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一、十年目の破綻
第13話『疑念』
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南寺静馬に首を絞められた時、北淀美依は再確認してしまったことがある。
それは最初の時に南寺静馬に指摘されたが彼女自身ずっと否定してきたことだった。
南寺静馬のあの恍惚とした表情に見蕩れていた。
ずっとそんなことはないと思っていた。だけど首を絞められた日にそれが事実だったと思い知った。ヤツの何処か蕩けたような表情に見入っていた。
北淀美依にとって受け入れがたい事実だった。
それではまるで自分も『異常』みたいじゃないか。人の首を絞めて悦に入っている男の顔に見蕩れてしまうなんて!
でも自分の首に残る痛みを思い出しながら、北淀美依自身もう随分と、人として正常か異常かを分かつ境界線の近くまで引っ張られてきたような気がした。
南寺静馬に接している内に、北淀美依の『正常』の感覚が緩んできてしまっているように思えた。
……いや、もしかしたら北淀美依は最初から『異常』だったのかもしれない。なぜなら、高校一年の春にもあの顔に見蕩れてしまっていたのだから。
それからずっと自分は違う、自分はそうじゃないと思って生きてきた。
高校を卒業すれば縁が切れると思っていたのに、ヤツとの縁は大学だけに留まらず大学卒業後も絡まってきた。
また首を締められるような日が来るのではないかと戦々恐々としていたが、幸いあの日以来首を絞められたり肉体的な危害を加えられることはなかった。
そのせいか、気持ちが麻痺してきていたのかもしれないと、あの『婦女暴行殺人事件』が起こった時に北淀美依はショックを受けた。
自分の認識が緩んでいた。
自分の生活圏内であんな事件が起こったと知らされたとき、もしかしたらあそこで死んでいたのは自分だったかもしれない、そう思うと吐きそうになった。
―――本当に怖かったんだ。
***
その日午後が始まって暫くしてから北淀美依は課長の大黒に呼ばれた。
何かやらかしたかと不安になったが、どうやらそういうことではないのは大黒の表情からすぐにわかった。
「北淀さん、これから伊藤くんと一緒に出かけてくれますか?」
そう言われた場所は此処からそう遠くない取引先の商社の名前だった。マーケティング課で企画発売された商品の販売契約を何度も結んでいる会社だ。一応北淀美依の担当している会社の内の一社だ。
「流石に入社したばかりの新人さんにいきなり担当を任すのは荷が重いだろうけど、後々はあの会社は伊藤くんに任せようと考えてます。北淀さんはどう思いますか?」
「今年の新人さんも仕事の覚えが早いので、冬頃には担当を任せても大丈夫だと思います。じゃあ今日は顔見せというか、挨拶だけという感じですか?」
「そんな感じです。じゃあよろしくお願いします。今日はそのまま直帰して貰って大丈夫です。伊藤くんにもそう伝えてください」
「わかりました」
北淀美依は大きく頷くと自分の席まで戻る。
その途中嫌でも隣りの席の南寺静馬の姿が見えてしまう。
ヤツは涼しい顔でモニターを見つめてキーボードを叩いている。その顔色は仮眠を取ったとは言え一晩起きていた人間には見えない。
その涼しげな顔を見ていると、どうして自分だけがこんなにも思い悩まないといけないのかと腹が立ってくる。
その苛立ちに気が付いたのか、それとも見られていることに鬱陶しさを感じたのか、南寺静馬はモニターから視線を北淀美依に向けて「何?」と訊く。
「別に」
北淀美依は素っ気無く呟くと、カバンと上着を抱えて伊藤の席へ向かった。
挨拶と今企画として進んでいる商品の説明を終えて訪ね先の商社を出る頃には既に陽が傾いていた。いつもの退社時間にはまだ時間があるが、今日は直帰して良いと予め大黒に言われていたのでこのまま駅に向かうこととした。
まだ時間が早いせいか、駅までの道は学生が目につくが、北淀美依のようにスーツ姿の勤め人の姿は見ない。もう少し遅い時間になればこの道も駅へと向かうサラリーマンたちが行き交うだろう。そう思うと、こんな空いている時間に帰れるのは運が良いと北淀美依はここ暫く抱えていた憂鬱な気分が薄まった。
「伊藤くんもお疲れさま。でもいきなり取引先に連れて行かれるとは思わなかったよね」
「はい……突然だったのでまだ緊張が解けない感じがします」
伊藤は『MAE』を出てから取引先の商社に着いて、そして挨拶を終えて外を出た今も緊張からか表情が強ばっていた。まだ数日前に入社したばかりの彼にとって、突然取引先の会社に連れられてくるというのはそれほど大変なことだったのだろうと北淀美依は内心驚く。もしそうなら申し訳ないことをしてしまった。
