フィリアの食卓

神﨑なおはる

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一、十年目の破綻

第2話『南寺静馬』

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 すこぶる評判の良い男がいる。
 まずは見た目の話だが何より顔が良い。
 優しそうに切れ長の目に形の良い眉。スッと通った鼻筋に大きすぎず小さすぎない鼻。程好く肉の着いた唇はいつだって微笑みを浮かべている。穏やかな表情は見ている人間に安心を与えるらしい。
 腹立たしいことに褒めることのできず見た目は顔だけじゃない。
 背も高くスラリとした体型だが、筋肉のついていない貧相さはない。足も長くて、その体型ならモデルもできるのではないか常々思う。少しばかり色素が抜けた焦げ茶色の髪は染色ではなく元々の色でとても艷やかだ。
 ただ見てくれの良いだけの案山子であればどれだけ良かったか。
 その仕事ぶりも見事なものだ。手回しも良く、準備も怠らない。何か不測の事態が起こっても焦らず臨機応変に対応し、トラブルの抱えた同僚がいればサポートにも回れる。上司は勿論同僚からも信頼も厚く、後輩からも頼られる。
 その見た目と人当たりの良さからも敵も作らない完璧さ。
 それが南寺静馬みなみじしずまを知る多くの人間からの評判だ。
 しかしながら北淀美依ほくでんみよりの中ではそうじゃない。
 彼女が思うに南寺静馬は精神に重要かつ多大な疾患と欠落があるのは明白かつ疑いようのない事実であるはずなのに、何故だか周囲の人間はその事実に全く気がついていないだけではなく、彼を知る大多数の人間が彼を親切で物静かな人間だと思い込んでいるのは信じられない。
 そもそもどうして、南寺静馬のことをまともな人間などと思っているのだろうと思い悩む。
 南寺静馬は見ている者を穏やかな気持ちにさせるような優しげな空気を醸し出しているのだが、北淀美依にはそれがただただ不快なものでしかなく、周りを穏やかにする空気も宛ら汚物から立ち上る腐臭でしかない。
 人当たりが良く気さくで、頭の回転も早く何より博識で、ユーモアや冗談も混じえての会話をしたりして、とても品が良さそうな男性なのだ。もし彼を商品として売り出すなら、スーパーやコンビニよりは老舗デパートの方が適している、そういう如何にも高級志向なご婦人が釣れそうな容姿と性格ではあるが、なかなかどうして気安い一面もあり、それ以外の層の女性にも人気な商品になるだろう。
 南寺静馬に知る人間は皆口を揃えて『彼は優しく頼りになる人間だ』と言い、それは彼と接した大多数の老若男女を問わず抱く所感だ。他ならぬ北淀美依とて残念ながら彼と出会って間もない頃にそう思っていたことは変えることの出来ない事実であり、腹立たしいから抹消したい過去でもある。
 北淀美依がそう誰もが抱く感想を同じように抱いたのは、南寺静馬と出会い果たした高校へ入学した春。
 入学式で新入生代表の挨拶まで堂々とこなしその後高校の三年間を学校のアイドルのように祀られることになる南寺静馬に対して、これまた消し去りたい過去なのだが、北淀美依は『完璧な優等生』であった彼に恋心を抱いてしまったのだ。
 ホントご愁傷様。
 格好良く人当たりも良い上成績も良いなんてまるで絵に描いた優等生のような彼にそういった部類の淡い感情を抱いたのは決して北淀美依だけではなく、きっと学校の女子全ての憧れの的と言っても言い過ぎではなく、南寺静馬を好きになってしまうなんてしょうがないことだったのだ。
 が、北淀美依の場合、此処で終わらなかったのが不運だと言わざるを得ない。
 彼女の淡い恋心は、その恋心を抱いた僅か十四日後に見事切り崩されることになった。
 南寺静馬の抱える秘密に触れてしまったからだ。
 そうして北淀美依は南寺静馬に抑えようのない嫌悪感を抱くようになり、それでも切ることの出来ない縁が今も延々と続いてしまっている。
 今回の話は北淀美依と南寺静馬の腐れ縁が十年目を迎えた頃の出来事である。

