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第四章 星月夜
重圧と、決心
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後に続くわたしたちのことなんて気にしていないのか、男は振り返ることすらせずに通路を進んでいく。正直、見失わないようにするので精一杯だ。
大きなガラスがはめ込まれた扉の前を通り過ぎる。向こう側はどうやら談話室のようなスペースらしい。やけに派手な装飾が目立つ部屋だった。
あんな場所では落ち着いて話せないだろうに。無関係ながらそんなことを考えていると、隣を歩く瑠璃が小さく手招きをしていることに気がついた。首を傾げて意図を問う。
「……今なら逃げられるんじゃないですか」
潜めた声での提案には一理あるかもしれない。だが、もし逃げたことに気づかれたら。そのときは、今度こそ命を失うかもしれないのだ。……今のわたしには、その危険な道を選ぶ勇気がない。
ぴたりと足を止める。足が……いや、全身が重い。わたしが判断を間違えたら、瑠璃も道連れにしてしまう。かと言ってこの少女に決断を任せるわけにもいかないだろう。のしかかる責任が苦しくて、痛い。
「音島さん?」
訝しむ瑠璃の顔は、どう見てもあどけない少女のもの。……家族がいて、友人がいる。わたしとは違う――だから。
「……瑠璃、逃げるなら一人で逃げて」
絞り出すように、そう告げるしかなかった。
死への恐怖よりも、出所不明の倫理観の方がわたしの中で強く主張してくるのだ。子供をむざむざ殺していいわけがない、と。
一歩、また一歩、震える足で前へ進む。瑠璃の咎める声が聞こえた気もするが、幻聴かもしれない。未知の恐怖に怯えるわたしが作り出した、この先へ進まなくてもいい大義名分。そんな可能性も否定できないでいた。
あの男は「殺意はない」と言っていたが、それを信じられるだけの材料がない。会って数分の男が口にした言葉と、わたしと共に汗を流した――文字通り――瑠璃が見せる態度。どちらを信用するか、判断にためらうことはなかった。だからこそ、わたしは一人であいつと対峙する。
「大丈夫。わたしって、何だかんだ運がいい方だから」
気休めにもならない言葉を自分自身にも言い聞かせ、瑠璃を置いて歩を進めていく。不思議なことに、あれほど重かった足は普段通りの軽やかさで動かせるようになっていた。
待っていろ、柊某。気休めの次は虚勢だ。今のわたしは誰にも邪魔できない、止められない――!
「うわっ!」
「痛っ」
目の前が揺れるような衝撃に思わず足を止める。……訂正、誰かと正面衝突した。まさかこんな事故で勢いを殺されるとは。不覚だ。
顔を押さえながら正面に向き直ると、そこにいたのは柊……ではなく、ごく普通の少年だった。悪巧みとは無縁そうな顔をした、言ってしまえば一般人顔。目を真ん丸にして、ぶつかったわたしを凝視している。
「……ごめん、まさか人がいるとは思わなくて」
とにかく謝罪しなければ。少年に怪我はないだろうか。先ほどまでの奇妙な決意はどこへやら、わたしは彼の無事を確かめた。幸い怪我はないようで、向こうからも謝罪が返ってくる。
「俺もちゃんと前見てなかったんで。ところで……」
「ところで?」
「瑠璃……あぁいや。このくらいの身長で、元気な女の子見かけませんでした?」
このくらい、と手で高さを示しながら問いかけてくる少年。瑠璃の名前を出していたし、知り合いなのだろうか。……いや、彼が瑠璃――あるいは久谷派――と敵対している可能性も否定できない。ここで安易に肯定してはいけないだろう。
「申し訳ないけど、わから――」
「わからないはずないだろう、先ほどまで共に逃げ隠れしていたくせに」
ヒュッと息を呑む音を他人事のように聞きながら、わたしは視線を遠く――少年の後方、声がした方向――へと向ける。案の定、そこにいたのは柊とかいう男だった。
「逃げ隠れ? ……あぁ、また何か思いついたんだな……」
少年は納得したように頷くと、今も座り込んだままのわたしに手を差し出してくる。立てますか、と。
「あなたが音島律月さん、ですよね。おばあ様があなたを探してました」
「……探される心当たりが何一つないけど」
戸惑いと警戒を織り交ぜて返答する。すると少年の方も困惑したような顔をして、そんなはずないけどな、と呟いた。
「えーっと、じゃあ『榛月子』って言えば心当たりありますか?」
「まぁ、なくはないけど……わたしを探してる?」
わたしを〈オアシス〉へ向かわせた当人が探していても不思議ではないが、どうして術者協会にいるのだろう。彼女は〈五家〉の人間なのに。
訝しんでいると、柊が納得したように「榛様の客人か」と呟く。よくわからないが、警戒は解けたようだ。
「そういうことであれば無理に追い出すわけにもいかない。久谷の娘を連れて行くといい……まぁ、私に言われずともそうするだろうが」
「ご配慮ありがとうございます。……音島さん、こっちだ」
少年に促されるまま、柊と別れる。わたしは戸惑いつつも彼に声をかけた。
「ねえ、あんた……名前は?」
「名前……あぁそうか、名乗ってなかったかもしれませんね」
