平家物語より熱を込めて

坂口螢火

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那智沖の維盛

富士川の合戦

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 総大将を任された維盛の行動は敏捷びんしょうだった。彼は進軍の途中で次々に軍を集め、富士川に着いたときには、その軍勢は7万騎に膨れ上がる。「源氏の小勢など一蹴にしてくれる」と、はや敵を呑む元気であった。
 怒涛の勢いで岩淵まで押し寄せ、ここにいよいよ富士川挟んで両軍相対峙。まさに大決戦が行われようとしたのだが――ここで思いもよらぬ凶報が、平家軍を脅かすことになる。
「源氏の兵力はいかほどか」
 と、周辺に住む者を捕らえて尋ねたところ、源氏の数、およそ20万騎だというのだ。
「何――20万騎! 何かの間違いではないのか……」
「我が軍は7万騎ですぞ。それに対し、20万騎とは……」
 それまで余裕を見せていた武将たちは、にわかに蒼白になった顔を見合わせた。
 あまりの数の大差に浮足立ち、オロオロとうろたえる平家軍――。
「静まれ! 静まらんか」
 大将維盛は兵をなだめすかすも、ただでさえ平常心を失った彼らに、その夜、更なる恐怖が襲い掛かる。
 彼らが目にした光景。それは、対岸の野や山、海の上にまで、おびただしい赤い火が燃える様であった。視界をすべて埋め尽くすほどの数――30万――いや、40万……。
「おお、見よ、見よ!」
兵たちは我が目を疑って、口々に叫ぶ。
「あなおびただしの源氏の陣の遠火の多さよ! 野も山も、海も川も敵に埋まるばかり。何としたこと!」
 ……実は、この火の正体は松明などではなかった。このあたり一帯が戦場になると知り、あわてて逃げ出した付近の住人たちが、野に入り山に隠れ、あるいは船を出して海の上で、夕餉の火を焚いていたに過ぎない。しかし、川の対岸から眺める平家の兵たちに、それが分かろうはずもなかった。
「地を埋め尽くさんばかりだ! 20万騎と聞いていたが、30万――いや、40万はあるやもしれぬ。もう駄目だ!」
 泣きださんばかりの者、足が震える者、大声上げて喚く者……。両軍は、明日の朝に弓合わせをすると定めていたが、すでに平家は一矢も交えぬうちから負けていたも同然だった。
 ――深夜。両軍は明日の戦いに備えて眠りにつく。しかし源氏の兵たちに比べて、平家側は恐怖のあまり、その眠りは幾分浅かったかもしれない。
 その瞬間は、まったく唐突に訪れた。
 バタバタバタッ――!
「オッ」
「何だ!」
 天が落ちたか、地が裂けたか! 闇を貫く大音響、一体何事か! 鼓膜が破れんばかりの凄まじさは、筆にも口にも尽くせない。さながら、千の陣太鼓を打ちまくるような……。その音は水面に反響し、さらに四方八方から、平家の陣目がけて襲い掛かった。
 この時の轟音――実は、富士川に群れる水鳥の羽音であった。この夜、何十万羽という水鳥が川面に群れていたのだが、一体何に驚いたものか、突如いっせいに平家の陣目がけて飛び立ったのである。
 鳥の羽音とはいえ、その数、数十万。天地をひっくり返すばかりの轟音に、眠りを破られた平家側の驚愕、言語を絶するものだった。
「おお! 夜討ちだ! 夜討ちだ!」
 雑兵たちは肝をつぶして走り回る。
「源氏だ! 源氏が攻めてきた!」
「駄目だ! 逃げろ!」
 誰かがこう言うと、もはや止めることはできなかった。我先にと、兵たちは取るものも取りあえず一斉に逃げだすのだった。
「待て! 待て! 踏みとどまれ!」
いくら総大将維盛が叫んでも、誰も耳を貸さない。
「逃げろ! 逃げろ!」
と、総崩れになって落ちてゆく――。弓を持つものは矢を持たず、矢を持つものは弓を持たず、人の馬に自分が乗り、自分の馬には人が乗る。あるいは杭に繋がったままの馬に飛び乗って尻を叩き、ぐるぐると杭の周りを回る者。沼地に落ちる者、焚火の中に転げて騒ぐ者……。その狂態は果てしなく続き、怪我を負う者、命を落とす者、後を絶たず……。
 悲劇は、兵たちだけの間にとどまらない。平家について近隣の宿から集まった遊女たちも同様だった。兵たちは暗闇の中でめちゃくちゃに馬を飛ばしたために、泣き叫ぶ彼女たちの頭をひづめにかけて西瓜のように蹴り割り、あるいは腰を踏み折り――富士川に響き渡る悲鳴は、さながら地獄の阿鼻叫喚のごとく。
「敗れた! 負けたッ!」
 尾羽打ち枯らした維盛が都へ戻ったのは11月の初め。その時、付き従うものはわずか十騎に過ぎなかったという。

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