王国貴族社会六景譚 〜聖女追放・婚約破棄・打倒巨悪なんでもござれ〜

黒井アン子

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第三譚:婚約破棄令嬢による燃料革命と経済戦争

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【裏切りの宴と商人の意地】

「貴女の品位に欠ける振る舞いにはもう愛想が尽きた。本日をもって、婚約破棄をさせてもらう」
 煌びやかな大広間に響き渡る冷たい声。アヴェレート王国の西部地方の名士たちが集う宴での出来事だ。トワーナ・エルヴランは、婚約者である男爵令息リシュトール・ガストリエから一方的に婚約破棄を突きつけられた。
「婚約破棄ですって?」
 トワーナは一瞬だけ硬直した。彼女の周囲には名士たちが遠巻きに取り囲み、ヒソヒソと囁き合いながらも、誰一人として手を差し伸べる気配はない。成人前の16歳の令嬢にとって、この状況はあまりにも残酷だった。それでも、トワーナの瞳にはすぐに怒りの火が灯った。彼女は口元を扇子で隠し、冷ややかな声で問い返す。
「理由を伺いましょうか」
「君は、貴族の妻になる者としての品位を欠いている。改善の努力も見られない。それに尽きる」
 リシュトールの声は機械的なほど冷徹で、情など微塵も感じられなかった。
「品位、ね。……具体的には?」
 彼女は微笑みすら浮かべてみせる。その挑発的な態度に、周囲の貴族たちが息を呑んだ。
「そういうところだ。君の無遠慮な物言いでは、ガストリエ男爵家の未来を託すことはできない」
「あら、それはご立派ね。その無遠慮な商人の資金力と販路に惹かれて婚約を申し込んできたことは、どうやらお忘れのご様子」
 トワーナは手に持った扇子を一瞬で折り畳み、その鋭い縁をリシュトールに向けて突きつける。そしてまるでサロンで社交に興じるご夫人のように、わざとらしく明るい声をあげた。
「その『品位』とやらで、どこまで食い扶持を繋げるのかしら。このトワーナ・エルヴランを敵に回したこと、空になりゆく金庫室の中で震えて後悔すると良いわ!」
 まるで舞台の女優のように彼女は優雅に一礼し、華やかな衣装を揺らしてその場を後にした。背後では「ガストリエのご子息の言い分にも一理ある」といった囁き声が渦巻いていたが、彼女は振り返らなかった。

 一足飛びに屋敷に戻ったトワーナは、執事のダリオと侍女のフィアを呼びつけた。まだ怒りが完全に収まらない様子で、手袋を無造作に椅子へ放り投げる。
「リシュトールの奴、あの茶番を仕組んでおきながら、あんな得意顔で……!」
 トワーナは険しい表情で続けた。
「あんなの、宴の主催者も含めて、全員共犯よ!」
「タイミングを見計らって仕組まれたのでしょう。間違いありません」
 執事のダリオが、メガネの奥の目をギラリと光らせながら冷静に分析する。
「旦那様と奥様が長期の商談で不在――エルヴラン家として即座に反撃に出られない今を狙っての計画でしょう」
「なんて卑怯な……!」
 侍女のフィアが憤りの声を上げる。しかしその後、フィアは悲しげに声を落とした。
「……実は、かの家の侍女から、リシュトール様と伯爵家のご令嬢との噂を聞いておりました。もっと早くにお伝えするべきでした……」
「フィア、貴女の心はわかっているわ。私を無駄に傷つけまいとしてくれたのでしょう?」
 トワーナはフィアを安心させるように微笑む。その優しさに、却ってフィアは悔しそうにうつむいた。
「つまり、こういうことね」
 トワーナは指を折りながら整理を始める。
「まず、婚約破棄は計画的だった。そして、奴らはエルヴラン家の資金力以上の後ろ盾を得た――恐らく貴族社会での上位の伯爵家か侯爵家。最後に、リシュトールと伯爵令嬢の浮気。すべて合わせれば、あの男爵家の狙いは明らかね」
「では、どうされますか?」
 ダリオが慎重に問いかける。
「商人には商人の戦い方がある――市場で叩きのめすわ」
 トワーナは微笑みながら言った。
「銅貨一枚の重さを知らないお坊ちゃんが、どれだけの痛手を負うのか、私達はキャラバンから見物してやろうじゃないの」
 その声には、商人としての意地と強かさが宿っていた。屋敷の空気がピンと張り詰める中、トワーナは自分が得意とする市場を戦場に選び、次の一手を静かに描き始めていた。
 
