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十八話:空ろな正義

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 双子とは何方かが優秀となり何方かが劣等を背負う事が多いとされている。
 黒の国のとある田舎町に住むエンペース家が授かった双子も例外ではなく、妹であるエオンナは才を持たざる者として生きる宿命を背負った。
 幼い頃から才色兼備を謳い、文武両道を兼ね備えた姉セレンスは両親から深い寵愛を受けた。
 しかしエオンナはその逆、あまりにも出来が悪いからと両親には見放され、姉は自分よりも脆弱なエオンナを虐めて己の強さに酔いしれていた。挙げ句の果てには両親もエオンナを虐げて育てた。
 その結果双子に刻まれた価値観は覆ることのない序列。秀でた者は周りに愛され心地良い生活に身を置くことが出来、そうでない者、所謂普通以下は地位も財産も名誉も踏み躙られて生きるのだと、双子は幼心に思い知った。
 二人の差は学校に通うことでより明確に示された。
 セレンスは言うまでもなく与えられた課題全てを期待以上の成果で返していった。
 エオンナはやはりその逆、と言う訳でもなかった。エオンナには独自の効率的な勉強法や劣等感に挫けぬ向上心が身に染み付き、成績上位であり続けることが出来た。
 学校での二人の差は周囲の人々の接し方にあった。
 姉のセレンスは愛嬌ある性格を皆が尊び、瞬く間に仲間が増えていった。
 妹のエオンナには誰一人として人が近寄ることはなかった。寧ろ遠ざけられ、エオンナの方から近付くことすらままならない程痛めつけられてきた。
 何処へ居ても虐待を受けるエオンナに居場所も希望もなかった。そんな彼女の中にただ一つだけ瞬く生きる希望とは、幼少期に自分を守ってくれた一人の女性にあった。
 中学年の頃、毎日のようにセレンスとその取り巻きに下校中の帰り道で虐められていたある日のこと。通りすがったその女性はセレンス達を暴風のように追い払い、泣きじゃくっていたエオンナを路地裏に引き連れ優しく頭を撫でてやった。
「君、ここんとこよく虐められてるの?」
 エオンナは目を擦りながら頷いた。
「元気出しな。お姉さんが買ったお菓子あげる。最近やっと人気出てきた所でさ、収入も余裕が出てきたんだよね」
 彼女の言う人気の意味は当時のエオンナには知る由もなかったが、遠慮も出来ぬまま与えられた菓子をエオンナは小さな口で頬張った。
 エオンナが初めて味わった、贅沢で甘美な幸福だった。
「もう、全然泣き止まないじゃん。そんなに美味しかった?」
「……しゅわしゅわ」
「ん? ああ、しゅわしゅわだね。ラムネ食べるの初めて?」
 エオンナは首を縦に振った。
「そっか。じゃあ初めては贅沢に頂かないと。もっと沢山食べな」
 彼女から次から次へと個包装のラムネが渡され、エオンナはそれを食べては涙し食べては涙しを繰り返し、やがて大袋の中に入っていたラムネを全て食べ尽くした。
「……私はアンルって言うんだ。もし良かったら、明日の帰りもこの路地裏に来な。お姉さんがまた慰めてあげる」
 壁に凭れ掛かって手を振るアンルにエオンナはか弱く手を振り返し、生まれて初めて笑顔で帰路に着いた。
 それからというもの、エオンナは毎日のように学校帰りにその路地裏に立ち寄った。
 時にはセレンスや他の同級生に捕まらないよう走って。時には誰にも見つからないような道標を見つけて。
「来た来た。一緒に食べよう、ラムネあるよ」
「……うん!」
 来る度にラムネをくれるアンルは、一度たりとも不貞腐れずに待ち合わせたエオンナを可愛がった。
