王国貴族社会六景譚 〜聖女追放・婚約破棄・打倒巨悪なんでもござれ〜

黒井アン子

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第五譚:天才画家の気まぐれな才能、パトロンの胃痛

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【天才画家と常識人パトロン】



「締切なんて俺には関係ない!」

 ゼファリスの理不尽な宣言に、ソレアンは盛大に抗議した。

「いや、関係あるから! 画家が美術展に間に合わないでどうするんだ!」

 ソレアンが必死に社会常識を説く一方、ゼファリスは椅子に足を投げ出しながら全く意に介していない。

「俺の魂が震えない限り、描かない。それが俺の流儀だ!」

「魂が震える震えない以前に、締切は超えたら終わりなんだよ!」

「締切なんて美を理解しない者が作ったくだらない枠だ。俺はそんな枠に縛られない!」

「その枠に合わせないと、この展示会自体が成立しないんだけど!」



 アルモンド侯爵家の離れにある工房は、ゼファリス専用に改装されたものだ。壁には絵画が並び、床には画材が散乱している。その中央でゼファリスはふんぞり返り、まるで王様のような態度を取っている。なまじっかゼファリスが金髪緑眼という、絵画の王子様のような見た目をしているがために、小憎たらしいほど様になっている。

 一方のソレアンは、そんなゼファリスの対面で深い溜息を繰り返していた。



「ゼファリス、お願いだから、せめて『描く』という最低限の条件だけは守ってくれないか?」

「だったら俺の魂が震える場所に連れて行け!」

 突如叫び出したゼファリスに、ソレアンは一瞬耳を疑った。

「は? 魂が震える場所?」

「そうだ! この工房じゃ刺激が足りないんだよ。魂が震える場所に案内しろ!」

「……僕は君のパトロンであって観光案内人じゃないんだけど?」

「お前ならできる!」

 その言葉に、ソレアンは目を閉じて天を仰いだ。「お前ならできる」はゼファリスにとって、極めて悪質な免罪符であると、この数年で学んでいる。しかし、このままでは進展がないのも事実だった。

「分かったよ。君の魂が震える場所を見つけに行こう。ただし、1つ条件がある」

「何だ?」

「絶対に、描いてくれよ。これが最後のチャンスだからな」

「俺の魂が震えたらな!」

 全く噛み合わない返答に、ソレアンは肩を落とした。そして心の中で呟く。

 

 ――お願いだ……震えてくれ、早めに。



 ソレアンは、これまでの苦労を思い返していた。彼がゼファリスと出会ったのは、まだお互いが幼い頃のことだ。侯爵家の次男とは言え、家の責任を自覚していた彼にとって、ゼファリスは初めから異質な存在だった。当時のゼファリスは男爵家の三男だった。

 ゼファリスが描いた絵を初めて見たときの衝撃を、ソレアンは今でも忘れられない。枯れかけた一輪の花を描いたその絵は、幼い子どもが描いたものとは思えないほど生命の儚さと美しさを捉えていた。

「すごい! 君は天才だよ!」

 何の打算もなく放ったその一言は、ゼファリスにとって特別な響きを持ったのだろう。以降、ゼファリスはやたらとソレアンに懐くようになった。

「ソレアン、お前なら俺の絵が分かる!」

「俺はお前にしか本当の評価を求めない!」

 会うたびにこんな言葉を浴びせられ、ソレアンはすっかり彼の「理解者」役にされてしまった。確かに、ゼファリスの絵は特別だ。色彩と構図が他の画家とは一線を画し、どこか言葉にしがたい魂の震えを与える。彼を支えることはソレアン自身の誇りだった。



 しかし、ゼファリスの性格が「天才」特有のそれであることを、ソレアンはこの頃から思い知らされている。極めて偏屈で、予定や締切という概念を徹底的に無視する姿勢。それでも、ソレアンは彼の才能が開花し、世に知られることを信じてやまなかった。ゼファリスが家族との折り合いが悪くなり、家を出奔したときに、真っ先に彼を保護しパトロンとなったのも、そういう理由からだ。



