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八話:夜の続き

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「ノエルゥ、ちゃんと見張っててよぉ。今は君が頼りなんだからねぇ」
「抜かりなく警備しております。安心して補給してくださいましね!」
 セルフサービスのガソリンスタンドでエオンナがレンタカーにガソリンを補給し、ノエルがその隣で周囲を警戒して見渡している。
 二人は現在テロ組織であるプロメテウスから逃げつつ、プロメテウスが有名な学者を誘拐して立て籠もっている廃墟のホテルへ向かう道中にいる。
「……でもさぁ、其処に行ったところでリンスに繋がるヒントは本当にあるのかねぇ」
「ルビー様がそう仰っていたのですか?」
仙石勇樹せんごくゆうきに聞けば何か知ってるかもってだけ。テロリスト側はリンスから頼まれただけだろうし、もしかしたら僕達ただの慈善活動してるだけかもねぇ」
「ですが、リンス氏の計画が成功してしまっては此方が不利になる事は想像に難くありません。阻止するだけでも上々ではなくて?」
「阻止出来れば、ねぇ。正直僕ら二人じゃ分が悪い。栞璃さんがいてくれれば……」
「確か現在探偵の仕事に勤しんでおられるのでしたっけ。リュミエール研究所の生き残りを倒すと言えば此方を優先して来て頂けるでしょうか……?」
「恨み度合いで言えば一番強いだろうからねぇ……そうだ! それだよぉ!」
 ガソリンを容量の上限まで入れ切ったエオンナはノエルの腕を引いて車の前まで引っ張る。
「今から赤国探偵協会って奴の本部に行って栞璃さんを捕まえてくればいいんだよぉ!」
「よ、宜しいのですか!? 絶対に来るなと言われた筈では……?」
「リンスの話をすれば絶対に顔色変えて乗ってくれるってぇ! そうと決まれば早く行ってみよぉ!」
「そうですわね! 栞璃様の力を借りましょう!」
 料金の支払いを済ませて二人は車に乗り込み、引き続きノエルが運転しエオンナが見張りを敢行してガソリンスタンドを後にする。
 エオンナがカーナビを操作して目的地を一時的に赤国探偵協会本部に変更し、追っ手に会うこともなく到着はしたものの二人は想像を超える光景を目の当たりにして驚きを隠せずにいた。
「え、何で入口崩壊してんのぉ……?」
「もしかしてプロメテウスは計画の邪魔になりそうな栞璃様を予め狙っていたのですか!?」
「考えられなくはないねぇ」
 駐車場には消防車と救急車とパトカーが列を気にせず停められており、ボロボロに崩れている入口付近で何人もの救急隊員や警察が出入りしている。
 更に厄介なことに惨状を一目見ようと押し寄せている野次馬が貼られたバリケードテープの前で群がり、建物に近い駐車場に車を停められない。
 仕方なく建物から少し遠い位置に車を停めて、二人して野次馬を掻き分けバリケードテープの奥へ忍び込もうとすると案の定警察に止められた。
「この先は入らないでください」
「あぁ~待って待って、僕達は祁答院探偵事務所から来た者だよぉ。うちの……言いたくないけど上司が建物内にいる筈だから迎えに来たんだけどぉ」
「建物内にいる皆様には現在事情聴取を行っています。終わるまで帰すことは出来ません」
「こっちも急いでるんだけどぉ」
「此方も遊びでやってる訳じゃないんです」
 反射的に言い返そうと向きになっているエオンナの左肩をノエルは優しく叩く。
「その……実は上司の栞璃様のそのまた上司が危篤状態なんです……! 前々から入院はされていたのですがついさっき容態が急激に悪化して……」
 ノエルは涙を堪えながら警察に言い淀んでいた事情を吐露する。
「そ、そうだったんですか。だったら最初からそう言ってくれれば……」
