べていた。今日の帰り道は、うっすら初雪が積もっていて綺麗だった。冬は嫌いじゃない。少なくとも暑いのよりよっぽどマシ。ただ、ふわふわの新雪は、踏み固めると泥でぐちゃぐちゃに汚れてしまう。それはどうにも見苦しくて、かわいそうで、俺的には許せない。
「はー、ケーキうま!」
クリスマスケーキと誕生日ケーキを兼ねた、ちいさな祝福。でも、そもそも三十路が見える歳になって誰が喜ぶものか。ストレスでずいぶん白髪も増えたし、悪いことしかない。
やけくそになって、チョコケーキを大きく口に放り込む。上に乗っていたビターチョコが口の中でじんわり溶ける。かなり甘い。甘いが、うまい。フォークを口に咥えたまま、左手に握っていたスマホでSNSを開き、タイムラインをスクロールする。この国のどこかの、名前も知らないカップルが手を繋いでいる写真。俺は上下の歯でフォークをかちかち噛みながら、ただひたすらスクロールし続ける。
「……ま、俺には関係ねーけど」
いやいや、俺だって彼女の一人やふたりいたことはある。ただ、すぐ振られてばかりだった。もちろん大事にしてないつもりじゃない、ちゃんと愛してるつもりだった。でも、ほら、音楽が大事すぎたんだ。……いや、俺が悪いけど。
写真越しのイルミネーションに目を細める。羨ましくないわけじゃないけど、そんなこと言っても仕方ない。ばからしくなって、スマホを机に置こうとしたとき、ちいさくスマホが震えた。
「ん?」
ぱっと画面に表示されたメッセージが目に入る。
春樹からだ。
「……なん」
『時生、久しぶり。ごめん、また僕に曲を書いてほしいんだ』
「はるき」
喉が締まって、変な声が出た。
スマホが膝をかすめて床に落ちた。ざわざわざわざわ、心が騒ぎ立つ。
わかってる、春樹は悪くない。悪いのは、俺の名前を使うことを許さなかった、コイツの事務所だ。
「春樹……」
断るのか、受け入れるのか。道なんて最初からひとつのようなものだった。すっかり冷静さを欠いた俺は、どうしたらいいかわからなくなって、メッセージを開いたまま固まる。
既読をつけてしまった。はやく返さないと。
でもどう返したらいい、なんて返すのが正解か。スマホを握って、肩で呼吸をする。どうしたらいいんだ、どうしたら。
「……い」
軽快な音楽がけたたましく鳴る。またも俺は、心臓が止まる思いをした。
着信だ、春樹からの。
「……ああ」
俺はボタンを押すと、スマホを耳につけてひたすらに呼吸を落ち着けることに徹した。
「……ああもしもし、時生? 悪い、返信がなかったから」
「い、いや、ごめん。ちょっと……」
「急にごめんな、さっきメッセージでも送ったんだけど……また曲を作って欲しいんだ。今度こそ絶対にお前の名義で発表するから、頼む!」
ぐちゃぐちゃだ。なにも考えられない。
呼吸が浅い。心臓が痛くてうるさくて、うまく声が出ない。
「……ぁ、の」
「……時生、お願いだ」
「……、あ……」
自分の心臓の音しか聞こえない。
言え、言え。無理だと言え、言え!
