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8.ヒエラルキーは切り口次第
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シトラスの香りがする指先がサラージュの髪を掬い取った。ちゅ、ちゅ、と鳥がついばむように唇が落ちる。月白色の髪に薫香が滲み付くほどに繰り返しているというのに、彼が飽きることはない。
「サラ、愛している。髪の一筋すら誰にも触れさせてはならぬ。ああ今日もきれいだあいしているあいしてい」
「レクシア。少し、お話がありますの」
壊れたレコードの如く愛を囁きながら抱きしめてきたアレクシスの唇をつつけば、ゆるりと首が傾いだ。
身体接触と呼びかけを組み合わせれば、都合の悪いこと以外ならばまだ返答がある。これが通じなくなった時こそ一か八かで組み合うしかなくなるので、今回も通じてよかったとひそかに胸をなでおろした。
「どうした。改まって」
そんなサラージュの心境を知らず、アレクシスは無垢な子供のように瞬いた。
その仕草だけ見れば普段と何も変わらないが、虚ろな瞳とどこか大切な部分が融け落ちてしまったような声がその異常性を突きつける。
運命のつがいを見つけた獣人種とは皆こうなのだろうかと思案しかけて、否定する。
そう数がいないと言ってもそれなりに観測されている事象だ。依存傾向にあるとはいえここまで正気を失っている事例は少ないだろう。もしも全員が全員この状態になっているのならば、それこそ社会問題として取り上げねばなるまい。
これからすることの手順を頭の中でなぞりながら、サラージュ静かに深呼吸をした。
「……サラ?」
「先に謝っておきますわ。――性的倒錯に目覚めたら、ごめんなさいね?」
曾祖母譲りの月白の髪と睫毛が淡く光る。一本一本に魔力を通し、体の中に閉じ込めていた『夜』の血を呼び覚ます。滑らかな肌に星の光が灯り、瞳の紅はより鮮烈さを増してストロベリームーンの如く暗闇に浮かぶ。
そして――舌先に乗せたその言葉を唱えた。
「『お座り』」
青年の長身が力をなくしていともたやすく跪く。
それこそが、自然の摂理とでも言うように。
*
サラージュの曾祖母は『夜闇の貴婦人』と呼ばれる『夜の守り人』だ。
神の近侍ともいわれる純血のエルフである彼女が押しかけ女房を決めたことにより、ネクタル家は他種族の血の発現が抑制されることとなった。
サラージュ達きょうだいの代になってやっと他の種族が要素が芽を出すようになったが、まだまだ因子は強い。
サラージュはそのなかでも、とみに曾祖母の血を強く引いていた。外見だけなら夜空の肌を持たないこと以外はほとんど純種と変わらない。
もっとも、エルフ系の混血児は種族特性の発現までに制限がかかる。その魔力の濃さゆえに、純種でない者には負荷が大きすぎるのだ。生きた年数に応じて解放されるため、最低でも100年生きなければエルフ特有の能力を思うままに扱えるようにはならない。
見目の美しさと強弓を軽々と引き絞る筋肉の密度以外は、サラージュはほぼ素人間と言ってもいい。
だが、それで充分だ。
この場において必要なのは、彼女が『夜の守り人』の血をその身に巡らせていることだけなのだから。
「『待て』……ふふ、お上手。いい子ね、レクシア」
くぅん、と自身の足元に跪き、乞うように見上げるハニーブロンドの頭を撫でる。すっと通った鼻筋をなぞり、頬や耳の裏を優しくほぐす。心地よさそうに目を細める顔を見下ろしながら、サラージュはあくまで淑やかに微笑んだ。そして静かに「『聞いていてね』」とだけ指示を出す。
歌うように、寝物語を聞かせるように、少女は囁いた。
「貴方は狼の血を引いていて、狼は夜の眷属。ならば、『夜の守り人』に貴方は逆らえない。いいえ、逆らいたくない。従って、褒められたい。それが貴方の本能。絶対的な原則。――貴方がわたくしからの『ご褒美』を安寧に必要とした原因ですわね」
それこそが、アレクシスが抵抗もなく膝をついた理由。
狼人は【夜の守り人】の従者として彼らに仕える代わりに変わらぬ庇護を与えられる。そういう共生関係が、神話の時代から出来ているのだ。
運命のつがいというシステムはなるほど、強力だ。血を次代に繋げるため、そして魂の欠けを埋めるためにいつしか構築されたモノ。繁殖という生物の原則に結び付く以上、理性をフル活用する以外に御する術はない。
だが、生物としてのヒエラルキーというのはさらに直接的な、個体としての生命維持に関わるモノだ。恐ろしいものをそうと知れるのは、安全なものを見定めようとするのは、肉体を保全しようとする根源的な欲求に由来する。
個を殺し善を生かすという場合も確かに存在するが、それは敵対者に対して発生するものであり、絶対的な庇護者をわざわざ排する意味はまずない。
生き残らなくては、増えることすらできないのだから。
「でも、貴方はわたくしを主人ではなく女として、つがいとして見つけてしまった。そちらの本能に踊らされたからこその暴挙が、コレですわね」
