上 下
12 / 48

愛しさと、情けなさと

しおりを挟む
「……いつもとあまり変わらないな」

 出来上がった料理を一口味見して、項垂れる。
 昔お袋から聞いた、肉を柔らかくする方法や、旨味を増幅する方法を、必死に思い出して色々試してみたが、所詮は鹿と野菜のごった煮。味付けもいつものように、塩コショウだけだ。それほど美味いものでもない。
 イチヌの実のパンも、もともと挽いておいた粉をすり鉢でさらに細かく挽き直して作ったが、やはりいつものように固いしぼそぼそする。粉が前よりきめ細かくなった分、多少食感がましになった気がしなくもないが、誤差の範囲と言える。

「ミステが風呂から上がる前に、何とかしてこれを改善せねば……」

「ーーあがる。した。ローグ。入る。風呂。いい」

 ………終わった。
 想定した以上に、ミステは早風呂だった。……人間は、風呂を長時間入ることを好むのだと聞いていたが、思っていた程ではなかったらしい。
 仕方ない…………あまりミステを待たせるわけにもいかないし、今日はこれくらいで妥協しておこう。
 溜息を噛み殺しながら振り返ると、こちらを見ていたミステとちょうど目があった。
 ミステは俺に向かって、にこりと笑うと、風呂上がりで少し湿った唇を動かした。

「気持ち良い。した。よかった。風呂。ローグも、気持ち良い。する。良い」

 ………………………。

 俺は一つ頷いて黙ってその場を離れると、換えの服だけ持って風呂場へ向かった。
 汚れた服を、洗浄魔法を刻み込んだ魔法石が入った袋に入れ、風呂釜へと足を進める。
 風呂釜の中の魔法石は、汚れの洗浄と快適温度を保つ魔法が刻まれている。
 だが、今日は敢えてそこに魔法で干渉し、お湯を水に変えた。
 そしてそのまま、いつものように頭から潜り込んだ。血の汚れが落ちると共に、火照った全身が冷えていくのを感じながら、ゆっくりと顔を水から上に出す。

「……いくら汚れを落とす魔法が展開されていても、脳内の汚れまでは落としてはくれないか」

 正直に言おう。ーー湯上がりのミステと、その口から発せられる意味深な言葉を聞いて……

 
……俺は、欲情、した。

「……もうこれ、25年前のあの娘以外の何者でもないだろ……っ」

 親父殿の言葉を信じるなら……その、狼獣人がそういう風になる相手は、番以外にいないらしい。
 実際俺は、雄としての生理的な反応こそ経験していたが、こんな衝動を今まで感じたことは一度なかった。
 毛皮が濡れた雌に、特別な感情を抱くことはなかったし、思わせぶりな言葉を言われても、からかわれているんだとしか思わなかった。

 そもそも25年前のあの時以来、異性に対してどうこう思うこと自体、なかったんだ。ろくに覚えてすらいない、25年前のあれが、俺にとって最初で最後の恋だった。

 それなのに……相手がミステだというだけで、こんな風になってしまうだなんて。

「……駄目だ。このままじゃ、ミステに夕飯を待たさせることになる」

 ぶくぶくと泡をはき出しながら、再び湯船に沈み込んだ。

 平常心。平常心だ、俺。落ちつけ。
 今までは性欲に無縁過ぎて、同性の奴らから畏怖の眼差しで見られていたくらいじゃないか。
 いくら番がいるにしても、村一番の美女であるユーフェリアの隣にいて、これ程変化がない男はいないと、皆から讃えられながらドン引かれたじゃないか。

 落ちつけ……俺! 絶対ミステのあの発言は、「気持ち良い風呂だった。ローグもゆっくり浸かると良い」くらいの意味に決まっているんだ……!