「……なのに、その美を引き出すのがこんなに大変だとはね」

 ゼファリスが自らを「†漆黒の画狂神†」などと名乗り出したときにはさすがに頭を抱えたが、それでも彼の天才性を信じ続けた。その才を明らかにする場として、次の王家主催の美術展は絶好の機会だった――ゼファリスが絵を描いてさえくれれば。

 ため息をつきつつも、ソレアンは「魂が震える場所」を考え始めた。



【森の中で揺らぎの美を求めて】



 森は静かだった。鳥のさえずりが時折響き、風が木々の間を抜けるたびに葉がかすかに揺れる。その穏やかさとは裏腹に、ソレアンは冷や汗をかきながら茂みに身を潜めていた。

「ゼファリス、これ本当に必要なのか?」

 そう囁くと、少し離れた茂みの向こうから楽しそうな声が返ってきた。

「当然だ! この森で感じる揺らぎの美を俺の絵に収めるには、動物をそのまま観察するのが一番だ!」

「そのために罠を仕掛ける必要があるのか……?」

「もちろんだ! 魂を震わせる瞬間は待っていても来ない、掴み取らねば!」

 ゼファリスは、藁と枝で作った即席の罠に満足げに頷いている。彼の金髪が木漏れ日に輝き、その横顔はさながら絵画の中から飛び出してきた王子のようだった。しかし、ソレアンの目にはただの子どもじみた悪戯小僧にしか映らない。

「何で森の中で狩猟をしてるんだ、僕は……」

 ソレアンは自分の行動を振り返り、思わず呟いた。



「おい、ソレアン!」

 ゼファリスが呼ぶ声に顔を上げると、彼は笑顔で手招きしていた。

「何だよ」

「こっちに来い! この罠の仕掛け方、完璧だと思わないか?」

 満面の笑みで無邪気に語るゼファリスに、ソレアンは深くため息をついた。

「いや、罠の仕掛け方を語るんじゃなくて、さっさとインスピレーションを得て絵を描けよ」

「だから、動物の揺らぎを感じることが大事なんだ!」

 ゼファリスの主張には一分の隙もないらしい、少なくとも彼自身の中では。



 結局、ゼファリスに押し切られる形で、ソレアンも罠の準備を手伝う羽目になった。葉を集め、枝を並べ、手は汚れるし服には土がつく。「こんなことしてる場合じゃない」と思いつつも、ゼファリスが楽しそうに動き回る姿を見ていると、どこか憎めないのが悔しい。

「ソレアン! その枝は違う! もっと細いのだ!」

「細い枝ね、分かったよ……」

 ゼファリスの命令に従いながら、ソレアンは心の中でぼやいた。



 ――これが美術展への第一歩だなんて、誰が信じるだろうか。



 罠を完成させて数時間。風に揺れる葉の音だけが森に響いている。ゼファリスは落ち着きなくあたりを見回し、ソレアンは倒れ込むようにして大きなため息をついた。

「結局、何も来なかったな」

「まぁ、そんなこともあるだろ!」

 妙に明るいゼファリスの声が返ってきた。彼は立ち上がり、森の光景を見渡している。

「自然の揺れ動く美しさは確かに感じた。でも、俺の求める美はこれじゃないな」

「そうかい。それはよかった」

 疲れきったソレアンの言葉には、わかりやすく皮肉が込められていたが、ゼファリスは気にする様子もない。

「次はどこに行く?」

 キラキラした目で問うゼファリスに、ソレアンは一抹の不安と疑念を持つ。 



 ――待てよ……これ、もしかして単純に遊ぶのが楽しくなってないか?