「…………わかった」
ぐちゃぐちゃに、綺麗だった雪がぐちゃぐちゃになる。昔からそれが汚くて嫌だった。嫌だった、のを、思い出していた。
*
「……三十七年間生きてきて、俺は今までずっと、春樹の曲を書いてる。俺は、アイツの……ゴーストライターを、やってる」
雪ノ瀬さんは、顔を伏せたまま、苦しそうに、本当に苦しそうにそう搾り出した。
私はというと、そりゃ当然ショックだった。私が知っていた彼は、彼の作曲の才能は、すべて嘘だったんだ。尊敬していたのはまがいもので、今私の横で、大きな背中を丸めるこの人こそが、彼の「才能」そのものなのだ。それはすぐには信じられないが、でも、きっと全部真実なんだ。私は自分が信じていた鹿目春樹の顔が、黒く塗りつぶされていくような、怒りや失望に似たものを覚えていた。
「雪ノ瀬さん、それ……それ、騙されてるんですよ、春樹……さん、は、雪ノ瀬さんの作曲の才能を、自分のモノにしようとして……」
「わかってる! 俺だってなにもそこまでバカじゃない。春樹が俺を騙してることはもう、ずっと昔に知ってる。でも、でもわからないんだよ、自分が。苦しいし嫌だけど、逃げられないんだ。春樹を前にすると、自分がわからなくなる……」
その声は葛藤と苦痛に満ちている。いつも穏やかで、大人びていて、優しい雪ノ瀬さん。そんな彼が、今はなんだかひどく小さく見えた。道に迷って泣いている子供のようだった。
「雪ノ瀬さんは、もう……やめたいんですか?」
「……やめたいんだ、と、思う。もう疲れたんだ、春樹に、人生を振り回されるのは」
「だったら、ちゃんとそう伝えないと、ずっとこのままですよ! ごめんなさい、無責任で。でもそうしないと、雪ノ瀬さんもう、本当に壊れちゃいますよ……私、それは嫌だ……」
うつろにこちらを見た彼の顔は、やはりまだ、恐ろしくなるほど青白いように見えた。
外は依然ひどい雨だ。ざあざあ打ち付ける雨が跳ねまくって、ときおり雨のにおいが鼻をかすめる。彼の肩口のシャツは、びしょびしょに色を変えていて、まだ乾く気配はない。透けそうなほど色素の薄い毛先からも、ぽたぽた雫が落ち続けている。きっと寒いだろう。
私が 「使ってください」とハンカチを差し出すと、雪ノ瀬さんはおずおずとそれで頬を拭いた。
「苦しいし、やめたいよ。でも、でも、いいのかわからないんだ」
雪ノ瀬さんは、ハンカチを握っていた手をいっそう強く握って、ぐしゃぐしゃに顔を歪めた。ひどく泣きそうな顔をしている。
「……春樹のことは、もう信じられない。きっと事務所の圧なんてのも、嘘だ。でも俺はまだきっと、この期に及んで春樹に、まだ、友達だって、思ってるんだ」
しゃがみ込んだままの雪ノ瀬さんに、私はなんと声をかければいいかわからなかった。
でもこのままでは、彼をこのままにしておいてはいけない。彼が本当に春樹さんを親友だと思っていて、大好きだったからこそ、こんな扱いを受けてもまだ情が残ってしまっているんだ。なんて甘い人なんだろう。真っ直ぐすぎて、悩んだに違いない。だから私は、春樹さんのことを否定することはできない。
言えることがあると、すれば。
「……私、春樹さんの曲を聴いて、歌手を目指すようになったんです。もう、ずっと子供のころ……」
はっ、と気づいたように雪ノ瀬さんが私の顔を見た。
そう、まだ小学生だったころ、父が流していた音楽。私は自分の部屋で漫画を読んでいて、たまたま喉が渇いて下に降りたのだ。そのとき通りがかって耳にした音楽。それが春樹さんの、雪ノ瀬さんの曲、『はるのなか』だった。歌詞とメロディラインに、子どもながらに一瞬で胸を射抜かれた。それからずっと、ずっと何年も聴き続けて、今だって大好きなんだ。これを聴いて私は、絶対にこんな曲を作る歌手になろうと心に決めた。
その日から作曲も勉強し始めた。彼をテレビで見るたびに、曲を聴くたびに、いつか絶対あの人の隣で演奏するんだという夢を描いていた。
「大好きなんです、あの曲が。それを……それを作ったのが、雪ノ瀬さんだったことが嬉しい。けど、私はあの曲が、雪ノ瀬さんが作ったんだって自分で言えるようになってほしいです。才能を、世界に知らしめたい……。私の、エゴですけど、そのために戦って、ほしい」