何か気持ちを解せるような話題はないか。
北淀美依がそう考えた時、気持ちが解れるかは兎も角、昨晩自宅マンションから見かけた伊藤によく似た人の姿のことを思い出した。
伊藤があんな時間に最寄駅でもない北淀美依の自宅マンション近くを歩いていたとはとても思えないと理性で理解している。ただ、何となく、北淀美依は自分の目に映ったものが気になってしまった。
「……伊藤くん、昨日はちゃんと帰れた?」
「え」
昨日は酒も入っていたし、心配する気持ちも勿論あった。でもやはり『昨日見たもの』が気になって、つい昨日の話題を彼に振った。
すると伊藤は北淀美依にも見て分かる程狼狽した。彼は北淀美依と視線が合わないように下げながら「昨日、ですか?」と辛うじて返す。
その反応に北淀美依も内心焦る。何か聞いてはいけないことだったのか、と。
「昨日いつの間にか帰ってたから大丈夫だったかなって。お酒飲んでたし……」
「大丈夫でした、歩けなくなる程飲んでませんでしたので」
「そっか……」
伊藤はその言葉を最後に、視線を下げたまま駅への道を黙々と歩いた。北淀美依もこれ以上は話し掛けづらい空気に飲まれて声をかけることができなかった。
さっきまでいた商社から駅までは徒歩で二十分くらいだろう。二人はその道程を周囲の喧騒に巻かれながら進んでいた。
だけど十分程歩いた時、ブルーシートが北淀美依の目に入った。
何の変哲もないブルーシートだ。
それは今二人がいる大きな通りから脇道へ入る路地を塞ぐように、建物と建物の間に垂れ下がっていた。そのシートの前には『KEEP OUT』と書かれた黄色のテープと複数の警察官の姿。そしてそれを遠巻きに眺めてひそひそ話す通行人たち。
昨日の深夜に若い女の子が。
通りがかった人が見つけたって。
血の海になってたらしいよ。
この前もそんな遠くない場所であったのに。
小さい声で呻くように話す声が、北淀美依の耳に入ってくる。
昨日の事件って此処だったのか、と北淀美依はブルーシートで隠された向こうを想像して思わず立ち竦む。
若い女性が抵抗する間もなくナイフで刺されるシーンを想像してしまう。そしてその刺されたのは北淀美依、刺したのは―――。
私はあと何度、自分が殺される姿を想像しなくてはならないのか。
北淀美依は無意識に唇を噛み、ブルーシートを見つめた。
だけどすぐに我に返り、早く伊藤を追いかけなければと視線を駅の方へ向ける。
もう伊藤の背中は遠くに行ってしまっているかと思ったが、どういうわけか、伊藤はすぐそばにいた。
彼も足を止めて、目隠しとして使われているブルーシートを見ていた。
ニュースは今朝からのこの事件のことばかりだ。彼も当然知っているのだろう。もしかしたらこんなにも近くで起こったことに驚いているのかもしれない。
伊藤は北淀美依には相変わらず視線を向けず、ブルーシートを見つめて口を開く。
「連続殺人事件だってニュースで言ってますね」
「……そうだね」
北淀美依としては、犯人に心当たりがあるせいか、この話題は好ましくないし、何だったら聞きたくもない。
話を終わらせてさっさと伊藤を駅まで連れて行こう。
そう思っていると、伊藤はそんな北淀美依の気持ちとは裏腹に言葉を続けた。
「人を、一人殺したとします」
「……え?」
伊藤の言葉に北淀美依は思わず聞き返すが、伊藤は構わず続ける。
「一人だと、もしかしたらその場の弾みとか、事故とか、確かに明確な殺意があるかもしれないけど、最終的に『勢い』みたいなものに左右されるような気がするんです。その場の空気とか『勢い』に飲まれてやってしまって、直後に後悔したり苦しんだり」
伊藤はブルーシートを見つめながら、何処か淡々と続ける。
「でも二人目以降は、殺したいから殺してるんです。」
伊藤はそう言うとふらりと駅までの道を再び歩き出す。
北淀美依はその言葉に動けなかった。
『殺したいから殺している』。その言葉がどれほど北淀美依に重く伸し掛ったか。
南寺静馬は、理性やなけなしの道徳で律していた自分の行動を省みないところまで来ていたら。もう『最後の一線』を超えてしまっていたら。
首を絞められた日。あの日はぎりぎり踏み止まったが、もう駄目なのか。
この瞬間、北淀美依の中で南寺静馬への疑いが『本当』に変わっていくような錯覚にその場に蹲った。
それは最初の時に南寺静馬に指摘されたが彼女自身ずっと否定してきたことだった。
南寺静馬のあの恍惚とした表情に見蕩れていた。
ずっとそんなことはないと思っていた。だけど首を絞められた日にそれが事実だったと思い知った。ヤツの何処か蕩けたような表情に見入っていた。
北淀美依にとって受け入れがたい事実だった。
それではまるで自分も『異常』みたいじゃないか。人の首を絞めて悦に入っている男の顔に見蕩れてしまうなんて!
