息つく間もなく見ています

井村つた

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①⓪指さす女

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 この話は、たくやさん(仮名)から聞いた話を再構成しています。

 たくやさんが京都の大学に行っていた時の話です。たくやさんは、滋賀県に住んでいたのですが、京都の名門私立大学に受かったので、一人暮らしを始める事になりました。実家から大学まで、無理したら通学できたのですが、通学時間がもったいないという事で、大学から近いマンションに住むことになりました。

 マンションといっても、築30年以上は経っており、オートロックもなければインターホンもないような古ぼけた建物でした。3階建てでそれぞれのフロアに7部屋あり、たくやさんの部屋は3階の一番端っこの301号室でした。マンションの入り口を入るとすぐに螺旋状の階段があり、3階まで上がるとすぐにたくやさんの部屋がありました。階段の反対側の307号室の横に外付けの階段があり、そちらから1階に降りると洗濯機と乾燥機があるエリアに降りれる構造になっていました。

 玄関を入るとすぐ廊下になっており小さなキッチンがあり、備え付けの冷蔵庫もあります。その左側にトイレと風呂が一体型のユニットバスがあり、小さな手洗い場もついています。廊下の先のドアを開けると8畳程度の広さがあります。部屋に入ってすぐに、たんす兼テレビ台のような棚が備え付けてあります。角部屋ですが左側の側面は、はめ込み式のミラーガラスになっており、日の明るさは分かるのですが、それ以外は外が見えません。そして、はめ込み式ですので、開ける事もできない仕様になっていました。奥にベランダがあり、折り畳み式の物干しの棒を下げて、そこに竿をはめ込むと、洗濯物が干せるようになります。

 たくやさんは喫煙者でタバコの匂いが服などにつくのが嫌で、タバコはベランダに出て吸っていました。ベランダに背もたれのない椅子を置いて、灰皿もおしゃれなスタンド型のものを買って置いていました。灰皿にタバコを置いて上の棒を押すと、タバコを置いた所が回り始めて、下の水が入っているゾーンにタバコが落ちていく感じの灰皿でたくやさんも気にいっていたそうです。

 ベランダの外は、1階の人専用のちょっとした庭部分があり、ここに自転車などを置いている人もいました。1メートルもないフェンスが建てられており、そこを超えると細い水路が流れていました。水路の向こう側は一方通行の道で、ほとんど人が通らないような環境でした。

 たくやさんがそのマンションに住み始めて2年半程度経った冬の話です。その日は金曜日でゼミの飲み会かサークルの飲み会か忘れたそうなのですが、家に帰って来たのが24時を超えていたそうです。明日の昼からバイト面倒だななどと考えながら、ライターとタバコを持ち、ベランダに出たそうです。

 ベランダの塀に肘を置いて、空を見上げながら火を点けます。冬だったので、星が綺麗だっだそうです。何気なく下の方に目をやるとそれはいました。マンションを指さしながら、何かパクパクと口を動かしている女性がいました。年のころ、40歳前後でしょうか、ハットをかぶりショルダーのバッグを肩にかけています。スニーカーっぽい靴にジーンズ、上はダウンを羽織っており普通の主婦のような女性でした。

 304号室あたりを指さしており、パクパク口を動かしているのですが、声は聞こえません。たくやさんは304号室の人と何か合図を送っているのかと思い、身を乗り出して女性が指さしている方の部屋を見ました。誰もいません。誰もいないどころか、電気もついていません。近所づきあいがほとんどなかったたくやさんは、その部屋に人が住んでいるかどうかも分かりませんでした。

 冬の24時を過ぎた閑静な住宅街には、似合わない状況でした。しかし、たくやさんも少し酔っ払っているので、その異常には気づかなかったそうです。

 タバコを吸い終わるとスタンドにタバコを置き、上の棒をおします。タバコを乗せた部分が回り始め、いつものようにタバコが姿を消します。女の方を見ると、まだ304号室あたりを指さしてジッと見ていたそうです。気味が悪いと思いながら、部屋に入り、ベランダのカーテンを閉めて、家にあった缶チューハイを開けたそうです。深夜のお笑い番組を見ながら、リラックスした時間を過ごしたそうです。

 缶チューハイを飲み終わり、もう1本飲もうかどうしようかと迷いながら、タバコを吸いにベランダに出ます。この時は、さきほどの女の事などもう忘れていたのですが、ベランダに出るとそれはまだいました。先ほどは304号室を指さしていたのですが、今は102号室の前に移動して、302号室あたりを指さしています。たくやさんは、お隣の方を見ますが、先ほどと同じで電気もついていませんし、誰かいる気配すらありません。女は口をパクパクさせていますが、声は聞こえません。たくやさんは、思い切って、「あのすみません」と女に声をかけてみたそうです。女は、微動だにせず、302号室を指さしたままです。気持ち悪くなったたくやさんは、半分ぐらい残っているタバコをスタンドに置いて、消す作業をしました。部屋に入る前にもう1度女を見たのですが、こちらに我関せずという感じでずっと同じ姿勢を保っています。