「エオンナ様も警察様のお仕事を邪魔する訳にはいかないと気を遣ってくださったのです。ですが、もう時間がありません。用事を済ませばすぐに連れ戻すと約束しますわ! ですからほんの少しだけ私達に時間をください……!」
「……分かりました。自分について来てくださ——」
 警察の返事を聞かずしてノエルはエオンナをおぶさって建物内へ驀進する。
「しかしノエルも罪な女だねぇ。お涙頂戴で騙すとはさぁ」
「う、嘘はついてませんから良いではないですか……!」
 居場所を警察から聞いてないので案の定一階の受付窓口付近で迷っていると桃色の瞳を宿した男性が二人に声をかける。
「貴方達は……ノエルさんとエオンナさん!?」
「あら、タルク様! ご無沙汰してますわ!」
「赤国人なのは知ってたけど、既に此処を嗅ぎ付けていたとは流石だねぇ」
「いえ、自分は此処で働いてるだけです」
 タルクは二人に順番ずつ握手を交わして応える。
「それで栞璃さんは何処にいるのぉ?」
「此処に爆弾を仕掛けて爆破させた犯人を追いかけて行きました」
「えぇぇぇ!? じゃあ警察騙して首突っ込んで来た意味ないじゃぁん!」
「爆弾を仕掛けた、ということはプロメテウスというテロ組織の一員も此処に来ていたという事ですのね?」
「いえ、その犯人は『生き残り』に直接繋がっていると思います。彼は表向きは資産家で、最近とある研究所の設立を企画した方に多額の投資をしたとか」
「研究所ですか!? それは怪しいですわね……!」
 エオンナはノエルの背から降りて爆破の跡をじっと見つめる。
「……ほぼ間違いないだろうねぇ。この爆破もビスマスが作った爆弾を持たせてやらせたのかもしれないしねぇ。そういう前例あったしぃ?」
「栞璃様は既にその犯人を追いかけている、ということは栞璃様がリンス氏の居城に辿り着く可能性もあるのではないですか?」
「そうだといいのですが……不安が残ります。相手が相手ですから」
 深刻な現状に憂えている一同に黒づくめの女性が駆け寄ってくる。
「見覚えのある奴がいると思ったらエオンナじゃねぇか!? 栞璃に来るなってめちゃめちゃ言われてたろお前!」
「酷い言い草だねぇ、ネローザさぁん。こっちは栞璃さんの手を借りたいから此処に来たのにあいつがいないのが悪いんだよぉ」
「あ、貴方がネローザ様ですのね!」
 ノエルは興奮しながらエオンナを突っぱねてネローザの眼前へ急接近する。
「お初にお目にかかります、私はノエル・ギャンビードと申しますわ。貴方のご活躍は栞璃様やエオンナ様から兼ねがね伺っておりますわ!」
「あ、あぁ……初めましてだな」
 ネローザにはノエルの眩しい笑顔と太陽に照らされた宝石のように煌めく若草色の瞳があまりにも眩しく見えて直視出来なかった。
「ただの人がピースをほぼ自力で破壊するなんて私には信じられませんでした……。しかし、貴方の身体を見れば納得ですわ! 特にその腕!」
 スキンシップの域を超えた弄り方でノエルはネローザの右腕方から指の先まで執拗に揉みしだく。
「鍛錬だけではなく、幾多の修羅場をも打ち破ったであろう貫禄も感じられますわ! でなければ齢十八でこの腕の仕上がりは中々出来ませんのよ!」
「お、おぉ、分かってるなお前……!」
「特に肩と背中! 服の上からでも分かる三角筋の美しい形と触れることで感動すら覚える僧帽筋のこの硬さ! 外側の分かりやすい筋肉でこの仕上がりなのですから……」
「何で栞璃の知り合いって変な奴ばっかりなんだ……」
 ノエルのマシンガントークと執拗な筋肉弄りをネローザは止める術もなく遠い目で我慢していた。
「此処にいた! 君達勝手に建物内に飛び込まないで頂きたい!」
「ヤバ、急いで病院に向かわないとぉ!」
 追いついて来た警察に驚いたエオンナは血相を変えてネローザとノエルの腕を引っ張る。
