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十五話:朝

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 時は栞璃しおりが誘拐された直後まで遡る。
 リュミエール研究所に雇われた一人の探偵、ジェイマは協力者が乗り込んだ飛行機が黒の国へ飛び去る前に単独で調査を開始した。
 彼が研究所から頼まれた調査は栞璃の生い立ちの調査だ。研究所は栞璃という存在そのものに疑念を抱いていた。黒の国のリュミエール研究所でのみピースは作られ研究されている筈だが、自分達の知らない所で存在していた栞璃とは何者なのだろうか。
 栞璃の存在を通達した一人のピースを唯一信じた副所長のリンスが研究費用を割いて雇った探偵、それがこの男ジェイマである。
 ジェイマは空を探偵事務所に送り込む前に栞璃の身辺調査を終わらせていた。そして彼女の生い立ちを知る為に立ち寄るべき所も決めていた。
「……さて、手早く終わらせるか——」
 車を運転して空港を出たところで、彼の記憶はぷつりと途絶えていた。

 ジェイマは意識が戻った時、身体の自由が全く利かないことに気付いた。横に丸くなって寝かされ全身を束縛されているのだ。おまけに目も塞がっていて此処が何処かも分からない。
「だ、誰かいるか……?」
 ジェイマは小さい声で姿の見えない誰かに呼びかける。
「やっと目覚めたか。早速だが私の質問に正直に答えてもらうよ」
 彼の呼びかけに答えたのは真珠のように白い目と白い髪を持ち、小学生と見紛う程背が低い少女、祁答院卯麗けどういんうららだった。
「お前は誰だ!? 俺は何故縛られている!?」
「今の君に質問する権利はないよ、三流探偵くん」
 卯麗は寝転がるジェイマの顔の前に立って彼を見下ろす。
「君が祁答院栞璃という探偵助手について聞いて回ってることは知ってる。君の依頼主は彼女の何が目的なんだい?」
「答える訳ないだろ。探偵には守秘義務がある、依頼人の情報を売るなんて俺には出来ないね」
「成程、ごもっともだね。少し話を変えようか。君には守りたい宝物があるかい?」
「な、何をするつもりだ……?」
「同じことを二度も言わせるなよ」
 卯麗は怒りをぶつけるようにジェイマの胸を一度蹴った。肋骨が折れてもおかしくはない衝撃にジェイマは何度も咳き込み、痛みに悶えて身体をくねらせる。
「……宝って程大層じゃないけど、家族や恋人は、大事なものだと思ってる……」
 ジェイマは息苦しさを堪えながら卯麗の問いに答えて見せた。
「そうか。じゃあ君はその大事な家族と恋人の為なら、何をどれだけ捨てられる?」
「何を、どれだけ……金の事か?」
「君が捨てられるのは金だけか」
「……そうまでして金が欲しいなら幾らでもやる。だからこれを解け……!」
「いやなに、君の意見を判断基準にしたかっただけだよ。君から金は要らない。その代わりに情報を貰うからね」
 卯麗は足でジェイマを転がして仰向けにさせると、右足で腹を踏んずけて体重を乗せる。
「私はね、君が私から奪ったものを取り返す為なら何だって捨てられるよ。尊厳も、名誉も、家族も……私の命も」
 卯麗はジェイマから情報を聞き出すまで彼を何度も蹴り続けた。一発ごとに気が遠くなりそうな痛みを受けながらジェイマは為す術なく自身が抱えている情報を卯麗に言い渡した。
「……この辺で終わりにしよう。君から此処まで聞き出せれば充分だ」
「や、やっと、終わるのか……」
 拷問が終わるころにはジェイマの声は聞き取りが難しい程掠れていた。
「ああ、もう終わりだ。私は調査に戻る。ご所望ならその辺で野垂れ死んでいてくれていい」
「……お前の行い、いずれ足がつくぞ」
「ほう?」
 ジェイマの元から離れようとする卯麗にジェイマは力を振り絞って煽り立てる。
「俺は、探偵だ……このまま俺が死ねば、お前は殺人を、犯した事になる……。そうなれば、お前が何を探していようと、サツは何処までもお前を追いかける……」
「では君に最後の豆知識を授けよう。どうすれば君を殺しても捕まらないようになると思う? 答えは簡単、君をこの場から物理的に消してしまえばいい。髪の一本も、着ている服の糸くず一つすらも、ね」
「な、なにをするつもりだ……!?」
 卯麗はジェイマの声に耳を貸さず、ジェイマの姿をその身一つで消し去った。

 その日の夜、卯麗は探偵事務所に親友の柳侑子やなぎゆうこを招き入れ、栞璃の奪還計画を練ることにした。もう一人の親友、石田大吾いしだだいごは多忙で呼べなかった。
「……貴方の言い分は分かったけど、その探偵の話って本当? 栞璃ちゃんが黒の国のリュミエール研究所って施設に連れ去られたなんて」
「私もまだ少し疑ってるけど、侑子は何処を疑ってるんだい?」
「一探偵がリュミエール研究所の研究員しか知らないような裏事情に詳しいなんてちょっと変でしょ? そんな奴から聞き出した情報なんて罠に決まってるわ」
「確かにそうだが、奴が運転していた車に栞璃ちゃんが乗せられていたという情報も聞いている。栞璃ちゃんが奴等に連れ去られたのは本当だと思う」