そう、そうだ。こんなにも素晴らしい才能を持って生まれた人が大手を振って歩けない人生など、あってよいものか。口にすると、意外とするする言葉が出てくるものだ。
これは全部私のエゴに過ぎないことはわかっている。でも、雪ノ瀬さんが精魂込めて作ったものを、この人が我慢して生きていかないといけないのはおかしいじゃないか。私は、あの曲を作ったのは自分なんだって、雪ノ瀬さんに胸を張ってほしいのに。
雪ノ瀬さんの目が見られない。十秒ほど経っただろうか、雪ノ瀬さんが不意に、「俺だって」と呟いた。雨の音はすこし弱まっている。
「……俺も、あれは俺が作ったんだって、言いたい。俺を評価してほしい。春樹のことは、好きだ。あいつが俺の曲で人気になったのはうれしい。……でも、そうだ、俺は、俺を知ってほしかったんだ、もともとは……」
雪ノ瀬さんは、すこしずつすこしずつ絞り出すようにそう言った。顔を上げると、彼はなにかに気付いたような顔をしていた。抑えきれないなにかに堪えるように息を吐くと、ぐっと立ち上がって、もう一度大きくため息をついた。
「……ごめん姫川さん、春樹に会いに行こうと思う。いま、から」
「えっ、今から!?」
「ああ。家は知ってるし、アイツも俺なら入れてくれるはずだ。……もしかしたら留守かもしれねえけど」
そう言った雪ノ瀬さんの瞳は、さきほどよりずっと生気に満ち溢れていた。でも、いくらなんでもいきなり単身乗り込むなんて。
「じゃ、じゃあ! ……私も、ついていきます」
「えっ、姫川さんも!?」
「はい。口出しはしませんから……。ひとりで行かせるのは、不安なんです」
「……はは、俺ってホント情けねー男に見えてんだ……。わかった、じゃあ一緒に行こう」
ぐしゃぐしゃと髪を乱してそう言った雪ノ瀬さんに、私ははい、と頷いた。
そうこう話しているうちに雨はすっかり上がっていた。空は嘘のように晴れ渡って青々としている。雨上がりの澄んだ空気。まだ地面はぬかるんでいるけれど、空には微かな虹がかかっていた。冬の雨上がりだ、空気は刺すように冷たい。吐く息が白くなる。それでも雪ノ瀬さんの表情は、自分の進みたい道を見つけられたような安心感があった。
私は行こう、と背を向けた雪ノ瀬さんのあとをついていく。なにが起きるのか未知数で、少しだけどきどきしていた。
*
「……ここだ、春樹の家」
電車を乗り継いで四十分ほど経ったろうか、春樹さんの家は、意外にも街の中に建っていた。いや、まあ人の家なのだから当たり前なのだが、芸能人も同じ世界に住んでいるのだと実感する。ただ、眼前にそびえる彼の家は、とんでもない豪邸だった。写真の中でしか見たことがないような、大きくて豪華で……。一人で住む家か、これが?
こんなの、どう過ごしたって持て余してしまう。いや、本当に。
「お、大きすぎる……。規格外じゃないですか、さすが一流歌手……?」
「っはは、本当だよな! ……行く、か」
雪ノ瀬さんは、すっかり乾いた髪をぐっとかきあげる。相変わらず色の白い額が露出して、いつも通りの彼の髪型に戻ったようだ。それを見て私がすこしほっとしたのも束の間、彼は苦しそうに震える指でインターホンに触れて、ゆっくりと、押した。
ドア越しに、チャイムが鳴り響くのがわかる。ぽーん……と、最後の音が霧散していく。
彼がいるか、いないか。また、いたとして、返事をしてくれるか。静かな空間に返事はない。やっぱり……。
「……いない、か」
そう彼が低くつぶやいた。帰ろう、と言いたげに背を向けた瞬間、ばたばたという足音とともに、重たげにドアが開かれた。
「時生! どうしたんだよいきなり。来るなら来るって言ってくれよ!」
「は、春樹……いたんだな、いきなり来て悪かった。ちょっと話したいことがあって」
大きなドアの影から姿を表したのは、テレビで見ているのとなんら変わらない鹿目春樹だった。大きくて優しいタレ目、真っ白で若々しい肌、ツヤツヤで柔らかい黒髪。それとは対照にコントラストが美しい、高そうな生地の赤いニット。雪ノ瀬さんよりはわずかばかり背が低いが、それでも十分、彼は大きかった。
私より二十センチ近く離れていそうな彼が、ゆっくりと私に目を合わせる。
「はじめまして、えーと、どちら様かな?」
「あっ、えっと、姫川、です……。はじめまして」
「はじめまして! 立ち話もなんだし、上がっていけよ。そちらの、姫川さんも」
