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第九話『半年前』
しおりを挟む好きでやっていたはずなのに、いつの間にか嫌で嫌でしかたがなくなっていた、ゴシップ誌の記者の仕事。
『都市伝説の真実と嘘』というコーナーを担当し、同誌ネット版がスタートするとそちらの責任者に任命され、リアルタイムで読者とやりとりをして情報を得たり、要望を聞いたりしていた。
素人相手のそのての情報は尾鰭の付きかたがホラに近く、無駄足になってしまう取材が増え、ネット版は、過去に掲載した記事の焼き直しみたいな糞ネタでお茶を濁すことも多かった。
取材で飛び回るうち、社会のシステムにも、何度も唖然とさせられた。
都市伝説を調べる際に必要となる申請事項の多さと、その抜け道の多さ。
それを調べるうちに見えてくる、表裏の境界を行き来する狡賢い人間たち。
善悪という基準の曖昧さ。
モラルとはなにか、法とはなにか、国家とは、政府とは、宗教とはと、調べれば調べるほどに、真っ黒い沼に足がはまっていくような気がした。
法とは畢竟、誰かの都合が生んだ利権であり、善や正義とは決して、絶対普遍のものではなく、都合によって玉虫色の解釈が可能な、一見すると道徳の顔をした、一握りの権力者たちを守るための奴隷階級への枷でしかない。
そういった理不尽を自然なこととして世間一般に浸透させるには暴力が有効で、必要不可欠なのだと知った。
法治国家は警察力により暴力を駆逐しているではないか、この平和が見えないのかと、知識階級の論者どもがインチキな統計的巨視論を持ち出し、陰謀論者を見るような蔑みの眼差しを向けてくることもあった。
数字や世論、戦争国と比較して結論すれば、学者としてはそう考えてしまうのはムリもないことである。
暴力とは、わかりやすい暴力としてそこに堂々とあるとは限らないのだ。
たとえば〈死刑〉や〈懲役〉のように間接的であったり、もっともっと複雑な、巡り巡っての結果だったりもする。
中世に拷問で飯を食っていた者らが、現代の政治家、検察官、警察官、裁判官になったと考えれば、分業されただけだとわかるだろう。
肉屋や料理人が屠畜しないのと同じで、残酷な死は隠される。
肉が大好きという子供たちは、それが生き物の一部だとは考えない。
極端な鈍化と鋭敏が民衆を翻弄し、現実と虚構が裏返れば、巨大化しすぎた悪が正義になることもよくあった。
悪の都合で調整された正義が、警察力により執行されることになるのも見た。
暴力や革命とは、資産の多寡によって正義か悪かに分類されるのだと知った。
コリィは心底ウンザリし、糞溜めのような世界に絶望した。
マニアどもの毒々しい純粋さにも、社会に蔓延る矛盾や理不尽にも。
だからこそ、今回の捜査は無償でもやりたかった。
嘘に塗れた都市伝説や、虚実を金で買えるインチキな実社会のなかで、追っても辿り着けない妄想ではなく、本物の奇跡を捜せるという喜び。
ゴー・キラーを追うコリィは、熱意の塊だった頃と同じ顔をしていた。
記者時代に培った勘を目一杯働かせ、情報から情報へと泳ぐ歩調は実に逞しく、歩幅は広かった。
まともな目標さえ見つかれば、捜査が楽しいのは当然かもしれない。
今のコリィが入手できる情報は、マニアたちの語る夢想とは別物であり、都市を流れる噂のなかの、玄人が扱う本物だけを辿ることができるからだ。
ゴー・キラー、逃さねぇぞ。
記者時代にはよく情報や証拠の真贋を見誤り、調査の途中で何度も途方に暮れ、最初からやりなおすことも多かった。