 溜息が風に乗り、森の中にひっそりと消えていった。



【人工美の楽園】



 翌朝、ゼファリスを連れて、ソレアンはとある貴族の私有庭園に足を踏み入れた。そこは、整然とした幾何学模様の芝生と彫刻のような植木が並ぶ、完璧な人工美に満ちた場所だった。庭師たちが長い年月をかけて作り上げた美しい空間だ。昨晩の雨の粒がそこかしこに残っており、雲の隙間から差す朝の陽光に照らされ、煌めいていた。

 秩序と完璧さに満ちた世界だが、ゼファリスの目にはそれがどこか退屈に映るようだった。

「普段、君がこういう場所を訪れることはないだろうと思ってさ」

 ソレアンが声をかけると、ゼファリスは腕を組み、鋭い目で庭園を見回した。

「ないな。こんな場所、退屈なだけだと思ってたが……」

「だが?」

「少しは面白いものがあるかもしれない」

 ゼファリスは低く呟きながら、庭の一角に集まっていた夫人たちに目を向けた。



 華やかなドレスに、揃いのブローチをつけた女性たちが談笑し、互いに微笑み合っている。ゼファリスはその様子をじっと見つめ、時折、左手を動かすような仕草を見せた。微かな変化を見逃さないように、目を凝らしているのがわかる。ソレアンはその動きを何気なく追っていたが、ゼファリスの過集中気味の様子に、目を見張った。

 やがて、ゼファリスは突然スケッチブックを取り出し、無言で描き始めた。手元が速く、あっという間に線が走る。その描き方には、どこか精密さを感じさせるものの、ゼファリス自身は左手以外微動だにせず、ただひたすらに視線をそのままの状態で固定し続けている。

 他の貴族たちが彼の行動に気づき、首をかしげながら囁き合う声が聞こえてくる。

「あれが画家だというのか?」

「何を描いているのかさっぱり分からんが……」

「落書きにしか見えないな」

 ゼファリスは反応せず、ただスケッチブックの上に目を落とし続ける。その動きに無駄がなく、筆が紙を走る音だけが空気を支配していた。



「完成したか?」

 ソレアンが尋ねると、ゼファリスはスケッチを終えた後に一瞬満足げな表情を浮かべた。

「この揺らぎだけじゃ、まだ足りん!」

「つまり、まだ描けないんだな」

 ソレアンはガックリと肩を落とす。もはや文句を言う気力もなかった。

「ああ、さらなる刺激が必要だ」

 わざわざ庭園に来たのにその美しさには目もくれず、女性の談笑風景に興味を持つとはね――と心の中で皮肉を言いながら、ソレアンはふと気づく。彼が求めている「揺らぎ」とは、そもそも人間の中にあるのではないかと。



 庭園を後にする馬車の中で、ソレアンは思案顔のゼファリスに軽く冗談を言った。

「そんなに揺らぎのある世界が見たいなら……万灯町でも行けばいいんじゃないか?」

「万灯町だと?」

 ゼファリスの目が輝いた。

「待て、君、万灯町を知らないのか?」

「聞いたことはあるが行ったことはない。だが名前からして興味深い」

 ゼファリスが熱心に話を促すので、ソレアンは軽く説明を始めた。

「万灯町は王都の端にある、唯一の花街だ。男と女、富豪と貧者、貴族と犯罪者……ありとあらゆる人間が1つの街の中でひしめき合っている場所だよ。混沌の象徴みたいなところだ」

「まさに揺らぎそのものじゃないか! すぐに行こう!」

 ゼファリスが熱烈に賛成するのを見て、ソレアンはまたしても頭を抱えた。



 ――言わなきゃ良かった。



 馬車の揺れとともに、ソレアンの深い溜息が空気に溶けていった。



【混沌の街、万灯町】



 夕暮れの光が赤く街を染め始める頃、ソレアンとゼファリスは馬車を降りて万灯町の入り口に立っていた。そこはまさに混沌の象徴。煌びやかな提灯の光が通りを彩り、どこからともなく聞こえる音楽や人々の笑い声が絶え間なく響いている。