【西部地域に広がる噂】

「エルヴラン家の令嬢が婚約破棄された理由、知ってるか?」
「ああ、『品位に欠ける』ってやつだろ? でも、実際はもっと酷い話があるらしいぜ」
 中央市場の片隅で、囁き声が交わされる。噂話の発信源は分からないが、その内容は次第に広がり、具体性を増していた。
「どうやら、あの商会、他の商人を無理やり買収してるって話だ。それがリシュトール様にバレて、怒りを買ったんだそうだ」
「ほら見ろよ、商人なんてのは金に汚い連中ばかりだ」
 噂を耳にした若い商人が顔をしかめる。
「そんな馬鹿な! トワーナ嬢はそんな人じゃない!」
 一部には彼女を擁護する声もあったが、噂は市場を駆け巡り、やがて町中の話題となった。

「聞きました? エルヴラン家のご令嬢、品位に欠けるだけでなく、商売にも問題があったそうですのよ」
「まったく、あれでは婚約破棄も当然ですわね。ガストリエ男爵家が気の毒ですわ」
 絹のドレスを纏った令嬢たちが、公爵領邸の一角で微笑みながら話していた。トワーナを巡る話題は、下級貴族たちの間で特に盛り上がっていた。
「それにしても、リシュトール様も災難でしたのね。あのような商人の家柄と関わるなど、正直申し上げて考えられませんわ」
「トワーナ様を社交界でお見かけすることもなくなるのですね。あの独特なダンスのステップを見られなくなると思うと、寂しいですわね」
 クスクスと男爵令嬢達は笑い合う。その話題は社交界の下流で、澱みながら花を咲かせていた。

 後日。リシュトールは自身の策略に手応えを感じていた。社交界でも市場でも、自分の思い通りにトワーナの風評が広がっている。
「ずいぶん噂が広まるのが早い。元々、妬み嫉みを買っていた家だからだろう。つくづく、婚約破棄をして正解だったな」
 リシュトールは窓から入る夜風に吹かれながら、ワインを口にする。勝利の美酒は、格別の味わいだ。
「これであの家の勢いも削がれることだろう。こちらに歯向かうなんて馬鹿げたことを考える余裕もなくなるはずだ」
 そこでリシュトールはトワーナへの思考を断ち切り、数日後に控える伯爵家の令嬢との舞踏会を思い浮かべ、満足そうに杯を傾けた。

「トワーナ様、大変です!」
 屋敷に飛び込んできたのは、エルヴラン商会の若手商人だった。その顔は焦りと憤りに満ちている。
「何があったの?」
 トワーナは冷静に問いかけた。
「市場で、エルヴラン商会が他商会に圧力をかけているという噂が広まっています! それも、あの男爵家の名前と共に……」
「男爵家……」
 トワーナはふと目を伏せた。リシュトールの顔が脳裏に浮かぶ。
「噂の根拠は?」
「何もありません。ただの作り話です。それでも、商人たちの間では広まってしまって……」
 トワーナは静かに立ち上がり、窓の外を見つめた。その瞳には怒りと決意が宿っていた。
「商人の信用を失墜させるつもりね――でも、いいわ。それでも市場は実力で捩じ伏せられる」
 彼女は唇を引き結び、力強い声で言った。
「リシュトールの戦い方など、実のないまやかしにすぎない。私は実利で勝負してみせる!」
 