でも今のコリィは最短距離を進めるので、無駄足がない。
自己負担の捜査費用は膨れる一方だったが、寝る間も惜しんで仕事を続けた。
本物の逃走路を探るのは容易ではなく、その手強さも魅力だった。
簡単な都市伝説なら初手で捕まえるコリィが、いくら追っても見つからない。
決まった場所で寝泊まりしないのか、何度も、少し前までここにいたはずという場所を探り当てた。
それはまるで、追跡を察知しているかのような消えかただった。
獣が足跡をごまかすように、ゴー・キラーは巧みに行方をくらませる。
素人どころか普通の情報屋なら、ネタが偽か腐っていたと判じたかもしれない。
だがコリィは、ごまかされなかった。
複雑に枝分かれした真実を、丁寧に一つずつ潰した。
すごい勢いで、ゴー・キラーの逃げ道は塞がれていった。
死んだという前提を覆すのも、なかなか骨だった。
ゴー・キラーはマフィアに殺されたのだ。
これは情報屋筋の、確かなネタである。
「状況的には死んだはず」などという推測ではなく、玄人が「死んだ」と断言するからには、確実に屍体があるはずで、売人殺しの線から追うのは不可能だった。
充実した日々はあっという間で、亡くなったグザヴィエがコリィの部屋を最初に訪れてから、いつしか半年が経過していた。
時間が経てば当然、本物だった情報も腐る。
腐った噂の影に潜む活きた噂を見つけ出し、次はそれを追う。
追ううちにまた、その情報は腐る。
またちがう角度から関連情報を見つけ出し、次に繋げる。
コリィは猟犬のように執念深く、諦めなかった。
ゴー・キラーの名を出さず、巨人、小人、テレポーター、未来人などの噂から、ヌルヌルと鰻のように逃げる対象へと、しつこく捜査の手をのばす。
複数の情報が渦巻きのように一点へと集約し、ポトンとコリィの手の中に落ちてきた。
あいつだ。
コリィの視線の先にいるその男は、パーカーのフードを、顔を隠すように被っていた。
上着もズボンも靴も、身につけているものは異常なほどにオーバーサイズのものばかりだった。
一見すると、そういうファッションに見えなくもない。
だがあれは違うと、コリィの勘が告げていた。
その男は街から、他人の目から、大きな服のなかへと隠れているように見えた。
以前よく売人が襲撃された地区から捜査範囲はかなり拡がっており、当初よりも派手な事件は減っていた。
そのかわり、下の者がバックレた。逃げた、消えた、最近見ないと、あちこちで行方不明者が微増していた。
元々、繁華街や路地裏などの住人は、誰がいつ消えてもおかしくない。
それは点在する情報を繋ぐコリィにしか気付けない、日常的な違和感だった。
巨人説は影を潜め、大柄な男だった、中肉中背の男だった、大人か少年かわからなかったと、噂の現場で目撃された見知らぬ男の外見は変わっていった。裏社会の小さな小さな火種のような殺しや行方不明者を追い、時系列順に並べると、犯人と思しき相手のサイズが徐々に縮小していくのがわかった。
つまりあれは服が大きいのではなく中身が小さくなったのだと、コリィは視線の先の男の正体を判じる。
理由はともかく身体が縮むなら、巨人説と小人説が両方ある矛盾点も消える。
パーカー姿の男が、横断歩道の赤信号で足を止めた。
気付かれないよう、コリィは少し離れた店舗看板の陰からその背を見張る。
コリィのすぐ前を、海外のパックツアーの団体が通り過ぎた。
行列の隙間に、ちらちらと男の背が見え隠れする。
男の待つ信号は、まだ青に変わらない。
ツアー団体が過ぎ去ると、パーカー男の姿が横断歩道の前から消えていた。
なんだと?