「じゃあ何でその探偵を捕まえた時に栞璃ちゃんを取り返せなかったの?」
「私がその車を道中で見かけた時には奴一人しかいなかった……」
 卯麗の目は後悔を隠し切れず終始俯いたままだった。
「……とにかく栞璃ちゃんがその研究所にいるって確証が持てるまで突入しないでよ。幾ら私でも他国の情報なんて簡単に得られないんだからね」
「分かってる、けど……」
「気が気じゃないのは分かるわ。大切な家族だもの。栞璃ちゃんにとっても、卯麗ちゃんはたった一人の家族なんだから。自分のことも大事にして戦いなさい」
「……分かってるさ」
 情報を整理してから侑子が卯麗に忠告を促し、その日は解散した。
 三日後、侑子は気にかかる情報を掴んだので卯麗の元に駆け込んだ。
「中部都市の松平書店がリュミエール研究所宛に本を送る……?」
「そうなのよ! それだけじゃない、作者がどれも同じ『曙青羽』なのよ! 栞璃ちゃんが本当に研究所にいるか確かめるチャンスじゃない!?」
 侑子が探偵事務所に訪れた時はまるっきり元気がなかった卯麗だったが、侑子からこの話を聞かされるや否や無言で席を外して真っ白なノートと色鉛筆と鋏を持ってきた。
「……何か考えがあるのね、卯麗」
 卯麗は一度だけ首を縦に振ってからノートのページを一枚鋏で切り離して更に四枚に切り分け、細長い余白に色とりどりの筆を走らせて絵を描く。
「またリュミエール研究所に本を送ることがあった場合、注文された本が『瑠璃の女王』だったら、一巻ごとに一枚この紙を挟んでいく」
「暗号を送るのね! 栞璃ちゃんが暗号の答えを間違えずに送れたら……今のあの子に手紙を送る猶予あるかな……?」
「暗号を見て注文した本が何かで答え合わせをする。黒国人には分からないよう工夫したつもりだが……」
 卯麗は侑子に五枚の紙を見せて暗号の答えを教える。
「こんなの赤国人でも解けない人いるでしょ……本当に大丈夫?」
「大丈夫。きっと栞璃ちゃんなら解ける、筈だから」
 紙を握る卯麗の手は微かに震えていた。
 その日から更に六日が経ち、リュミエール研究所から松平書店へようやく『瑠璃の女王』の注文が来た。計画通り卯麗は松平書店に侵入し、発送直前の『瑠璃の女王』にラミネート加工した紙を四枚と『曙青羽』の書いた作品が紹介されている栞を一枚仕込んだ。
 だが、その日を最後にリュミエール研究所からの本の注文はぱったり途絶えてしまった。
 既に卯麗と侑子は粗方情報を探り終え、リュミエール研究所が裏で研究しているピースという存在にまで辿り着いていた。栞璃がその研究所に監禁されていることもほぼ確信していた。なのに、肝心の栞璃からの返事も全く来ない。
 暗号を仕込んだ『瑠璃の女王』が発送されてから更に六日が経った頃、不安で擦り切れた卯麗の心は荒み、仕事はおろか生活すらままならない程にやつれていた。
「もういいだろう! これ以上待っていても栞璃ちゃんの為にならない……私が黒の国に行く!」
「無茶よ、場所が特定出来るまで待ちなさいってば!」
 卯麗達が研究所に突入出来ない理由は、研究所の位置を未だに特定出来ていないからだ。
 松平書店が発送した本の送り先に書かれている建物名は間違いなくリュミエール研究所なのだが、その配送先の住所はただの空き地だったのだ。
 そして侑子がネットワークを駆使して情報を根掘り葉掘り搔き集めた結果、そもそも黒の国にリュミエール研究所という名前の研究所はないという事実にぶつかった。
「そう言って何人の工作員が黒の国で音信不通になってるか分かってるのか!? 何時まで待てばいい!? もう栞璃ちゃんの身に何があってもおかしくないんだぞ!?」
「研究所は栞璃ちゃんを重宝してるってこっちの調査でも分かったでしょ!? 簡単には壊したり捨てたりしない筈よ! だからまだ貴方が動く時じゃないの!」
「その調査結果が本当だっていう確証は何処にある!? 栞璃ちゃんが絶対に捨てられないって保証は!?」
「私に聞かれても分からないわよ……!」
 侑子もまた成果が表れないことで焦りが募り、気が立っていた。
「……とにかくもう少し待ちなさい。貴方が今黒の国に乗り込んでも、うちの工作員の二の舞になるかもしれないんだから」
「私が負ける訳が……」
「言った筈よ、仮に貴方が死んで栞璃ちゃんだけが助かっても、栞璃ちゃんが貴方のいない現実に圧し潰されるだけなんだから」
 卯麗は不満そうに口を閉じて探偵事務所のソファーにうつ伏せで倒れ込む。侑子からの情報を待っているだけの現状には嫌悪感と無力感が増すばかりで、卯麗はまともに動くことすら嫌気が差していた。
 栞璃が誘拐されて約三週間が経った日の朝、侑子はその吉報を持って卯麗の元へ飛び込んだ。
「卯麗ちゃん! 良い報せが二つあるわ!」
「……そうか。勝手に話してくれ」
 この時卯麗はベッドから起き上がれない程憔悴していた。
「まずは一つ、研究所からようやく本の注文が来たわよ!」
「……何の本?」
「松平書店によれば『涙袋』だって! 貴方の暗号、栞璃ちゃんに伝わったの?」