「……お姉さんはどうして優しくしてくれるの?」
 知り合って一週間が経った頃、エオンナは思い切ってアンルに問いかけた。
「そうだねぇ、君が可愛いからかな」
「そんな……私なんか、汚いし臭いし何も出来ないし、可愛くなんて……」
「君を毎日風呂に入れない親が悪いんだよ」
「そんな、お父様とお母様は悪い人じゃない……私が駄目な人だから……」
 口を開けば自分を卑下するエオンナを、アンルは憐れむような瞳でじっと見ていた。
「……泥団子ってね、一見汚いかもしれないけど上手に磨けば綺麗に光るんだ。昔の私も今の貴方と同じ、出来たての泥団子だった。汚くて、不格好で。だけど綺麗になりたくて。だから必死に磨いたんだ。形が崩れないように、壊れないように、頑張って」
 アンルはエオンナのボサボサの髪を躊躇いもなく右手で撫でた。
「君もきっと私と同じ、今はまだ歪な泥団子。でも、壊れないように上手な磨き方を見つけて、沢山時間を込めて、丁寧に磨いていこう。いつか必ず綺麗な泥団子になるよ」
「……私もなれる? お姉さんみたいな、綺麗な人に」
「絶対になれる! 君はこんなに汚れても頑張って生きてるんだから」
 初めてエオンナの口から夢と希望に満ちた言葉が零れた。それが堪らなく嬉しかったのか、アンルはエオンナを抱き締め笑顔で応えた。
「そろそろ私は仕事に行かなきゃ。明日も此処で会おう」
「……うん! ばいばい!」
 この日もエオンナは笑顔でアンルと別れ、アンルも喜びに満ちた表情でエオンナを見送った。
 その翌日、アンルはエオンナの目の前でこの世を去った。
 アンルを殺めた者の顔はエオンナの脳に深く縫い付けられた。
「たかが売女が、いっちょ前に説教しやがって……」
 エオンナは犯人の後ろで声を押し殺し、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。犯人はエオンナの方を向いて、血に塗れた包丁を彼女の眼前に突き付けた。
「エオンナ、お前もこの雌豚みたいに殺されたくなかったらよぉ、このことは誰にも言うんじゃねえぞ……!」
 エオンナは恐怖に屈する他なく、震える首を小さく縦に振った。

「……どーしてあの日のことを思い出したんだろうねぇ」
 まるで後味の悪い夢でも見たかのようにエオンナは不貞腐れて運転室の床に寝転がっていた。座席で味わえば心地良いであろう電車の揺れも機械の身体には何も響かない。
 エオンナにとって過去は汚点でしかなかった。
 一筋の希望は、百の悪意が踏み潰していく。
 一度の成功は、百度の迫害に塗り潰される。
 一粒のラムネは、百杯のビールで薄まっていく。
 多少力を身に着けたところで、何処かの誰かが必ず努力も自分も踏み躙っていく。
 何時しかエオンナの心には諦めや怠けといった質の悪い腫瘍が根強く蝕んでいた。
「僕にどうしろって言うんだよぉ……」
 自分に無茶な頼みごとを託した栞璃しおりへの不満だけが募っていた。
 エオンナとは違って栞璃は誰よりも強い。やろうと思えばなんだって出来るし、何処へでも手が届く。強者には、弱者の苦悩や葛藤など分からないだろう。
「僕なんかが頑張ったところで……」
 口ではそう言い訳しながらも、無意識に運転手を睨み付けていた。彼を説得するか脅迫すれば或いは——。
「……あーもー! やればいんだろやれば! 絶対コーヒー奢れよ!」
 此処にいない筈の誰かに愚痴を何度も漏らしてからエオンナは立ち上がり、掌の放出口
「運転手のおっさん、悪く思わないでくれよぉ」
 エオンナは運転手の左腕を掴んでコアの方へ引っ張って運転席から引き剥がそうと試行してみたが、運転手はビクともしなかった。
