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十話:信頼

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 事の発端は約二週間前に遡る。
「なぁ店長、栞璃しおりの隠し事をあいつの口から割らせる方法って何かないか?」
「無理じゃないかなぁ」
「即答!? 前みたいに一緒に作戦考えてくれないのか?」
「ネロちゃんなら分かるでしょ? しおりんって本っ当に心開かないからさ」
 栞璃とネローザが道三大学へ呼ばれた日の夜。喫茶店の営業は終了している頃だが、カウンター席からネローザはキッチンにいる市香に愚痴を零していた。
「確かに、探偵再開も偶然遭った事件ありきで乗り越えたようなもんだからなぁ」
「しおりんから聞いたよ、大変だったんだね。でもネロちゃんのお陰でまた探偵やる気になれたって言ってたから、ネロちゃんよく頑張ったね」
 市香は終始ご機嫌でネローザと応対しているがネローザは苦虫を噛み潰したような形相でずっと考え込んでいる。
「……でもあの日、私の秘密は信頼を得る為に結構喋ったけど栞璃の秘密は少ししか聞いてないんだよな。言わない方がいいから言わねぇけどさ」
「私になら大丈夫だよ。しおりんが隠したがってる事の大概は私教えてもらってるから」
「……栞璃がただの人じゃないってこともか?」
「うん、高校生の頃しおりんの部屋に泊まりに行った時に聞いたよ。人じゃないから眠れないんだって寂しげに言ってたの今でも覚えてるなぁ」
「店長と高校同じとか聞いてねぇよ私……」
 自分の知らない栞璃の一面を人から聞く度に何故かネローザは悔しさを覚えていた。
「そういえば、ネロちゃんはしおりんの何を知りたいの?」
「言い始めたらキリねぇけど、今は卯麗うららって奴のことを知りたいな。仙石なんちゃらって博士にその卯麗を知らないってだけでアクティブに驚かれたからな」
「卯麗さんは祁答院探偵事務所の顔だからね。でも意外だなぁ、あんなに慕ってたのに卯麗さんの事教えてないなんて」
「顔なのかよ……私会ったこともねぇぞ」
「何処で何してるのかは私の口からは言えないけど……あそうだ、いい作戦思い付いたからやってみる?」
「作戦だと? 私が栞璃と買い出しに行った日を忘れたのかよ。バレバレだったじゃねぇか」
 ネローザは訝しげに市香の自信に満ちた顔を覗く。
「今度は大丈夫! しおりんの性格を考慮して一番上手く行く作戦を思い付いたから!」
「本当に今度こそ上手く行くんだろうな……?」
「大丈夫! もし上手く行かなかったら、私の言える範囲でしおりんの隠し事を話してあげる! これならどう転んでもメリットしかないでしょ?」
「……勝手に言っていいのか?」
 ネローザの表情により一層不安が混ざる。
「うーん……もししおりんに怒られたら、私が逆にしおりんに抗議するよ! 助手を困らせる位何も教えないのも良くないよ~って!」
「ま、まぁそれなら……で、どんな作戦か教えてくれ」
「ふっふっふ……名付けて、職人技の達磨作戦!」
「もっとマシな作戦名なかったのかよ」
 市香はカウンター越しにネローザに耳打ちして作戦内容を事細かに伝えた。
 そして翌朝、ネローザは身支度を終わらせてから探偵事務所に栞璃を呼び付けた。
「——ってな訳で栞璃、私が探偵資格認定試験に合格したら卯麗って奴に関する事を根掘り葉掘り花堀り聞かせてもらうぜ!」
「花は掘り出せないでしょう」
「んなこと言ったら葉も掘り出せねぇだろ。赤語ってたまに意味分からねぇな」
 ネローザが栞璃に突き付けた提案は、偶然にも二週間後に赤国探偵協会が主催で行う探偵資格認定試験の合格を対価に祁答院卯麗の情報を引き出すことだ。
 市香が打ち立てた作戦は非常に単純、互いに利がある提案を提示することだった。それも、何方の思惑がどう転ぼうとも損が無いように。
「とにかく、私が合格すれば今以上に顧客からの信頼も得られるし、落ちれば栞璃は自分の隠し事を話さないで済む! これなら文句ないよな!」
「……ありませんが、其方の提案はわたくしが誠実でなければ成り立ちませんよ。わたくしが素直に先生の事を話すとは限りませんし、貴方が受けられる試験を妨害する手立ても数多く持ち合わせておりますので」