「……よし。落ち着いた」

 湯船から勢い良く立ち上がり、大きく深呼吸した。
 ……これ以上風呂場に粘ると、そのまま溺死してしまいそうだから、もう出よう。さすがに、溺死防止の魔法までは、魔法石に刻み込んでいないからな。

「ミステの濡れ髪を、あのままにさせておくのは、溺死以上に危険だ……今度髪を乾かす専用の、魔法石を用意しておくか」

 村の女達が毛皮や髪を美しく保つ為に開発した独自魔法を、俺が必要になる日が来るとは……お袋に聞いたら、嬉嬉として教えてくれそうなのが、また何とも言えない。



「ん! 美味い。ローグ。美味い。これ」

「そうか……なら、よかった」

 作った夕飯を出すと、ミステはにこにこ笑いながら俺の料理を食べてくれた。
 少なくともまずいと言われなかったことにホッとしながら、自分の分を口に運ぶ。

 ……やっぱりさして美味いものじゃないよな。
 いつもよりは確かに料理自体の質が向上しているし、いつも一人淋しく食事をとってい俺としては、ミステとこうやって向かいあって食事をしていることで気分的相乗効果があるのは否定できないが、それを差し引いても、ミステが美味しいと言ってくれる程の料理ではない。

 それなのに、笑顔のまま匙を動かすことなく食べ続けてくれるのは……やはり、料理を作った俺の気持ちを考えてのことだろう。

 そう思うと、愛しさと情けなさで、胸がいっぱいになった。
 何としてでも、もっと美味いものを食べさせてやりたい。

「明日は……お袋に、料理を作ってもらうから、楽しみにしていてくれ」

 事後承諾になるが、きっとお袋は喜んで夕飯を準備してくれるはずだ。
 また一つお袋に借りを作ることになるが、ミステが喜んでくれるなら、それくらいの返済は甘んじよう。

「楽しみ……けれど。別に。良い。でも。ローグの、で。……美味い。だから」

 ……首をかしげたミステから発せられた言葉が、どうしても自分に都合の良いようにしか捉えなかったので、鹿汁と共に脳内の優しい幻想を飲み込んだのだった。



「ーーしまった……ベッドのことは、すっかり頭から抜けていた……」

 夕飯の片付けも終え、すっかり寝る準備を終えた俺とミステは、一つしかない俺のベッドの前で固まった。
 ここは独り暮らしの俺の家で、他の誰かを泊めたこともなかったのだから、当然と言えば当然の事態だ。……こんなことなら昼のうちに、実家の客室用ベッドを借りてくるのだった。

「大丈夫。床。私。寝る。ローグ。ベッド。寝る。良い」

「待て。ミステ。雌にそんなことをさせたら、雄失格だ。俺が床に寝る」

 雌に……特に番の雌を一人で床に寝かせた日には、村中から非難される。特に今回のこれは、俺の采配ミスの結果だ。泥を被るのは俺であるべきだ。
 ミステが健気で控えめであるのがわかるからこそ、これは譲らない。

「だけど。ローグ。家。主」

「ミステは、客人だ」

「私、ある。寝る。袋。平気。床、寝る」

「俺も毛皮があるから、どこに寝ようが平気だ」

 話は平行線をたどるばかりだ。
 らちがあかないので、ミステの体を抱えて、そのままベッドに投げた。当然、瞬時に魔法障壁を張ったので、痛みは全くないはずだ。

「……そこで、寝ろ」

 こんな羽のように軽い、華奢なミステを床になぞ寝させられるか。
 自分は居間で寝るべく、ミステに背を向けた瞬間だった。

「ーーローグ。欲しい。ここ、寝る」

 脳に染み渡るような甘い声と、尻尾から伝わる手の温かさに全身が震えた。

 ーー獣人の種類によって、耳や尻尾が持つ意味の重要性は変わる。
 例えば、人懐こい犬獣人や猫獣人なんかは、挨拶代わりに触られても喜ぶし、プライドが高い獅子獣人などは、家族であってもけして触らせない。

 狼獣人の場合は……尻尾や耳に触れることは、血の繋がった直接の家族とーー番にだけ、許される行為だ。


 


しおりを挟む

処理中です...