「は、はい! ありがとう、ございます」
大きな玄関ドアを潜り抜けて、家の中に足を踏み入れる。家の中はひんやりとしていて、すこし身震いする。私たちが玄関に入ると、春樹さんがゆっくりとドアを閉める。黒いドアが、重たく、冷たく、がちんと音を立てて閉まる。さっきまで背後に差し込んでいたはずの陽の光は消えて、今私たちを照らしているのは温度のない人工照明だけ。
私たちは家主の先導に沿って、冷たいフローリングを進んでいく。リビングに通されると、そこには高級そうなソファやテーブルが並んでいた。人生ではじめて見る高級なインテリアに思わず呆然としていると、春樹さんが、大丈夫? と私に声をかけてきた。
「そこのソファーに座っていいよ。楽にしてくれていい、飲み物はコーヒーでいい?」
「は、はい。お構いなく……。」
雪ノ瀬さんとともにソファに腰をかけた私を見ると、彼は微笑んでキッチンへ姿を隠した。はじめて生で、しかも至近距離で見た彼の顔つきは、穏やかで優しくて、とてもじゃないが、人を騙すような顔には見えなかった。雪ノ瀬さんと同じ、目尻の深い笑いじわも、黒々と大きい瞳も、どれも惚れ惚れするほど美しい。けれど、春樹さんは雪ノ瀬さんを、壊しかけたのだ。
彼は、至極穏やかな笑顔でふたたびキッチンから出てくると、湯気ののぼるコーヒーをふたつ、私たちの前に置いた。
「お待たせ、はい、コーヒー」
「わ、悪いな、わざわざ」
「気にするなって! ……で、何の用だ、いきなり? そのお嬢さんとの交際報告、とか?」
「っ……はは、冗談はよしてくれ、春樹」
「ああ、違ったか。で、本当にどうしたんだ?」
春樹さんは、私たちの対角にあるソファに腰を下ろした。スプリングが軋んで、そのまま無音がやってくる。控えめに時を刻む時計の針の音以外、ここに音はない。対面する彼は、その美しい顔でにっこりと笑っている。だが不思議なことに、その笑顔は底なしに冷たい気がした。瞳は笑っていない。こちらに有無を言わせようとしないような威圧感に、思わずぞっとした。
「そ、その、だな、春樹」
「うん」
雪ノ瀬さんは震える声で切り出した。私は膝に置いた手を強く握り締める。
「俺は……ごめん、単刀直入に言わせてもらう。もうお前のゴーストライターは、できない」
「……」
春樹さんは微妙に驚いたような顔をした後、すっと表情を消して、はあ、と短くため息をついた。それに呼応して、隣の彼がびくっと震えるのがわかる。
「そうか……。ああ、残念だ。でも時生、それは人聞きが悪い。僕はお前をゴーストライターにしたつもりなんてないよ、事務所が……」
「じ、事務所が事務所っていつもそういうけど、だとしても、お前がそれに抗議しないのはおかしいじゃないか! 俺のこと、親友だと思ってるなら……」
ぴくりと、彼の眉間にしわが寄った。それを皮切りに、春樹さんは途端に雰囲気を変えた。苛立ちを表すかのように、彼の右足は細かく揺れている。次第に空気が重くなっていく気がして、思わず背中に冷や汗が伝う。
机の上のコーヒーはなにも知らず湯気を立てているが、誰も口をつけようとはしない。次の瞬間、彼は再びため息をついた。今度はもっと、怒りを含んでいるようだ。
「親友って……。お前、まだそんなおめでたいこと思って生きてたんだな」
「え……春樹?」
「親友ね、そうだったかもな、昔は。だが時生、今のお前は僕にとって、都合のいい作曲マシンだ。僕の中でお前はもう、親友でもなんでもない!」
彼の語気は徐々に強まる。彼の歌手としてのイメージには似つかわしくない言葉と攻撃的な表情に、私は驚いて、幻想が一気に崩れていくのを感じていた。
「僕とお前は、はなから出会うべきじゃなかったんだよ。……今更お前が僕に、僕がお前に謝ったところでどうにかなる関係じゃないって、お前ならわかってくれるだろ。僕たちはもう、やり直せないんだよ!」
彼は、そう叫ぶと同時にソファから勢いよく立ち上がり、机に手をついて私たちに詰め寄った。いつも画面越しに見ていたあでやかに笑う目で雪ノ瀬さんを強く睨みつけている。ひたすらに射抜くように、その瞳で怒りを伝えている。雪ノ瀬さんの方は、この世のすべてが止まったような顔で彼の目を見つめ返していた。
