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第33話『震天動地⑧-シンテンドウチ-』
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彼女はどれだけの時間、蛇口から止めどなく水が注がれて溢れるダンボールを見つめていただろうか。
まだ昼だと思っていた空にオレンジ色が混ざり出す。日没まではまだ時間がありそうだが、そんな空を見上げて西澤顕人は胸騒ぎを感じた。
以前滝田晴臣と文学部の宮准教授の部屋で駄弁っていたとき、不意に宮准教授が言った言葉を思い出してしまったのだ。
「昼と夜の間の時間がある、逢魔が時と言うんだが。そこで人は良くないものに遭遇するんだとさ」
そのときは、大して興味もなく曖昧な返事をした気がする。なのに、どうしてこんなときに思い出してしまうのか。
理由はわかっている。顕人には、オレンジ色に染まっていく空の下で、上から下まで黒い服に身を包んだ彼女の姿が、その場に実体無しで残された影に見えた。
彼女の姿は、不気味さを煽った。
この後、彼女はどうするつもりなのだろうか。
このまま大人しく帰ってくれれば良い。その最中に警備部に連絡して彼女の身柄を押さえてもらうのも良いだろう。クラッカーは兎も角、部室棟の窓ガラスはどう見たって犯罪の証拠だ。
彼女がどの学部の生徒であっても、確実に何らかの処分を受けることになるだろう。
顕人がそんなことを考えながら、スマートフォンから学内警備部の番号を探していると、彼女は漸く蛇口を閉めた。
水が落ちている音がなくなったが、排水口に流れていく音は続いていたが、少ししてそれも聞こえなくなる。
水が抜けてふやけたダンボールを彼女は底の方に手を回し抱えるように持つと、そのままダンボールを手洗い場近くの地面にぶち撒ける様に落とす。
地面に落下したダンボールは瓦解し、中身は案の定大量のクラッカーだったが、それも地面に転がる。クラッカーは水浸しで、どれも使い物になる感じはない。
これで彼女の今日の役割は終わったのか。
顕人が不安になりながら部室棟の影から彼女の行動の一部始終を見ていたが、どうやらそれでは終わらないようだった。
彼女は何処からかスマートフォンを取り出すと、ぶち撒けられたクラッカーと潰れたダンボールの惨状を写真に収めた。そして少しだけスマートフォンを操作すると、彼女はクラッカーをそのまま放置してまた物陰に身を潜める。
まだ何かをするつもりなのか、じっと動かずクラッカーが散らばっているのを見ていた。
まだ何かするのか。
顕人は困惑するが、彼女のスマートフォンで何をしたのかわからず動くに動けない。
彼女の目的がわからず動けないでいると、彼女の行動をじっと見ていた晴臣が不意に口を開く。
「何となくなんだけど、あれ、片付けた方が良くないかな」
あれ、とは水浸しのダンボールとクラッカーを指しているのだろう。
突然の晴臣の提案の意図がわからず、顕人は難しい顔をする。晴臣も、何となく、と言ってるので確証はないのだ。恐らく直感。しかしながら、晴臣のこういう感は当たるのだ。それなら顕人が理由を考えるまで。
彼女はクラッカーを使い物にならなくしたのは、当然明後日の『オープンキャンパス』での荒瀬川の企みを阻止するために他ならない。目的は達成したはず。
それでは彼女はこの企み阻止の現場を何故写真に収めたのか。収めた後、何をしたのか。大抵、写真を撮った後にスマートフォンを触る行動といえば『誰かに見せるため』。
じゃあ誰に?