狼人同士のつがいはそれぞれの性格や性質をフェロモンで伝達し合うことにより成立するが、あいにくサラージュが強く持つ因子はどれもフェロモン感知を得意としていない。
感知できないということは制御もできないということだ。サラージュの肉体が無意識に発したフェロモンにアレクシスが強く反応してしまった可能性は充分にある。それによって理性が揺らいでいるところに婚約破棄なんて文言を匂わせたものだから、精神が不安定になって一気に依存傾向が出たのだろう。
ひどく縋りつかれたときのことを思い返しながら自説を淡々と語れば、ぺしゃりとハニーブロンドの中に耳が埋もれていく。肩もひどく落ちて、愕然と見開かれた瞳などは絶望しきったように色をなくしてしまっている。どうやら、責められていると思っているらしい。
「ああ、そんな顔をしないでくださいな。たしかにわたくしには貴方の仰る『つがい』という感覚はわかりませんけれど、幸いわたくしもハレム型の指向ではありませんし、むしろ多少重いほうが心地よいので」
ダークエルフは大半が相手に執着されることを好む。サラージュもそこは同じだ。
安心させるように声をかけると、ちらちらと少女の顔色を窺いながらアレクシスの耳と尾が元気を取り戻していく。蒼白になっていた頬や指先も暖かい色になり、ライトグリーンの瞳は喜悦に煌めきはじめた。
だが、アレクシスは一向に喋らない。
「……ああ、わたくしが『待て』と言ったからお話もしないようにしているのね。レクシア、いい子。『話していいわよ』」
わしゃわしゃと撫でまわしながら許可を出せば、いつものように甘い声が「サラ!」と感激を露わにした。ぱたぱたと大きく揺れる尾がその喜びの大きさを物語っている。だがそこで、はたと何かに気付いたようにアレクシスの動きが止まった。
転がる石のように急速にしょげ返った彼は、口をもにょもにょと動かし始める。
何か言いたいことがあるのだろうか。なかなか言い出さない姿にもう一度促そうかと考えて、止める。
その判断は正しかったようで、そう間を置かずアレクシスの唇がわずかに震えながら開かれた。
「サラ……怒ってるか?」
「――ほんの少し。だって、レクシアったら、わたくしの言葉を全然聞いて下さらないのだもの」
「聞いていたぞ……?」
「それを正気で仰っているなら、お医者様にかかられることをおすすめします」
「ぅ、ぐ……」
「よかった。自覚はおありでしたのね。その上で、わたくしの言葉を聞かないふりをなさっていたのね」
「それは」
もの言いたげに開いた唇をそっと指先で押しとどめ、少女は艶やかに微笑んだ。
「悪い子ね。――躾、受けてくださる?」
ごくりと、青年の喉が鳴った。
「サラ、愛している。髪の一筋すら誰にも触れさせてはならぬ。ああ今日もきれいだあいしているあいしてい」
「レクシア。少し、お話がありますの」
壊れたレコードの如く愛を囁きながら抱きしめてきたアレクシスの唇をつつけば、ゆるりと首が傾いだ。
身体接触と呼びかけを組み合わせれば、都合の悪いこと以外ならばまだ返答がある。これが通じなくなった時こそ一か八かで組み合うしかなくなるので、今回も通じてよかったとひそかに胸をなでおろした。
「どうした。改まって」
そんなサラージュの心境を知らず、アレクシスは無垢な子供のように瞬いた。
その仕草だけ見れば普段と何も変わらないが、虚ろな瞳とどこか大切な部分が融け落ちてしまったような声がその異常性を突きつける。
運命のつがいを見つけた獣人種とは皆こうなのだろうかと思案しかけて、否定する。
そう数がいないと言ってもそれなりに観測されている事象だ。依存傾向にあるとはいえここまで正気を失っている事例は少ないだろう。もしも全員が全員この状態になっているのならば、それこそ社会問題として取り上げねばなるまい。
これからすることの手順を頭の中でなぞりながら、サラージュ静かに深呼吸をした。
「……サラ?」
「先に謝っておきますわ。――性的倒錯に目覚めたら、ごめんなさいね?」
曾祖母譲りの月白の髪と睫毛が淡く光る。一本一本に魔力を通し、体の中に閉じ込めていた『夜』の血を呼び覚ます。滑らかな肌に星の光が灯り、瞳の紅はより鮮烈さを増してストロベリームーンの如く暗闇に浮かぶ。
そして――舌先に乗せたその言葉を唱えた。
「『お座り』」
青年の長身が力をなくしていともたやすく跪く。
それこそが、自然の摂理とでも言うように。
*
サラージュの曾祖母は『夜闇の貴婦人』と呼ばれる『夜の守り人』だ。
神の近侍ともいわれる純血のエルフである彼女が押しかけ女房を決めたことにより、ネクタル家は他種族の血の発現が抑制されることとなった。
サラージュ達きょうだいの代になってやっと他の種族が要素が芽を出すようになったが、まだまだ因子は強い。
サラージュはそのなかでも、とみに曾祖母の血を強く引いていた。外見だけなら夜空の肌を持たないこと以外はほとんど純種と変わらない。