「……ああ、完璧だ。けど……」
「それからもう一つ、これは本の注文の情報と一緒に届いたわ。リュミエール研究所の場所を特定したわよ!」
 その報せを聞いた卯麗は無気力だった自分の身体を飛び跳ねらせてベッドから起き上がった。
「……本当か!? これで本当に研究所に行けるな!?」
「行けるけど……今まで工作員が音信不通だった理由も分かったわ。ピースに襲われて研究所に拉致されてたらしいの。施設内部の情報もまだ分からないままだし、一筋縄では行かないわ」
 卯麗は正面から侑子の両肩に手を置いて嫌でも自分と真っ直ぐ向き合わせる。
「侑子……頼む、私一人でリュミエール研究所に行かせてくれ」
「気持ちは分かるけど、幾ら貴方でも無茶よ」
「私を信じてくれ。絶対に栞璃ちゃんを連れて帰るから、お願いだ。もう、行かせてくれ……!」
「……駄目よ、私も連れて行きなさい」
 そう言いながら侑子は真剣な眼差しで震える卯麗の瞳を見つめ、咄嗟に卯麗は侑子の肩から手を離した。
「分かったよ。一緒に行こう」
 二人はハイタッチを交わしてからすぐに準備を整えた。松平書店には無理を言って発送先を祁答院探偵事務所に変えてもらい、卯麗と侑子は赤の国南部の空港へと向かった。
 しかし黒の国へと向かう飛行機に乗る直前、飛行機の搭乗口付近で一人の男性が面と向かって二人の前に現れた。
「貴方……小次郎ね!?」
「知り合いか?」
「私の仲間だよ。黒の国で音信不通になったって話だけど無事だったのね!」
「……許せ、俺にはもうこれしか残されていない」
 そう言うと小次郎は両手の平を二人の前に突き出す。その掌には穴が開けられていた。
「その手の穴、栞璃ちゃんにもあった……」
 卯麗が小次郎の掌に近付こうとした瞬間、その掌の穴から真っ白な霧が勢いよく発せられた。
 霧はあっという間に周囲に充満し、その場にいる誰もの視界を遮った。
「何がどうなってる……これがピースとやらの力か?」
「小次郎、どうしてこんな妨害なんか……!」
「許してくれ……」
 小次郎は何方を向いても真っ白な煙しか見えないこの状況下で的確に侑子を捕まえ、歩きながら首を片手で掴んで持ち上げて強く握る。
 四方八方から人々の悲鳴が聞こえてくる中で、卯麗は侑子の苦しむ声を聞き取った。
「侑子、何処にいる!?」
「うらら、ちゃん……」
 侑子の微かな声を聞き取れても肝心の場所が分からない。そう離れてはいない筈だが、自分が何方の方向に進んでいるのかも分からない。
「……さきに、いって」
「侑子! 何処だ侑子!?」
「……う、卯麗ちゃん! 私を置いて、飛行機に乗って!」
 侑子は首を絞められながらも全身に力を込めて声を張り上げた。
「侑子、でもそれじゃ約束が……」
「此処は私に任せて早く……! 栞璃ちゃんが、待ってるから……!」
「……分かった、頼んだよ!」
 卯麗は拳を握り締めて真正面を駆け抜けた。当然何とも分からない物にぶつかって勢いが止まってしまうが、その物の配置で卯麗は現在地を予測してみて手探りで走ってみて、何とか飛行機に乗り込むことに成功した。
 座席の窓からも外の景色は霧で隠されていたが、数分経って霧は晴れて小次郎と侑子だけがその場から消えていた。
「侑子……」
 卯麗を乗せた飛行機は霧という想定外のトラブルにより数十分遅れてその場を飛び去った。

 空が企てた脱走計画の実行予定日まで残り五日。日を追うごとに栞璃の緊張感は段々と増しているが、栞璃の新しい仲間の一人、エメラルドもといノアは緊張ではなく不安を膨らませていた。
「栞璃さん。本当に私達、此処から逃げられるのかな……」
 その日の夜、ノアは心の内に巣食っている不安を一緒にベッドに座っている栞璃に打ち明けた。
「大丈夫ですよ。ノアさんとわたくしの他にも仲間がおりますし、先生もこの研究所を見つけられました。全員で力を合わせればきっと計画は成功します」
「でも、絶対に逃げられる保証なんてないよ……もしかしたら、既に気付かれてるかもしれないし……」
「ノアさん、未来は誰にも予測出来ません。計画も何方に転ぶかは現時点では誰にも分かりません。しかし、わたくし達は成功することを望んでおります。であれば望んでいる未来へ辿り着けるよう、共に努力するのです。そうすれば成功する可能性も上がるでしょう」
「でも、もし失敗したら……私達どうなるのかな……」
「わたくしには分かりません。ですが、成功すれば元の平穏な生活に戻れることは確かです。今は成功することを信じましょう」
「でも、怖いよ……」
 栞璃がノアを励まそうと奮起するも、ノアの不安は却って強まるばかりだった。ノアにとって不確定な未来とは恐怖心を燃え上がらせる為の燃料でしかない。
「……私、やっぱり脱走するのやめる」
「ノアさん……どうしてそう仰られるのですか」
「私もう怖い目に遭いたくないよ……研究所に攫われた時みたいに」
 ノアもまた栞璃のように誘拐されて研究所に監禁された被害者の一人だ。その上ノアは栞璃と違いピースとして改造させられたという実害も刻まれている。研究所に対して怯えるのも無理はなかった。
