田中一夫の憂鬱

神通百力

文字の大きさ
上 下
1 / 1

田中一夫の憂鬱

しおりを挟む
 僕は今思い返してみても、物心ついた頃からすでにシンメトリー、いわゆる左右対称というものに強く惹かれていたように思う。
 
 
 幼少の頃ヒーローに憧れ、将来、何とかマンや何とかライダーになる、という風なことを、僕は何度か両親や先生に言った覚えがある。もちろん大人たちは微笑ましいようすでそれを受け止めてくれていた。
 しかし当時周りのクラスメートたちが、そういった夢を語るのと、僕がそれを口にするのとでは少し意味あいが違っていた。クラスメートたちはただただ純粋に強くてかっこよいヒーローに憧れを抱いていたのであろうが、僕の場合はヒーローのマスク、完璧なシンメトリーを描いたあのマスクに強く惹かれていたのである。
 そしてまた当時の僕は母親に髪を切ってもらっていたらしい。あまり詳しく覚えていないのだが、少しでも左右の髪の長さが違うと泣き喚き、左右の長さが揃うまで、何度でも母親に切り直しを命じていたらしい。
 さすがの母親もそのことについては腹立たしい思いをしていたらしく、いつの頃からか僕は坊主頭で過ごすようになっていた。もちろん大人になった今でもだ。
 
 一事が万事その調子で、小学生の時には教室の僕の机の上は、筆箱がど真ん中に、そしてその左右に同じ種類のノートを一冊ずつ置き、教科書にいたってはシンメトリーではないという理由だけで、机の引き出しやカバンの中に入れっぱなしになっていた。
 その他、算数で使う分度器や直角二等辺三角形の三角定規は僕のお気に入りだったけれど、コンパスは触るのも嫌だった。
 そんなシンメトリーに執拗にこだわる僕は、周りからかなり浮いていた。休み時間などはいつも一人だったし、そんな僕に対し先生でさえ気味悪がって声をかけてこようとはしなかった。しかし僕はそれを寂しいなどと思ったことは一度としてなかったように思う。というのも、僕から見た他人というのはシンメトリーではないからだ。そんな人間と付き合うくらいなら一人で居たほうがよっぽどましだ。

 中学校へ入学する時には、シンメトリーではない制服を着るのがどうしても嫌で、私服で通える学校へ両親に無理を言って通わせてもらっていた。
 とはいえ両親はその頃には、僕のシンメトリーに対する病的なまでのこだわりを半ば諦めていたらしく、案外すんなりと私服の学校へ通えることになった。もちろんそんな僕も両親に対していつもわがままばかり言っていたわけではない。申し訳ないという気持ちも常にあった。しかしそれでもどうしようもないのだ。自分でもどうしてそこまでシンメトリーにこだわるのか? ひょっとすると僕はどこかがおかしいのか? どこかが壊れているのか? と自問自答したことも多々あった。答えなんて出なかった。僕はこういう風に生きていくしかないのだ、と悟ったのもこの頃だったように思う。
 そして中学校での僕はやはり周りから疎まれ気味悪がられ、ずっと一人だった。いじめのようなものも入学当初こそ多少はあったのだが、いつの間にかいじめっ子でさえ僕には近づかなくなっていた。たぶんそれほどまでに僕は不気味で理解しがたい存在だと思われていたのであろう。
 しかしそれでもまだこの頃の僕は、子どもだったぶんシンメトリーに対するこだわりは、今と比べれば随分とましだった。自分自身の手の届く範囲さえシンメトリーを保っていれば、満足とはいかないまでも、なんとか我慢はできたからだ。
 そういう意味では、物心ついた頃からこの中学校までの僕の人生は幸せだった。