【炎の裏に潜むもの】

 トワーナは、燭台の揺らめく光を見つめながら、リシュトールとの記憶を辿っていた。
婚約が決まったのは一年前のこと。リシュトール・ガストリエは、彼女がこれまで交わってきた人々の中では異質な存在だった。高貴な血筋を持ち、洗練された佇まい。その端正な顔立ちに、彼女は一目で心を奪われた。
「青い血とはこういうことを言うのね……」
 彼との婚約が決まった時、トワーナは夢見ていた。一介の商人では成し得ない規模の商売が、彼の後ろ盾を得れば実現できるかもしれない。自分の両親のように、現実的で強かでありながらも、互いを支え合うパートナーシップを築けるのではないか。
 彼女は貴族の妻として相応しくなるために、これまでとは違う努力を始めた。マナーを学び、優雅に踊れるようダンスの練習にも打ち込んだ。しかし、商人の娘としての本能は抑えられない。リシュトールの領地の名産品――煌石炭について調査を重ね、それをどのように改良し、より良い価値を生み出せるかまで考えていた。

 だが、彼女の思い描いた未来は、少しずつ色あせていった。リシュトールは表面上は婚約者として振る舞っていたものの、トワーナの提案や意見に対して冷ややかだった。彼は一度たりとも、彼女の研究や努力に関心を示すことはなかった。
「君は商人らしい考え方をしているけど、それは貴族には不要だよ」
 何度か投げかけられたその言葉に、トワーナは胸の奥でざらりとした違和感を覚えていた。彼の言葉には、明確な偏見が含まれていた。
「美しいだけの飾りを、私は愛してしまったのかもしれない……」
 そう気づいた時には、すでに彼との関係に隙間風が吹いていた。

 煌石炭。それは西部地方の名産で、燃やすとターコイズのような青白い炎を灯す、美しい石炭だ。特にガストリエ男爵家の所有する鉱山から産出されるものは最上級品とされ、貴族たちの間で珍重されてきた。その青い炎は晩餐会の場で華やかさを添え、冬の暖炉では貴族の贅沢の象徴だった。
 トワーナは、婚約者として彼を支えるために煌石炭の特性についても入念に調べていた。そして、婚約破棄の騒動の中で、その知識が不意に甦る。
「この青い炎……美しいだけで、火力が足りない」
 煌石炭の華やかさの裏には、致命的な欠陥が潜んでいた。燃焼効率が低い上に、青白い炎の原因となる不純物が混ざっており、その分のエネルギーが失われていたのだ。
「これを利用するしかない……!」
 トワーナは自らの資金を元手に、独自の工房を設立することを決意した。だが、それは簡単なことではなかった。資金調達や土地の確保、適任の職人を集める必要があったのだ。
 
「ミス・エルヴラン、燃料の研究だって? それは危険な投資だ。成功する保証もないのに……」
 工房設立のために訪ねた商人仲間の一人が、慎重な口調で言った。
「だから、成功すれば誰もが欲しがる商品になるのよ」
 トワーナは、いつもの抜け目ない笑顔を浮かべた。
「私は確信がある。煌石炭には美しさと引き換えに、致命的な弱点がある。そして、その弱点を克服した燃料を作れれば、市場はその価値に答えるはずよ」
「なるほどね……。まあ、君の鼻は当たることが多いし、出資を考えないわけじゃない」
 商人は笑いながら承諾した。

 次は職人探しだ。トワーナは腕の立つ石炭職人として知られるベラージュの元を訪れた。
「燃料の改良? 煙草に火を点けるだけで十分じゃないか」
 初老の職人は、不機嫌そうに言った。
「その通り。普通の燃料ならね。でも、私はこの国中の暖炉を変えたいの」
 トワーナは微笑みながら、小さな袋から煌石炭を取り出し、彼の前に置いた。
「これを燃やしてみて。美しいでしょう? でも、これじゃ足りないのよ。もっと力強い炎が必要なの」
 ベラージュはしぶしぶ燃やしてみた。そして、彼女の言う通り、青白い炎の美しさの裏に隠された弱点を目の当たりにする。
「……確かに、これでは火力が物足りない」
「一緒にこの欠点を克服しない? ベラージュさんなら、できるわ」
 トワーナの説得に、ベラージュはため息をつきながらも頷いた。
「お嬢さんの情熱に負けたよ。やってみようじゃないか」

