猫と嫁入り

三石一枚

文字の大きさ
上 下
24 / 27

二十四話

しおりを挟む
  何故いつもこうなのだろう。
  胸中で渦巻く闇が、身体を締め付けるかのようだった。身を焦がすようなこの感情が一体何なのか、私には分からない。
  とうに疲れ果てているというのに、しかし私の両足は面白いくらいに急か急かと、どこか遠くへ行ってしまおうとひた走る。
  何から逃げる必要があるのだろう。
  現実か、親か、それとも許嫁からか、背負わされた重荷からか。追いかけられてもいないのにただ逃げる。追いかけられていそうな気がしてただ逃げる。そんな自身の行動さえも、私には最早訳が分からなくなっていた。
  
  いっそ、もういっそ、立花麗かを辞める事が出来るなら。
  この黒く淀んだ沼のような道に、もし包丁のひとつでも落ちていたならば。
  人の皮膚など容易に切り裂く、月のように輝く鉄があったならば。上手く私は私を辞められていたかもしれない。
  そんな不穏な事さえ脳裏によぎる。本当に落ちていたとしても、きっと拾い上げて切っ先を喉元へ押し込む勇気も度胸もないくせに、想像の中では血みどろに染まった私が馬鹿みたいに笑ってある。
  幸運にも、道端で小刀を拾った私だ。決して美しくはない光沢を見せる切っ先を、迷いなく胸元に叩きつける。幾度となく叩きつける。何度も何度も、それこそ刺傷が増えるほど、麻袋の破れ跡から内容物が漏れ出るように、裂傷部から血が地面に流れ出るが、それでも気にせず叩きつける。歩けないように大腿を切りつけ、好かれぬように頬骨のある位置から唇までを裂く。運命の糸など、戯言を言われぬように手指のすべてをこそぎ落とす。そして力なく、壁を背に項垂れる、そんな私を。

  元からこうなりたかったんじゃないのか、などと、耳の側まで深く切り込みを入れられた、血を泡のように携えた真っ赤な口を持ってして、息も絶え絶えな私がそう号哭をする。声はまるで雨季の蛙のようにがらがらな声だ。必死に、面白くもないのに空笑いをしようとする。気管に入った血液で溺れないようにか、小刻みに咳き込みながらそう言っていた。
  なりたいわけはない。誰だって、進んで死にたいなどと思うものか。死にたいと思う人間は、杞憂する何かを抱えているだけで、それさえ晴れれば死のうとなどと考えないのだ。例えそう思い始めてたとしても、好物を口いっぱいに蓄えた時に死にたいなどとは思わないハズだ。死にたいと思う人間の覚悟とは、そしてその言葉の重みとは、そんなものなのだ。口でそう唱えようと須らく意識は生に縋り付いている。死ぬという逃避行を、追っ手から完全に逃げられる逃避行を夢見ているだけで、本当に死にたがっている訳では無いはずだ。通行人からふらっと短刀を渡されても、最初は言い出しの雰囲気に流されて空元気に応えようとするけれど、果たして、それを腹部か、首元か、心臓か、如何にせよ、いきなり自ら進んで自決出来るものなどそうそういない。憂さを晴らせば少しばかりの間は死のうとは考えないし、悩みの種が失せる方法が見つかれば直ぐにしがみつこうとする。そのままに、生きようとする。そういうものではないか。

  即決に自ら死に至ろうとするのは実に愚かな事だった。そして私の最も嫌いな行動というか、思考のひとつだ。だらしなく、情けなく、弱々しく救われようのない、最も莫迦らしい忌むべきことの一つだ。この世にどれほど生きたくても生きられない人が在ると思っているのかと責めてやりたくなるほど、苛苛しいことのひとつだ。
  しかし私は、そんなに毛嫌いする考えを、受け入れてしまっていた。ほんの少し前まで、というかきっと今ですら、この命の灯火が消えてしまえるのならなどと、実に浅はかな事を心中に把持してあった。文字通り、心中する願望をだ。但し、死するは私一人だけれど。
  この深淵に身を消せるならそれでもいいし、このまま居なくなってしまいたい。そんな事すら、今の私は冗談でもなく思ってしまう。