そんなの、一人だけだ。この状況を見て、あからさまな反応を示すのは、他でもない荒瀬川だ。
荒瀬川がこの水浸しのクラッカーを見たら、どう思うだろうか。
明後日のために頑張って集めたクラッカーが使えなくなったのだ。彼が好い顔をするはずがない。
もし、この水浸しのクラッカーが荒瀬川を釣る餌なら、彼女は彼を呼び出してどうするのか。
「……警備部に連絡する」
顕人は予め探していた学内警備部の番号にコールする。
すぐに通話に出てくれた警備部に、自分がこの大学の文学部二年生であること、現在社会学部棟の奥にある部室棟の近くにいるのだが手洗い場の前に大量のクラッカーが放置されていること、学内への火薬の持ち込みについて気になったので連絡した旨を説明すると、警備部の職員はすぐに参りますと返事をくれた。
ここからなら、恐らく社会学部棟に常駐している警備部の職員が来てくれるだろう。
時間としては十分くらいだろうか。その十分で何も起こらなければ良いが。
「警備部に連絡した。多分十分くらいで来てくれるはずだ」
顕人がそう説明すると、晴臣は何処か不満そうに顕人を見る。
「えっ、僕等が片付けにいけば良くない?」
「俺達は『美須々さん』に顔バレしてるし、今行くと何か揉める気がする。俺としては穏便に話を進ませたいというか……」
「弱腰」
「五月蝿い」
晴臣がガッカリと肩を落として呟くのを顕人は渋い顔でぼやく。
そもそもこの後どうするべきなのか、顕人は悩んでいた。やはりこのまま警備部に彼女を引き渡す方が良いのか。
彼女がしていることを考えるとそれが正しいし、室江も『自分のため』に彼女が誰かに怪我をさせたり危ないことをしているのは良しとしないはずだ。
やっぱり此処は警備部に通報して……。
顕人がそんなことは思い悩んでいると、彼女と放置されたクラッカーの様子を見つめいてた晴臣が呆れた声で「……穏便には進まなくなりそう」と呟くので、顕人は驚いてそちらを見た。
けれどクラッカーは数分前と変わらずそこにあるし、何かが変わったようには見えなかった。顕人が怪訝そうにクラッカーを見ていると、晴臣は「あっち」と別の方向を指さした。
それは顕人達が社会学部棟から来た歩道ではなく、体育館側に続く歩道。そこを誰かがふらついた足取りで部室棟へやってくるのが見える。
何故あんな覚束無い歩みなのかと思っていると、その人物が松葉杖での歩行だったからだとすぐにわかる。そしてその人物が、荒瀬川であるのがわかって顕人は渋い顔をする。
「うわぁ……」
顕人は思わず悲鳴にも似た声を漏らす。
最悪なタイミングで来やがった、と頭を抱えたくなった。警備部は間に合わなかった……!
「どうする? 出る?」
晴臣は嬉々とした表情で、走り出すために屈伸を始める。顕人は思わず晴臣の服の裾を握って「もうちょっと成り行き見るから!」と宥める。晴臣は不満そうな顔をしながらも踏み止まってくれるが、一応いつでも飛び出せるように足首を回したりしている。その様子に不安を感じながら、顕人は荒瀬川に視線を戻す。
荒瀬川は松葉杖があまり慣れていない様子で歩いているが、血相を変えて急いで進もうとしているのがわかった。彼はまず部室棟のバスケ部の部屋を向かう。だが、窓ガラスは割られ開け放たれたままの部室の惨状を十秒程呆然と見ていた。
しかし思い出したように振り返り歩き出す。
次にたどり着いたのは、部室棟から数メートルと離れていない手洗い場の前。そこで放置された水浸しのダンボールとクラッカーを見る。
その表情は、落胆からみるみる怒りに変わっていく。
「何だよこれは!」
荒瀬川はそう叫びながら持っていた松葉杖を地面に叩きつける。松葉杖は真横にあった手洗い場にぶつかり、荒瀬川の後ろの方へ転がっていく。