「ノアさん……」
 栞璃にはノアに返す言葉がもう思い付かなくなっていた。
「ラピスラズリ、エメラルド、副所長が貴様等を呼んでいる。出てこい」
 重々しい空気の外から女性研究員が扉を叩いて呼び掛けている。しばらく顔を合わせていない副所長からの招集に警戒しつつも栞璃は扉をゆっくり開けた。
「……やっぱりこの部屋で合ってたんだね」
 扉の外にいたのは研究員、の格好をした卯麗だった。
 卯麗は呆然と立ち尽くしている栞璃を少し後ろに下がらせてからすぐに扉を閉める。
「先生、本当に、先生なのですか」
「祁答院の探偵の心得。探偵とは」
「……依頼人の探しているものを必ず見つける」
「探偵には」
「忍耐と覚悟が要る」
「探偵なら」
「強さと優しさと愛しさを身に着ける」
「良し。完璧でなくても、寛容であれ。これで信じてくれるかな?」
「……本当に、来てくださったのですね」
「勿論だよ。栞璃ちゃんの為なら何処へだって行くさ」
 栞璃は涙を浮かべて卯麗と抱擁を交わした。
「無事だったかい? 調子の悪い所はない?」
「わたくしは、わたくしは……大丈夫です……」
「無事で本当に良かった、早く此処から抜け出そう」
「先生、そのことなのですが……」
 栞璃は空が考えた脱走計画とそれに協力する仲間のことを卯麗に説明した。勿論、ノアの事も。
「成程。四、五日後の方が警備が手薄なのか」
「はい。本来であれば決められた日に脱走する予定でしたが……先生としては今すぐ決行された方が宜しいでしょうか」
「そうだね……ぶっちゃけると、その空という人を私は信用出来ない。私からすれば空という人物は栞璃ちゃんを騙して此処へ連れて来た誘拐犯の一人でしかない」
「先生、確証がおありなのですね」
「うん、君の目で確かめてみてくれ」
 卯麗はポケットから携帯を取り出して防犯カメラの映像を撮った動画を栞璃に見せる。其処には空港の駐車場に停められた車から降りて、栞璃を背負いカメレオンのように景色に溶け込む空の姿があった。
「空様がわたくしを連れ去ったのですね……」
「他にも探偵事務所に設置していたカメラから探ったのだけど、彼女が名乗った紀野空も、彼女が探してほしいと頼んだ塩田正一という男も実在しない」
「名前すら嘘だったのですか」
 騙されたと気付いた栞璃は肩を落として暗い顔を顕わにしていた。
「栞璃ちゃんを裏で騙していたのだから、空という女は栞璃ちゃんの味方にはなり得ないと思う。信じてついて行けばどんな罠に落とされるかも分からない。待つのはやめた方が良いかもしれない」
「……先生がそう仰られるのであれば受け入れます。ですが、もう一つわたくしの我儘を聞いて頂けませんか」
 そう言うと栞璃はベッドに座っていたノアに近付いて手を差し伸べる。
「わたくしは、ノアさんもご一緒に連れて脱走したいです」
「……栞璃さん……」
 終始俯いていたノアはこの時ようやく顔を上げた。その拍子に卯麗とノアの視線が合わさる。
「厳しい言い方をするけど、栞璃ちゃんは今でもその子を信用出来る? 空の仲間である以上、その子も栞璃ちゃんを裏切る可能性は捨て切れないだろう?」
「わたくしは、先生のようにノアさんの信頼を裏付ける証拠は持っておりません。しかしノアさんは——」
「もういいの、栞璃さん」
 ノアは自分に向いていた栞璃の腕を掴んで下ろさせる。
「私の事はいいから、二人で逃げて」
「ノアさん、一緒に帰ると約束したではありませんか。わたくしはノアさんとの約束を無下にしたくはないのです」
「もういいから……私はもう、いいから……」
「どうして諦めるのですか。この場で逃げ出すことを諦めてしまえば、もう二度と脱走する機会を得られないかもしれないのですよ」
「もう放っておいて! 嫌なものは嫌なの……!」
 初めて聞いたノアの怒声に栞璃は言葉を奪われ、身体が凍り付くように固まってしまう。
 今の栞璃にノアの恐怖を取り払える力はなかった。
「話は終わったか? 裏切り者諸君」
 静寂を粉砕するように一人の研究員が扉を蹴ってこじ開ける。扉の近くにいた卯麗はいの一番に栞璃とノアをを庇うように研究員の前で身構える。
「貴方は、副所長のリンスさん……」
「憶えていてくれたのは嬉しいが私は悲しいよ、ラピスラズリ。私との約束を破って第三者に助けを求めるなんて」
「破るつもりでは……」
「君の研究はまだ終わっていない。大人しく待つと改めて言ってくれれば今日起きたこと全て目を瞑ってあげるよ。其処にいる侵入者も無傷で帰してあげるからさ」
「栞璃ちゃんの保護者としてそんなこと許せない。今此処で栞璃ちゃんは連れて帰る」
 リンスと栞璃の間に割って入った卯麗をリンスは苛立ちを浮かべながら睨み付ける。
「ラピスラズリが何者かも分かっていないような一探偵が我々研究員に口を出さないで貰いたい」
「例え栞璃ちゃんがピースとかいう訳の分からない存在だろうと、栞璃ちゃんは私の子供であり弟子であり助手なんだ。非人道的な研究を続ける輩に栞璃ちゃんは渡さない」