「いっつ!・・・」

  不意に、足裏にぴしりとする刺激が走った。その途端に、勢いが崩れて前のめりに倒れ込む。さすがに顔から接地するほどのヘマはしなかったけれど、しかし受け身に使った両腕が酷く軋んだ。
  最初は革靴の中に尖った石ころでも入ってしまわれたかと思ったが、実際、足元を見て少しだけ強ばる。
  履いてきていたはずの革靴を履いていないのだ。目線の先には、太ももから伸びるようにして足先までを包む白無地の薄い靴下だった。足の側面あたりが少しだけ赤く染まっていた。さっき踏み抜いた何かのせいなのか、元から怪我をしていたのかは分からない。もっと言うなら、いつ革靴を放ったのかすら分からない。今日もデートなる行為を行った後なのだから、履いていたのは確実なのだが。
  走っている最中か、もしかしたら、一度帰宅した際に既に脱いでしまっていて、そのまま飛び出したから最初から履かずにいた可能性もある。最早、そんな事はどうでもいいけれど。
  じりじりとした痛みが続く。どうやら、何かを踏み抜いたおかげで足の裏の皮膚が破けてしまったようだ。尖った石か若しくは硝子だったのかもしれないが、しかしこれで、私がこれ以上走り続ける事は難しくなったのは確かだった。

  ここぞとばかりに息を吐いた。這いずって近場の壁に背からもたれ掛かり、そのまま薄く目を瞑る。上を見上げれば、決して明るくはない人工電飾の明かりが、まぶたの闇を切り裂いて眼に俄な刺激を与える。
  足音は聞こえない。虫の音も、何一つと聞こえない夜だった。響くのは、私の鼓動と息遣いだけである。実に、実に静かな闇だった。
  鈍く続く酷い頭痛。胃を束縛するかのような激しい痛みと、関節に感じる違和感。焼けついたようにざわつく喉と、走ることをやめた足。身体に対する疲弊なのか、それとも別の理由はあるのか。しかしそれでも、これだけ不調と呼べる体調の中でも私ははっきりと、生きていると口にできる。
  この身体の節々に存在する違和感こそ、命のある証なのだと。
  
「何故いつもこうなのだろう」

  誰に言うわけでもなく、私はそう呟いた。そう、呟かずにはいられなかった。やりきれない思いが、またも爆発してしまいそうだったのだ。既に一回目の臨界は終えている。今ですら、私の右の掌には腫れたような感触が残っていた。日焼けをしたような、少しばかりの痺れを覚える感触を。
  初めて人を打った。人の肌とはあんなに固かったのか、なんてことを呑気に思う。
  手を出した後、直ぐに私は自分の仕出かしたことの重大さに気づく。亭主関白味の強い我が家は、母ですらが父に対して暴力おろか、横柄すら振るったことはない。振るうことは許されない。父とその他の家族の間には、実に大きな壁があって、それを乗り越えられないように作られてあるのだ。
  子供の私ですらがそれをよく理解している。父には絶対に逆らえないと。
  それを知っていながら実の父を打った。瞬間、怒りとは違う意味で、腹の底が冷え、頭の先までに薄らとした痺れのようなものを感じた。血の気が引くとはこのことだろう。動揺と恐怖で足が固まらぬうちに、私は速攻で踵を返して家をとび出た。振り返る事はしなかった。両親の顔を伺う資格はないし、そもそも見たくはなかったからだ。

  差程寒さなど感じないのに、手に吐息をかけて手を擦り合わせる。この掌の違和感が、ほんの少し前に起こした粗相の証拠だった。確固たる、夢ではないという事の証明だった。
  決して全て夢ではない。次に目を覚ましたら自分の寝室で、今のように惨めに項垂れてることもなければ、台所から香るいい匂いに空腹を鳴らす、なんてこともない。目を閉じてどれほど神に祈ろうが、醒ましたところでこの景色が私を待っている。分かりきっていることじゃないか。
  実の父に夜這いをかけろと言われたことも事実で、その上身篭って来いとまで言われたのも現実だ。今までそれとなく、立花家の娘として役立てといった口調で横暴なことを言っていた父が、初めて懇願しながら、真面目に私にその身体すらを使えと諭してきた。