「何で私も連れてくんだよ!?」
「いないよりマシだからだよぉ!」
「まだお話の途中なのですが~!」
「そんな悠長なこと言ってられるかよぉ!」
 結果ノエルとエオンナとネローザの三人で警察から逃げるように建物を飛び出し奥に止めた車に乗り込む。
 助手席に座ったエオンナは流れるような指さばきでカーナビを動かして目的地を変更する。
「今から向かうホテルの名前は憶えてるから設定し直すねぇ。ネローザさんは誰かが追って来ないか監視をお願いねぇ」
「何の為にホテルに行くんだ?」
「説明長くなるけど我慢してねぇ」
 警察が追い付くより早くエンジンをふかしてノエルはレンタカーを走らせる。
 念の為ノエルも周囲を注意深く見回すが此方を付け狙うような不審な者は見受けられない。恐らくルビーの足止めが予想以上に効いているのだろう。
「ご無事でしょうか、ルビー様……」
 ルビーから連絡は未だに届いていないが、一行の優先順位は彼女よりも仙石勇樹の救出だ。
 ルビーの報を待つことなく三人を乗せた車は法定速度ギリギリで中部都市を抜け出て西部に乗り込んだ。

 此処はとある財団により中部都市に建てられた研究所。設立されたのは約一年前で、理工学の分野に長けた者達で研究チームが構成されている。
 その所長は黒の国から来た科学者を名乗る女性が務めている。
 彼女が行う実験や研究の内容に研究員は反対を申し出たものの、三日も経たない内に誰一人として不満を零さなくなったという。
「……入れ」
 所長室の扉を開いたのは研究所設立の為に膨大な額の投資を引き受けた男性だった。
 所長はその男性の様子に違和感を覚えた。白目を剥いて気絶しており、後ろにいる誰かの白い手に襟を掴まれてぶら下がっている。
 所長が彼に言葉を投げかけようとした瞬間に彼そのものが後ろにいる何者かに本棚に投げ飛ばされる。頭をぶつけ、揺らされて落ちて来た本にも頭部を攻められ彼は意識を手放した。
「……ようやく来たか」
 姿を現した瑠璃色の瞳の女性を所長は鋭い視線と微笑みで迎え入れる。
「貴様と再会出来て心の底から腹立たしいよ、祁答院栞璃」
「直に貴方の計画を打ち砕いて差し上げます、リンス・シーロン」
 扉を閉めてリンスと向かい合う栞璃の瞳は今だけは探偵の使命を心の奥底に置き去りにしていた。
「一応聞いておこう。どうやって此処を嗅ぎ付けた? 貴様がさっき投げ飛ばした男と私が繋がっている事が何故分かった?」
「全て彼から聞き出しました。チェスプランに多額の投資をされたことは協会に召集を受ける際、密かにお教え頂いたので疑いは掛けておりましたが」
「全く、金を持ってる以外良い所がないゴミカスなんか利用するんじゃなかったよ。お陰でいとも容易く場所が割れてしまった」
「仰られる割に困っているようにはお見受け出来ませんが」
「カモフラージュで何個も研究所を作らせたからね。此処の人員と設備が何処ぞの研究所みたいに誰かに潰れされても他の研究所に籠ればいい」
 皮肉を込めた言い方に栞璃の眼力が微かに強まる。
「自身を慕って頂ける方々に報いる努力をせず見殺しにされてしまわれても、事情を隠してしまえば慰めて頂ける方は何人でも現われるでしょう」
 今度はリンスの視線が鋭くなる。
「貴様の冗談は本当に笑えん。恨み節を隠す気もないんだな」
「貴方こそ人の弱みに付け込み気分を害させる物言いがお上手ですね」
 お互いに乾いた笑みを浮かべるが、目だけは相変わらず殺気立っており殺伐とした睨み合いを繰り広げている。
「どうした? 私を殺しに来ないのか? 貴様なら人一人殺すくらい簡単だろ?」
「……貴方は其方におられないでしょう」
「何を意味の分からないことを——」
「わたくしの目は欺けませんよ」