「……貴様と話していても埒が明かない。ラピスラズリに聞こうかね。君という存在をよく知り受け入れている我々と、ピースを何も知らない馬鹿。君は何方を選ぶ?」
「わたくしは先生と共に生きることを選びます」
 栞璃は即答した。
「……分かった。リュミエール研究所はラピスラズリを手放すことにする。全員私に着いて来い」
「リンスさん……ありがとうございます」
 リンスは呆気なく踵を返して部屋を出た。彼女に続いて栞璃も扉をくぐろうとした瞬間、卯麗が勢いよく栞璃の腕を引っ張って引き下がらせる。
「栞璃ちゃん、今は私以外信じるな」
「……勘のいい探偵だ」
 扉を出てすぐ外の壁や床、天井に三日月のような形の傷跡が幾つも刻まれていた。
「リンスさん……一体何故……」
「本当に君は騙されやすい馬鹿だな。何もなしに被検体を手放して終わるわけがないだろ?」
「始めからわたくしを逃がすつもりはなかったのですね……」
「今気付いても遅い。私はもう君を手放した。これから君がどうなろうと私は知らない」
 リンスはようやくその場を離れた。だが、部屋の前には白い瞳のピースが此方を睨み付けて立っていた。
「あの傷跡はあの男の仕業か。しかしどうやってあの傷跡を生み出した……?」
 卯麗は目の前にいる白目のピースが手を扇いだ直後に四方八方に傷跡が刻まれたことを視認していた。その原理は全く分からないが、解析している余裕はない。
「栞璃ちゃん、私が先に外に出て奴の攻撃を捌く。その隙に扉を通り抜けて玄関まで走るんだ。いいね?」
「その作戦では先生のお身体がご無事では済みません」
「少しくらい大丈夫だから。私が呼ぶまで此処に……」
 卯麗より先にノアが部屋を出て白目のピースに掌をかざした。ノアの掌の穴からは風が勢いよく発せられ、白目のピースは風圧で身動きが取れず壁に押し当てられていた。
「ノアさん!? 危険です!」
「どうして君が栞璃ちゃんの手助けを? 怯えていた筈では?」
「……分かんない。分かんないけど、こうしなきゃって、体が勝手に……」
 そう言いながらノアは次に身を挺して白目のピースを壁に押し付ける。栞璃と卯麗の通る道を作る為だ。
「逃げて……逃げて! 私の事はいいから、二人で逃げて!」
「……恩に着るよ。ノアという恩人さん」
 卯麗は栞璃の腕を引っ張って部屋を出て廊下を走り抜ける。
「先生、ノアさんも連れて行けませんか」
「諦める他ない」
「そんな……わたくしは諦めたくありません」
「栞璃ちゃん、今は自分の心配をするんだ!」
「しかしノアさんが……」
「最優先すべきは栞璃ちゃんの逃亡成功だ! 自分の心配だけでいい!」
「しかし……」
「悪いけど諦めてくれ! 私は栞璃ちゃん一人を助ける為だけに来たんだ! あの子まで救う気はない!」
 卯麗は栞璃と一度も目を合わせず叫び続けた。
「先生……それでもわたくしは、ノアさんを捨てたくありません!」
 栞璃は卯麗の手を振りほどいて逆走した。
「駄目だ栞璃ちゃん! 私達が敵う相手じゃない!」
「それでも、わたくしはノアさんを置いて逃げたくありません!」
 卯麗はノアの元へ向かう栞璃を追いかけるが、その後ろから此方に敵意を向ける刺客が迫っていることにすぐ気付いた。
「リンスとかいう奴の手下か……! 邪魔をするな!」
 行く手を阻んで襲い来る刺客を卯麗は相手せざるを得なくなった。
 相手はピース。一般人よりも身体能力が高いサイボーグだが卯麗は刺客を次々と肉弾戦で打ち負かしていく。しかし特別堅い装甲を壊す事は出来ず、人のように当たり所によって気絶もしないので一向に数が減らない。卯麗の体力だけが消耗していく。
「今栞璃ちゃんを呼んでも却って危険だ……どうすればいい……!?」
「侵入者様、助太刀致しますわ~!」
 卯麗の後ろから甲高い声と共に豪快な破壊音が何度も鳴り響く。そして卯麗の目の前に現れたのは若草色の瞳を持つ金髪の女性だった。
「空様から話を聞きましたが、貴方がラピスラズリ様の味方でしたら私も協力しますわよ!」
「空……!? 君も空の仲間か!?」
 二人はピースと戦闘を続けながら大声で会話を続ける。
「そうなのです! しかしラピスラズリ様の味方でもありますわ! 皆で力を合わせて研究所から脱走しようと誓いを立てた仲ですのよ!」
「君も栞璃ちゃんを騙してたのか……!?」
「そんな、私は本当にラピスラズリ様と力を合わせるおつもりで……!」
「ちょっと待ってよノエルゥ! 何で侵入者に加担してんだよぉ!?」
 ノエルと呼ばれたピースの背中には空色の髪と瞳をしたピースがしがみついていた。
「しかし空様、このお方はラピスラズリ様を逃がす為に来られた方なのですわ! でしたら私達の味方でもある筈ですわ!」
「そういう仲良しごっこはいいんだってぇ! 侵入者を捕まえて差し出せって副所長に言われてたろぉ!?」
「……ほう、君が空か。栞璃ちゃんが世話になったね」
 卯麗は乱闘に紛れて空の顔を力いっぱい叩いた。
「何するんだよぉ!? 君が侵入してきたのが悪いんだからねぇ!?」
「君が相談を装って栞璃ちゃんを騙して連れ去らなければ私も此処にいないんだが、どう落とし前を付けるつもりだね!?」