「すごいな、この雑多な感じ……」

 ゼファリスは早くも目を輝かせていた。彼はスケッチブックを抱え、既にどこかへ走り出しそうな勢いだ。

「頼むから、少しは控えめにしてくれよ」

 ソレアンは周囲の視線を警戒しながら注意するが、ゼファリスは全く聞く耳を持たない。



 通りを歩き始めてすぐ、一人の娼婦がゼファリスに声をかけた。

「そこの坊や、寄っていかない?」

 大胆な言葉に、ゼファリスは一瞬目を丸くしたが、すぐに興味深そうに彼女の顔を観察し始めた。

「その微笑み、いいな。まるで……揺らぎの美だ」

「へ?」

 娼婦は意味が分からず首をかしげ、ソレアンは急いで割って入る。

「すみません、急いでいるので!」

 紳士的に断りつつ、ゼファリスの腕を引っ張ってその場を離れる。

「ゼファリス、危ないだろ!」

「何がだ? あの笑顔、見たか? 人間の持つ曖昧さそのものだった!」

「君にとってはそうでも、僕の立場を考えてくれ……」



 さらに通りを進むと、運悪く知り合いの侯爵令息と鉢合わせてしまう。彼はソレアンと目が合った瞬間、素早く目を逸らした。まるで見なかったことにするかのごとく。しかしソレアンは気づいてしまった。「確かに知っている顔だ」と。

