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第42話『報せ』

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 稀は苦しんでいた。
 白さが目を刺す原稿用紙を前に只管苦しんでいた。
 最初の書き出しは、秀生から『まずはこういう書き出しが良い』と言われたものを書き始めてみたものの、それを書き終えるともう一文字も言葉が浮かばず完全に手は止まってしまった。
 そもそも稀としても今回の件に全く反省がない。反省がないのに、どうして『私は反省してます』なんて表面だけの薄っぺらな表明をしなくてはならないのか……。不満しかない。
 けどそれはどうやら堂土も同じらしい。先程から何の文章も書いていないし、何だったらシャーペンすら握っていない。
 いや、お前は深く深く深く! 反省するべきだろ!
 稀は机に肩肘を付いて眠そうにしている堂土に憤慨する。
 ああ、嫌だ、こんなヤツといつまでも一緒の部屋にいたくない。早く何とか原稿用紙を埋めて出ていきたい。だけど肝心の言葉が全く出てこないのだ。
 稀は秀生から渡されたメモを見ながら悩んでいるが、堂土はもう完全にやる気を消失させた様子で遂にカバンからスマホを取り出す始末。このまま下校時間まで時間を潰す気なのか。
 ふん、アンタは独りでいつまでも居残っているとイイわ!
 稀はそう心の中で叫びながら、自分だけは早くこの部屋から出るべく必死で言葉を捜す。
 だけどそんなとき、スマホを見ていた堂土が笑う。
「うっわ、柵木のヤツざまあ」
 そうスマホを見て呟く。
 その声は静かな室内に響き、当然稀の耳にも届いたものだから稀は「はあ?」と非難の声を上げて堂土を睨む。堂土は慌てて口を閉じるがすぐに稀を見て冷ややかに笑う。
「柵木のヤツ、これから安居院あぐい邸に行くらしいぜ。流石に同情する」
「あぐ……何それ」
 稀は聞き慣れない言葉に戸惑う。その様子に堂土は呆れる。
「何でお前知らねえんだよ。隣りの市に住んでる俺も知ってんのに」
「はあ? 知らないわよ、何よその、あぐいていって」
「心霊スポットだよ、まじ知らねえのかよ」
 心霊スポット?
 堂土の言葉に稀はぽかんと呆けてしまう。
 そんな稀の様子に堂土はどうにも同情してしまい「駅向こうの方に山があるけどその途中にある古い日本家屋だ」と話し出す。

 いつからある建物なのかは堂土も知らない。どれだけの期間無人なのかも知らない。
 ただ山の近くはある商家の土地で、少し道を登った場所にその商家の別邸があったらしい。昔からこの土地に住む人が言うには、昔、あの別邸で人死が出たらしい。それ以来別邸は廃れていったとか。
 それが『心霊スポット』としての名を広めた切っ掛けは十年近く前に放送されたとある番組だった。あまり認知されていない心霊スポットを探そうという内容で、タレントと霊媒師がその場所を散策するものだった。
 古く人の住んでない場所には『常人に見えないもの』がいるかもしれない。
 そんな思いつきのような考えで彼らはくだんの安居院邸に向かったが、ぐるりと邸を囲む塀と壊れた門扉の前で霊媒師は足を止めて真っ青な顔で言ったらしい。「この場所は駄目だ」と。あまりに真剣に訴える霊媒師の様子にその場にいた撮影クルーは困惑し、その困惑はそのまま放送されたお茶の間にも広まった。
 その日からこの街の住人は安居院邸を『廃屋』から『心霊スポット』に認識を変えたのだ。
 それからというもの、怖いもの見たさ、肝試し、そういうものを求めた人間がたまにあの場所へ向かうらしい。