なにが起きたのかは、すぐにはわからなかった。
ひとつ確実なのは、男が〈消えた〉ということ。
テレポーターの可能性がある以上、そう見えたのではなく、本当に消えたのかもしれない。
コリィが悔しげに舌打ちをして走りだした刹那、背後から声がした。
「動くな」
驚くほどの至近距離。コリィの耳の、すぐ後ろに口があった。
銃を突き付けられているわけではないが、動けなかった。
恐怖とも興奮ともつかない感情が、手足を震わせる。
「おまえは、誰なんだ?」背後の声が問う。
「俺はコリィ。あんたはその、ゴー・キラーかい?」
血流が聴覚を刺激し、脈動が街の騒音にノイズを被せる。
大声で笑いながら歩く男女の会話、車の通り過ぎる音、風の音。そして耳の下の頸動脈の血流の音。
コリィはゆっくりと、その勢いよく血の巡る首を捻り、顔を振り向かせた。
背後には街の景色だけがあり、人や車はそれぞれの目的で動いていた。
辺りを見回すが、フードの男はどこにもいない。
あと一歩だった。コリィは今、確かに、ゴー・キラーらしき男と会話をした。
心を落ち着かせるためにタバコを銜え、火を点ける。
まだ、遠くには行っていないはず。
歩調が早まり、駆け足になる。
今を逃せば、また遠くに逃げられてしまうかもしれない。
だが、ここなら、この場所なら捕まえられる。
ゴー・キラーは都市部を闇雲に逃げ回っているようで、その実コリィに動かされていた。
リズミカルに足をつかうボクサーを、姿勢の低いファイターが逃げ道を塞ぎつつコーナーへと追い詰めるように。
狩人が猟犬の臭いで、獲物を風下の罠へと追い込むように。
現代では、町中の至るところに監視カメラが設置されている。
昔はダミーも多かったが、今では、特に繁華街には死角などほとんどない。
だが、お上がいくら監視の眼を光らせようとも、闇が完全に消えることはない。
コリィのつかう〈目〉は、その闇からじっと街を覗いている。
誰一人として見られていることに気付かない、街の影に潜む観察者たち。
──〈情報屋ギルド〉。
彼らは元々、靴磨きの小僧だったという。
街中や駅中の靴磨き屋は、あらゆる情報を耳にする。
やがて靴磨きの小僧どもは本業の他に、仕事中に紳士たちが語った噂話を売って銭を稼ぐようになった。
互いに情報を交換し、必要に応じて、自ら調べる者も出始めた。
街から街へ、道端から道端へ、駅から駅へと、情報は行き交った。
同業者が危険な目にあわないよう、互助関係が築かれ、組合が生まれた。
組合員が荒事に巻き込まれれば、皆で協力して解決した。
組織維持のため、殺しや誘拐を含む、あらゆることが行われた。
小僧どもが大人になる頃には、立派な〈裏組織〉ができあがっていた。
それはまだ、酒が麻薬と同じ扱いを受けていた時代の話である。
酒の売買を禁じたことで逆に暴力団が肥えてしまった愚かな時代。
時代の混沌を利用して、情報屋たちは堅牢な組織を作りあげた。
マフィアは存在を知られ、連邦警察につけ狙われたが、情報屋たちはさらに深く沈み、組織としての姿を隠しとおした。
お上ともマフィアとも共存し、世界に広く深く根を張った。
情報屋は、情報を操作できる。
噂の出処を掌握し、事実を隠蔽し、加工してから放流できる。
彼らの情報を外に洩らそうとする者は、速やかに処理された。
彼らから隠れることは不可能で、彼らを探るのも不可能だった。
秘密を扱う、秘密そのものの集団。
形をもたない秘密結社、〈情報屋ギルド〉。
コリィはその組織と、太いパイプを持っていた。
幾度も貸し借りを重ねるうち、数人の大物との間に信頼関係が生まれた。
当然、「コリィを会員にしろ」という声が組織内からあがった。
コリィは逸らかし、「俺は情報屋じゃない」と言い続けた。
深淵に飲まれた者の末路を、いやというほど見聞きしてきたからである。
コリィも素人ではない。沼に片足を突っ込んでいるという自覚はある。
だがまだ闇そのものには、なってはいないと思いたかった。
深淵に潜む怪物に喰われぬよう、必死で距離を保とうとしていた。
表通りと並走する裏道は、少しずつ離れていく。
横路で直結していた二本の大通りが、町外れへと進むうち、次第に増築に増築を重ね、どこまでがひとつのビルかもわからないような建物が密集する、巨大な闇を挟むようになる。
ビルとビルの隙間、人が通れるとは思えないような小道の奥へと、コリィは歩を進めた。
息を止めるように気配を消して、昼でも暗い世界へと入っていく。
枝葉が重なる森の天蓋のように、ビルのベランダや室外機、ゴミや梯子がなどが陽光を遮断していく。