「……悪く思わないでくれ嬢ちゃん、俺も仕事があるんだ」
「仕事どころじゃないだろぉ、君の客が危険な目に遭ってるんだよぉ?」
「俺の仕事はこの列車を止めないことだ。本来の停車駅に近付こうとも」
 そう言いながら運転手はエオンナに自分の左手の平を見せつけた。其処には五百円程の大きさの穴が設けられている。
「ピースだったのかよぉ。だったら脅迫する方にすれば良かったなぁ……」
「分かったらさっきみたいに大人しく寝ていてくれ。今はこの列車を止める訳にはいかない。そういう命令なんだ」
「……何だそれ。僕だって」
 右手で空気を力いっぱい握り締め、その右手をエオンナは運転手の左頬に勢いよく押し付けた。
「僕だって止まる訳にはいかないんだよぉ!」
 微動だにしない運転手の頬にエオンナは何度も右手の拳をぶつけた。まるで損傷が入っているようには見受けられなくとも、何度も何度も。
「……嬢ちゃん、そんなか弱い力じゃ俺は止められないぞ」
 運転手は一度だけ左腕でエオンナを振り払うように裏拳で殴る。あっさりと押し負けたエオンナは弾き飛ばされてコアに背中を打ち付けて膝をついた。
 突き付けられた実力の差にどうしようもなく苛立ちが沸いて来た。
 捌け口を運転手に定めて怒りをぶつけるようにエオンナはまた運転手に暴力を振るう。それでも運転手は微動だにしなかった。殴れば殴る程に己の非力を見せつけられるようで、心の底から腹立たしさと虚しさがこみ上がる。
「止めてやる、何が何でも……!」
「健気な嬢ちゃんだ。だが、あんたみたいな娘が勝ち上れる程世の中は甘くない」
「分かってる……分かってるよそんなことぉ! 僕が誰より弱い奴だって、ずっと昔から分かってるよ! それでも、それでも幸せになりたいんだよ、僕は……!」
 エオンナが自分よりも強い誰かの、今で言えば栞璃の無茶な指令にも忠実に行動する原動力は、彼女が儚くも握り締めて離さなかったその夢にあった。
 どれだけ不貞腐れても。何が嫌になったとしても。結局は自分の為に手足を伸ばした。
 本当に欲しいのは自身の安心から来る幸福だったから。
 その為なら文字通り何だってした。犯罪だって黙認した。水商売にだって手を出した。誘拐だってした。自分に命を預けた者を裏切りもした。
 その結果、何時しか誰も自分に寄り添わなくなった。
 ただ一人、祁答院栞璃を除いて——。
「だったら戦う相手を選ぶべきだったな。君のような弱者は尚更、誰に従うかをよく考えて選ぶべきだ。それが君の敗因だ、お嬢ちゃん」
 運転手がエオンナめがけて真横に左手の拳を突き出す。エオンナよりも腕力の強い運転手の一撃がエオンナの胴体を呆気なく貫く、筈だった。
 彼の拳を受け止めたのはエオンナの身体ではなく、エオンナが右手に持っている黒い箱だった。
「……よし、引き込まれたねぇ!」
 リングケースのように横に開かれている黒い箱は運転手の左腕を飲み込み、そのまま吸い込むような勢いで運転手の全身が黒い箱の中へ引き込まれていった。
「一号車で姿を消した時にこれを拾い上げてから此処に来たんだよねぇ。使える物は全部使っていかないとねぇ」
 恍惚な表情を浮かべてエオンナは手に持っていた箱を閉じた。
 この箱はアンバーと言うピースが能力で作り出した箱であり、その中に身体の一部を入れるか近付けるとその部分が小さくなり、吸い込まれるように中へ入ってしまう。
 探偵の仕事中に出くわした事件のどさくさに紛れてエオンナがひったくった逸品だ。
「僕が透明になってブレーキを弄ってもいいんだけど運転手がいたらまた発進されるだけだからねぇ。邪魔がいない今なら幾らでも止められる……!」