 僕はそういった風なので、高校や大学といったものに進学するつもりはなかった。義務教育さえ終わればもうそれでいいだろうと、両親に対してもはっきりと言った。しかし両親はせめて高校だけでも卒業したほうが良いと、何度も何度も僕に言った。最後には悲しそうな顔で目に涙を浮かべ僕にそう言うので、仕方なく僕は高校へ進学した。もちろん制服のないところを選んだ。
 だけれどこの時の両親の選択は間違っていた。今更言っても仕方がないが、僕は高校なんかへ進学すべきではなかったのだ。
 高校ではそれまでと違い、はっきりといじめというものがあった。友達も作らず、いつも一人でいる僕は、クラスメートたちにとっては目障りな存在だったのであろう。最初は放課後、校舎の裏に呼び出され――あまりにもテンプレートすぎて笑ってしまう――からかわれたり小突かれたりした程度だったのだが、だんだんエスカレートしていき、集団暴行といったものになるのに時間はかからなかった。
 いじめっ子たちに殴られ蹴られ、僕の身体に痣や傷ができた。しかしそういったものの痛みは僕にとってはどうってことはなかった。ただその怪我によって僕の身体がシンメトリーでなくなることに、とてつもない恐怖を覚えた。どういうことかというと、例えば右腕に痣があったなら左腕の同じ箇所にも痣がなければならない、右足に怪我をさせられたなら左足の同じ箇所に怪我がないのは我慢がならない、といった具合だ。
 だから僕はいじめっ子たちになるべく目に見える痣や傷をつけられないようにしなければならなかったのだが、そうすればそうするほどいじめっ子たちはむきになって僕を傷つけた。
 それで僕は自分自身で痣や傷を増やさなければならなくなった。いじめっ子たちに傷つけられた箇所と反対側の同じ箇所を自分自身で同じように傷つけるのだ。しかし痣や傷といったものは狙ってできるようなものではなく、どうやっても同じにはならなかった。するとどんどん痣や傷が大きく広がっていき、最後には皮膚がえぐれたようになってしまった。ただこれが案外具合よく、それから僕はいじめっ子によって傷つけられた箇所を皮膚ごとナイフでえぐり取り、反対側の同じ箇所も同じようにえぐり取るようになった。こんなことを繰り返していると、そのうちに僕の身体は、傷がない場所を探すほうが難しいといった具合になってしまった。それまで両親には気づかれないよう、なるべく長袖の服を着たりして傷を隠していたのだが、とうとう気づかれてしまった。すぐに服を脱がされ、僕のおぞましい傷だらけの身体を見た両親は絶句した。その後いじめをうけているのかと問われたのだが、この当時の僕の身体の傷はそのほとんどが自分自身で傷つけたものだったので――いじめっ子たちによる傷の上をナイフでえぐったり、またそれの反対側も同じようにしていたので――僕は何も言えずただ黙っているしかなかった。しかし両親は僕の無言を、あまりにもひどいいじめをうけたためととったらしく、次の日から僕は学校へは通わなくてもよくなった。その代わり両親が何度か学校へ行ったようだ。学校側と両親との間でどんな話し合いがあったのかは知る由もないが、結局僕は自主退学ということになった。ほら見たことか。だから僕は最初から高校へは進学しないといったのに。

 高校を退学後、僕は何をするでもなくずっと部屋に閉じこもっていた。ちなみに家の中でシンメトリーなのは自分の部屋だけだ。それまでも家にいる時はそのほとんどを自室で過ごしていたのだが、退学後はそれがよりいっそう顕著になり、ほとんど部屋から出なくなった。風呂には入らず、トイレは簡易トイレを使い、食事だけは仕方がないので近所のコンビニでシンメトリーなフルーツやパンなどを大量に買い、それを少しずつ食べる。それがなくなるとまた大量に買うということを繰り返した。
 そんな生活を半年ほども続けたであろうか。身体の傷もとうに癒え、さすがにこのままでは自分自身が駄目になると――いや、もうすでに駄目になっているのかもしれないが――思い、とりあえず外へ出てみることにした。家の中へ向かっていってきますと声をかけるものの、両親からの返事はもちろんなく、僕は少し腹立たしい思いで外へ出た。しかし半年ぶりに浴びた陽の光はとても気持ちよく、腹立たしい思いも忘れ、久しぶりに僕は弾んだ気持ちになった。30分ほど近所を散策し、帰り際には鼻歌まで歌っていたほどだ。
 そして家へと帰り着き、中へと一歩足を踏み入れた途端、僕はまた沈んだ気持ちになった。


 そして今現在僕はとてもとても困っている。
 半年もほったらかしていた両親の死体は蛆がわき、悪臭もひどく、さすがにこれ以上は放っておけない。昼の間に探しておいた近所の雑木林にでも埋めに行こうと、二つの死体に近づいてみる。
 そう、そこで僕は気づいてしまったのだ。あぁ、困った。こんなことになるなら両親の死体なんて放っておけばよかったのだ。死んでからも僕に嫌な思いをさせるなんて最低だ。

 両親の身体は皮膚が腐り、あちこちから内臓らしきものがとびだし、左側には心臓らしきものまで……そう、そうなのだ、人間の中身というのはシンメトリーどころか、アシンメトリーなのだ。
 いくら僕が髪を丸めたところで、いくら僕が左右同じように身体を傷つけたところで、まったくの無意味だったのだ。そう気づいた途端、僕は自分の身体がとてもおぞましく思え、もうこれ以上生きていられそうにない。せめて最後、死に方くらいはきれいなシンメトリーで……首を吊ろうと思う。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...