「それなら大丈夫、栞璃は誠実な人だからな! だろ?」
「貴方というお方は……」
 珍しく栞璃は呆れ笑いを浮かべた。
「本来であれば、然るべき時が訪れればお話しすると決めておりましたが……畏まりました。貴方の要求を嘘偽りなく受け入れると約束致しましょう」
「よっしゃあああああ!!! ありがとな栞璃!!!!!!!!」
「喜ばれるのは合格されてからにしてください」
 こうして栞璃とネローザの間に一つの約束が交わされた。
 そして、試験当日。ネローザは分かりやすく浮足立って身支度に取り掛かっていた。
「栞璃、約束は憶えてるよな!」
「勿論憶えておりますよ」
 この二週間、何度もこの会話が繰り返されていた。
 試験の合否は一ヶ月後に郵便で通知されるのでこの約束が何方に転ぶかはまだ分からないが、お互いに緊張感が芽生えていた、尤も、ネローザは目に見えて緊張しているが、対する栞璃にはそのような素振りは伺えない。
「卯麗って奴の事も気になるが本来は栞璃の為だ、必ず合格してくるよ」
 元々ネローザが受験した理由は助手のキャリアアップが現在の祁答院探偵事務所の更なる飛躍に繋がるからだ。
 栞璃から卯麗の話を聞き出すチップの役割をも持たせられたのは偶然に等しい。
「期待しておりますよ、ネローザさん。ご武運をお祈りしております」
 栞璃にとってもネローザのやる気を下げる理由はなかった。卯麗の事はいずれ話すべき事項だと前々から心に決めていたので、その時が多少早まる可能性がある、というだけに過ぎないのだから。
 懸念があるとすれば、自身の隠し事を聞いたネローザが何を思うかだけだ。
「じゃ、行ってくるぜ!」
 元気溌剌に事務所を出て階段を下るネローザを栞璃は穏やかに微笑み軽く手を振って見送る。
 ネローザが見えなくなってから栞璃は一人物憂げな表情を浮かべた。
「……本当に良かったのでしょうか。わたくしは、わたくしが犯した過ちをネローザさんにも背負わせようとしているのではないのでしょうか……」
「ダイジョーブじゃなぁい? ノエルもいるんだし、プロメテウスはリュミエール研究所で働いてた誰よりも馬鹿っぽいからねぇ」
 客間から軽快で軽率な声が鳴ったのでその方向を栞璃は横目で睨んだ。
「……上座に腰掛けないでください」
「え、其処指摘するぅ? 僕は栞璃さんのアンニュイ発言を茶化したいだけなんだけどぉ」
「わたくしに雇われている以上は祁答院の探偵に相応しい立ち振る舞いを心がけてください。上座はお客様に腰を下ろして頂く為の座席ですので」
「めんどくさ~い。僕ぅ、探偵ごっこがしたいだけなんだけどなぁ~」
「では祁答院の探偵ごっこを致しましょうか。わたくしの姿勢や言葉遣いを真似て礼節ある態度で接客致しましょう」
「畏まりましたぁ~。わたくしぃ、最強のピースなのでぇ、気に入らないお客様はお内蔵をぶち撒いてデリート致しますぅ~」
「良い心がけですね。その対応を貴方の身を以て練習してみましょう」
 栞璃は不敵な笑みを浮かべて瑠璃色の電気を身に纏いエオンナに歩み寄る。
 軽い脅しに畏怖したエオンナは飛び上がるように上座から離れて立ち上がった。
「分かった分かった! ちょっとは真面目にやるから本気で潰そうとしないでくれよぉ」
「言質を頂きましたよ。真面目に、取り掛かってくださいね」
 纏わせていた電気を消し去って栞璃はエオンナの身なりを整える。エオンナは赤の国で仕立てたビジネススーツを着崩しており、栞璃にはそれが我慢ならないのだ。
「それで、君はネローザさんが昔の君みたいに人を殺して回らないか心配なのかなぁ? それとも同伴者を瀕死にさせてしまわないか心配なのかなぁ?」
「何方でもありません」
「それじゃあ、仲間を助けられないどころか裏切られてしまわないか——」
「違います」
「ふぅん、あの日はこの三つ以外にも君がやらかした失態があったんだねぇ」
 栞璃の瑠璃色の瞳がまた陰る。思い出したくない過去を掘り返されるのは幾ら栞璃でも気分が悪い。
「……それ以上、あの日の話はしないでください」
「そんなこと言ってたら過去と向き合うなんて出来ないんじゃなぁい?」