 栞璃は近くの棚に置いてある分厚い参考書を手に取り、リンスの頭を狙って投げつける。参考書はリンスの頭をすり抜け奥の壁に激突した。
「何方の能力を借りられたかは存じ上げませんが、貴方が堂々とわたくしの前に現れる筈がありません。貴方はご自身の手を汚されたくないお方でしょう」
「まさか見破るとはな。本当に貴様は侮れないな」
「此方に貴方がおられないのであれば此処にいる意味はありませんね」
「その割には全く動こうとしないな?」
「ダミーとはいえ貴方がわたくしを簡単に逃がすとは思えませんので」
「……そう思うなら尚更逃げてみなよ」
 言われて真後ろの扉を回し蹴りで吹き飛ばすと、誰かからの右腕の殴打が眼前まで迫って来ていたので咄嗟に左手で受け流して顔を守る。
「きっちり仕事を果たしてくれよ、ローゾフィア」
「仰せのままに、マスター・シーロン」
 栞璃はローゾフィアの従順な口調に違和感を覚えた。今まで出会ったピースと比べて仕草にも表情にも話し方にも異様な無機質さが表れている。
「あぁ、貴様とは違って慈悲深い私から一つ忠告してやろう。此処にいる私が消えてから一分後にこの研究所は爆破される。貴様ごときに人が救えるかな?」
「相も変わらず気に障るお方ですね……!」
 此方に挑発の意を込めてウインクを送り、リンスは煙のようにふわりと形を失い消えていった。
 今回ばかりは栞璃の思考回路にも焦燥感が染み出しつつある。この研究所には多くはないものの一人では到底庇い切れない程度の研究員が残されている。
 その上、栞璃以外の全員はこの研究所が爆破することを知らない。そしてそのような突飛な話を信じてくれるかも分からない。
「問いかけましても無駄かもしれませんが、貴方も爆破に巻き込まれたくないのであればわたくしの邪魔をしないで頂けますか」
「……」
 茶色の瞳のローゾフィアは一言も返さなかった。それどころか今この場所で栞璃と相対するリスクを聞かされたというのにローゾフィアは此方の行く手を阻もうと攻撃に攻撃を重ねる。
「畏まりました。貴方がその気であれば此方も相応の対応を取らせて頂きます」
 栞璃もローゾフィアを無視することにした。当然優先順位は爆破阻止だ。
 しかしリンスはこの研究所をどう爆破する気なのだろうか。研究所の何処かに爆弾を仕掛ける方法が無難だろう。しかし栞璃には別の当てがあった。
 それは過去に黒の国で体感し、探偵として依頼を請け負う中でも実際に目の当たりにした手段だ。
「条件を定めて生成されるビスマスの爆弾……何にせよ探し当てなければ」
 ローゾフィアの攻撃を棒立ちで受け止めながら栞璃はひたすら床に電気を流し続ける。目的はローゾフィアへの攻撃ではない。
「何だあの二人……侵入者!?」
「侵入者同士で殴り合ってるってどういうこと?」
 リンスが仕掛けた罠を何一つ知らない研究員が所長室を通り過ぎる度に此方に訝しげな視線を向けるが彼等のことも栞璃は居ない者とした。
「そのような手間を掛けて迄わたくしを足止めされたいのですか、リンス・シーロン……!」
 本音を零す栞璃の声音は怒りに満ちていた。
「煩わしいのでそろそろ安静になさってください」
 栞璃が瑠璃色の瞳を輝かせると自身の半径一メートルにドーム状の電磁場が展開される。範囲内にいたローゾフィアは栞璃の電磁波を浴びて指一本動かせなくなっていた。
「それでは停止致します。爆弾は……此方の建物そのものですね!」
 栞璃は床に更なる電気を流し込む。やがて流し込まれた電気は瞬く間に建物内の隅々に往き渡り研究所全体が青い輝きを放った。
 やがて発光が収まると建物内にいる全てが静寂に包まれる。リンスが消えてからもう一分以上は経っているが何処も爆発していない。
 電気で作動する物を操作する能力は仕掛けられた爆弾にも作用する事を証明した。
「……残す所貴方のみです」