「何だよ落とし前ってぇ」
「空様、裏でそんな非道な行いをしていたのですか!?」
「だって研究所に逆らわなかったら痛い目に遭うんだから仕方なかったんだよぉ!」
「黙れ、言い訳なんか要らない」
 卯麗はもう一度空の顔を引っ叩いた。
「ノエルと言ったね。栞璃ちゃんを騙した此奴の仲間となると君も私の敵……と言いたいところだけど、今だけは君の力を借りる。私に栞璃ちゃんを追わせてくれ」
「承知しましたわ! 心昂る共同戦線と参りましょう!」
「なぁなぁ、折角僕が上手く立ち回ってたのに立場が危うくなるじゃないかぁ」
「私達も脱走するつもりだったのですから、仲間は多い方が良いですわ!」
「……ありがとう、ノエル!」
 卯麗とノエルはアイコンタクトを交わしてから栞璃が走り去った方へ向かった。ノエルは卯麗の隣を走り、前方から襲い掛かるピース達を次々と撃破していく。
 しばらくすると放送室から研究所全体にリンスの声が響いた。
「聞こえるか諸君、副所長のシーロンだ。手短に伝えるが、この際ピースでも研究員でも誰でもいい。ラピスラズリと、白目で白髪のチビ女の二人を殺せ。成し遂げた者には好待遇か研究所からの脱走、何方でも好きなものをやる」
 放送が終わると、ノエルと卯麗を狙うピース達の目が先程よりも殺気立っていた。
「ノエルゥ、副所長もああ言ってるんだから僕達戦うのやめようよぉ」
「でしたら空様一人だけで離脱しなさいな! 私は仲間を守る為に戦いますわ!」
「……どうなっても知らないからねぇ!」
 空はノエルの背中から降りて何処かへ消え去った。だがノエルは空を追わずに戦いを続ける。
「ペリドットさん、自分も力を貸します」
 ノエルを追うように桃色の瞳を持つピースも数多のピースとの戦闘に加わる。
「タルク様……! 協力してくださるのですね!」
「どうせ戦わなければいけないのなら、今全力を尽くします。それに……赤国人の自分としても、卯麗さんは守りたいですから」
「ええ……ええ! 是非とも協力しましょう、タルク様!」
 二人で卯麗の進む道を切り開くようにピースと撃破していくも、後ろからは無数のピースが迫っていた。
「栞璃ちゃん! 無事か!? 返事をしてくれ!」
 走りながら卯麗は力いっぱい栞璃を呼ぶが返事が聞こえない。やがて栞璃が先程までいた個室に繋がる一本道に辿り着くも、その道を塞ぐように数人のピースが待ち構えていた。
「侵入者様、私とタルク様が道を塞いでいるピース達に突撃して隙を作ります! その隙を見つけてお通りくださいませ!」
「……分かった」
 ノエルとタルクが先行して集団の中に飛び蹴りを食らわせて進撃する。卯麗は少し待ってから待ち構えている敵のピース全員が二人の味方との戦闘に手を焼いている隙に、彼等の隙間をすり抜けて個室へと一直線に駆け込む。
「栞璃ちゃん、無事か!?」
「せ、先生……来てはいけません……!」
 閉まっている扉の先から確かに栞璃の声が聞こえた。あの部屋の中にまだ栞璃がいる。
「私は栞璃ちゃんを見捨てないよ! 必ず助ける!」
「駄目です、先生……」
 卯麗は扉を開けてすぐには入らず右の壁に身体をくっつける。
「よく避けたな」
「初見トラップは躱すのが定石だからね」
 部屋の奥から聞き覚えのある男の声が聞こえた。三日月型の傷跡を生み出す白目のピースの声だった。扉は傷跡が幾つも刻まれて吹き飛ばされていた。
「どうした? 入ってこなければラピスラズリは助けられないが?」
「……上等だ」
 卯麗は部屋の奥に飛び込むように門をくぐった。そして着地する直前に白目のピースの位置を把握し、着地してすぐそのピースめがけて走り出す。栞璃は彼に踏みつけられていた。
「栞璃ちゃんから離れろォッ!」
 卯麗は三日月型の傷を身体に受けながらも白目のピースの喉元を左手で掴み壁に叩き付け、心臓があったであろう部分を右手で殴る。
「ハッ、その程度か……! ピースはなぁ、こんな攻撃じゃ壊れねぇよ!」
 易易と卯麗は彼に蹴り飛ばされて奥の壁に突き飛ばされた。
「先生!」
 栞璃は卯麗を守ろうと起き上がるもすぐに白目のピースに蹴り上げられ、攻撃を受けてよろめいた一瞬の隙を突かれて目の前で手を扇がれる。栞璃の全身はズタズタに切り刻まれ、更に腹を蹴られて卯麗の目の前まで転がる。
「栞璃ちゃん!」
 卯麗は身を挺して栞璃を庇い衝撃から守るが、栞璃の損傷は深く起き上がることも困難な程弱っていた。
「先、生……申し訳、ありません……」
「栞璃ちゃん……!」
「さぁ、二人共ども切り刻まれろ!」
「栞璃ちゃん——!」
 白目のピースは止めと言わんばかりに二人の目の前で両手を縦に扇ぐ。
 身体が思うように動かず死を予感した栞璃の視界には、自分よりも後ろにいた筈の卯麗の後ろ姿が飛び込んできた。
「先生……?」
 栞璃が卯麗を呼びかけた直後に、視界いっぱいに赤い液体が飛び散る。
「先生——」
 栞璃がもう一度呼びかけると卯麗は栞璃の方に倒れ込んだ。傷まみれの身体に鞭打ち咄嗟に栞璃は卯麗を両手で受け止める。
 それまで純白だった卯麗の髪も、肌も、服も、その殆どが真っ赤に染まっていた。