「無暗に掘り返すことを向き合うとは言わないでしょう」
 エオンナの衣装を整え終えた栞璃はエオンナの背中を軽く叩いて猫背を矯正する。
「わたくしも貴方も、今は祁答院探偵事務所の一員です。どのような過去もその一員として働いている間は胸中に仕舞ってください」
「君には仕舞える程大きい胸があるのかなぁ? 僕ぐらい大きければ別だけどぉ?」
「小さくても仕舞うものです」
 エオンナが胸囲の話をしていることに栞璃は気付いていなかった。

 探偵資格認定試験は協会本部がある中部都市のみで行われることは無く、各部都市の何処かの施設を会場として行う。勿論祁答院探偵事務所が居を構えている東部でも協会支部が運営委員を担い試験が行われる。
 ネローザとノエルが向かっている会場は東部の海前市に設立された海前文化会館。此処で筆記試験が執り行われる。
「ネローザ様、悔いの残らない試験になるよう祈っておりますわ!」
「ありがとなノエル。送迎もしてくれて」
「ネローザ様の為ならこの程度お安い御用でしてよ!」
 今回ノエルはレンタカーではなく先日栞璃と吟味して購入した高級車を運転してネローザを会場まで送っている。因みに経費ではなくノエルの善意による自腹で支払われた。
「にしても大丈夫なのか? 金額知らねぇけどこんな凄ぇ車買っちまって……」
「七千六百万程ですし、そう大した額ではありませんわ」
「お前そんなに金持ちだったのか……」
「ギャンビード財閥は伊達ではありませんのよ」
「へぇ……羨ましい……」
 ギャンビード財閥は黒の国ではその名を知らぬ者はいないが、黄の国出身且つ社会情勢に疎いネローザはその名を聞いたことが無かった。
「なぁ、ノエルもピースなんだよな」
「ええ、その通りですわ」
「失礼を承知で聞くが」
「構いませんわよ」
「……ご令嬢のノエルが何でピースになったんだ?」
 ルームミラーに映るノエルの表情は余裕を思わせる微笑みが表れている。
「なったと言うよりも、されたと表現する方が正しいでしょう。詳しい事情は話せませんが、裏切られて研究所に差し出され、機械の身体を手にしてしまったのですわ」
 掻い摘んで過去を話すノエルの声音が未だ明るいことにネローザは違和感を覚えた。
「ですが、もう裏切られたことに憤りなど抱いておりません。どのような状況であろうと、私は私の正義を貫くのですわ」
「だから栞璃に手を貸してるのか」
「はい! 栞璃様のご覚悟は本当に勇ましいもので……思い出す度に心が昂るのですわ……!」
「栞璃の覚悟……?」
 ネローザが首を傾げた瞬間に二人を乗せた車の速度が途端に加速し、ネローザは突然の高速化に驚いて首を左右に振る。
「何でいきなり加速した……!?」
「あっ、申し訳ありませんネローザ様! うっかり私の能力が発動してしまいました……!」
 ノエルは深呼吸を繰り返して心を落ち着かせる。すると車もそれに呼応するかのように勢いを段々と弱めて行った。
「そういえば興奮したら発動するんだったな……」
「ああっ……次から気を付けますので!」
「ま、まぁ大丈夫だから、安全に運転してくれれば」
「ええ、冷静に運転しますわね……」
 急な加速が功を奏し、試験会場には予定より数分早く到着した。
「ネローザ様、良ければ此方をお渡ししますわね!」
 駐車場で降車するネローザにノエルは掌に収まる程の大きさの黒い箱を渡した。
「これ……あ! これ前に誘拐やってたピースが使ってた箱だよな!?」
「その通りです! 利用価値があると思ってエオンナ様がアンバーの箱を一つくすねて来たのですわ!」
「でもこれ何に使うんだ……?」
「中に私が入りますので、有事の際この箱を開けるのです! そうすることで私が助太刀に参りますわ!」
 この黒い箱はアンバーという名のが過去に誘拐を実行していた際に能力で生み出した箱だ。箱の中に入れたものはとても小さくなり、箱から出すと元の大きさに戻るよう設計されている。
「これは名付けて『ヒーローは遅れてやってくる作戦』なのですわ! 発案者はエオンナ様で、自分の身を守る為に考えたものですのよ!」
「それ、ノエルがエオンナに一方的に利用されてるだけだと思うんだがいいのか?」
「エオンナ様は私が守ると約束したものですから、構いませんことよ!」