 エオンナは箱を椅子の上に置き、運転台を一目見てこれだろうと思ったハンドルを動かした。列車は緩やかに速度を落とし、駅が近い訳でもなく線路の上で動きを止めた。
「止めてやったよ。これで後は栞璃さんを待つだけだねぇ……!」
 一号車に続く扉を開けてエオンナは誇らしげにそう叫んだ。
「さ、流石ですわエオンナ様!」
「止められちゃったか……」
 エオンナに背を向けてエオンナの仲間と交戦している男トリフォレントは未だ余裕綽々とした態度で立っていた。
「余裕ぶっこいていられるのも今の内だよぉ、後少しでラピスラズリという最強の味方が来てくれるからねぇ」
「同じ言葉を俺も言わせてもらおう。我々にも仲間や最強の助っ人が揃っている。四、五人が頑張って戦ったところで俺という策士を味方につけたオプスキュリティには——」
 壁に叩き付けられた三つの鋼鉄の身体がトリフォレントの饒舌を遮った。
「だったら加勢される前にアクティブに!」
「魂を焦がして貴方を倒す」
「……私にも見せ場をくださいませ!」
 ノエルと萌が先陣を切って操られている乗客を薙ぎ倒し、切り開かれた活路をネローザがすり抜けて通りトリフォレントの胸元に拳を突き刺す。
 乗客は本来ただの人で今回の騒動とは無関係なので万が一にも戦いに巻き込んで危害を加える訳にはいかない、というのが真っ当な倫理観だが今回ばかりは止むを得ないと三人は意気込んで奇襲を仕掛けた。
「いい一撃だが、若いなネローザ!」
 そんな三名の覚悟もトリフォレントには想定の範囲内だった。ほんの一瞬、小石が海に落ちる音のような僅かな時間が分水嶺となり、ネローザの渾身の一撃は操られた乗客に受け止められた。
「嘗めんなよ……ッ!」
 一つだけトリフォレントの想定を超える事象が其処にはあった。それはピースの鋼の装甲をも貫くネローザの切り札だ。
 ネローザの拳は盾にされた乗客の胴を貫き、トリフォレントの左胸に辛うじて届いた。
「やるじゃないか……それでこそ鉄拳の黒薔薇だ!」
「その名前で呼ぶんじゃねぇ!」
 右腕の自由を奪われたネローザにこれ幸いと複数の乗客が狙いを定める。だが炎を身に纏った赤目の戦士が冷静な面持ちでネローザの背に自らの背を重ねる。
「ネローザには触れさせない」
 トリフォレントの背後からネローザに襲い掛かる乗客はノエルが両手を広げて乗客に突進して壁の役割を担い、一人の突破も許さない。
「この一瞬を貴方に捧げますわ!」
 ネローザに舞い降りたトリフォレントへの攻撃の機会。だがトリフォレントも右腕を振りかざしてネローザに反撃を仕掛ける。
 だがネローザは右腕に引っかかっているぐったりした乗客を自分の盾にしてトリフォレントの右腕を払う。
 攻撃を防がれた直後にトリフォレントは盾にされた乗客ごとネローザを蹴り飛ばそうと左足を持ち上げる。
 その一瞬と同時にネローザは左手を構えた。
「今だッ!」
 ネローザの左手には栞璃に手渡された電撃銃が握られていた。
 引き金を引いたその一瞬後に、己を盾にした乗客と一緒にネローザは真後ろに吹き飛ばされる。
 ネローザの狙いは自分がトリフォレントに刻み込んだ、左胸の損壊部分。
 銃から放たれた瑠璃色の電撃の線はほんの僅かな時間ではあるがトリフォレントの傷に突き刺さり、全身が痺れるような痛みに見舞われた標的は亀裂の入った左胸を抑えて膝をついた。
「こ、この程度では……俺は!」
「まだ終わらない、貴方以外は」
 弾き飛ばされるネローザをひらりと避けて、右手を握り締めた萌が僅かに頭を垂れたトリフォレントの額に炎を纏ったパンチをお見舞いする。