 たくやさんは部屋に入り、鍵とカーテンを閉めて友達にメールをしました。「やばい女がうちのマンションの前にいる」みたいな感じのメールです。もう1時を回っていたそうなので、すぐに返信はありませんでした。たくやさんは、もう1本チューハイを飲もうと思ったのですが、冷蔵庫に入っていません。24缶入りの段ボールから酎ハイを4本出し、3本は冷蔵庫に入れて、1本を開けてそのまま飲み始めました。冬の京都ですから、部屋に置いたままのチューハイでも充分に冷たくなっていますので、氷いらずで飲むことができます。メールが返って来ないかなと携帯電話をチェックしてみましたが、返信はありません。

 あの女どうなっているだろうか。と興味が沸いてきますが、気味の悪い女に関わるとろくでもない事になるのではないかなどと葛藤していましたが、チューハイがほとんどなくなって来た所で思い切って見てみる事にしました。タバコとライターを持ち、大きな音を立ててカーテンを開きます。鍵を開けてドアを開けます。わざと大きな音でせき込み、ベランダに出ます。女はいました。101号室の前です。そして、301号室のたくやさんのベランダを指さしていました。えっと思って、思わず後ろを振り返ったのですが、もちろん誰もいません。どこにでもいそうな普通の女性でした。右目の下に泣き黒子があるのが印象的な顔でした。どう考えても、たくやさんと目が合っていますが、何も動きがなく、こちら側を指さしています。たくやさんは「あの~」と少し大きな声で言いました。

 女は声に反応して、満面の笑みをたくやさんに向けたそうです。全身の鳥肌が立ったといいます。心の底から気味が悪いと思う笑顔だったそうです。何か獲物を見つけたような顔だと感じたそうです。笑顔を見せた女は下の方を向き、右足の靴のかかとで左足の靴のかかとを踏み、左足の靴を少し脱ぎました。そして、脱いだ左足で右足の靴のかかとを踏むと、グンと顔を上げてたくやさんを確認し、もう1度気味の笑顔を見せて、左側に走っていきました。靴はその場に置いたままです。えっと思ってたくやさんは、少し前に出て女の後を目で追いました。女はフェンス沿いを走り、すぐに右に曲がりマンションの入り口の方に走って行きました。

 たくやさんはやばいと思い、タバコをスタンドに置いて玄関の方に走りました。鍵は閉めたと思っているのですが、急ぎで走ったそうです。幸い鍵はきちんと閉まっていたそうなのですが、チェーンも急いでかけました。

 廊下の方の気配を感じ取ろうとしたそうなのですが、女が来る様子もありません。ベランダの方に戻ってタバコの残りを吸おうとしました。外には女が残していった靴がポツンと道の真ん中にあります。これは結構やばい状況じゃないかとたくやさんは考えたそうで、110番に電話しました。

 「はい。110番です。事件ですか事故ですか」若めの男性の方のはっきりした声が電話の向こうからしました。たくやさんは、「女の人が靴を脱いでマンションに入っていった」と今まであった事を説明したそうです。「お酒飲んでますか?」と警察官、自分でも分かったそうなのですが、それほど強くないお酒をいっぱい飲んでいるせいもあり、少し呂律が回ってなかったそうです。「飲んでいますが、女性が」などと説明すると、電話の向こうの警察官は、今すぐ人向かわせますね。と言ってくれたそうです。

 ベランダでずっと待っていると、バイクに乗った2人の警察官が来てくれたそうです。たくやさんは手を振って、ここです。と示すと、警察官はバイクをマンションの敷地内に止めて、部屋がある3階まで上げってきてくれたそうです。警察官に事情を説明して、一緒に靴を見に行きます。女性もののスニーカーがやはりあります。女の人はどっちの方になどと聞かれたので、その角を曲がった所まで見ましたが、それ以降は分からないと説明しました。

 10分ほどマンションの周辺を3人で見回った後、警察官の人は何かあったらすぐに110番してください。戸締りもしっかりしてください。きちんと見回りも強化します。と言って、帰っていったそうです。

 女がマンションの住民なのか、少しおかしな人なのか、マンションの住民に恨みがある人なのか、全く分からないそうです。そして、その後一切その女を見かける事もなかったそうです。これでたくやさんのお話はおしまいです。

 その靴はどうなったのかと私が聞いた所、警察官と3人でマンションの周りを歩いていた後から靴の記憶が全くないそうです。そのまま道路の真ん中に置いてあったのか、誰かがよけたのかも思い出せないそうです。

 ベランダに出て、突然変な人が自分の部屋を指さしているのを想像するだけで怖いですね。夜、ベランダに出ないようにしましょう。



指さす女 おしまい

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