「……ああ、もしや栞璃が言ってたエオンナの救済措置ってその作戦の事だったのか」
「よく分かりませんがネローザ様にも救済措置が必要でしたら是非!」
 ノエルはネローザの手に乗せられた箱を開けて中に手を入れる。するとノエルは吸い込まれるように箱の中の暗闇へ入って行った。
「……そもそも此処にはそう長く居座る事ねぇから襲われないと思うけどな……」
 指摘する隙も見出せなかったので、ネローザは仕方なく箱をウエストポーチに詰めて会場へ足を運んだ。
 筆記試験は文化会館の二階の会議室で行われる。受験番号に応じて座席が割り振られており、ネローザの席は一番後ろの右から四番目に決められていた。
「……こんにちは、ネローザさん」
 入室して間もなく、見覚えのある男性が明快に挨拶を送る。目を見ると桃色の瞳がネローザを真っ直ぐ見つめている。
「よぉ、えっと……有村、だっけ? 何で本部じゃなくて此処にいるんだ?」
「東地の試験運営の手伝いを任されましてね。と言うのも先日、探偵協会の東地支部の職員が数名音信不通になってしまいまして」
「何だそれ、誰かに襲われたとかか?」
「詳しい事はまだ分かっていませんが、万が一の事を考え無理言って自分を派遣させて貰いました」
「万が一……」
 不安げにネローザは首を左右に回して会議室内を見渡す。
「探偵協会が襲われる理由はねぇと思うけどな……」
「分かりませんよ、前回の事がありますからね」
「あれって結局誰が何を狙って爆破したんだっけ?」
「貴方達にご依頼を持ち掛けた男性が、栞璃さんを邪魔する為に爆弾を持ち込んだのでしょう。栞璃さんには当時犯人をすぐ追わせたので結果的に阻害にもなりませんでしたが」
「確かにあの爆弾、使いようでは栞璃に痛手を負わせられたよな……」
 二人が思い浮かべているのは数週間前に起きた赤国探偵協会本部の爆破事件だ。
 出入口が爆破され、近くにいた一般人や職員を巻き込み多数の死傷者を生んだこの犯行は、とある研究者に誑かされた資産家の犯行である事が分かっている。
「ええ、仮にリンスの元に駆け付けられるまでの時間稼ぎだったとしても栞璃さんを直接狙う方が話が早い。まだ何か見落としているのか、無策だったのか……」
 有村が黙りこくって間もなく職員が受験者を呼び付ける。試験開始時刻がすぐそこまで迫っていた。
「この話はまた後にしましょう。今は試験に全力で臨んでください」
「ああ、アクティブに熟してくるぜ!」
 目の前でガッツポーズを軽く披露してからネローザは席に着いた。
 職員からの説明を聞いて試験が始まってからはネローザは筆記試験に集中し、後ろで受験者を監視している有村が警戒して不審な人物がいないか目を光らせる。
 しかしピースの手強い点として、見た目による人との相違点があまりにも少ないのだ。瞳の色と、両手の平にある放出口、その二つでしかピースか否かを判別出来ない。そして何方も工夫次第で隠し通す事が可能だ。
 立ち位置から受験者を見分ける事も叶わず試験は終了した。解答用紙を一纏めにし、ネローザを含む受験者達がぞろぞろと帰っていく。
「杞憂だったみたいですね……」
「またな有村!」
「お疲れ様です、栞璃さんにまた宜しく伝えておいてください」
 お互いに手を振り合ってネローザは会議室を出る。彼女の後ろ姿を確認する為に有村も顔を出して廊下を見つめる。
 その時に有村は気付いた。自分が抱いた懸念が杞憂ではなかったことに。
「ネローザさん! 後ろ!」
 唐突に廊下に響いた声に順応してネローザは後ろ回し蹴りをお見舞いしながら振り返る。すると彼女の足と、黒く長い刀がぶつかり合って威力が相殺された。
「誰だお前!?」
「……」
 刀の持ち主はネローザの問いを無視して、廊下に映るネローザの影に潜り込むように消え去った。
「何で私が狙われてんだ……!」
 ネローザは咄嗟に有村のいる会議室へ走り出した。しかし右足を踏み込むと同時に廊下の左の壁に映っている小さな影からまた黒い刀が伸びる。
「あっぶねぇ……! あのピース、影に入れるのかよ!?」
 最初の踏み込みによる加速がほんの少しでも甘ければネローザの頭は横から刀で貫かれていただろう。相手の洞察力の高さが恐ろしい程伝わってくる。
