ダーククラスト

ニッチ

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第2節 山塞

8話 風化

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 赤橙せきとうに輝く火輪たいようにより、網膜に軽い痛みと熱を覚えた。それが契機となり、意識を取り戻す。
 最初に目視したのは、ひびの入った灰色の石畳と、それら割れ目に生えるスゲ属らしき草本種が花も咲かせず、小さく揺れている姿であった。どうも、散村の狭い広場の中心にて、おれは横たわっていたようだ。
 意識の復帰に応じて、何やら生臭く、気色悪い匂いが鼻孔を刺激――あぁ、これに関してはいいか。半乾きのため、カビガビになった肌着が、時間の経過を平明に示していた。

「ふぅ」

 立ち上がり、周囲を見やる。自分の居場所に少し驚いた。
 先ほど、広場のような場所と言ったが、散村そのものが丘陵がけに建っているらしく、もう数歩も動けば足場が無くなり、深い河谷かこくが深淵を覗かせる勢いで切り立っていた。その直下たる河谷の遥か先には、圧倒するほどの巨大な山が聳立しょうりつしていた。対岸部も似たような、だが異常に極端な地勢を形成していた。
 高所が得意でないおれは、慌てて散村側を見据える。まず遥か彼方に、東洋より聞き伝える屏風びょうぶを連ね合わせたがごとき連峰たる巨大な山巓さんてんそびえていた。その手前を、深き槍壁のごとき背の高い針葉樹林タイガが切立している。
 これら視覚情報より、容易に踏み入れられそうな領域は、手前にある、やはり崩れかけた散村を構成する家々に他ならなかった。
 肉体および精神の両方をわずらったような重い足取りで、おれは、その遺棄されたであろう村落を訪ねた。

「……」

 生きる者も動く者も皆無であった。あるのは、つたと苔と雑草と、風化途中の石によって形成された家々と石畳の道のみであった。狭い地形に押し込められたように建ってはいるそれらの中で、家屋と呼べるものは片手で足りるほどであった。
 バキ。視界の端にあった薪用の杣木そまぎが、音を立てて一つ折れた。これら家も物品も、家主達が立ち去った今日こんにちまで、何千と落陽に照らされ、風に撫でられ、やがて訪れるであろう完全な消失の日を、離離りりたる想いで、待っていたのだろうか?
 ――お前もそうなる――
 視界に映る全てがそう語りかけてくる。そんな奇異な妄想を振り払うように頭を薙ぎ、恐る恐ると探索を続けた。
 やがて陽がついぞ傾き、その光を失おうとしていた。暗闇が忍び寄る黄昏たそがれの手前、崩れた煉瓦壁に区切られた、井戸付きの小さなあばら屋を発見した。酷い有様だが、夜の恐れに対する防護壁として、活用する必要に迫られたのは言うまでもあるまい。
 疲労が爪先から頭頂部まで満ち満ちていたおれは、転がるように、扉が外れたその家屋に不法侵入はいりこんだ。
 陽の残光が完全に力を消失する前に、屋内を漁り、壊れかけの洋灯ランプと残油を見いだし、柔弱な光源を得る。息つく間もなく、左右へかかげて室内を照らすも、割れた水瓶、壊れた樽、朽ちた木製のゴブレットなどを確認するだけであった。居間リビングにおいて、これと言った収穫は得られない。
 夜のとばりがいよいよと迫る中、老人のごとき弱ったランプの灯を頼りに一旦庭へ出て、鼠のごとくコソコソと、井戸へ忍び寄る。枯れ井戸で無かったことは、この地へ来て初めて得た喜びであった。
 ようやく衣服にまみれたを、拭い洗うことが出来るのだからだ。ジャブジャブ、っと丁寧に洗い、干した。
 ついでと、埃塗れの銀色の長い髪を洗い揉み、身体の汚れもそっと拭った。女になってから、肉体の不潔さに我慢がならなくなったように思われた。