「よほぉほ、コリィじゃないかえ」
闇から漂う饐えた臭いの先から、掠れた震え声が迎える。
「よう〈卜骨〉」コリィが快活に応える。
卜骨(スクライ)とはギルドのトップ。
世界にたった三人しかいない〈親方〉の一人である。
「そこの交差点で、男が消えたろ?」
「そほぉうかね」嗄れた老人の声が笑う。
「今、どこにいるか解るかい?」
コリィが質問を重ねると、闇の奥でなにかが蠢いた。
ひそひそと、なにかを相談するような声が微かに聞こえてくる。
「ロぉンの店に、いるぅなぁ」
老人の回答と同じ調子で震える枯木の枝のような掌が、闇から差し出される。
コリィはその、簡単に折れそうな薄汚れた手に、そっと金を握らせた。
「あぁりがとぅよおぅ、コリィやい」礼の声は細く、弱々しい。
「医者いけよ爺さん。内臓やられてるやつの臭いがすんぞ」
コリィの軽口に、卜骨は応えなかった。
猫の糞にマヨネーズをかけて焦がすまで焼いたような臭いが、そこにまだ老人がいることをしらせる。
「じゃあな、また来る」
コリィは見えない相手に挨拶をして、暗い壁と壁の隙間を後退るように戻る。
背を向けないのは、王への礼儀だった。
「深追いはぁ、するなぁよぉ、コリィやい」
「人の心配してる場合かよ。歳なんだから養生しなきゃ死んじまうぞ?」
コリィは毒づいて笑いながらも、心中で(わかってるよ)と応じた。
ロンの店はカウンター席のみの、酒と肴を供すバーだ。
夜には奥の小さなステージがライトアップされ、ライブハウスにもなる。
今はまだ夕刻前。開店直後で客は少ないとコリィは予想する。
そこに今、ゴー・キラーがいる。
コリィは喫煙と運動不足で弱った心臓を苛虐し、表通りを駆けた。
急がないと、また消えてしまうかもしれない。
大通りを挟んだ対岸、細長いヒビ割れだらけのビルの一階入口の横に、地下への階段が見えた。
まだ立て看板は歩道に出されていないが、そこがロンの店だった。
大通りの横断歩道を飛び出し、対岸へと渡る。
乗用車が急ブレーキを踏み、悲鳴のようなクラクションを鳴らされる。
対岸の歩道は歩行者が多く、押しのけるようにして目指す建物に飛び込んだ。
地下への階段を駆けおりる。店の入口、重い鉄製の防音扉を開ける。
フードをかぶった男は扉に背を向け、カウンター席に座っていた。
店内は薄暗かったが、客が一人しかいないのですぐに見つけた。
呼吸をととのえ、はやる気を落ち着かせる。
奥の厨房から仕込みをしているらしき調理音が聴こえる。
男の前に置かれたコップには、透明な液体に泡沫が踊っている。
コリィは黙って、隣席に腰掛けた。
大兵肥満で白髪交じりのもじゃもじゃ頭、分厚い唇に濃い口髭をちょいとのせた脂ぎった丸顔。店主のロンが、熊のようにのっそりと厨房から出てきた。
「ようコリィか珍しいな、なにか飲むかい?」
「ビールをくれ」
「あいよ」
汗染みのついた紫のTシャツの上に、油で汚れたエプロンをつけている。
ずいぶん前に来店したときに見たのも同じ服装で、そのときもやはり客がいないのに忙しそうだった。
コリィの前に、泡ののった黄金色の液体で満ちたジョッキがドンと置かれた。
ジョッキは冷凍庫でキンキンに冷やされ、白くなっていた。
コリィは礼を言って金を払い、「楽しんでってくれ」と熊男は厨房に引っ込む。
コリィはザプンと波のように、渇いた喉に濃厚な泡と液体を流し入れた。
脳ミソをチクチクと針で刺すような刺激。破裂する冷たい塊が、シュワシュワと胃に落ちていく。
喉の奥を引っ掻くような、苦味と旨味の余韻を味わう。
「ああ、うめぇ」
人心地がついたコリィはジョッキをカウンターに置き、隣席に顔を向けた。
だぶだぶのフードに隠れ、顔が見えない。
横目で盗み見るように、ちらちらと何度も視線を向ける。
憧れのスターに会ったような胸の高鳴りを覚えた。
普通の男に見える。
だがこの男はついさっき忽然と、コリィの眼前から消えたのだ。
記者時代から無数に見てきた偽物どもとは違う。
本物がすぐそこに、手の届く距離にいる。
心の熱を冷ますように冷たいビールを口に含み、また隣席に目を向ける。
今そこにいた男が、消えていた。
慌てて立ち上がる。
そんな、やめてくれ、逃げないでくれ。
「またおまえか、なんの用だ?」
呆然とした顔のコリィの背後から、太い男の声が迷惑そうに訊いた。
──つづく。
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