もっとも、エルフ系の混血児は種族特性の発現までに制限がかかる。その魔力の濃さゆえに、純種でない者には負荷が大きすぎるのだ。生きた年数に応じて解放されるため、最低でも100年生きなければエルフ特有の能力を思うままに扱えるようにはならない。
見目の美しさと強弓を軽々と引き絞る筋肉の密度以外は、サラージュはほぼ素人間と言ってもいい。
だが、それで充分だ。
この場において必要なのは、彼女が『夜の守り人』の血をその身に巡らせていることだけなのだから。
「『待て』……ふふ、お上手。いい子ね、レクシア」
くぅん、と自身の足元に跪き、乞うように見上げるハニーブロンドの頭を撫でる。すっと通った鼻筋をなぞり、頬や耳の裏を優しくほぐす。心地よさそうに目を細める顔を見下ろしながら、サラージュはあくまで淑やかに微笑んだ。そして静かに「『聞いていてね』」とだけ指示を出す。
歌うように、寝物語を聞かせるように、少女は囁いた。
「貴方は狼の血を引いていて、狼は夜の眷属。ならば、『夜の守り人』に貴方は逆らえない。いいえ、逆らいたくない。従って、褒められたい。それが貴方の本能。絶対的な原則。――貴方がわたくしからの『ご褒美』を安寧に必要とした原因ですわね」
それこそが、アレクシスが抵抗もなく膝をついた理由。
狼人は【夜の守り人】の従者として彼らに仕える代わりに変わらぬ庇護を与えられる。そういう共生関係が、神話の時代から出来ているのだ。
運命のつがいというシステムはなるほど、強力だ。血を次代に繋げるため、そして魂の欠けを埋めるためにいつしか構築されたモノ。繁殖という生物の原則に結び付く以上、理性をフル活用する以外に御する術はない。
だが、生物としてのヒエラルキーというのはさらに直接的な、個体としての生命維持に関わるモノだ。恐ろしいものをそうと知れるのは、安全なものを見定めようとするのは、肉体を保全しようとする根源的な欲求に由来する。
個を殺し善を生かすという場合も確かに存在するが、それは敵対者に対して発生するものであり、絶対的な庇護者をわざわざ排する意味はまずない。
生き残らなくては、増えることすらできないのだから。
「でも、貴方はわたくしを主人ではなく女として、つがいとして見つけてしまった。そちらの本能に踊らされたからこその暴挙が、コレですわね」
狼人同士のつがいはそれぞれの性格や性質をフェロモンで伝達し合うことにより成立するが、あいにくサラージュが強く持つ因子はどれもフェロモン感知を得意としていない。
感知できないということは制御もできないということだ。サラージュの肉体が無意識に発したフェロモンにアレクシスが強く反応してしまった可能性は充分にある。それによって理性が揺らいでいるところに婚約破棄なんて文言を匂わせたものだから、精神が不安定になって一気に依存傾向が出たのだろう。
ひどく縋りつかれたときのことを思い返しながら自説を淡々と語れば、ぺしゃりとハニーブロンドの中に耳が埋もれていく。肩もひどく落ちて、愕然と見開かれた瞳などは絶望しきったように色をなくしてしまっている。どうやら、責められていると思っているらしい。
「ああ、そんな顔をしないでくださいな。たしかにわたくしには貴方の仰る『つがい』という感覚はわかりませんけれど、幸いわたくしもハレム型の指向ではありませんし、むしろ多少重いほうが心地よいので」
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安心させるように声をかけると、ちらちらと少女の顔色を窺いながらアレクシスの耳と尾が元気を取り戻していく。蒼白になっていた頬や指先も暖かい色になり、ライトグリーンの瞳は喜悦に煌めきはじめた。
だが、アレクシスは一向に喋らない。
「……ああ、わたくしが『待て』と言ったからお話もしないようにしているのね。レクシア、いい子。『話していいわよ』」
わしゃわしゃと撫でまわしながら許可を出せば、いつものように甘い声が「サラ!」と感激を露わにした。ぱたぱたと大きく揺れる尾がその喜びの大きさを物語っている。だがそこで、はたと何かに気付いたようにアレクシスの動きが止まった。
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その判断は正しかったようで、そう間を置かずアレクシスの唇がわずかに震えながら開かれた。
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「――ほんの少し。だって、レクシアったら、わたくしの言葉を全然聞いて下さらないのだもの」
「聞いていたぞ……?」
「それを正気で仰っているなら、お医者様にかかられることをおすすめします」
「ぅ、ぐ……」
「よかった。自覚はおありでしたのね。その上で、わたくしの言葉を聞かないふりをなさっていたのね」
「それは」
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