「?」

 男たった時……? 頭が少し痛む。疲れたからであろう、今日は色々なことが起こりすぎた。
 濡れた状態でそっと立ち上がる。身に纏うものが無くなったため裸体となるが、他の生物が現れないことに賭けて、屋内へ戻る。同時に満たした銀杯から一杯分だけあおり、一息つく。
 次は、未探索の寝室をあらためる。脚が一本折れた木製の寝台ベッド、壊れたラック、そして小さな窓の下に、干からびた遺体が一つあった。
 おれはランプを手に怖々と近寄る。ヒトガタよりさらに水分を失ったような質感で、有り体に言う異国に存在するという枯骸ミイラに酷似していた。
 さらにと検分するに、胸に一冊の、紙製の本を大事とばかりに抱きしめていた。死者への弔いを念じつつ、丁重に抜き取り、借り受けることに成功する。
 居間へと戻り、壊れかけの机に広げ、ランプをかざし、読解を始めた。見知るあらゆる言語とも異なったが、不思議と読み進めることが出来た。ただし、大半が破られ、乱雑に書き殴られていたため、理解できたのは以下の内容だけであった。

『この本を読む 全ての巡礼者へ伝達す 我々は 忘却した宿願のため 巡礼を遣通せねばならない 目指すべきは三つ 【無垢なる霊廟】【焔の鐘塔】そして【大星堂】

 旅の途中 以下のことを警句として胸に刻め
 一、この地の空間には捻じれがある 不可思議な地理的連結に驚くことなかれ
 一、我ら巡礼者にとって水こそ根源アルケー 活力を得るため 水の携行を怠るな
 一、この地には時間の概念を超え 様々な思想や物品が滞留し消失する 毒にも薬にもなろう

 ……力も才も無い、自分はここまでだが、どうか、その巡礼たびに、実践躬行じっせんきゅうこうされるならば、それは僥倖ぎょうこうと、胸に――』

 パタン、と柔らかな音と共に本を閉じた。得られた廣報こうほうに感慨を深めるより早く、寝室へ戻った。遺体を前に、裸体であることを恥じつつも、両の膝を付いて、おれは、穏やか動作で本を元の位置に戻した。
 その窪んだ真っ暗な瞳が、何かを語りかけている気配すらあった。
 ……おれは、感謝とも同情心ともとれぬ、あるいは混ざったような不思議な情感を胸に、敬意を捧げ、その遺体へ、ありったけの銀水を注いだ。
 秒刻の黙祷の後、すみにあった埃塗れのむしろを毛布代わりに、崩れかけの寝台を借りて惰眠を求めた。
 寝られるだろうか? いや、寝られなくとも寝なければならない。明日はきっと、今日以上に肉体と魂を消耗させる日となろうから。
 窓から覗く外は、涼風が大魚のごとく優雅に泳いでいるような穏やかさを秘めていた。天に輝く星々は、金剛石ダイヤモンド青玉サファイアを砕き散りばめたがごとき、美しさを誇っていた。
 様々な煩慮はんりょが胸中をよぎる。だが、それらの心配を他所に、疲労の鎌が意識を容易に刈り取り、泥のように眠りに堕ちていった。

 現状とは不釣り合いなほど健全なあさひが世界を照らす頃、おれは井戸の水を銀杯に詰めていた。水滴が付いた銀杯を手近の布で拭うと、輝きをもって応えた。
 生乾きの黒い胸帯と股下着を身につけると、不満そうな乳房と臀部が、だが窮屈そうに収まる。周囲を警戒しつつ、村の中でもっとも見晴らしが良い場所を目指す。睡眠と銀水により、幾らか回復した肉体と思考、そして起き抜けの東の陽をもって周囲を見渡す。
 結果、西側の遠くに石造りの人工物が見て取れた。遠目だが、砦? として視認できた。――ただ、岩壁にめり込んでいるかのような構造で、近づかなければ細部までは掌握できそうに無かった。
 昨晩の殉教者の撰述せんじゅつを信じるならば、おれは三つの聖地を巡らねばならない。そして、その手掛かりは座しては得られない。
 心を確かめ、砦へと舵を切る。
 長い、巡礼の旅の幕開けであった。
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