 最後に、長期不在中の両親に、事の顛末と計画を手紙で知らせた。返ってきた手紙には一言、「トワーナの心のままに」とあった。
 こうして工房は動き出した。新たな燃料を生み出すための試行錯誤が始まる。彼女の胸には、かつて彼に恋い焦がれた頃の柔らかさは一切残っていなかった。代わりに宿るのは、商人としての鋭い光と、石炭の炎のように燃え盛る復讐心だった。
   
「待っていなさい、リシュトール。市場での敗北がどれほどの痛みを伴うか、思い知らせてあげるわ」

【北部の追い風】

 商人たちが集まる市場では、近頃ある話題で持ちきりだった。王都と北部地域を繋ぐ新たな交易幹路が、早ければ2年後には開通するというのだ。
「たまには貴族様もいいことしてくれるぜ」
 市場の片隅で声をあげる男に、別の商人が笑いながら頷く。
「これで北部への輸送時間が今の半分以下になるって話だ。期待してるぜ!」
 そんな中、トワーナ・エルヴランもまた、彼らの話を聞きつつ北部地域へ目を向けていた。北部で行われている交易幹路開拓の工事現場用として、燃料需要が急増しているという情報が舞い込んできたのだ。
「王家も街道整備に関わっている以上、この機を逃す手はないわ」
 彼女は地図を広げながらつぶやいた。
「北部に進出するには地元の有力者の協力が必要ね……オルフィウス侯爵か」
 西部地方で数多の鉱山を所有するオルフィウス侯爵は、その名を知らぬ者がいない名士だ。しかし、彼はかつて婚約破棄問題で北部貴族と軋轢を生んだ過去があり、その上最近もその貴族から不興を買ったらしく、巷では北部との関係危機が噂されている。
「婚約破棄された側が、婚約破棄した側を復讐劇に巻き込む……妙な縁もあるものね」
 トワーナは皮肉めいた笑みを浮かべた。
 彼女はすぐさまオルフィウス侯爵に手紙を送ることにした。そこには飾り気のない文面でこう書かれていた。
「北部地域を足がかりに、燃料革命を起こしませんか」
 形式も品位もない、不躾すぎるその手紙は、意外にも侯爵の興味を引いたらしい。数日後、トワーナは侯爵邸で直接会談する機会を得た。

 侯爵邸の広間に通されると、トワーナは目の前に現れた人物を見て思わず感心した。
「……貴族って、どうしてこうも顔がいい人ばかりなのかしら」
 相手は背が高く、整った顔立ちに微笑を浮かべた美男子だった。だが、次の瞬間、彼女の脳裏には冷静な考えがよぎる。
(でも、この人は既婚者の浮気者らしいのよね。しっかりしなさい、トワーナ)
 気を取り直した彼女は、侯爵に向き直り、いつもの抜け目ない笑顔を見せた。
「オルフィウス侯爵、お時間をいただき感謝します。早速ですが、今回のご提案についてお話しさせてください」
 トワーナは資料を広げながら、新燃料の特性と市場価値、そして北部での需要増加について論理的に説明した。
「あなたの鉱山と連携すれば、この燃料を北部で広めることができます。そして、それは北部との関係改善にも寄与するはずです」
 侯爵はしばらく黙って話を聞き、そして静かに口を開いた。
「ふむ。確かに興味深い提案だ。この燃料が成功すれば、北部との関係改善の足がかりになるだろう。しかし、一つだけ条件がある」
「条件?」
 トワーナの眉が動く。
「この燃料の製造権は、我が家が独占させてもらいたい」
 その言葉に、トワーナは一瞬考え込んだ。製造権を手放しても、特許料収入が安定すれば問題はない。むしろ、高位貴族の名の下に製造や流通の責任を引き受けてもらえるのは、彼女にとっても都合が良かった。
「わかりました。その条件、飲みましょう」
 彼女の即断に、侯爵は意外そうな顔を浮かべたが、すぐに微笑を返した。
「いいだろう。では、共に成功を目指そう、ミス・エルヴラン」