 あまりにも強い衝撃に成す術なく身を翻し、トリフォレントは頭部を砕かれて仰向けに倒れ、声も残さず意識を手放した。
 彼の能力が解け、彼に続いて気を失った乗客を受け止めていたノエルは身を躱し、背後で伸びていたトリフォレントの上に乗客を雪崩れ込ませた。
「ネローザ様! ご無事でしょうか!?」
「ああ、派手に転んだくらいだ。それよりトリフォレントは倒せたか?」
「大丈夫、頭を割った。こうなればピースも人と同じ」
 ネローザの腕が刺さったままの乗客を萌が無理矢理引き抜いて座席の上に投げ捨てる。
「そういえば初めて会った時も似たような倒し方で助けてくれたな」
 差し出された萌の手を借りてネローザはおぼつかない足取りで立ち上がった。
「ネローザ、大勢の一般人を相手して疲れてるだろうから休んでいて。敵の増援が来たら私とノエルで相手する」
「そうですわ! 栞璃様が来る迄は二人で此処を防衛しますわよ!」
「別に大丈夫だが……敵が来る迄ならそうするか」
 萌とノエルの厚意に甘えてネローザが座席に腰かけた直後、止まっている電車が大きく揺れた。
 同時に質量の大きな何かが地面に突き刺さる衝撃音も外から打ち鳴らされる。
「ようやく俺様が追いついた! 誰から相手してやろうか……!」
 何が落ちて来たかは一号車の窓から見る事が出来る。その黒目の男に見覚えがあったのは萌だけだった。
「……メテオライト」
「萌、あいつのこと知ってるのか?」
「……あの男に触れられてから、私の身体が私の言うことを聞かなくなって……」
「じゃあ萌を病院に仕向けたのはあいつの所為か……!」
 三人の視線は此方を好戦的な表情で睨むメテオライトに向けられた。
「ネローザ様は休んでいてくださいませ! 私と萌様でそのメテオライトという方のお相手をしますわ!」
「待て、私も戦う……!」
 ネローザが立ち上がった瞬間、トリフォレントの操舵が解けて眠っていた筈の乗客達がまた起き上がった。
「今度は俺様の力で傀儡を動かす。彼奴等を超えて俺様の元へ辿り着いてみせろ」
 心を捨てた数多の乗客とまた拳を交える三名だったが、トリフォレントに操られていた時よりも乗客の戦い方がより苛烈になっていた。
 まるで身を傷付けたり滅ぼすことに何の躊躇いもないような、身を挺した攻め方だった。
「乗客は萌様とネローザ様にお任せしますわ! あの男は私がお相手しますわね!」
「んなこと言われてもこんな状況でどうやって外に出るんだよ!?」
「栞璃様のお言葉を借りるなら、『邪魔する方々は吹き飛ばす』のですわ!」
「……絶対言わないし言ってない」
 ノエルは猪突猛進の勢いで壁にタックルし、暴れ狂う乗客を巻き込んで外に飛び出した。
「ご覧あそばせ! 私の昂りは誰にも止められませんわよっ!」
「……面白い女だ。貴様の識別名を聞いておこう。因みに俺様はメテオライトだ」
「貴方に教える名前はただ一つ……私達は祁答院けどういん探偵事務所の、誇り高き探偵ですわ!」
 しがみつく乗客を振り払ってノエルはメテオライトに正面から拳を突き立てた。栞璃と交戦した時のようにメテオライトは軽々とノエルの一撃を受け止める、かと思いきやノエルの重い殴打を受け切れず大きく後ろへよろめいた。
「お仲間の邪魔はさせませんわ!」
 その隙をノエルは見逃さず、好機と言わんばかりに続けて飛び膝蹴りをお見舞いする。同じくメテオライトも膝蹴りで応戦するがノエルのパワーに軍配が上がり、大きく体勢を崩してメテオライトは後退した。
「俺様と対等に渡り合う者がまだいたとは……これだから新世界は面白い!」