「春樹……。俺がお前のことを傷つけてたなんて、全然、思いもしなかった。俺はお前のこと親友だって、今までずっと思ってたから。……なあ、ごめん、謝るから、そんなふうに言わないでくれよ、俺が今までどんな思いでお前の曲を……」
雪ノ瀬さんはそこで言葉を詰まらせた。春樹さんは一度顔を強くしかめてから、部屋中に響き渡る悲痛な声で叫んだ。
「僕はずっとお前が憎かったよ、十年以上前から!!」
眉は醜く歪み、下瞼がときおり痙攣している。そしてそんな彼と同じように、雪ノ瀬さんは顔をくしゃくしゃに歪めて、泣きそうな表情を浮かべていた。
「お前は、僕にないものを全部持ってたよな、時生? 恵まれた家庭も、人望も、音楽の才能も!! 全部! 僕にはなにひとつないのに!!」
「は、春樹」
「なんなんだよお前は! お前に近づけば近づくほど、僕が惨めで仕方なくなるんだよ!! 自分の家庭環境に同情されて泣かれるのがどれだけ惨めかわかるか? 自分で書いた曲はろくに評価されないで、お前が書いた曲ばっかもてはやされるのがどれだけ苦しいかわからないんだろ!? 親友を憎むことが僕をどんなに蝕んだか、お前にはわからないんだろ……?」
「……俺がお前をそんなに傷つけてたなんて、知らなかった。ごめん、俺が悪いんだよな、謝らせてくれ……」
雪ノ瀬さんのその言葉を聞いて、春樹さんは失望したような表情を浮かべた。そのまま乾いた笑いを浮かべると、とうとう涙をこぼした。
「お前はなんにもわかってないんだな。何が悪いかなんてわかってないくせに謝るなよ。……僕が父さん母さんに音楽を否定され続けてきた横で、お前は心から楽しそうに、のびのびと音楽をやってたよな。お前はただ音楽が好きだっただけで、僕はそんな無邪気なお前に、気が狂いそうなほど嫉妬してただけだ。……あぁ、お前は嫉妬がどんな感情かも知らないのか。僕がいるはずだった場所に、お前がいることだよ」
雪ノ瀬さんは春樹さんの泣き顔と、自分にぶつけられている感情の両方に驚いているようだった。雪ノ瀬さんは視線を彷徨わせたが、消え入る声ででも、と呟いた。
「で、でも、俺が持っていなかったものを持ってるのは、お前も同じじゃないか」
「……お前がなにを持ってないって? 僕はこの歌声しか持ってない、でも歌は僕だけじゃない、お前だって持ってる。お前は僕がしたかったことを全部やれるだけの環境も能力も、センスもあった。……だから時生、お前にも味わわせてやったんだよ! 自分がいるはずの場所に他人がいることの苦しみを! 本当は、僕はお前みたいな人間に、生まれるはずだったんだ」
春樹さんは目元を拭って、雪ノ瀬さんから視線をそらした。
「本当にみじめだ、僕は。お前の気持ちを、利用し続けた。わかってる、僕は最低だ、全部わかってるんだ」
すっかり呼吸の落ち着いたらしい彼は、打って変わって冷たい声でそう言い切ると、はあぁ、と、彼はひときわ深いため息をついた。そして、そのままゆっくりと床に膝をついて、なにも見たくないと言いたげに手で顔を覆った。
「時生、僕は世間に言わなくちゃならない。今までのヒット曲は、全部お前のものだったって……。僕は、それを歌っていただけだって、言わなくちゃいけない。僕は、お前にはなれなかったから」
春樹さんはぽつりぽつり、懺悔するように呟いた。春樹さんはもはや、顔を上げようとすらしない。彼がどんな顔をしているのかはわからないが、彼の声は全てを諦めたかのようだった。
「……俺は、お前のこと、なんもわかってなかったんだな。一番理解してるつもりで、なんも……。俺のせいで、お前が追いつめられてったんだと思うと、俺は死にたくなるよ。……でも、お前がちゃんと世間に公表するっていうなら、俺はいいと思う。お前が、ちゃんとお前の人生を歩むには、それしかないだろうから」
雪ノ瀬さんは絞り出すようにそう言った。
「僕が時生だったら、僕のこと一発殴ってるよ」
春樹さんは脱力したように、床に座り込んで力なく笑った。彼の大きな黒目は、悲涙をたたえて揺れている。雪ノ瀬さんはゆっくり立ち上がって、心底切なそうな声で「俺は殴らないよ」と言った。
*
それから、ずいぶん長い時間が経ち、あんなに寒かった空気にも温かさが戻って、あちこちが春めいてきた。開きはじめた桜の花が、公園を彩っている。空にももうあの日の面影はない。