「せんせい」
 あまりにも凄惨に変わり果てた姿に栞璃は何も考えられない程頭の中が真っ白になった。
「せん、せい」
「……しおりちゃん、にげて」
 卯麗が血を垂れ流しながら必死に絞り出した嗄声が耳に入り、栞璃はようやく目の前の状況を理解した。
「せ……先生! 先生!」
 赤く染まる卯麗を両手で抱きながら揺さぶるが、卯麗は栞璃を見つめたまま何も答えなかった。卯麗の喉にも傷跡が付けられており、上手く話す事が出来なくなっていた。
「ラピスラズリさん、大丈夫ですか——」
 栞璃の叫び声を聞いて部屋に駆け付けたタルクも目の前の惨状に吃驚した。
「そんな……卯麗さんが……!」
 栞璃はタルクをじっと見つめたまま言葉を失っていた。
 ふとタルクは白目のピースにも目を向けた。彼は心臓があった部分に卯麗の左腕が刺さっており、壁にもたれてしゃがんだきり動かなくなっていた。
「相打ちだったんですね……とにかく此処から脱出して病院に向かいましょう」
 タルクは冷静に指示を仰ぐが栞璃は身体が固まって動けずにいた。
「ラピスラズリさん! 急がなければ卯麗さんが本当に死んでしまいます!」
 死んでしまう、という言葉に過敏に反応した栞璃は咄嗟に卯麗を横抱きで持ち上げた。
 しかし、外には大勢のピースが足並みを揃えて栞璃が出てくるのを今か今かと待ち構えている。怖気づいた栞璃はぴたりと足を止めてまたしゃがみ込んでしまった。
「タルク様、何故彼等は此方へ攻め込まなくなったのでしょう……?」
 タルクを追うようにノエルも部屋に入る。
「分かりません……が」
 タルクが何かを言いかけたところでこの部屋を含む研究所全体にリンスの怒鳴り声が飛び込んだ。
「二名の裏切り者に言い渡す! 一度しか言わないからよく聞け! ラピスラズリと侵入者を此方へ渡せ! そうすれば君達の反逆は水に流してやる!」
「二人とも大変そうだねぇ、もうラピスラズリ差し出しちゃえばぁ?」
 ノエルの後ろから空が突然姿を現した。
「どうして……どうしてそんなことを仰るのですか! 空様もラピスラズリ様に加勢して、侵入者様とも手を取り合えば全員が脱走に成功出来たかもしれませんのに!」
 空の首根っこを掴んで発したノエルの怒号が部屋全体、更には外にいるピースの大群にまで響き渡る。
「この際言うけど前提が違うよぉ。僕は最初から脱走する気なんてなくて、此処でいい暮らしをさせてもらう為に君達裏切り者をこうして逃げられなくしたんだよねぇ。侵入者のせいでちょっと台本が狂ったけど」
「そんなことの為に、私達の味方だと偽ったのですか……!?」
「そんなことぉ? 悪いけど僕は君達みたいに強くないから、こうして強者に媚び諂って生きていくしかないんだよねぇ。恵まれた人生を送ってきた君達には分からないだろうけどぉ」
 空はノエルの腕を振り払ってベッドの上に寝転がる。
「ま、恨むなら副所長を恨んでくれよぉ。頼んだのは副所長なんだからさぁ」
「……」
 栞璃は無言でまた卯麗を抱き上げた。
「わたくしを囮にすれば皆様が助かるのであれば……わたくしが参ります」
「駄目ですわラピスラズリ様! 貴方まで侵入者様のように傷ついてしまわれますわ!」
「そうですよ、貴方も既に酷い損傷を抱えています。囮は現実的ではありません、何か別の策を考えましょう!」
 栞璃は静かに首を左右に振った。
「わたくしの責任なのです。わたくしがノア、いえエメラルドさんをお助けしたいと我儘を呈してしまったばかりに、先生が傷ついてしまわれたのです。わたくしの命を持って、責任を果たします」
「ラピスラズリ様のせいではありませんわ! エメラルド様も私達の大事な仲間ですわ! 手を差し伸べるのは当然の事ですわよ!」
「そうそう、死んで責任から逃れようって言ってるようにしか聞こえないもんねぇ」
「貴方はお黙りなさい!」
「良いのです。先生を巻き込んで傷つけてしまい、エメラルドさんも呼び止められなかったわたくしに全ての非があるのです。空さんの仰る通り、死ぬことで責任から逃れるなど、わたくしには許されません……」
 栞璃はゆっくりと扉の外へと歩き出す。一歩踏みしめる度に自身が犯した過ちを一つ一つ噛み締めた。
 無能な自分が、空を信じてしまったから。
 無知な自分が、リンスに従ってしまったから。
 無力な自分が、卯麗を巻き込んでしまったから。
 無謀な自分が、ノアを助けようと手を伸ばしてしまったから。
 自分がもっと優秀な探偵だったら。
 自分がもっと強かったら。
 自分にもっと、判断力があったら。
 自分が兼ね備えている何もかもが憎かった。
 頭に浮かぶ自分の全てが赦せなかった。
 何一つまともに成し遂げられないのに、偉大な存在に縋っていた自分も。
 自分に関わる全ての者を不幸にして尚、赦されようとしている自分も——。
「ようやく現れたか、ラピスラズリ」
 部屋を出てしばらく歩いた先の広い廊下に整列するピースと研究員の集団、それを率いるように先頭に立っているスーツ姿の男性が余裕を浮かべた表情で栞璃に話しかける。