  ***

 春という季節はいつだって北淀美依の精神を理不尽なまでに凹ませるものである。一年で最も疲労が蓄積する季節であるということは既にこれまでの経験則で悟っており何よりこの疲労の原因の一旦を担っているのは他でもない南寺静馬であることは疑いようのない。腹立たしいことに当の南寺静馬がそれを知ってか知らずか今日も人の良さそうな顔で職務に励んでいる姿は一層北淀美依を苛立たせるものとなった。
 オフィスの一角。北淀美依はちらりと自分の隣りの席に座っている南寺静馬を見るが、彼はいつもどおり涼しげかつ穏やかな顔でパソコンに向かっている。その表情に北淀美依が感じるのはただただ腹立たしさ。こんな男が自分の隣りにいると思うと北淀美依は腹の底からムカムカとした気持ちが沸き上がるのを自覚するものの、そのムカつきをどうしたら良いのか解決法が見い出せないでいるのは今に始まったことではない。
「(我ながらよくこんなヤツの隣りで座ってられる)」
 呆れにも似た感覚だけど、これが悟りか……いや、諦めか。
 北淀美依は溜息を押し殺してパソコン画面に向き直る。
「眉間に皺が寄っているよ、美依」
 落ち着きのある声が北淀美依の鼓膜を揺らすも、きっと大半の女性がうっとりと頬を染めてしまう美声も今は気分を害するものに他ならない。
 にこやかに微笑んで北淀美依を見る南寺静馬に、北淀美依は更に眉間に皺が深くさせる。
「美依も他人事だって笑っていられるほど若くないんだから、シワとか染みとか気を付けないと。ストレスだって身体に悪いって言うだろう?」
「……」
 言いたいことを我慢せずに全てブチ撒けてやりたい衝動に駆られるも此処が外であり勤めている会社であることを考えて北淀美依は自分の脳裏に巡り巡った南寺静馬に対する罵倒を何とか消し去ろうと努力する。
 しかしながら南寺静馬はそんな北淀美依の心情を知ってか知らずか、にこりと微笑んだままだ。
 できることならそのにこやかな微笑みをこちらへ向けるな。
 北淀美依は彼と視線を合わることを避けるため、パソコンのモニターに向かいキーボードを叩き続ける。
 ただでさえ嫌いなヤツがこんなに近くにいるなんて。
 いっそのこと新しい職場を探してやろうかと北淀美依は考えるが、南寺静馬の存在を黙殺するなら此処での仕事にやりがいはあるし、上司も同僚も良い人たちで昨今ブラック企業が溢れる中素晴らしい職場なのは疑いようもないのだ。それが彼女が勤める食品商社『MAE』だった。