でも自分の首に残る痛みを思い出しながら、北淀美依自身もう随分と、人として正常か異常かを分かつ境界線の近くまで引っ張られてきたような気がした。
南寺静馬に接している内に、北淀美依の『正常』の感覚が緩んできてしまっているように思えた。
……いや、もしかしたら北淀美依は最初から『異常』だったのかもしれない。なぜなら、高校一年の春にもあの顔に見蕩れてしまっていたのだから。
それからずっと自分は違う、自分はそうじゃないと思って生きてきた。
高校を卒業すれば縁が切れると思っていたのに、ヤツとの縁は大学だけに留まらず大学卒業後も絡まってきた。
また首を締められるような日が来るのではないかと戦々恐々としていたが、幸いあの日以来首を絞められたり肉体的な危害を加えられることはなかった。
そのせいか、気持ちが麻痺してきていたのかもしれないと、あの『婦女暴行殺人事件』が起こった時に北淀美依はショックを受けた。
自分の認識が緩んでいた。
自分の生活圏内であんな事件が起こったと知らされたとき、もしかしたらあそこで死んでいたのは自分だったかもしれない、そう思うと吐きそうになった。
―――本当に怖かったんだ。
***
その日午後が始まって暫くしてから北淀美依は課長の大黒に呼ばれた。
何かやらかしたかと不安になったが、どうやらそういうことではないのは大黒の表情からすぐにわかった。
「北淀さん、これから伊藤くんと一緒に出かけてくれますか?」
そう言われた場所は此処からそう遠くない取引先の商社の名前だった。マーケティング課で企画発売された商品の販売契約を何度も結んでいる会社だ。一応北淀美依の担当している会社の内の一社だ。
「流石に入社したばかりの新人さんにいきなり担当を任すのは荷が重いだろうけど、後々はあの会社は伊藤くんに任せようと考えてます。北淀さんはどう思いますか?」
「今年の新人さんも仕事の覚えが早いので、冬頃には担当を任せても大丈夫だと思います。じゃあ今日は顔見せというか、挨拶だけという感じですか?」
「そんな感じです。じゃあよろしくお願いします。今日はそのまま直帰して貰って大丈夫です。伊藤くんにもそう伝えてください」
「わかりました」
北淀美依は大きく頷くと自分の席まで戻る。
その途中嫌でも隣りの席の南寺静馬の姿が見えてしまう。
ヤツは涼しい顔でモニターを見つめてキーボードを叩いている。その顔色は仮眠を取ったとは言え一晩起きていた人間には見えない。
その涼しげな顔を見ていると、どうして自分だけがこんなにも思い悩まないといけないのかと腹が立ってくる。
その苛立ちに気が付いたのか、それとも見られていることに鬱陶しさを感じたのか、南寺静馬はモニターから視線を北淀美依に向けて「何?」と訊く。
「別に」
北淀美依は素っ気無く呟くと、カバンと上着を抱えて伊藤の席へ向かった。
挨拶と今企画として進んでいる商品の説明を終えて訪ね先の商社を出る頃には既に陽が傾いていた。いつもの退社時間にはまだ時間があるが、今日は直帰して良いと予め大黒に言われていたのでこのまま駅に向かうこととした。
まだ時間が早いせいか、駅までの道は学生が目につくが、北淀美依のようにスーツ姿の勤め人の姿は見ない。もう少し遅い時間になればこの道も駅へと向かうサラリーマンたちが行き交うだろう。そう思うと、こんな空いている時間に帰れるのは運が良いと北淀美依はここ暫く抱えていた憂鬱な気分が薄まった。
「伊藤くんもお疲れさま。でもいきなり取引先に連れて行かれるとは思わなかったよね」
「はい……突然だったのでまだ緊張が解けない感じがします」
伊藤は『MAE』を出てから取引先の商社に着いて、そして挨拶を終えて外を出た今も緊張からか表情が強ばっていた。まだ数日前に入社したばかりの彼にとって、突然取引先の会社に連れられてくるというのはそれほど大変なことだったのだろうと北淀美依は内心驚く。もしそうなら申し訳ないことをしてしまった。
何か気持ちを解せるような話題はないか。
北淀美依がそう考えた時、気持ちが解れるかは兎も角、昨晩自宅マンションから見かけた伊藤によく似た人の姿のことを思い出した。