「足を止めずに、出来るだけ蛇行して此方へ!」
「だな、直進だと読まれる……っ!」
 会議室はそう遠くないが、刀が計算高くネローザの一歩踏み込む先を予測して床に映る影から何度も襲い掛かる。ネローザはその刀を斜行して飛んで側面を蹴り捌いてを使い分けて避けて行くので会議室に近付く事も出来ない。
 捕まえようにも刀が影に潜り込む速度も素早く、触れる事すら叶わない。
「だったら……自分が行きます!」
 ネローザが刀を避け続けている所へ有村が駆け付ける。しかしネローザの影から飛び出したピースに飛び蹴りを食らい、衝撃でネローザから突き放される。
「有村、近付いたらお前も斬られるぞ!?」
「しかし、貴方一人ではどうにも……」
 敵の矛先は有村に向いた。有村も影から迫る刀を避けようと右往左往するが彼はネローザよりも器用には動き回れず掠る程度ではあるが刀を当てられ続ける。
「く……何とかして近付きたいのに……!」
 動き回る有村を見てハッとしたネローザは、逆に自分が有村の方へ駆け出した。
「だったら逆に私が近付けば……!」
 第三者目線であれば刀に触れるチャンスを十分に窺える。有村をまた掠める一筋の刀が引っ込む既の所で飛び出したネローザが刀を両手で躊躇いなく握りしめる。
「な、ネローザさん!? 何してるんですか!」
「黄の国じゃこういう状況をピクルスにかかったチーズを味わうって言うんだぜ!」
 刀が地面に引っ込めば刀身を掴んでいるネローザの右手の平に一本の切り傷が入る。最悪指が斬り落とされる可能性も考慮される。危険な賭けだ。
 しかしネローザは素手で掴む事で少しでも摩擦力を上げ、指を少し傷つけながらも影に沈む刀と一緒にその影の中へ入って行く事に成功した。
「影から攻め込むなんて随分と陰気なピースだな!」
「……!」
 影の中は海中のようになっており、水面の一部から影の外の景色を見ることが出来る。
 ネローザは刀から手を放して相手のピースへ一直線に迫り回し蹴りをお見舞いする。泳ぐように動けば多少の自由は利くようだ。
 しかし正面衝突に持ち込まれても相手は分の悪さを見せない剣捌きで応戦する。寧ろ分が悪いのはネローザの方だった。影の海はこのピースのテリトリーだ。
「こいつ、動き慣れてやがる……!」
「……」
 刀を握る黒目のピースは優雅な泳法でネローザの背後に回ろうと円を描くように泳ぐ。対するネローザは死角を取られまいとその場で回転するのが精一杯で快く動けない。
「どうすりゃあいつの隙を突ける……!?」
「……」
 ネローザは水面を見上げる。此処から出られればまだ活発に動けるにしても、相手の方が自分より早く泳げる事は自明である。
 最早逃れる方法すらネローザには無かった。
「これで出られるか……試してみましょうか!」
 しかし、ネローザに無ければ別の者が手を差し出せば良い。有村の叫びと重なるようにカメラのシャッター音が鳴り響いた。
 同時に影の海の全体が一瞬だけ強い白光に包まれ、気が付けばネローザと黒目のピースは空中へ投げ出されるように影から飛び出された。
 一体何が、とお互い考えるより早く黒目のピースは別の影に潜ろうとしたが、潜られるより早くネローザは相手の右腕を左手で掴み、余った腕で掴んだ相手の腹に拳を打ち付ける。
「行かせるかよッッ!!!」
 相手の想定していた方向とは若干別の方向に強い力が働きかけ、ネローザは拳に体重を乗せて相手の背中を床に叩き付ける。影の海へ潜る行為は阻止できた。
 ネローザの猛攻はこれに留まらず左右の拳を交互に相手の腹へ何度も打ち付け、
「パイファー、ツェリスカァァァ!!!!」
 最後の一撃には渾身の力を込めて相手の左胸に右の拳を突き落とす。およそ人が繰り出せるとは思えない程の衝撃で左胸のエンジン部分の破壊に成功した。
「っしゃあ! これで、もう動けねぇだろ……!」
「その部分さえ壊せれば一先ず大丈夫でしょう……しかし、恐ろしい子だ」
 有村はネローザの腕力に限らずこれまで見せた運動能力にも畏敬の念を抱いた。
 身体能力で人がピースに打ち勝つのはとても難しい、という理屈はピースを知る者ならば誰しもが理解している。人がピースに改造される事で機体の強度や運動能力が人だった頃の肉体の鍛錬度に左右されず上昇されるからだ。