「ちょっと前から運動部一年の間でその話が出たんだ。運動部じゃあ一年のときにあそこに行くのがちょっとした恒例行事なんだって先輩が言ってた。それで今日も何人かで行こうってことになって……どうやら柵木もそれに誘われたらしい」
 堂土は愉快そうに笑う。
 だけど稀はその笑いの意図が理解できない。
「心霊スポット行って、どうして柵木に同情するのよ」
 ただの廃墟だろ。確かに不気味かもしれないけど。稀は首を傾げるが、堂土は肩をすくめてしまう。
「そりゃあ俺らみたいなのが行ったところできっと、大したことねえな、で終わるんだろうけど、柵木はそうじゃない」
「?」
「柵木は、そういうのが見えるらしいからな。言っただろ、昔幽霊騒ぎになったって。不気味な女が公園にいるって触れ回ってた」
「だからそれは勘違い」
「そんなんじゃねえよ。アイツは『見えて』たんだ。見えたのに見えてただけで何もしなかった。何もせず逃げたんだよ。……逃げたんだ」
 堂土は右手を握り込むとダンと机を叩く。その音が生徒指導室に響くが、稀は納得いかないという顔で堂土を見る。
「意味わかんない、もし幽霊がいたとして柵木にそれが見えたからって何よ、別にそれだけの話じゃない」
「……お前は、『そういうもの』に出会わない人生送ってきたんだな、羨ましいよ」
「何よそれ」
「俺も、腹立つけど柵木も、『そういうもの』に人生歪まされてここまで来たんだ。お前にはわかんねえよ」
「アンタだって『見えない』のに偉そうにしないで」
「『見えない』からって存在してないってわけじゃないだろが。俺は嫌ってほどその存在を疑ってきた」
「……」
「見えないからいないってのと、見えないけどいるって思うのは違うし、見えてているのを知っているのも全然違うだろ」
 稀を叱責するように呟く堂土の言葉に、稀はまだ納得できないという顔だった。だって堂土の語る言葉は、稀にとって露ほども考えてこなかった。神の存在は信じていたことがあるけれど、幽霊なんてどうでもいいし、その存在についての議論なんてどうでも良い話なのだから。
「まあ、どうでも良い。安居院邸がガチな『心霊スポット』なら見えてる柵木には苦痛だろうぜ。無様に逃げ出しでもしたら明日にはその情けない様子が学校中に知られるはずだ」
 そう言って笑う堂土に稀は無性に腹が立ったが、ふと新たな疑問が浮かぶ。

「ちょっとまって。そもそもどうして柵木がそんな場所に行かなきゃいけないのよ。柵木って幽霊とか好きなの? それなら行くのはわかるけど、アンタの口振りだと柵木は幽霊嫌いみたいな言い方じゃない。ならどうしてそんな場所行くのよ」
 稀が疑問を堂土にぶつける。
 堂土は「まあ、好きじゃないだろうな。これまで、それで苦労してたんだろうし」と含みのある言い方する。そして堂土の次の言葉に稀は愕然とする。

「さっき言ったけど運動部じゃあ一年であそこに行って度胸試しするのが恒例なんだ。それに連れて行かれたみたいだぜ、貴水くん・・・・に」

 貴水が。
 稀は堂土の口から貴水の名前が出た瞬間、跳ねるように席を立つ。
 勢いよく後ろに押された椅子はそのまま後ろへ倒れ、喧しい音を室内に響かせる。その音に堂土は顔をしかめて稀を訝しむが、稀は顔面蒼白でまるで椅子が倒れたことにも気がついていないようだった。
 堂土は稀の異変に声をかけようとするが、それよりも早く稀は走り出し生徒指導室を出て行く。持ってきた筆記用具も白紙の目立つ原稿用紙も放置して……。


「……何だ?」
 堂土は稀の様子に首を傾げる。
 堂土の言葉に偽りはなかった。だけど稀への嫌がらせが混じっていたため、多少大げさに言っていた。
 安居院邸は確かに昔『心霊スポット』として取り上げられたけれど、それ以降その手の番組に出てくることはなかったし、毎年運動部の一年がハイキング感覚であそこに行っているが、単なる廃墟探索で終わっている。
 誰ひとり『幽霊』を見た生徒はいない。
 そもそも本当にそんなものがいるのかも疑わしい。幽霊の存在に脅かされていた堂土であっても、あの場所に幽霊がいるとは思っていなかった。
 どうせ柵木のヤツも何も見やしないさ。そう思いつつも、今朝掴みかかられた意趣返しのつもりで稀の不安を煽り立てるようなことばかり言ったが、まさか反省文を放置して出て行くとは。
「先生には、途中でばっくれたって言っといてやるよ」
 堂土はもういない稀にそう呟くと、スマホの画面を見る。
 バスケ部一年の連絡用に使っているメッセージアプリが立ち上がっており、そこには貴水からのメッセージがバスケ部の一年に送られている。

『これから他の運動部一年四人と恒例の肝試しに行ってきます。特別ゲストに中間一位の柵木くんを誘ったら来てくれました。また結果は夜に報告します』

 バスケの他の一年はそのメッセージに応援するような返事をしている。
 堂土は何の返事もせずスマホの画面を消してカバンに戻すと、渋々という様子で机に転がしてシャーペンを手に取り原稿用紙に向かった。
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