思い出したように言う少年は、なぜか再び手を差し出してきた。ぽかんと口を開けたまま、わたしもなんとなく手を伸ばす。
「俺は榛正輝と言います。〈五家〉の一つ、榛家の次期当主候補でもあります」
よろしく――そう言って、正輝はぎこちなくはにかんだ。
大きなガラスがはめ込まれた扉の前を通り過ぎる。向こう側はどうやら談話室のようなスペースらしい。やけに派手な装飾が目立つ部屋だった。
あんな場所では落ち着いて話せないだろうに。無関係ながらそんなことを考えていると、隣を歩く瑠璃が小さく手招きをしていることに気がついた。首を傾げて意図を問う。
「……今なら逃げられるんじゃないですか」
潜めた声での提案には一理あるかもしれない。だが、もし逃げたことに気づかれたら。そのときは、今度こそ命を失うかもしれないのだ。……今のわたしには、その危険な道を選ぶ勇気がない。
ぴたりと足を止める。足が……いや、全身が重い。わたしが判断を間違えたら、瑠璃も道連れにしてしまう。かと言ってこの少女に決断を任せるわけにもいかないだろう。のしかかる責任が苦しくて、痛い。
「音島さん?」
訝しむ瑠璃の顔は、どう見てもあどけない少女のもの。……家族がいて、友人がいる。わたしとは違う――だから。
「……瑠璃、逃げるなら一人で逃げて」
絞り出すように、そう告げるしかなかった。
死への恐怖よりも、出所不明の倫理観の方がわたしの中で強く主張してくるのだ。子供をむざむざ殺していいわけがない、と。
一歩、また一歩、震える足で前へ進む。瑠璃の咎める声が聞こえた気もするが、幻聴かもしれない。未知の恐怖に怯えるわたしが作り出した、この先へ進まなくてもいい大義名分。そんな可能性も否定できないでいた。
あの男は「殺意はない」と言っていたが、それを信じられるだけの材料がない。会って数分の男が口にした言葉と、わたしと共に汗を流した――文字通り――瑠璃が見せる態度。どちらを信用するか、判断にためらうことはなかった。だからこそ、わたしは一人であいつと対峙する。
「大丈夫。わたしって、何だかんだ運がいい方だから」
気休めにもならない言葉を自分自身にも言い聞かせ、瑠璃を置いて歩を進めていく。不思議なことに、あれほど重かった足は普段通りの軽やかさで動かせるようになっていた。
待っていろ、柊某。気休めの次は虚勢だ。今のわたしは誰にも邪魔できない、止められない――!
「うわっ!」
「痛っ」
目の前が揺れるような衝撃に思わず足を止める。……訂正、誰かと正面衝突した。まさかこんな事故で勢いを殺されるとは。不覚だ。
顔を押さえながら正面に向き直ると、そこにいたのは柊……ではなく、ごく普通の少年だった。悪巧みとは無縁そうな顔をした、言ってしまえば一般人顔。目を真ん丸にして、ぶつかったわたしを凝視している。
「……ごめん、まさか人がいるとは思わなくて」
とにかく謝罪しなければ。少年に怪我はないだろうか。先ほどまでの奇妙な決意はどこへやら、わたしは彼の無事を確かめた。幸い怪我はないようで、向こうからも謝罪が返ってくる。
「俺もちゃんと前見てなかったんで。ところで……」
「ところで?」
「瑠璃……あぁいや。このくらいの身長で、元気な女の子見かけませんでした?」
このくらい、と手で高さを示しながら問いかけてくる少年。瑠璃の名前を出していたし、知り合いなのだろうか。……いや、彼が瑠璃――あるいは久谷派――と敵対している可能性も否定できない。ここで安易に肯定してはいけないだろう。
「申し訳ないけど、わから――」
「わからないはずないだろう、先ほどまで共に逃げ隠れしていたくせに」
ヒュッと息を呑む音を他人事のように聞きながら、わたしは視線を遠く――少年の後方、声がした方向――へと向ける。案の定、そこにいたのは柊とかいう男だった。
「逃げ隠れ? ……あぁ、また何か思いついたんだな……」
少年は納得したように頷くと、今も座り込んだままのわたしに手を差し出してくる。立てますか、と。
「あなたが音島律月さん、ですよね。おばあ様があなたを探してました」
「……探される心当たりが何一つないけど」
戸惑いと警戒を織り交ぜて返答する。すると少年の方も困惑したような顔をして、そんなはずないけどな、と呟いた。
「えーっと、じゃあ『榛月子』って言えば心当たりありますか?」
「まぁ、なくはないけど……わたしを探してる?」
わたしを〈オアシス〉へ向かわせた当人が探していても不思議ではないが、どうして術者協会にいるのだろう。彼女は〈五家〉の人間なのに。
訝しんでいると、柊が納得したように「榛様の客人か」と呟く。よくわからないが、警戒は解けたようだ。
「そういうことであれば無理に追い出すわけにもいかない。久谷の娘を連れて行くといい……まぁ、私に言われずともそうするだろうが」
「ご配慮ありがとうございます。……音島さん、こっちだ」
少年に促されるまま、柊と別れる。わたしは戸惑いつつも彼に声をかけた。
「ねえ、あんた……名前は?」
「名前……あぁそうか、名乗ってなかったかもしれませんね」
思い出したように言う少年は、なぜか再び手を差し出してきた。ぽかんと口を開けたまま、わたしもなんとなく手を伸ばす。
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