 しかし、ネローザは人とピースの著しい性能差を暴力的とも呼べる身体能力でカバーしている。知力は乏しいが、それでも戦闘を強引に有利な展開に持ち込める程のパワーを秘めている。
「栞璃さんは、とんでもない方を助手に選びましたね」
「とんでもないって何だよ、褒めてんのかそれ」
 乱れた呼吸をどうにか落ち着かせながらネローザはケロッと笑う。まだ余裕があるかのような様相もまたネローザの底知れぬ力を物語っていた。
「ネローザ・サンライト。貴方が、此処まで強いとは……」
 力なく仰向けに倒れている黒目のピースもネローザの強さを弱った声で讃えた。有村とネローザは反射的に黒目のピースの顔を覗き込む。
「お前私の名前を何処で……いや待て」
 ネローザは倒した相手が持っていた刀を拾い上げて端から端まで観察する。
「これ、もしかしてタラッセーニョの黒曜刀か?」
「何ですかそれ?」
「あー……詳しくは言えねぇけどうちらの専用武器みたいなもんだ」
 サンライトファミリアには独自の武器開発班が存在し、タラッセーニョはその中でも近接武器の制作を任されているチームのブランド名である。
 因みにこの内情は企業秘密なので部外者に口外する事は固く禁じられている。
「でもこれを持ってるなら間違いねぇ、お前ファミリアのメンバーだな!?」
「……私は、元から強くはなかった。けど、ピースになっても強くはなれなかった。人のままの貴方にさえ、勝てなかった」
「そんな事より何でお前が私を狙う!? 内争禁止の筈だろ!?」
「……此処から生きて帰れたなら、或いは——」
 言葉の途中で黒目のピースは意識を失った。起こす為に揺らしながら肩を叩く等をしても意味が無いと分かっているのでネローザは彼女に触れなかった。
「此処から生きて帰れたなら、という事は刺客はまだ他にいるという事でしょうかね」
「多分そうだろうな。でも気ぃ抜けねぇぞ、その刺客もファミリアのメンバーだったら……」
 警戒しながら二人は誰に出くわすことも無く出入口の扉の前まで来た。だがネローザが扉の取っ手に手を掛けて引っ張るが扉が全く動かない。
「この扉、鍵かかってないよな?」
「かかってませんし、内外の何方から押しても引いても動かせる筈です」
 言われて試しに取っ手を押してみるが動かない。高層ビルの壁を押しているかのような手応えの無さを痛感している。
「まさかこれも……」
「そう、ピースの力だよ。ネローザ・サンライト」
 二人の後ろから声を掛けた年寄りの男性はわざとらしく足音を立てて二人の背中に接近する。依然警戒を怠らぬ眼差しで二人は振り返る。
「お前は……カルコルテか!?」
「私の名を知っているのだね」
「ちょっとは憶えてるぜ、元指令官」
「光栄だね。お陰で後味良く君を倒せそうだ」
「どういうつもりだ……お前も、二階のあいつも」
「端的に言えば君を倒すつもりだ」
 カルコルテは明るい黄緑色の瞳でネローザを鋭く睨む。
「何でそんな事するんだよ! メンバー同士の殺し合いは禁止事項だっただろ!」
「勿論その通りだ。だが、もう一つファミリアにはそれよりも大きな禁忌がある事をご存じかね?」
「……ファミリアから寝返る事だろ」
「その通りだ。だから我々は君を倒すのだ」
「どういう事だ、私がいつファミリアを裏切ったってんだ!」
「ファミリアに連れ帰ってからゆっくり聞き出せばいい。今はピースに手を貸している君という存在を罰さなければいけない」
 ネローザの推理では、恐らく栞璃と一緒に働きながらピースと戦っている現状が、ピースを密売する組織オプスキュリティを追っているファミリアに対する裏切り行為だという判断を下されたのではないかと思い込んでいる。
「ふざけんなよ……! 私はそんなつもりで此処にいるんじゃねぇ!」
「動かぬ証拠があるのでね。問答無用だよ」
 ネローザはカルコルテに殴りかかりたい気持ちを抑える。此処で元司令官であるカルコルテを倒してしまえばより裏切りの疑念を深めてしまう可能性があるからだ。
「第三者が口を出して申し訳ありませんが、その手を貸しているピースが自分の事なら偶然の産物とお答えします」