「……」

「……」

 お互いに気まずい空気を漂わせながら、ゆっくりと近づいていく。すれ違いざまに、令息が小さく咳払いをして無理に取り繕う。

「……ソレアンも、こういう場所に来るんだね」

 その言葉には、微妙な含みがあった。ソレアンは一瞬答えに詰まるが、すぐに柔和な笑顔を作る。

「いや、これはちょっとした……視察のようなものだよ」

「へぇ、視察ね……」

 令息はどこか疑わしげに目を細め、そしてそっと視線をゼファリスに移した。

「君の連れは……?」

「画家だ。まあ、変わったやつでね」

「ふぅん」

 それ以上の追及はなく、令息は軽く会釈をして去っていった。

 その背中を見送りながら、ソレアンは胸の内で冷や汗をかいていた。



 ――やっぱり最悪だ。向こうも絶対に同じことを思っているに違いない。



 そして極めつけは、通りを歩いている途中、ある男が声をかけてきたことだ。

「そちらの美青年を連れているのかい? 珍しい趣味だね」

 ゼファリスの顔を見ながらにやりと笑うその男に、ソレアンは一瞬言葉を失った。

「違う! 違うから!」

「なんだ、そうかい。まあ、気を悪くしないでくれ」

 男は立ち去ったが、ソレアンは深くため息をついた。

「ゼファリス、お前の顔のせいで僕が誤解されたんだぞ」

「俺の顔? それも揺らぎの一部だな!」

「全然違うよ!」



 その後も、ゼファリスは屋台で料理を作る人の手元をスケッチしたり、路地裏で踊る人々に見入ったりと、満喫する姿を見せる。

「この街は本当にすごい。生きている、揺れている……これこそ俺が求めていたものだ」

 ゼファリスが満足げに呟く姿を見て、ソレアンは呆れながらも納得した。

「お前にとっては良い経験だったんだろうな」

 そして心の中でこう付け加える。



 ――僕にとっては、地獄のような時間だったけど。



 夕陽が完全に沈む頃、2人は再び馬車に乗り込んだ。ゼファリスはスケッチブックを抱えて目を輝かせており、ソレアンは疲れ果てて天を仰いでいた。

「明日こそ、描いてくれよ」

「俺の魂が震えたからな!」

 そう宣言するゼファリスの言葉に、ソレアンは静かに肩を落とした。



【魂の震え】



 ソレアンの母、イレーネは鋭い声で言い放った。

「万灯町……! 侯爵家の名を背負う者が、そんな場所に足を踏み入れるなんて! 正気の沙汰じゃないわ」

 その声には怒りだけでなく、困惑と不安が滲んでいた。

「母上、誤解しないでくれ。あくまでゼファリスが絵を描くための視察であって……」

 ソレアンが必死に弁解するが、イレーネの表情は全く緩まない。

「そんな言い訳が通るとでも思っているの? あなたは侯爵家の人間なのよ。あの街がどれほどの噂を呼ぶ場所か分かっているの?」

 その問いにソレアンは言葉を詰まらせる。確かに、万灯町の評判は最悪だ。歓楽街として知られ、犯罪や放蕩の温床であり、貴族が名を出して近づくべき場所ではない。

「私たちの耳にも噂は入っているわ。あの街で若い貴族が男娼を連れていたという話……まさかそれがあなたのことではないでしょうね?」

 イレーネの目は鋭く光り、ソレアンは青ざめる。

「違うよ、母上! それはただの誤解だ。僕がゼファリスを連れていただけで……」

「ただの誤解であればいいけれど、万灯町に出入りしている時点で貴族社会にとってのイメージは最悪よ。あなた自身の婚姻話にすら影響が出かねないわ」

 その会話を遮るように、父であるアルモンド侯爵が重々しい声を上げた。

「ソレアン。ゼファリス君との関係を続けるのは、そろそろ考え直してもいい頃かもしれないな」

 その言葉には怒りはなく、慎重で配慮のある口調だった。

「父上……」

 ソレアンは息を詰まらせた。

「お前がゼファリス君に心酔しているのは分かる。しかし、彼のような自由奔放な芸術家と深く関わることが、侯爵家にとってどれほどのリスクを伴うか、理解しているか?」

 父は厳しい視線を向けた。

「もちろん、彼の才能を疑うわけではない。ただ、その才能が世に認められる保証はどこにもない。そして、お前の若さや熱意が、彼と共に無駄になってしまう可能性もあるのだ」

 静まり返った空間の中、ソレアンは深く息を吸った。自分の心臓の鼓動が聞こえるようだった。

「父上、母上……僕はゼファリスを信じています」

 ソレアンの声は低く、しかし力強かった。

「ゼファリスが追い求める美は、ただの絵ではありません。それはこの時代を切り取り、未来へと繋がる価値を持つものです。彼が描こうとしている『揺らぎの美』は、瞬間の中に永遠を閉じ込めるようなもの。その美しさが形になるところを、僕は見たい、いや、見届けなくてはならない」

 ソレアンは視線を正面に据え、言葉を続けた。

「僕ら貴族には、文化を支え、未来に繋ぐ責任があります。ゼファリスの才能を支援し、その美を世に示すことは、僕に与えられた使命だと思っています。それを放棄することは、僕自身の誇りを捨てることに等しい」

 言葉を切る間もなく、彼は一歩前に進み出て、父母への言葉を強くする。

「彼を支えることは、僕の人生を賭けるだけの価値がある。侯爵家の次男として、歴史に残る文化を築く一助となりたい。僕が信じているのは、彼の才能だけではなく、それが未来を変える力を持っているという可能性です」

 母は言葉を失ったまま目を伏せ、父は表情を変えずに息を吐いた。

「それがお前の答えか」

「はい。彼の筆が刻む未来のために、僕はこの道を選びます」



 ソレアンが部屋を出ると、ゼファリスが廊下の真ん中に立っていた。彼は背筋を伸ばし、じっとこちらを見つめている。その姿に、ソレアンの心臓が一瞬止まる。

「ゼファリス……どうしてここに?」

 恐る恐る声をかけると、ゼファリスは一歩近づき、鋭い視線でソレアンを貫く。その目には、得体の知れない熱が宿っていた。

「お前の目を見せろ!」

 突然の叫びに、ソレアンは思わず身を引いた。

「え? 目? なんでまた……」

「いいから黙れ! お前の目が必要なんだ!」

 ゼファリスはソレアンの腕をつかむと、そのまま強引に廊下を歩き始めた。

「待て、どこに行くつもりだ? 話くらい聞け!」

「工房だ!」

「工房!? 何をする気だ!?」

「お前を描く!」

「は!?」



 抵抗する間もなく、ソレアンは工房へと連れ込まれた。ゼファリスは扉を勢いよく閉めると、ソレアンを椅子に座らせた。

「動くな。目を閉じるな。そのままだ」

 ゼファリスは何かに取り憑かれたように画材を手に取る。彼の動きには迷いがなく、その姿を見たソレアンは、嫌な予感を覚えながらも黙って従うしかなかった。

 ゼファリスはソレアンの前に立つと、まるで魂を覗き込むような勢いでその目を凝視した。至近距離に迫るゼファリスの顔に、ソレアンは恐怖を覚えて顔をそらしかけるが、その瞬間「動くな!」と一喝される。