『MAE』に勤めて南寺静馬と北淀美依は今年で四年目になる。
 北淀美依は大学四年の時、必死で就職活動をしていたがどの会社にも内定を貰えなない状態が続いていた。
 正直人見知り勝ちで、あまり人前で自分の意見をはっきりと言える方ではなく、面接では随分苦労した。きっと面接を受け持った社員も、ガチガチに緊張して発言もシドロモドロで恐ろしいほどの挙動不審な大学生相手に同情を禁じ得なかっただろう。当然面接で落とされる。そんなこんなで北淀美依は行く会社行く会社からお祈りメールを送られることになった。
 が、奇跡的にもこの『MAE』に内定を貰ったのだ。
 北淀美依は届いた『採用通知』に天地が引っ繰り返りそうな境地に至るも、漸く自分の努力が実ったのだと泣いてしまうほど喜び、それが夢ではないかと一晩中『採用通知』を何度も何度もそれこそ暗記が出来るようになるほど読み返した。
「夢じゃない!」
 あまり大きな会社ではないが、それまで何十社からも『貴方はウチには必要ない』と言われ続けた北淀美依にとってこの出来事はまさに藪から棒、寝耳に水、足下から鳥が立ち、晴天の霹靂以外の何物でもなく、それは本当に奇跡のような出来事だったのだ。
 夢なら覚めてくれ、嘘です、覚めないで。
 北淀美依はこの奇跡のような出来事にすっかり足元が疎かになってしまっていた。
 それから暫く、入社前に行われた新入社員が招かれた食事会が行われると連絡があり、彼女は次の年から始まる新しい環境と出会う人間に、一体どんな人がいるだろうかとか、仲良くやっていけるだろうかなど、期待と希望を積み上げながら意気揚々と食事会に赴いた。勿論人見知り勝ちの彼女には緊張や不安もあった。だけどそれを上回る喜びも確かにあったのだ。
 気分はまるで舞踏会へ行くシンデレラだった。
 しかし、想像以上に早く北淀美依にとっての『十二時の鐘』が鳴り響いた。
「やぁ、美依」
「!?」
 会場には南寺静馬が然も当たり前のようにいたのだ。まるで同窓会の会場にでもいるかのように南寺静馬は北淀美依に声をかけてきた。
 当然のことながら何故彼が此処にいるのかという疑問が北淀美依の脳裏を駆け巡る。
 そもそも法学部を主席で入学し恐らく主席で卒業するだろう彼は、就職先も引く手数多であることは明白だし、大手企業や公務員など今後の人生は選び放題、まさに人生の勝ち組としか考えられないし、大学卒業後の進路は誰もが羨むものになるはずだ。
 正直に言うと、これで漸く彼との繋がりを断ち切れるのではないかと北淀美依は心底喜んでいたのに、何故彼が此処に、この『MAE』の新人社員の食事会にいるのか。
 答えは簡単だった。
 この男、南寺静馬は数多ある優良就職先を全て蹴って、この『MAE』に入社を決めたということだ。
 どうしてこうなった。
 いや、しかし。
 これは北淀美依が過去大学受験でも経験していたことであり、大学の最高峯を目指せるはずの南寺静馬は何故か北淀美依が辛うじて合格した私立大学に主席で入学してきたときを思い出してしまった。
 北淀美依が思うに、南寺静馬は北淀美依を完全に食物にしているのだ。
 彼女は彼を退屈させないための玩具であり、傍から見ると仲の良い友人のように装い、『南寺静馬』という人間をより人間らしく社会に演じていくためより自然に見せるために必要な背景であり、どうでもいい他人なのだ。
 それが、北淀美依が最近になって漸く学習した南寺静馬という人間なのだ。
 南寺静馬は北淀美依の人生に出来てしまった悪性腫瘍。
 悪性腫瘍に対して文句を言い罵詈雑言を連ねたところで治ることはない無意味な行為であることは子供でもわかる。医者が必要なのだ。北淀美依と南寺静馬との関係を完全に切断する名医の存在が。
 しかしながら、彼女の人生でまだそんな名医には会えたことはない。
 南寺静馬に遭遇した人間は皆、彼を免疫細胞だと見誤り、害はないから安心だと決めつめそれで診断を終えてしまう。
 ここまで会った人間は皆ヤブなのだ。
 南寺静馬の持つ『仮面』に騙され、騙されたものとも知らず疑わず、今も彼を『免疫細胞』だと思い込んでいる。だから北淀美依は静かに大人しく頭を低くしてい生きることを決めた。
 いつか南寺静馬を悪性腫瘍だと見抜き、彼を北淀美依から切り離してくれる名医が現れるまで、悪性腫瘍が暴れたりしないように、息を潜めて生きていくことを……。