「残念ながら君ではない。だがファミリアを敵に回したくなければ早急にネローザ・サンライトを差し出してくれるかね」
「要望には応えられない。今のネローザさんの居場所を自分が奪う訳にはいかないのでね」
 カルコルテの鋭い視線が有村にも突き付けられる。
「残念だよ。君は思慮深い者だと思っていたが、人は見かけによらないものだ」
「自分も貴方を一目見た時は誠実そうな方だと思ってましたが、悍ましい悪の心を孕んでいるようですね」
「悪を打ち倒す為の悪だよ」
 カルコルテは右手を首の横迄上げて掌をネローザ達に見せつける。ピースにしかない放出口が掌に設けられていた。
「一般人も巻き添えになってしまったが仕方ない。私の能力により、この建物は封鎖させてもらった。条件を満たさなければ封鎖は解けない」
「自分から能力を語るとは余裕ぶってるなお前……!」
「同じファミリアのメンバーとしての最後の情けだ、心して聞き給え。解放条件は一つのみ、ネローザの死だ」
 動揺を抑えられず有村の瞳が一瞬だけネローザに引き寄せられる。
「私が此処に連れて来た部下の数は、ネローザに倒されたラテディネを含めて三名。君達の敵は残りニ名、いや私を含めた三名だが、果たして三名に留まるか……」
 物陰に隠れてカルコルテの話を盗み聞きしていた一般人達をカルコルテはねめつける。
「さて、以上で説明と準備は終わった。相手は生身でラテディネに勝った実力者だ。心してかかるように」
 此処にいない誰かに話しかけるようにカルコルテは発破をかけ、ネローザに背を向けて歩き去る。
「逃がすか! お前を先に倒す!」
 ネローザはカルコルテを追いかけようと走り出すが何かに足を躓かせるでもなく転んでしまった。
 すぐに立ち上がってまた踏み込んで駆け出すが三歩程でまた何に足をぶつけてもないのに転ぶ。
「全然進めねぇ、何がどうなってる!?」
「言った筈だ、準備は終わっているとね。君が私に追いつくことは出来ない。そして生き延びる道もない。人生の最後に特濃の絶望を楽しむと良い」
「ふざけんなてめぇ……!」
 床に伏しながらネローザはカルコルテの背中を睨むが、突如として間に割って入るように現れた橙色の瞳を持つ軍服の男性がネローザの鋭い視線を阻む。
「お前、ロブソーレか……!」
「こんな所で会えるとは思わなかったよ、ネローザ」
 ロブソーレは色に似合わず冷ややかな目でネローザを見下ろす。
「君を倒さなきゃいけないのは残念だけど、心の何処かでこうして君と戦える事を待ち望んでいたような気もするよ。不思議だ」
「私はお前とノリが合わねぇから苦手なんだがな……!」
「そうか。だから君と戦う運命だったのかもしれないね」
「ああ、お前と話してるとやっぱり調子狂うな……」
 愚痴を零しながらネローザは立ち上がり、相手の動きを待つようにじっと構える。
「有村、ロブソーレは私が倒す。お前はもう一人のピースが何処にいるか探してくれるか?」
 ネローザは腰に下げている電撃銃と、ウエストポーチから取り出した黒い箱を有村に手渡す。
「構いませんが、貴方一人で大丈夫ですか……?」
「あいつ一人なら多分な。だがカルコルテのあの言い草、多分一般人にも私を倒すよう焚き付けてる感じがする。そいつ等を抑え込む役割も任せたい」
「……分かりました。それでこの箱は何ですか?」
「開けるとノエルが出てくるから身の危険を感じた時に使うといい」
「成程、分かりました。其方は任せましたよ」
「ああ、アクティブに任せろ!」
 有村はロブソーレのいる道とは別の方向へ進む。何歩進んでも転ばなかった有村の様子を眺めてからネローザはロブソーレに視線を移す。
「ネローザ、君はやっぱり教官に似てるね。彼女の性格は暑苦しくて苦手だったけど、似たような空気感を君からも感じるよ」
 ロブソーレの話を無視してネローザは彼に向かって突撃する。三歩走れば転ぶ事は分かっているので、床に三歩踏み込んでから右の壁に飛び込み、右足で壁を蹴って左の壁に飛び移るように進む。
「……ほう」
 左の壁に飛び移ってすぐに左足で壁を蹴り、右の壁にまた飛び移って前に進んでいく。地に足を付けず左右の壁に何度も飛び移る事で転ばずにロブソーレに接近し、十分近付いた所でロブソーレの横から空中で回し蹴りを放つ。