 苦し紛れにそう叫ぶと、メテオライトは左手に力を込めてノエルに殴りかかる。それをノエルが右の拳で相対した時だった。彼に触れた右手から痺れるような感覚を味わい、咄嗟にノエルはメテオライトの腹を蹴って彼から距離を開ける。
「今のは……」
 違和感を覚えて右手に視線を向けると、黒い蚯蚓のような生物が無数に右手に食い込んでいた。
「な、何ですのこれは! 蚯蚓は赤黒いから可愛いですのに!?」
 痺れる感覚を抑えて右腕を振っても蚯蚓は一匹たりとも振り落とされず、段々と腕を這い上がりやがて右半身を覆う程の黒い蚯蚓がノエルにまとわりつく。
「ここまでパラサイトが早く侵食するとはな、貴様は類稀なる個体かもしれん」
「パラサイト、ですって……!?」
 逆上したノエルがメテオライトを睨み付けて掴みかかろうとするも全身が痺れて上手く動けず、その場に膝と手をついてしまう。その間もずっと蚯蚓が身体を蝕んでいき、遂には全身に蚯蚓が行き渡ってしまった。
「こんなところで、負ける訳には……行きませんわぁぁぁ!」
 自身を鼓舞するようにノエルは声を張り上げ、痺れるような痛みを堪えて立ち上がった。
「まだ動けるだと!?」
 メテオライトが驚く時間も与えずノエルは蚯蚓が食い込んだ右腕でメテオライトの胸を抉るように殴りつけた。
 だが先程のような優勢はもう生まれなかった。何事もなかったかのようにメテオライトは攻撃を受け止めて仁王立ちしていた。
「ほう、さっきまでのパワーは能力ありきで出せるものだったのだな」
「また大事な局面で……」
 ノエルの能力は興奮や気分の高揚を引き金に発動するもの。自身の考え方次第で自由に発動させられるが、時折自分の知性一つだけではうんともすんとも言わない時がある。
 そんなイレギュラーにぶつかったノエルは己に苛立ちを覚えていた。
「私は、守りたいのですわ……! 栞璃様も、探偵事務所の仲間も!」
 仲間が命や名誉を懸けて戦っているというのに何故自分は立ち止まっているのだと自身の心に鞭を打つが、湧き上がる感情は能力の発動には繋がらない。
「何にせよ、もう貴様は俺様の障害にはなり得ない。パラサイトの侵食が完了したピースは能力を使えなくなるからな」
「そんな……嘘ですわ、そんなこと……!」
 言葉では抗えても痺れる手足と沼底に沈んだモチベーションがノエルの活動を阻害する。
 それでもノエルは悔しさを嚙み砕くように歯を食いしばって拳を握る。
「パラサイトなどというものでは、私の進撃は止まりませんわ……!」
 何でもいいから力を出せと憤慨するノエルの気合に、自分すら応える事は出来なかった。
 メテオライトに軽々と蹴り飛ばされたノエルはアスファルトに転げ落ち、自由の利かない身体を蹲らせる。
「貴様のように傲慢で強い女は嫌いじゃないが……生憎ピースという存在自体が気に食わない。人如きが……天から力を授かるなど!」
 八つ当たりのようにメテオライトは地面に這いつくばるノエルの頭を何度も踏みつけた。
「俺様の何が間違っていた!? あれ程尽くしたというのに! 傲慢な人類に力を与えたことが過ちだと分かっていながら、何故俺様が地に堕ちなければならなかった!?」
 メテオライトの問いに答えられる者はいなかった。誰も彼の正体を知らないのだから。
「こんな……! こんな愚かで惨めな種族など、消してしまえばいいのに! 良質な個体が数体いたところで、害虫のような奴がその数億倍もいるのだぞ!?」
「……傲慢なのは、何方ですの……?」
 地に伏したままのノエルがようやく震える口を開いた。
 僅かな声音が耳に入ったメテオライトの足がふと蹂躙を止める。
「……何だと? 誰に向かって物を言っているか分かっているのか?」