  どうすればいいと言うのだろう。本当に、私がこのまま彼の家に出向いて襲えとでも言うのだろうか。そんな事が、私に努まるとでも言うのだろうか。
  腹部を擦る。母に所作を聞いてはあったけれど、そら恐ろしい事を自ら進んでできるとは思えない。ただ単に怖かった。例えそれが私が言い出しっぺで事が進んだとして、相手に全てを委ねることなど、恐怖でしかない。蹂躙に近い想像に耽ける。きっと、あながち間違いでもないのだろう。

  だから逃げた。逃げるに逃げた。迫る地面を蹴っ飛ばして、髪にかかる風を振りほどいて、捨てることが出来ない重い荷を背に置いて、知りたくもない現実からまたも逃げた。
  いつもの事だ。私は大一番で逃げるくせがついていた。許嫁が決まった時もそうであるし、気に食わないことには結局折れることも出来ずに無様に宙ぶらりんのままに放る。頑固なまでに拒み続け、責任も持てないくせに、このように自分勝手に逃避し、ノコノコと生き続ける。父も母も、これ以上後がないと言っていたのに、それを無下にするかのような事を平気でする。分かっていてもこうなるのだから、愚図極まるものである。

  そんな立花麗かが赦せず、環境が許せず、両親を赦せず、意気地が無いことを許せず、思う事が多すぎて、いつしか脳内には逃げることしか思い浮かばなくなっていた。私が私を辞められるならばどれほど良かっただろうと、本気で考えるほどに。
  結局、決めたことすらまともに遂げられずに、こうやってへたりこんでいる。何もかも中途半端で、貫徹することも出来ない、ただの臆病者。
   なぜいつもこうなるのだろう。戯言のように同じことを何度も吐いた。どうすれば良いか、もはや分からない。何が正しくて、どれが正解だったのか。
  ただ、疲れてしまった。体調だって悪くなる一方だった。既に身体の感覚がないようにすら感じる。意識ははっきりしているが、寝ている時のように、まともに動けない。このまま眠りについて、起きたら全てにカタがついていればいいのに、なんてことも考える。

  薄い微睡みが、意識を支配しようとしているその時だった。

「お嬢さん。このような場所で寝られては物の怪に食われてしまうぞ」

  不意に、声が聞こえた。空耳ではないかと疑ったが、しかしその声色は、酷く私の耳に残った。
  ゆっくりと声の方に顔を寄せると、その先にはなにかがいた。
  真っ暗な世界に、確かに何かがいた。

「はぁ・・・。どなた?」

  半ば手放しかけていた意識を必死に取り戻してそう聞く。
  
「靴はどうした?  足を怪我しているではないか。着物だって擦り傷だらけだ。何があった?  追われてるのか?」

  声の主は強ばった口調でそう言う。私は黙ってこくりとうなづいてから

「ええ。少し、野暮なことが起きて」

  と呟く。嘘を吐いた。実際は誰にも追われていない。ただ、ひとりで勝手に逃げていただけだ。追うものもいないのだから、逃げると言うより、ただ走っていただけに等しい。

「・・・少しだけなら匿ってやる。事情は後で聞かせてもらうが」

  そう言いながら、何者かが近づいてくる。普段の私なら、警戒のひとつもするのだけれど、その声に対しては、なんの感情も抱かなかった。在るべくして在るような、不思議な声だった。懐かしいとも取れるし、新鮮とも取れる。不思議と、恐怖に近いものは感じない。

  視界がボヤけ、虚ろんでいく世界に、私は抗う事が出来なくなっていた。大きな欠伸をかいてしまいそうなほどに眠気に圧されている私に対して、その存在はもう目の前にまで迫っていた。

  雨の香りがした。それは、いつしか路地裏で香っていた、一匹の野良が醸していた匂いと同じだった。混濁とした意識の中で、それとなく

「もう、遠くに行くって言ってたじゃないですか・・・。折角、私の中で諦めがついてたのに」

  と、嫌味たらしく、振り絞って言うと、

「・・・なんでお前がそんな事を知っているんだ。麗か」

  と、私の名前を呼んで、徐ろに私の胴体に手を回した。
  目の前が真っ暗になる中で、私はただ、突如現れた黒猫に身を任せる。
しおりを挟む

処理中です...