 「……美依は本当に静かだね。返事くらいしてくれても良いだろう? あんまり無言だと見ている人は俺が独りで話しているんじゃないかと思ってしまうし、俺だって言葉を話さない屍に声をかけているつもりはないよ」
 南寺静馬はその優しげな瞳に憂いを帯させ、残念そうに溜息をついた。その溜息をつく姿さえ見目麗しく、周りにいた女性社員たちの視線を引き寄せるのだ。そしてまるで蜜に誘われる蝶のように女性社員たちは南寺静馬に寄っていった。
「南寺さん、溜息なんてついてどうしたんですか?」
「南寺さんに元気がないと私たちも悲しくなります」
 そう引き寄せられた蝶々たちは煌びやかな羽を広げた。
 ……思うに、最近草食系男子なんてのが持て囃されるのは、こういうガッツリと自分アピールのする女性が増えてきたことが要因ではないのかと、北淀美依は他人事ながらも群がられている南寺静馬を横目で観察した。
 同情も哀れみもない。
 そんなもの、この男には不要だからだ。
 南寺静馬はとてもじゃないけれど草食系男子ではないし、もっと凶悪で残忍なものが内に住み着いているのだし、何なら彼にしてみたらこの状況は日常茶飯事ということもあり、軽く群がる蝶々を散らすだろう。
「すみません、気を使わせてしまったみたいで……。心配事というわけではないんです、ただもうすぐ新入社員が入社されるし、去年のように仲良くなれるか・・・ちゃんと先輩として振る舞えるかどうか不安になって」
 そう不安そうな顔で呟く彼の声に蝶々たちは皆身体を震わせた。
「大丈夫ですよ、みんな、南寺さんとすぐに打ち解けられますよ」
「そうですとも、南寺さんはウチの会社の一番優秀な社員なんですから」
「そうですか? 皆さんにそう言ってもらえるのは嬉しいですけど・・・凄く照れます」
 そう恥じらうように笑う南寺静馬に蝶々は皆見蕩れて溜息をついた。
 北淀美依は、阿呆くさ、と呆れながらも自分の仕事に専念したが、それからすぐに蝶々たちは皆それぞれの仕事へと戻っていった。
 南寺静馬は涼やかな笑みを北淀美依に向けると、助けてくれても良かったのに、と囁いた。北淀美依はその囁きを、まるで小蝿に対するように手で振り払い、迷惑だと言いたげに南寺静馬を見た。
「……偉い人は言いました、一人の敵も作らぬ人は一人の友も作れない、と」
「聞いたことがあるな。誰だっけ……思い出した、アルフレッド・テニスンの言葉だったね」
「誰の言葉かなんて私は覚えてない」
「俺が覚えてるよ。高校の図書室にあった本だ」
 南寺静馬は当時を懐古するように眼を細めた。
「―――それで?」
「何が?」
「それで美依は何が言いたいの?」
「周りに良い顔ばかりしているアンタには、本当の友達なんて一人もいない。いつまで経ってもお客様扱いよ。遠巻きにされて、腫れ物を扱うみたいにされれば良い」
 どうせ、こんな嫌味を言ったところで彼は笑うだけだろう。そう確信した上で北淀美依はちらりと隣の席の南寺静馬を見た。
 すると意外にも南寺静馬は北淀美依に視線を向けたまま、驚いた顔をしていた。
 まさかそんな顔をしているとは思わず、北淀美依もつられるように驚き、何よ、と反論を求めてしまった。
 だけど南寺静馬はすぐにいつものように緩やかに笑って、口を開いた。
「いや、美依は可笑しいことを言うなと思ってね。いるじゃないか、すぐ目の前に」
「何が」
「『俺の敵』だよ」
 南寺静馬はいつもような何処か薄っぺらさを感じさせるような笑いではなく、心底愉しそうな笑いを浮かべると、窘めるような視線を向ける。
「美依が俺の敵だろ? てっきりそういうつもりで生きてるんだと思っていたけどどうかな?」
 そう言われて、北淀美依はぽかんと南寺静馬を見たが、すぐに挑戦的に睨みつけた。
「当たり前でしょ」
 北淀美依が肯定すると、珍しく南寺静馬は安心しているようだった。
 一体何処に安心する要素があったのか。彼の表情が彼女の不機嫌を煽るが、これ以上南寺静馬と話していたくなかった北淀美依は、彼に聞こえるくらいの隠すことも臆することもない素晴らしいほど堂々とした舌打ちを一つ、南寺静馬にプレゼントすると漸く視線をパソコンのモニターに戻した。
 南寺静馬はというと、そんな北淀美依の悪態を全く気にする風もなく、寧ろ可愛がっている野良猫がまたしても自分の手に爪を立ててきたくらいの寛大で大らかな気持ちなのだろう。まるで春風のような微笑みを浮かべ、まだ北淀美依を見つめていた。
 その視線をやはり心地悪いと思ってしょうがない。
 こっち見んな。
 もう一言お見舞いしてやろうと思ったとき、南寺静馬は上司に呼ばれて席を立った。
「……」
 北淀美依は南寺静馬が席を離れるのを確認すると、スマートフォンをポケットから出してニュースを開く。
 彼女には一週間前から気がかりなことが一つあった。
 それは画面に表示されている暴行殺人事件だ。
 事件は一週間前の三月十四日に発生した。会社員・久々知咲くくちさき(二十四歳)の姿を最後に確認したのは、その日彼女と夕食を共にした同僚。同僚は駅近くで久々知咲と別れたが、その直後から久々知咲の消息は絶たれる。その六時間後、三月十五日未明、駅から少し離れた人気の無い路地裏にて無残な姿で通行人に発見された。恐らく同僚と別れた直後に何者かによって暴行・殺害されたようだ。
 現場はこの会社の最寄り駅から少し離れた場所にある路地で、まさに北淀美依の生活圏内での出来事であったことだった。テレビの地域ニュースでも取り上げられ第一発見者らしき男性がかなり憔悴した様子で発見したときの状況を語っていたらしい。
 この事件、北淀美依は一つの懸念を抱いていた。
 それは―――、