 こうして、トワーナはオルフィウス侯爵と手を組むことを決めた。燃料革命の火種は、今や北部からの追い風に煽られ、大きく燃え盛ろうとしていた。 

【炎の復讐】

 トワーナが開発した新燃料「フレアコール」は、石炭燃料の常識を覆す存在となった。その秘密は、石炭に含まれる不純物を限界まで削り取る乾留技術にあった。加えて、窯の温度や通気を厳密に調整することで、従来の燃料と比較して20%も高い火力を実現したのだ。
 冬の寒さが最も厳しくなる頃合いの日、オルフィウス侯爵邸の広間にある大きな暖炉でフレアコールが試験的に燃やされた。燃え盛る炎は力強く、それでいて美しい黄金色を帯びていた。純粋で余計な煙も少ないその炎は、居並ぶ貴族や職人たちを圧倒した。
「合理化が進むこの時代に、まさに相応しい美しさだ」
 オルフィウス侯爵は感嘆の声を漏らしながら、暖炉の熱を手のひらで感じ取った。
 
 製造が始まるやいなや、フレアコールは市場を席巻した。オルフィウス侯爵家の大規模な工房で量産され、その安定供給体制と価格競争力は、他を圧倒していた。
「フレアコールを使うと暖炉の燃料消費が減るだけでなく、温かさが全然違う!」
「これほどの火力がある美しい炎なのに、煌石炭よりも安価だとは!」
 市場では絶え間ない称賛が飛び交い、貴族たちは次々に煌石炭からフレアコールへ切り替えていった。特に質実剛健で見た目よりも実利を重視する積雪地、北部地域では極めて高い評価を得て、積極的に買い入れられていた。冬が終わり春になっても、工事現場用としての需要は尽きなかった。

 一方、かつて煌石炭で名を馳せていたガストリエ男爵家は、日々落ちていく需要に焦燥感を募らせていた。
「まさか、ここまで差がつくとは……」
 男爵と、その息子のリシュトールは、書斎で手にした市場報告書を握りしめ、血の気の引いた顔でつぶやいた。
 彼らは何とか市場に巻き返そうと手を打とうとした。他の石炭鉱山を有する貴族たちがオルフィウス侯爵に石炭を卸し、新燃料の生産ラインに加わる道を模索しているのを見て、自分たちも同じように交渉を試みた。
 だが、オルフィウス侯爵家の工房に最上級の煌石炭を届けると、それを受け取ったのはトワーナ本人だった。彼女は黙々と煌石炭を調べ、細やかな検査を行った。そして、手にしていた煌石炭を静かに机の上に戻し、冷ややかな声で言った。
「不純物が多すぎます。この品質では、新燃料の基準を満たせません」
 その一言が、ガストリエ男爵家を市場から完全に追放する宣告だった。煌石炭は美しい青い炎を灯すものの、その美しさは不純物がもたらす一時的な幻に過ぎない。フレアコールのような実用性・効率性・審美性を兼ね備えた新燃料の前では、もはや取るに足らない存在となっていたのだ。