あのあと、春樹さん自身によって、事実は全て白日の下に晒された。フラッシュを一身に浴びながらふらふら登壇する春樹さんは、覇気をすっかりなくしていて、私はとてもじゃないがその姿を正視することができなかった。この会見が世間に大きな衝撃をあたえたことはいうまでもない。
そしてそれから、春樹さんの、鹿目春樹のことは、一切テレビで見なくなった。いや、厳密に言うと毎日見るのだけれど、それはマイナスの報道ばかりで、あんなにみんなから愛されていた、 「一流歌手の鹿目春樹」は、ぱったりと姿を消した。事実ではないことを、勝手に妄想して喋り立てる人も何人もいた。それでも、春樹さんと作曲者の雪ノ瀬さんとの間に、今でも親友としての不思議な心のつながりがあることを指摘する人はいなかった。
……肝心の雪ノ瀬さんはというと、正直、私も知らない。実は、あの日から一切の連絡がつかなくなった。メッセージを送っても既読がつかず、電話も繋がらない。バイト先にも一度も来ていないようで、同じように店長も心配していた。
クリスマスには、気が引けたが誕生日祝いのメッセージも入れた。しかし、依然返信はない。ときおり気になってトーク画面を開くが、最後の連絡から動きはない。
連絡は返ってこなくても、もう会えなくともいい。せめて、生きていてくれれば……。
「姫川さん?」
「えっ」
目の前に現れた大きな影、そして、よく聞き慣れたあの声。ばっと顔を上げると、そこに立っていたのは、紛れもなく彼だった。
「雪ノ瀬さん!!」
「ああ、やっぱ姫川さんだ。髪伸びたね、久しぶり」
「おひさ、し、ぶりじゃないですよ……! 連絡取れなくなって心配してたんですから! あの、大丈夫ですか、いろいろと」
雪ノ瀬さんはばつが悪そうに笑うと 「うん」と返した。
「なんとかね。一時期は完全にやられちまったけど、最近ようやく持ち直してきたかな。仕事もそろそろ復帰する予定」
「そ、そうですか。よかった……」
「ごめん、連絡返せなくて。でもあの、これに関しては言い訳さしてくれ。スマホ水没させて壊しちまって……。データ飛んじまったんだ」
「ええ!? な、なんだ、そういうことだったんだ……。それならよかったです、本当に。また交換すればいいだけの話ですし。それよりも、生きててくれてよかった」
雪ノ瀬さんは私の言葉に面食らった顔をすると、からから笑って、 「そう簡単に死なねえわ」と言った。
その顔はもう、私がよく知っているあのいつもご機嫌な雪ノ瀬さんだった。
彼は私の隣に腰を下ろすと、後ろに手をついて、空を仰いだまま息を吐いた。
「……ちょいちょい、作曲の依頼がくんだ。まあ受けてはねーけど……俺の音楽が都合よく使われるのは、もう懲り懲りだしな」
彼は、どこか遠くを見た。春樹さんとその後どうなったかを聞くことはしなかった。聞いたらきっと答えてくれるだろうけど、もう別に、知りたいわけじゃなかったから。
「雪ノ瀬さん、私将来、歌手になるので」
「えっ? う、うん、またずいぶん急な……どうした?」
「私絶対、歌手になるので! それで、雪ノ瀬さんをあっと驚かせるくらい人気になって、アリーナでライブして、客席全部埋めます。そのとき雪ノ瀬さんは特等席用意しますから、私が歌う曲、作ってくださいね」
雪ノ瀬さんは、私の言葉に 「え!?」と叫ぶと、目を泳がせて引きつった笑顔を見せた。
さすがに唐突だったか。とは思ったけれど、私だって歌いたくなったのだ。彼の曲、彼が私のために作ってくれた曲。彼の才能と私の才能をかけ合わせて、最高な曲を作りたいと思ったのだ。
「……いや、でもその、無理にとは」
「あ、いや違う違う! 熱いこと言うなあと思って、恥ずかしくなっただけ。……うん、約束するよ、そんときゃ絶対、『はるのなか』よりいい曲作ってやる。だから姫川さんも、絶対俺の夢叶えてくれよ」
雪ノ瀬さんはいたずらっぽく笑った。私もそれを見て嬉しくなって、はい、と力強く返す。
桜の花びらが、ひとつ彼の太ももに舞い落ちた。そこで私は、ようやく本格的に春が訪れたことを実感する。
このあたたかな春のあとには、きっと二人の歌を歌うことができる新しい季節がくる。そんな予感も心のどこかに感じていた。
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