「後ろの裏切り者を引き連れて襲い掛かっても構わないぞ? 我々には敵わないし、無力な我々研究員をどう足掻いても証拠が残るこの場では殺せまい」
 目の前には栞璃一人で囮を全う出来るとは到底思えない程の人数が栞璃の目の前で並べられている。
 だが、今の栞璃の張り詰めた心は彼等を前に恐怖も不安も畏怖も感じなくなっていた。
「ラピスラズリ、君の味方は何処にもいない、誰も君を救いはしない。だが俺は慈悲深い。大人しく降伏してくれれば、一切の苦を感じない、優しい死を与えよう」
「……わたくしの味方は何処にもいない。誰もわたくしを救いはしない」
 栞璃はスーツ姿の男性が声高々に投げつけた罵声を繰り返した。
 その時だった。栞璃は突然自分の心が火照っているような感覚を抱いた。
 まるで、水が沸騰するような、風を受けて火が燃え上がるような、熱い感覚が。
「そうだ。何故か分かるか? 君が優しい我々を裏切ったからだよ」
「違う」
「何が違うというんだ?」
「……わたくしの味方は先生だけ。わたくしを救ってくださったのは先生だけ」
 栞璃は抱えている卯麗をその場にそっと下ろした。
「先生の為なら……わたくしは、どのような罪も背負い、償う」
 栞璃はスーツ姿の男性とまた向き合ってから、左手首を右手で握って左手の平をじっと見つめる。
 栞璃は時折左手が疼くような感覚に見舞われることがあった。それは左手で花に触れた時に顕著に表れた。
 卯麗に拾われて目を覚ました日に菖蒲の花を手に取った時にも感じた不思議な感覚だった。
 そしてその感覚は、先程栞璃が自分の心で感じた火照るような感覚に限りなく似ていた。
「……アイリス、わたくしは……」
 彼女は誰の手で、何の為に生まれたのか。そもそも、彼女は何者なのか。
 アイリスの花よりも、この火照っていく感覚に答えがある。
 この熱い心が。この熱い手が。
 祁答院栞璃に『アイリス・ムーンスレッド』を思い出させる——。
「デリート」
 それはほんの数秒の出来事だった。
 スーツ姿の男性に近付き、顔面を鷲掴みにして、後頭部を地面に叩き付ける。
 その一連の動作を、栞璃は眼前で立ち尽くしている集団の誰の目にも止まらぬ速度でやって見せた。
 スーツ姿の男性は即死だった。後頭部は文字通り潰れて、顔面には握られた痕がくっきりと残っていた。
 集団を睨む栞璃の瑠璃色の瞳は、無機質な光を発した。
「……デリート」
 栞璃のその囁きが惨劇の幕開けを告げた。
 栞璃は集団を相手に真正面から単身で突撃し、一人ひとりの頭部にたった一撃だけを与えていく。
 栞璃の攻撃を受けた者はピースか人かなど関係なく、風船が割れるように頭部が砕けて吹き飛ばされていった。残された身体は彼方此方に倒れ込んで溜まっていった。
 数の利は栞璃に敵対していた集団にあったが、既にそれは戦闘ではなく虐殺と化していた。
 栞璃から逃げられなかった人々は赤黒い鮮血を流して彼方此方に転がり、栞璃に敗れたピース達は血すら流すことなく床に転がっていた。
 潰えた人体から漂う血の臭いと壊れた機体から上がる煙の臭いが辺り一面を覆い、骨や鉄板が砕けるような音と悲鳴が混ざり合った共鳴が建物中に響き渡る。
 そして、この凄惨な戦場がどれだけその色を深めようとも、栞璃は血に塗れたその四肢を無慈悲に振り回す。
 物音が気になり部屋を出て惨劇を見に来た空、ノエル、タルクの三人は、あまりに残忍な光景に言葉を奪われ、ただじっと栞璃の行いを見つめるしか出来なかった。
 栞璃がようやく動きを止めた頃、彼女に敵意を向ける生者は一人もいなかった。
 栞璃は卯麗のいる方へ振り返ると、脱走仲間だった筈の三人と目が合った。彼女の目付き、返り血で汚れた全身を前に三人は腰を抜かしてその場にへたり込んでいた。
 人だった頃に培われた恐怖と本能が察した。次に殺されるのは自分達だと——。
「責任は、果たしました。これで脱走出来るでしょう」
 栞璃はふらふらとした足取りで卯麗に近付きながらながらそう話しかけた。だが、返事を送る者は一人もいなかった。
「先生、これで逃げられます……」
 栞璃はしゃがんで卯麗を抱き上げようとしたが、既の所で卯麗に伸びる両腕がぴたりと止まった。
「このような汚れた手で、先生に触れる訳には……」
 今は自分の身なりなどを気にしている場合ではない。卯麗が生死の境を彷徨っているのだ。
 しかし、自分の両腕が誰とも分からない血で真っ赤に染まった姿を目の当たりにして、どうしても卯麗に触れることを躊躇ってしまう。
 その腕は自分が背負った罪の証でもあった。
「し、おり、ちゃん……」
 消えかけている命から絞り出された声が、栞璃を我に返らせた。
「……先生、必ずお助け致します。先生を病院に送り届けて、完治した先生に謝ることが、わたくしの償いの第一歩なのです」
 栞璃は卯麗を横抱きで優しく持ち上げて、転がる遺体には目もくれず出口へ一心不乱に駆け出した。
 研究所の外へ出た時には白い光が昇り始め、黒い空が青く染まり始めていた。
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