伊藤があんな時間に最寄駅でもない北淀美依の自宅マンション近くを歩いていたとはとても思えないと理性で理解している。ただ、何となく、北淀美依は自分の目に映ったものが気になってしまった。
「……伊藤くん、昨日はちゃんと帰れた?」
「え」
昨日は酒も入っていたし、心配する気持ちも勿論あった。でもやはり『昨日見たもの』が気になって、つい昨日の話題を彼に振った。
すると伊藤は北淀美依にも見て分かる程狼狽した。彼は北淀美依と視線が合わないように下げながら「昨日、ですか?」と辛うじて返す。
その反応に北淀美依も内心焦る。何か聞いてはいけないことだったのか、と。
「昨日いつの間にか帰ってたから大丈夫だったかなって。お酒飲んでたし……」
「大丈夫でした、歩けなくなる程飲んでませんでしたので」
「そっか……」
伊藤はその言葉を最後に、視線を下げたまま駅への道を黙々と歩いた。北淀美依もこれ以上は話し掛けづらい空気に飲まれて声をかけることができなかった。
さっきまでいた商社から駅までは徒歩で二十分くらいだろう。二人はその道程を周囲の喧騒に巻かれながら進んでいた。
だけど十分程歩いた時、ブルーシートが北淀美依の目に入った。
何の変哲もないブルーシートだ。
それは今二人がいる大きな通りから脇道へ入る路地を塞ぐように、建物と建物の間に垂れ下がっていた。そのシートの前には『KEEP OUT』と書かれた黄色のテープと複数の警察官の姿。そしてそれを遠巻きに眺めてひそひそ話す通行人たち。
昨日の深夜に若い女の子が。
通りがかった人が見つけたって。
血の海になってたらしいよ。
この前もそんな遠くない場所であったのに。
小さい声で呻くように話す声が、北淀美依の耳に入ってくる。
昨日の事件って此処だったのか、と北淀美依はブルーシートで隠された向こうを想像して思わず立ち竦む。
若い女性が抵抗する間もなくナイフで刺されるシーンを想像してしまう。そしてその刺されたのは北淀美依、刺したのは―――。
私はあと何度、自分が殺される姿を想像しなくてはならないのか。
北淀美依は無意識に唇を噛み、ブルーシートを見つめた。
だけどすぐに我に返り、早く伊藤を追いかけなければと視線を駅の方へ向ける。
もう伊藤の背中は遠くに行ってしまっているかと思ったが、どういうわけか、伊藤はすぐそばにいた。
彼も足を止めて、目隠しとして使われているブルーシートを見ていた。
ニュースは今朝からのこの事件のことばかりだ。彼も当然知っているのだろう。もしかしたらこんなにも近くで起こったことに驚いているのかもしれない。
伊藤は北淀美依には相変わらず視線を向けず、ブルーシートを見つめて口を開く。
「連続殺人事件だってニュースで言ってますね」
「……そうだね」
北淀美依としては、犯人に心当たりがあるせいか、この話題は好ましくないし、何だったら聞きたくもない。
話を終わらせてさっさと伊藤を駅まで連れて行こう。
そう思っていると、伊藤はそんな北淀美依の気持ちとは裏腹に言葉を続けた。
「人を、一人殺したとします」
「……え?」
伊藤の言葉に北淀美依は思わず聞き返すが、伊藤は構わず続ける。
「一人だと、もしかしたらその場の弾みとか、事故とか、確かに明確な殺意があるかもしれないけど、最終的に『勢い』みたいなものに左右されるような気がするんです。その場の空気とか『勢い』に飲まれてやってしまって、直後に後悔したり苦しんだり」
伊藤はブルーシートを見つめながら、何処か淡々と続ける。
「でも二人目以降は、殺したいから殺してるんです。」
伊藤はそう言うとふらりと駅までの道を再び歩き出す。
北淀美依はその言葉に動けなかった。
『殺したいから殺している』。その言葉がどれほど北淀美依に重く伸し掛ったか。
南寺静馬は、理性やなけなしの道徳で律していた自分の行動を省みないところまで来ていたら。もう『最後の一線』を超えてしまっていたら。
首を絞められた日。あの日はぎりぎり踏み止まったが、もう駄目なのか。
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