 とは言え、仕掛けられた爆弾の質量が膨大過ぎたのか栞璃は明らかに消耗していた。残された電力を攻撃の為に割り振るなら残り二撃が限界だろう。
 維持している電磁場を消滅させた瞬間にローゾフィアの左胸を狙って抉るように殴りかかるも、反射的にローゾフィアは身を翻して攻撃を躱す。
「其方でわたくしを見ている皆様、手が空いておられるのでしたらこの研究所内で探して頂きたいものがございますが宜しいですか」
「え、自分達ですか!?」
 足を止めて栞璃とローゾフィアの攻防を扉の外から見つめている研究員に栞璃はトルマリンを羽交い締めにして隙を作り声を掛ける。
「あなた方にはわたくしと対峙されている彼女による被害を一切被らせないことを約束致します。ですので子供を探し出して此方へ連れて来てください」
「子供ってどんな……」
 研究員と栞璃の会話を邪魔するかのようにローゾフィアは栞璃の腕を振りほどき容赦ない猛攻を浴びせる。
「どのような子供でも構いません! わたくしが探している方か否かは見て判断致しますので、急いでください!」
 たじろぐ研究員達に栞璃は発破をかけて急かすと、電池を組み込まれた玩具のように足を止めていた研究員達は研究所内を駆け回り始めて行く。
「貴方とも彼等のように会話が成せれば良いものを……エメラルドでさえ会話が成立しなくとも此方の声は届いていたというのに……」
 愚痴を零してから栞璃は何かに気付いたように目を開かせた。
 赤の国で対峙したエメラルドも目の前のローゾフィアのように誰かの命令に忠実に従い、感情を一切持ち寄らず、此方の問いに答えることは無かった。
 しかし微妙に相違点があった。エメラルドは此方が何を問いかけようと全く同じ文言しか声に出さなかったが、ローゾフィアにはそれすらない。
 この二人は何が違ってこの差が生まれたのか。他に思い当たる相違点を探るが、栞璃との面識、瞳の色、能力、どれを取っても謎を解く鍵になり得ない。
「あ、あの! 屋根裏で拘束されていた子供が一人いたんですが……!」
 所長室の外から誰かの声が此方に向けて飛びかかる。
「連れて来られましたか」
「一応連れてきましたが拘束が全然外れなくて……」
「少々お待ちください。わたくしが解きます」
 栞璃は一瞬だけ扉の外の研究員にアイコンタクトを送ってからローゾフィアの左胸をまた狙って殴りかかり、今度は此方が猛攻を仕掛ける。
 しかしまた受け流されてしまったが、その度に何度も左胸を狙って四肢を振るい続ける。
「貴方とエメラルドの相違点をもう一つ見つけました。速度です。エメラルドの方が圧倒的に早かったですよ」
 栞璃の攻撃速度がローゾフィアの防御速度を僅かに上回り、一撃食らわせる隙を左手に任せて左胸を電気を纏わせた拳で撃ち抜く。
「ご覚悟を、デリート致します」
 栞璃の渾身の一撃を真正面から受けても尚ローゾフィアは声を一文字たりとも漏らすことなく後ろへ吹き飛ばされ、机に背中をぶつけて地面に倒れ込む。
「彼女の心は何処にあったのでしょうか……」
 ローゾフィアが無感情に振舞っていたのは本当に本人の性格が故なのだろうか。それともエメラルドのように誰かに洗脳のような何かを施されたのか。
「あの人、大丈夫なんですか? 動かなくなってますけど……」
「お気になさらず。優先順位はお子様の救助です」
 栞璃はようやく所長室を出て廊下で座っている子供を縛る縄を全て千切る。
「何でそんな力技で千切れるんですか……?」
「直径三センチ以内の麻であればあまり力を込める必要もありません」
 栞璃の腕力の強さが成せる所業なので勿論此処にいる誰の参考にもならない。
 目と口に貼られたガムテープを剥がして子供の顔を凝視する。
「この子をお借り致します」
「えっ!?」
 研究員はしゃがんだままの子供を抱き上げようとする栞璃の腕を咄嗟に掴んで止める。