彼は怒り心頭の様子でその場に膝を着き、クラッカーを一つ手に取って同じように地面に叩きつける。その後何かを喚きながら何度も地面を殴りつける。
羅刹のように怒る荒瀬川に顕人は肝を冷やす。今の彼に話しかけるなんて絶対に無理だ。というか心の底から関わりたくない。早く早く警備部の人来てくれ。そう思うが、どうにもそれは叶わないらしい。
彼女が、物陰から出てきた。
さっきよりも空のオレンジ色が濃くなって、夕方に近づいている。
物陰から出てくる黒い影がオレンジ色の斜陽に照らされて異様な光景だった。彼女は音もなく荒瀬川に近づく、彼の背後までやってきた。
まだ昼だと思っていた空にオレンジ色が混ざり出す。日没まではまだ時間がありそうだが、そんな空を見上げて西澤顕人は胸騒ぎを感じた。
以前滝田晴臣と文学部の宮准教授の部屋で駄弁っていたとき、不意に宮准教授が言った言葉を思い出してしまったのだ。
「昼と夜の間の時間がある、逢魔が時と言うんだが。そこで人は良くないものに遭遇するんだとさ」
そのときは、大して興味もなく曖昧な返事をした気がする。なのに、どうしてこんなときに思い出してしまうのか。
理由はわかっている。顕人には、オレンジ色に染まっていく空の下で、上から下まで黒い服に身を包んだ彼女の姿が、その場に実体無しで残された影に見えた。
彼女の姿は、不気味さを煽った。
この後、彼女はどうするつもりなのだろうか。
このまま大人しく帰ってくれれば良い。その最中に警備部に連絡して彼女の身柄を押さえてもらうのも良いだろう。クラッカーは兎も角、部室棟の窓ガラスはどう見たって犯罪の証拠だ。
彼女がどの学部の生徒であっても、確実に何らかの処分を受けることになるだろう。
顕人がそんなことを考えながら、スマートフォンから学内警備部の番号を探していると、彼女は漸く蛇口を閉めた。
水が落ちている音がなくなったが、排水口に流れていく音は続いていたが、少ししてそれも聞こえなくなる。
水が抜けてふやけたダンボールを彼女は底の方に手を回し抱えるように持つと、そのままダンボールを手洗い場近くの地面にぶち撒ける様に落とす。
地面に落下したダンボールは瓦解し、中身は案の定大量のクラッカーだったが、それも地面に転がる。クラッカーは水浸しで、どれも使い物になる感じはない。
これで彼女の今日の役割は終わったのか。
顕人が不安になりながら部室棟の影から彼女の行動の一部始終を見ていたが、どうやらそれでは終わらないようだった。
彼女は何処からかスマートフォンを取り出すと、ぶち撒けられたクラッカーと潰れたダンボールの惨状を写真に収めた。そして少しだけスマートフォンを操作すると、彼女はクラッカーをそのまま放置してまた物陰に身を潜める。
まだ何かをするつもりなのか、じっと動かずクラッカーが散らばっているのを見ていた。
まだ何かするのか。
顕人は困惑するが、彼女のスマートフォンで何をしたのかわからず動くに動けない。
彼女の目的がわからず動けないでいると、彼女の行動をじっと見ていた晴臣が不意に口を開く。
「何となくなんだけど、あれ、片付けた方が良くないかな」
あれ、とは水浸しのダンボールとクラッカーを指しているのだろう。
突然の晴臣の提案の意図がわからず、顕人は難しい顔をする。晴臣も、何となく、と言ってるので確証はないのだ。恐らく直感。しかしながら、晴臣のこういう感は当たるのだ。それなら顕人が理由を考えるまで。
彼女はクラッカーを使い物にならなくしたのは、当然明後日の『オープンキャンパス』での荒瀬川の企みを阻止するために他ならない。目的は達成したはず。
それでは彼女はこの企み阻止の現場を何故写真に収めたのか。収めた後、何をしたのか。大抵、写真を撮った後にスマートフォンを触る行動といえば『誰かに見せるため』。
じゃあ誰に?