「貴方に、ですわ……! 貴方を取り巻く事情は、知りませんが……貴方の思想は、充分過ぎる程に傲慢ですわ……! 少なくとも、社交界で会ったら、縁を切りますわよ……!」
「貴様……! そんな大口が叩けるような状況だと思っているのか!?」
「例え、どれだけ惨めな敗北を喫しようと……! 己の信念迄、捻じ曲げる訳にはいきません、のよ……!」
「黙れ……黙れ黙れ! 人風情が、この俺様を侮辱するなど!」
 ノエルの反発に腹を立てたメテオライトは怒りを顕にして左手を天高く掲げた。
 彼の行動に呼応するようにノエルを覆う程の岩石が空の果てから現れ、ノエルの真上に狙いを定めて一直線に飛び込んでくる。
「俺様に勝てなかった雑魚如きが俺様を否定するなど、断じて許さんッ!!!」
 メテオライトの怒りを体現するかのように燃え盛る隕石は、白日の中で尾を引いてノエルの真上——ではなく、メテオライトの頭上へと突撃した。
 身を後ろへ引いて隕石を直前で避けたメテオライトだったが、地面へと追突した隕石とその結果生じた衝撃に紛れてノエルの姿が目の前から消えていた。
 だが、メテオライトだけは辛うじて捉えていた。隕石が着弾する直前、疾風の如く猛烈な勢いでノエルに接近していた、二つの瑠璃色の輝きを——。

 恐怖のあまり閉じていた瞼を開くと、真っ黒な瞳は物静かな瑠璃色の瞳と鉢合わせた。
「しおり、さま……」
「……ノエルさん、よく頑張ってくださいました。後はわたくし達にお任せください」
 視界が揺れて、ガタガタと時折床も揺れる。瑠璃色の瞳の奥には、眩い光が取り付けられた天井が顔を見せている。
 此処は自分達が飛び込んだ列車の中だった。それも、線路の上を走っている。
「メテオライトから逃げ切る事に成功致しました。直に本来の停車駅へ到着致します」
「しおりさま……わたし、わたし……は、なにも……なしとげられなくって……」
 何が悲しいのかも分からないのに、ノエルの目からは透き通る涙が零れ落ちる。
「その身を懸けてお仲間を守り通したではありませんか」
 辺りには栞璃とノエル以外の者はいなかったが、遠くからネローザとエオンナの痴話喧嘩と、それを宥める萌の冷静な声音が聞こえてきた。
「貴方はメテオライトに勝ったのです。充分な戦果を挙げておられます」
「でも……なにひとつ、たちうちできなくて……はが、たたなくて……」
「ノエルさん。勝者と敗者とは何方かが死しておられたり、何かしらの数値が算出されていれば明白に決定付けられるでしょう。しかし両者が生きているか亡くなってしまわれたら、数字と言う指標がなければ、どのような尺度で勝者が決まるでしょうか」
「……わかりません、わ。わたしには……こたえられ、ません……わ」
「持論ですが、戦いが終わる迄守りたいものを守り通せたか、ではないかとわたくしは心得ております。ノエルさん、貴方自身の心に素直に問いかけてみてください」
 栞璃に促されるがままノエルは目を瞑る。
 自分がメテオライトと戦うことで守りたかったもの。そう心の中で呟いた時に浮かんだものは、たった四人の仲間だった。
 皆の声が聞こえる。頭の中からではなく、ちょっと遠い何処かから。土で汚れた耳のすぐ近くから。
「よく、にげきれましたわね……」
「はい。今回も皆様よく頑張ってくださいました。勿論貴方も」
 ノエルの両腕に、ようやく力が少しだけ入った。
 僅かな力を振り絞って、ノエルは栞璃の両肩にしがみついた。
「しおりさま……わたし、わたし……」
 言葉を忘れてしまった大きな子供を、栞璃はそっと抱き寄せた。
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