 彼等にしてみれば栞璃は研究所にズカズカと立ち入り、所長室で暴れて人を一人沈め、自分達が知りもしなかった子供の存在を認知した上で連れ去ろうとしているのだ。
「ま、待ってください! 何が起きてるのか、自分達にも知る権利があります!」
 横暴な栞璃を野放しにして良いものかという良心の呵責が栞璃を引き留める。
「所長からお聞きください。きっと貴方達の目に映るわたくしのように悪者として事情を語って頂けるでしょう」
 栞璃の動きは彼等の望み通り止まったが彼等の要望を聞き入れたからではない。
「移動手段が必要ですね……」
 今の栞璃は電力不足が懸念される。途中で動けなくなってはこれからの行動に支障をきたすのでエオンナに電話を掛けてこの場へ呼び付けることにした。
『やぁ、あんたがあのルビーに『妖怪腐れ外道院潮干狩り』という名前で登録されている人だね!?』
「……貴方のお声はエオンナさんではありませんね」
 電話に出たのはエオンナとは似つかない厚かましい声を発する女性だった。
『エオンナさんってのは知らないがこれはルビーが持ってたからルビーの携帯だろ? あんたはルビーとどういう関係だい?』
「ルビーというお方を存じ上げませんし貴方のことも存じ上げません」
『おかしいねぇ、じゃあ何で通話アプリであんたが登録されてるんだ?』
「幾つかお聞きしたいのですが、其方の携帯のケースは空色の手帳型で合っておりますか」
『合ってるねぇ!』
「貴方が呼んでおられるルビーというお方は髪色と瞳の色も空色でしょうか」
『違うよ、黒髪で目の色は赤だ。ルビーの宝石みたいにね』
 ——ルビーの、宝石みたいに……? そのような表し方ではまるで——。
「エオンナさんに何をされたのですか」
 エオンナの身に何が起きたかは知らないが、エオンナの手の届かない誰かにエオンナの携帯が行き渡っていることは確かだ。
『だからそんな人知らないって……いや、ルビーが乗ってた車にあんたが言う髪色の女がいたようないなかったような』
「もう一度お聞き致します。エオンナさんに何をされたのですか」
 栞璃の声に段々と圧が加わる。声の主が誰であろうと危険な存在であることだけは理解出来る。
『私が言えるのは、そのエオンナって水色? 空色? の女と一緒に車に乗ってたルビーが囮になって私達と戦った。そして奴は負けた。これだけさ!』
「そのルビーというお方はエオンナさんから携帯をお借りしていたので、敗北し貴方に捕まってしまった際に奪われてしまった、という解釈で宜しいですね」
『多分そうだと思う! あんた割と冴えてるねぇ! よく分からない状況下でも冷静に分析を始めたその思考回路も中々だ!』
「せめて携帯だけでも返して頂きましょうか」
『それは出来ない! 何故ならこの携帯は今から壊すからだ! 此方の素性を明かす訳にはいかないんでね、妖怪腐れ外道院さん!』
 すぐに電話を切ってエオンナの携帯の位置情報を探るが、数秒だけ中部都市の何処かの道路の上と表示された後に消えて行った。
「何にせよ、まずは電力供給を優先しなければ」
 そう言うと栞璃は所長室内のコンセントに近付いてしゃがみ、下から青のロングスカートの中に手を入れる。
「な、何をするつもりですか!?」
「電力供給ですが」
 平然と奥からコンセントプラグを伸ばしてコンセントに差し込む。
「電気代は所長に請求してください。後で請求書をわたくしがお書き致しますので」
「そ、そういう問題じゃ……」
 呆然と立ち尽くしている研究員達を余所に栞璃は次にネローザに電話を掛けた。ネローザ自身と赤国探偵協会本部の状況を聞く為だ。
「ネローザさん、其方は現在何をされておられましたか」
『あぁ栞璃、何から話せばいいか分からねぇが……とりあえず今はエオンナとノエルって奴と一緒に西地のホテル千億円?って所に向かってる』