そんなの、一人だけだ。この状況を見て、あからさまな反応を示すのは、他でもない荒瀬川だ。
荒瀬川がこの水浸しのクラッカーを見たら、どう思うだろうか。
明後日のために頑張って集めたクラッカーが使えなくなったのだ。彼が好い顔をするはずがない。
もし、この水浸しのクラッカーが荒瀬川を釣る餌なら、彼女は彼を呼び出してどうするのか。
「……警備部に連絡する」
顕人は予め探していた学内警備部の番号にコールする。
すぐに通話に出てくれた警備部に、自分がこの大学の文学部二年生であること、現在社会学部棟の奥にある部室棟の近くにいるのだが手洗い場の前に大量のクラッカーが放置されていること、学内への火薬の持ち込みについて気になったので連絡した旨を説明すると、警備部の職員はすぐに参りますと返事をくれた。
ここからなら、恐らく社会学部棟に常駐している警備部の職員が来てくれるだろう。
時間としては十分くらいだろうか。その十分で何も起こらなければ良いが。
「警備部に連絡した。多分十分くらいで来てくれるはずだ」
顕人がそう説明すると、晴臣は何処か不満そうに顕人を見る。
「えっ、僕等が片付けにいけば良くない?」
「俺達は『美須々さん』に顔バレしてるし、今行くと何か揉める気がする。俺としては穏便に話を進ませたいというか……」
「弱腰」
「五月蝿い」
晴臣がガッカリと肩を落として呟くのを顕人は渋い顔でぼやく。
そもそもこの後どうするべきなのか、顕人は悩んでいた。やはりこのまま警備部に彼女を引き渡す方が良いのか。
彼女がしていることを考えるとそれが正しいし、室江も『自分のため』に彼女が誰かに怪我をさせたり危ないことをしているのは良しとしないはずだ。
やっぱり此処は警備部に通報して……。
顕人がそんなことは思い悩んでいると、彼女と放置されたクラッカーの様子を見つめいてた晴臣が呆れた声で「……穏便には進まなくなりそう」と呟くので、顕人は驚いてそちらを見た。
けれどクラッカーは数分前と変わらずそこにあるし、何かが変わったようには見えなかった。顕人が怪訝そうにクラッカーを見ていると、晴臣は「あっち」と別の方向を指さした。
それは顕人達が社会学部棟から来た歩道ではなく、体育館側に続く歩道。そこを誰かがふらついた足取りで部室棟へやってくるのが見える。
何故あんな覚束無い歩みなのかと思っていると、その人物が松葉杖での歩行だったからだとすぐにわかる。そしてその人物が、荒瀬川であるのがわかって顕人は渋い顔をする。
「うわぁ……」
顕人は思わず悲鳴にも似た声を漏らす。
最悪なタイミングで来やがった、と頭を抱えたくなった。警備部は間に合わなかった……!
「どうする? 出る?」
晴臣は嬉々とした表情で、走り出すために屈伸を始める。顕人は思わず晴臣の服の裾を握って「もうちょっと成り行き見るから!」と宥める。晴臣は不満そうな顔をしながらも踏み止まってくれるが、一応いつでも飛び出せるように足首を回したりしている。その様子に不安を感じながら、顕人は荒瀬川に視線を戻す。
荒瀬川は松葉杖があまり慣れていない様子で歩いているが、血相を変えて急いで進もうとしているのがわかった。彼はまず部室棟のバスケ部の部屋を向かう。だが、窓ガラスは割られ開け放たれたままの部室の惨状を十秒程呆然と見ていた。
しかし思い出したように振り返り歩き出す。
次にたどり着いたのは、部室棟から数メートルと離れていない手洗い場の前。そこで放置された水浸しのダンボールとクラッカーを見る。
その表情は、落胆からみるみる怒りに変わっていく。
「何だよこれは!」
荒瀬川はそう叫びながら持っていた松葉杖を地面に叩きつける。松葉杖は真横にあった手洗い場にぶつかり、荒瀬川の後ろの方へ転がっていく。
彼は怒り心頭の様子でその場に膝を着き、クラッカーを一つ手に取って同じように地面に叩きつける。その後何かを喚きながら何度も地面を殴りつける。
羅刹のように怒る荒瀬川に顕人は肝を冷やす。今の彼に話しかけるなんて絶対に無理だ。というか心の底から関わりたくない。早く早く警備部の人来てくれ。そう思うが、どうにもそれは叶わないらしい。
彼女が、物陰から出てきた。
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