「……お前、そんな目で俺を見ていたのか」

 ゼファリスの低い声が響き、ソレアンは戸惑った。

「そんな目って、どういう意味だ?」

「黙れ。集中してるんだ」

 ゼファリスは絵筆を構えると、一気呵成に描き始めた。ソレアンは彼の熱に押され、観念したように目を合わせ続ける。

 ゼファリスがソレアンの目を凝視する間、ソレアンもまたその緑眼を観察していた。ゼファリスの目の中に、常識では計り知れない何かが渦巻いているようだった。その奥には、すべてを見透かすような鋭さと、子どものような無垢さが同居していた。ソレアンは1つの確信を得る。



 ――芸術の神が、本当に降りてきているな。



 心の中で呟きながら、ソレアンはゼファリスの筆の動きを見守った。筆が紙を走る音が、部屋の静寂に響く。その音が妙に心地よく、ソレアンは次第に緊張を解いていく。



 数時間後、ゼファリスは筆を置いた。汗ばむ額を腕で拭いながら、キャンバスを一瞥する。

「できた……」

 その一言に、ソレアンは椅子から腰を浮かせた。

「それで、僕はどう描かれたんだ?」

「見ろ」

 ゼファリスが一歩下がり、視界を開ける。ソレアンはキャンバスを覗き込んだ。

 そこに描かれていたのは、ソレアン自身だった。しかしただの肖像画ではない。ソレアンの目に映るのは、狂気と神性が同居した抽象的で精巧な何かだった。

 ソレアンは息を呑んだ。だが次の瞬間、静かに微笑んだ。

「……ああ、これは君だな」

 ゼファリスが何かを説明するよりも早く、ソレアンは納得していた。

「そうだ。これが俺だ。そして、お前が俺をそう見ている」

 その言葉に、ソレアンは小さく笑った。

「なら、これを美術展に出してみよう。……君の魂が震えたのならね」

「当然だ。これ以上ないくらい、震えたからな」



 2人の間に沈黙が訪れたが、それは不思議と心地よいものだった。



【展示会とその後の2人】



 展示会の会場は華やかに飾られ、多くの貴族や芸術家たちが集っていた。壁には選び抜かれた作品がずらりと並び、その中にはゼファリスが描いた絵もあった。一見するとただの肖像画だが、見る者を圧倒するような奇妙な力を持っていた。その目に映るゼファリス自身――あるいは、ゼファリスが信じる「美そのもの」。それは誰にも説明がつかず、ただ呆然と立ち尽くす者も多かった。



 審査が進む中、ついに賞の発表が行われた。審査員であり推薦人でもあるカレスト公爵が、ゼファリスの作品に感想を述べたと伝えられる。

「ここに描かれているのは単なる人物画ではありません。狂おしいほどに無垢な『共感と憧憬』の眼差しです」

 その言葉は絵の本質を見事に捉え、観客たちは再びその絵に引き寄せられた。



 惜しくも最優秀賞は逃したものの、審査員特別賞という栄誉を受け、ゼファリスの名は会場中に知れ渡った。†漆黒の画狂神†――この得体の知れないペンネームと共に。



 それからというものの、工房ではゼファリスがスケッチを続けていた。そのモチーフは、青と黒のブローチを身につけた夫人たちが織りなす、一見すると華やかな光景だ。

「人間美って、なかなか面白いな」

 彼の独り言に、扉を開けて入ってきたソレアンは思わず眉を上げた。

「君がそこまで人間に興味を持つなんて、正直予想外だよ」

「お前の目を描いてからだ」

 ゼファリスは筆を止め、さらりと答えた。 

 ソレアンは小さくため息をついた。

「なら、今度の王城のパーティにでも行けばいい。嫌でも人間の美醜が見られるぞ」

「お前も行くなら行く」

「えっ僕も……? また僕が君に振り回されるのか……」

 そう呟きながらも、ソレアンの声に苛立ちはなかった。



 後日、ソレアンの手引きでゼファリスが王城のパーティに参加することとなる。その煌びやかな世界で、ゼファリスが目にしたものが、彼の筆を熱烈に動かし、後に歴史に名を刻む大作を生み出すきっかけとなる――だが、それはまた別の話だ。
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