 此方も此方ですぐに状況が掴めないが、何であれエオンナと一緒にいるなら都合が良い。
「エオンナさんはご無事なのですね」
『元気そうにしてるぞ』
「代わって頂けますか」
 ネローザは助手席に座っているエオンナに自分の携帯を渡す。
『やぁやぁ、君に聞きたいことが幾つもあってねぇ』
「奇遇ですね、わたくし改め妖怪腐れ外道院潮干狩りからも貴方にお聞きしたいことが沢山ございます」
『ちょっと待って何でそれを君が知ってるのさ!?』
 普段と変わらない平坦な話し方がエオンナの恐怖心を余計に煽る。
「貴方の携帯に電話を掛けた所、偶然にも貴方の携帯を盗まれたお方とお電話が繋がりましたので」
『ルビーには貸したつもりなんだけど盗まれただってぇ……?』
「電話に出られたのはルビーに勝ったと仰られていた女性ですが——」
 栞璃が話している真っ最中に通話が勝手に終了された。
「何故勝手に……?」
 何度か電話を掛け直してみるが一度も繋がらなかった。念の為自分の携帯で通信テストを行うが異常は見られなかった。
「な、何もしてないですって!」
 扉の外にいる研究員と偶然目が合い、相手は突発的に怯え始める。そういえば何故彼等は所長室の中に一歩たりとも足を踏み入れないのだろうか。
「視線が合っただけではありませんか。疑いを掛けてはおりませんよ」
「信じてください! 何もしてませんから!」
「ですから疑いを掛けてはおりませんよ。ご安心ください」
「本当なんですって! 自分達も所長の横暴さには堪えるしかなくて……」
「落ち着いてください。わたくしは貴方達に矛先を向けている訳では——」
「み、皆早く逃げるぞ! 次は自分達が狙われるかもしれない……!」
 研究員は皆血相を変えて所長室から逃げるように離れて行った。
「何故会話が通じないのでしょうか……」
 栞璃は充電を優先したいので彼等を追いかけはしなかったが、一方的に意思疎通を拒まれたことに疑念を抱いていた。ローゾフィアとの戦闘を目撃されたことで必要以上に彼等を怖がらせてしまったのかもしれない。
 しかし研究員が関係ないのならネローザの携帯に繋がらなくなったのは何処にあるのだろうか。注意深く周りを見渡しても原因になり得るものは転がっていない。転がっている不審物は資産家の男性とローゾフィアぐらいだ。
「そういえばローゾフィアの能力を知り得ませんでしたね」
 充電しつつ左手の平をローゾフィアの頭部に向けて少量の電気を送る。
 栞璃は自身とピースの脳を電気で繋げることでそのピースに内蔵されたプログラムを読み取り、自在に書き換えることさえ可能としている。ピースもまた電気で動く機械だからだ。
 尤も、相手のピースが動きを止めていないと読み取るのが難しいので滅多には行わない。
「アクセス拒否、やはりリンスは抜かりないお方ですね」
 新たなる違和感に気付いたのはその時だった。
 ローゾフィアの脳へのアクセス拒否はリンスが重厚なセキュリティを仕込んだからではない。ローゾフィアのプログラムそのものが栞璃の能力を反転するかのように此方のアクセスを阻害するのだ。
 それがローゾフィアの能力ならば栞璃との対決時に能力を使わなかったことにも怪しさが残る。
 何より一番不可思議なこと。電源を落とし、左胸にある心臓もといエンジンを破壊したにも関わらず、ローゾフィアの能力だけが独りでに動き出している。
「それがローゾフィアの能力……? しかし全ての事象はどう繋がっておられるのでしょうか……」
 リンスが自分を簡単に逃がす筈がない。自分で口にした筈の言葉を改めて噛み締めた。
 リンスの謀略を打ち破るには、ただ強いだけでは何一つ届かないのだ。
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