「美依」

 突然後ろから声をかけられたことに驚き、北淀美依は持っていたスマートフォンをデスクに落とす。そのショックで画面はホーム画面に戻ってしまうが、その画面に彼女は少し安心した。
 そのニュースのことを、今後ろに立っている男・南寺静馬に触れられたくなかったからだ。
 北淀美依は身体を捩り、後ろを見る。すると南寺静馬は少し困ったような笑みを浮かべて立っていた。
 経験上、この顔をしているとき、北淀美依にとって良くないことが起こる。
 彼女は顔をしかめると、本当は聞きたくはないが一応話を聞いておこうと、何、と南寺静馬に問いかける。すると南寺静馬は困った笑みのまま口を開く。
「今、大黒さんに呼ばれて行ってきたんだけど、」
 大黒さん、とは二人の上司に当たる社員で、北淀美依と南寺静馬の属するマーケティング課の課長だ。気の弱そうなところがあるが、情に厚く大変良い人という印象だ。
「今年も新入社員の指導と歓迎を担当してくれないかって頼まれてさ。それで今年も美依に手伝ってもらおうかと思ってるんだ。もう大黒さんにはそういう風に伝えてあるから」
「は?」
「それじゃあ寄り道せずに帰るんだよ」
 南寺静馬は一方的に決定した事実を押し付けると、自分の席に戻り荷物と上着を持つ。そしてそのまま職場を出て行く。
 取り残された北淀美依はあっという間の出来事に驚きながらも、彼の背中と壁にかかっている時計を交互に見る。もう勤務時間が終わっている。それで南寺静馬は帰ったのか。
「はぁ」
 北淀美依は南寺静馬を追いかけようと腰を椅子から浮かせたが、すぐに座り直して背もたれに身体を預ける。
 帰りたいが、そうはいかない理由が二つ。
 一つは彼女自身の要領が悪く、まだ今日終わらせるべき仕事が終わっていないこと。 もう一つは、南寺静馬と帰る時間をずらしたかったから。
 北淀美依は大学卒業と同時に、家を出てマンションで一人暮らしを始めていた。が、何故か彼が隣りの部屋にいつの間にか入居していたのだ。引越し当日に、近くの部屋の住人に挨拶をしようと、まず隣りの部屋のインターフォンを鳴らして彼が出てきたのを見て、北淀美依の心臓は冗談抜きで止まりそうなくらいの負荷を受けた。就職先も同じだと既に知っていたが、まさか同じマンションの、それも隣の部屋に引っ越されているとは思わなかった。硬直する彼女に、南寺静馬は然も偶然であるかのように、隣りに引っ越してきたのは美依だったんだね、これはもう運命だね、と言われた瞬間、挨拶と共に渡そうとしていた洗剤を落としてそのまま自分の部屋へと逃げ帰った。
 ストーカーなのか!
 即引越しも考えたが、違約金も高く、そもそも引っ越したばかりの彼女にそんなお金もなく渋々今もそのまま部屋に落ち着いている。
 同じ会社に出勤し、同じマンションへ帰るとなると、自然と通勤の電車などで鉢合わせになることが増えていた。多分、今日もこのまま帰っていればきっと電車や道で鉢合わせするだろう。
 今日はそれを避けたかった。
 北淀美依はデスクに置かれたままのスマートフォンに手を伸ばすと、再びさっきまで見ていたあのニュースを開く。
「はぁ……」
 彼女は深々と重々しい溜息をつくと、スマートフォンをポケットに戻し、残したままにしていた仕事を片付けだした。 
 午後六時十五分のことだった。

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