「いい足だ。機転も聞かせられて威力も申し分ない」
 しかしロブソーレは平然な態度でネローザの蹴りを受け止めた。すかさず着地して拳を何度も打ち付けるがそれもロブソーレは冷静に受け止める。
「殴打も中々だ。流石は『鉄拳の黒薔薇』と呼ばれた奇襲部隊兵」
 全ての攻撃を相殺され腕の押し合いに持ち込まれたネローザはロブソーレと睨み合う。
「その名前で呼ぶな……!」
「何で? かっこいいじゃないか」
「鉄拳はダセェだろうが!」
 ロブソーレの腹を蹴って後ろに飛んで距離を開ける。
「今度は此方からも攻めよう。君にアドバンテージがあるのは不甲斐ないが仕方がないんだ。本来は君と戦うより君を倒す事を優先しないといけないからね」
「こんなもん私にとっちゃ足枷にもならねぇよ」
 ロブソーレが走り出すと同時にネローザもまた壁蹴りを駆使して正面から立ち向かった。

 昼過ぎにノエルから栞璃へ一本の電話が繋がった。
 栞璃は現在エオンナと一緒に調査の一環で外にいる。
「少々失礼致します」
 依頼人とエオンナから少し距離を取ってから電話に出る。
『栞璃様、緊急事態なのですわ! 四人くらいのピースの策略で文化会館が閉鎖されて、その中にネローザ様もいて、彼等の目的がネローザ様を始末する事で』
「ノエルさん、一度呼吸を整えてください」
『あぁ、はい……』
「事情は概ね把握致しました。ネローザさんは現在ご無事でしょうか」
『私の今の場所からは見えませんが大きな怪我はないようですわ。その、実はヒーローは遅れてやってくる作戦を実行しようと私は今箱の中におりまして……』
「アンバーの箱を未だにお持ちでおられるのですね」
『あ、でも箱はネローザ様に持たせておりますし、ネローザ様の傍にはタルク様がおられるそうなので護衛は出来ていると思いますわ……多分』
「畏まりました。現在の取り掛かっている依頼が解決次第、其方へ向かいますのでその間はネローザさんの護衛をお願い致します」
『お任せください! 絶対に守り切って見せますわよ!』
「はい、ノエルさんのお力を頼りにしております」
 電話を切ってエオンナと依頼人の傍に戻ろうと振り返ると真後ろにエオンナが立っていた。
「あっちは大変そうだねぇ。すぐ行かなくていいのぉ?」
「……依頼人様を置いて向かう事は出来ません」
「言ってる割には不安そうな顔してるけどぉ?」
「しておりません」
「してるってぇ。君も見てみなよ栞璃さんの顔。不安げでしょぉ?」
「は、はぁ……」
 エオンナは後ろから栞璃の頬を撫で回す。依頼人は困った顔で二人を遠目に見ていた。
「貴方を置いて向かう事の方が不安です」
「ちょっとは信頼してくれよぉ。探偵としてちょっとは真面目に頑張るからさぁ」
「貴方を探偵とは認めておりません」
「大御所ぶってんじゃないよぉ」
「あ、あの!」
 突然依頼人は大きな声で二人を呼んだ。自分でも此処迄大きな声が出るとは思わなかったのか、依頼人はすぐに口を手で塞いだ。
「あ、いや、えっと……急用が出来たなら、僕の事は後でいいんで先にそっちに行っても……」
「ほら依頼人もそう言ってんじゃぁん。此処は僕に任せて行きなよぉ」
 栞璃は力づくでエオンナを引き剥がし依頼人の目の前まで近付く。
「お気遣いありがとうございます。しかし探偵として、貴方のご依頼を無碍には出来ません。此方のご依頼の解決に心血を注いでから向かいますのでご心配なく」
「ぼ、僕はいいんですよ……僕みたいな奴、騙されて当然ですし……ちょっと気に入らないからって捕まえてやろうと思ったのが間違いだったんです……」
「何も間違ってはおりません。倫理から外れた行いを許さないそのお心はお大事になさってください」
「でもいーのかなぁー? 助手が死んじゃったらどーするのさぁー?」
「死、死!?」
「……わたくしはネローザさんの丈夫さに懸けております。ネローザさんならこの困難も必ず乗り越えられるでしょう」
 かつて探偵事務所の屋上でネローザに励まされた時の言葉を真似た。
「……それで大丈夫なのかよぉ」
 エオンナと依頼人の方が不安げな表情を浮かべていた。
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