【淑女の顔をした悪魔】

 ガストリエ男爵家は見る影もなく荒れていた。かつて煌石炭の名で市場を席巻した頃の繁栄は遠い過去のものだ。家の誇りだった豪奢な調度品は売り払われ、屋敷に灯る蝋燭は最低限の数に限られている。領地もまた、主要産業の衰退により活気を失い、住民たちの生活は困窮していた。この有様であるから、秘密裏に進めていたリシュトールと伯爵家のご令嬢との結婚も白紙となった。
 そんな折、トワーナ・エルヴランが屋敷を訪れた。美しいドレスを身にまとい、日傘の中で微笑みを浮かべた彼女の姿は、まるで救済をもたらす聖職者のようだった。だが、その柔らかな笑顔の裏に潜むものに気づく者は、屋敷には誰もいなかった。
「これはこれは、ミス・エルヴラン。遠路はるばるお越しいただき感謝します」
 ガストリエ男爵はトワーナを丁重にもてなそうと、必死に口元を引きつらせながら迎えた。隣に座るリシュトールもまた、苦虫を噛み潰したような表情で黙り込んでいる。
「お招きいただきありがとうございます、男爵様」
 トワーナは柔らかく礼を述べると、優雅な所作で席に腰を下ろした。その笑顔は非の打ち所がなく、彼らを責めるどころか、まるで過去の出来事など忘れてしまったかのように見えた。
「さて、本日お伺いしたのは、貴家の鉱山の再開発の件です」
 彼女が話し始めると、男爵は身を乗り出した。まるで溺れる者が浮き輪を掴むかのように、彼女の言葉に縋りつく。
「過去のことはすべて水に流し、未来を見据えて新たな関係を築きましょう」
 トワーナは穏やかな声で言いながら、手元に広げた書類をテーブルに置いた。
「これが私の提案です。新燃料『フレアコール』への切り替えを進めるための資金を、エルヴラン商会が提供します。それにより、男爵家の鉱山を再生し、市場で再び立ち上がるチャンスをお約束いたします」
 男爵は目を輝かせた。
「素晴らしい提案だ、ぜひともその条件で契約を結びたい!」
 
 リシュトールはその様子を隣で見つめていた。彼の顔には言葉にできない不安が浮かんでいた。あまりにも好条件に思える契約。だが、彼にはそれを疑問視する理由が見つからなかった。
「本当に良いのだろうか……?」

 契約内容は次の通りだった。
1. 新燃料切り替えのための貸付金
 エルヴラン商会は、ガストリエ男爵家に必要な資金を一括で提供する。その額は膨大だが、男爵家の鉱山を再生させるには不可欠なものとされた。
2. 20年間の返済期間
 男爵家は貸付金を20年かけて分割返済する。毎年の返済額は、鉱山の収益から十分捻出可能とされている。
3. 支払い滞納時の担保
 もし返済が滞った場合、ガストリエ男爵家は鉱山の所有権をエルヴラン商会に譲渡する。

「20年ですか。それだけの猶予があれば……」
 男爵は安堵の笑みを浮かべ、契約書に署名をした。その様子を見ながら、トワーナは微笑を浮かべたが、目は冷ややかに男爵を見据えていた。

「どんなに資金を投入したって、無駄なのにねぇ」
 契約が締結され、屋敷を出たトワーナは独りごちた。
 理由は単純だ。煌石炭は、地質学的な特性からくる不純物の多さゆえ、どう努力してもフレアコールの基準に適合する燃料にはならない。その改良には莫大な費用と技術が必要であり、鉱山そのものを根底から掘り直す必要がある。しかし、それを男爵家が成し遂げる資金も技術も、そして時間もなかった。
 トワーナは唇を綻ばせた。
「救済? そんなもの、最初から考えていないわ。合法的かつ穏便に貴族から鉱山を手に入れたら、私が有効活用してあげるのよ。例えば、装飾照明燃料への転用、低火力燃料としての実用化研究、観光鉱山としての開放……」
 淑女の顔をした悪魔は、人々の生活を変える夢を見る。市場で勝ち残るために必要なのは「何を売るか」ではない、「どのような価値を提供するのか」なのだと胸を張って……。

【王国経済の母】
 
 婚約破棄騒動から随分時が経った頃、エルヴラン夫妻が帰省した。商人として逞しく成長したトワーナが二人を迎え入れた。久しぶりの親子の語らいのひと時、トワーナが切り出した。
「お父様、お母様。私、自分の商会を立ち上げたいの」
 
 フレアコールで莫大な利益を上げたトワーナは、その資産を元手に独立した。彼女が生み出す数多の新製品は瞬く間に市場に受け入れられ、王国内の生活水準の向上に寄与していく。特に過去の資源と思われていた煌石炭を活用した、青い火を灯す装飾用ランプ、淹れたお茶を低火力で長時間保温し続ける茶器用暖房などは、新たな需要を喚起した。
 
『品位と心中したい商人はいない』という格言を残したトワーナ・エルヴランは、後の世で「王国経済の母」として名を馳せていくことになる。
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