見返りを君に

雪川月花

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十三章

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 その時、有里家はもうすぐ夕食で、俺は母さんの手伝いをして食卓に食事を並べていた。父さんは持ち帰りの仕事をしながら、ソファで紗絢の話し相手をしている。
 小学校で起こったことを紗絢が矢継ぎ早に話して、父さんはそれに相槌を打ち、俺と母さんは二人を見ながら一緒に笑う。最近当たり前になってきた、夕食前のひと時。
「ほら、もうできるよ」
 二人に声を掛けてご飯を運んでいると、テーブルに乗せていたスマートフォンが震えた。画面を覗くと饗庭の名前が表示されていて、ときめくようにドキリとした。
「あ――、ごめんね、電話。先に食べてて」
 饗庭から電話なんて、珍しい。俺はワクワクと廊下に出た。
「はーい」
 明るく機嫌よく呼びかけると、電話の向こうからガサガサとした雑音が聞こえた。
「あいばー?」
 グス、と音が小さく聞こえて、それが人が鼻を啜った音のように感じて、ドキリとした。
「え、何? 饗庭? どうしたの?」
「有里、来て――」
「え……」
 グスングスンと音が聞こえて、俺の心臓は嫌な音を立て続ける。
「饗庭、どうしたの? 泣いてる?」
「うん……」
「なんで……?」
 ひやりと心が冷たくなる。
 リビングから紗絢の大きな歓声が聞こえた。電話の向こうにも、届いたかもしれない。
「いや――いや、いい。ごめん、なんでもないんだ」
「なんでもなくないでしょ! 今どこにいるの」
「家……」
「家にいるの? ひとり?」
「うん」
「どうしたの? 何があった?」
「……」
「饗庭!」
「……母さんに、叩かれて」
 驚いて、咄嗟に言葉が出なかった。
 饗庭はハハッと、息を吐いて笑った。
「でも、うん――それだけ。なんかちょっと、有里と話したいと思って。急にごめんな。じゃあ、また明日――」
「待って!」
 俺は電話を切ろうとする饗庭を慌てて引き止めた。
「行くよ。俺、すぐ行く」
「え――」
「待ってて!」
 返事も待たずに電話を切った。
 どうしよう。どうやって饗庭の家まで行こう。
 心ここに在らずでリビングに戻り、席に着いて俺を待ってくれていた家族の前に立った。
「電話、終わったの?」
 母さんが笑顔でこちらを見て、不安そうな顔をした。多分俺が、狼狽した顔をしていたから。
「どうしたの?」
「あの……、俺、行かなきゃ。友達が――饗庭が、泣いてて。俺、行かなきゃ。行ってやらないといけないんだ、俺が」
 父さんと母さんは一度顔を見合わせた。
「饗庭君はどこにいるの?」
「家。ひとりみたい」
「家はどこなんだ。どうやって行くんだ?」
「最寄り駅までは京急で……。でもそこから遠くて、バスだけど、もう無いかも」
「分かった。車で行こう」
 父さんが立ち上がる。俺は焦って父さんと母さんを見比べた。
「え、でも――」
 母は俺を見て頷く。
「いっておいで。――お父さん、お願いね」
「ああ。ほら、行くぞ」
「う、うん――」
 俺は車のキーを掴んで迷いなくリビングを出ていく父さんを慌てて追いかける。
「気を付けてね。上着、着ていくのよ!」
「お兄ちゃん! いってらっしゃい!」
「うん! ありがとう!」
 後ろから掛かる声に振り返って手を振って、俺もリビングを飛び出した。


 饗庭の家までは、車で恐らく四十分くらい。
 饗庭には『向かってるから家にいてね』とメッセージを送ったが、既読になる様子が無くて、着くまでの時間がもどかしかった。
 車の中で、父に軽く饗庭のことを説明した。修学旅行に連れて行ってくれて、不登校の時には様子を見に来てくれた友達。そのことは、母を通して父にも伝わっていたようだった。
「火傷のことも、俺の生まれのこともね。饗庭にだけは教えたんだ」
 そう言うと、父さんは「そうか」とだけ言った。
 見覚えのある漁港に着いて、国道沿いの駐車場に車を止めてもらった。俺は父を車に残して、階段交じりの道を饗庭の家に向かう。
 玄関に付いてインターフォンを鳴らしたが、音が返ってこない。もしかして鳴らないのかもしれないと、俺は玄関のドアを叩いてみた。
 それにも返事が無くて、そっとドアノブを回してみる。ドアは抵抗無く開いた。
「饗庭……? いるの……?」
 家の中に向かって声を掛ける。
 家の中は真っ暗で、玄関を入ってすぐが台所であることは分かったが、その向こうはどうなっているのかよく分からなかった。
「有里……?」
 家の奥から小さく声が聞こえた。
「うん、来たよ。入っていい?」
 下足場の壁にスイッチがあった。台所か、違っていても周囲のどこかが明るくなるだろうと当たりを付けて、俺は勝手に押してみる。やはり台所の電球のスイッチで、明るくなった台所が露わになった。
 表から見たイメージのままの、古い印象の台所だ。しかし、綺麗に片付いている。
 台所の灯りに照らされて、続く部屋の畳の床が見えた。勝手に上がって中を覗くと、更に奥の部屋の闇の中に、壁に凭れて饗庭が座っていた。
「饗庭……!」
「本当に来たんだ」
 そう言う饗庭は、ぼんやりしていて元気がない。
 俺は饗庭の前に駆け寄って膝を突く。
「叩かれたの、どこ?」
 と聞きながら、饗庭の顔を覗き込んだ。
「左頬……」
 饗庭が力無く言うので、俺は右手を伸ばして饗庭の左頬を包んだ。
「痛い?」
 今夜は月明かりがほとんど無い。台所からの光だけが頼りの部屋で、暗いからよく分からないけど、赤くなったりはしていないように思う。触っても、熱も持っていない。というか、暖房も点いていないこの家は寒すぎて、饗庭の頬は氷のように冷たかった。
 饗庭は俺が親指で頬を撫でるのにされるままになって
「いや、全然。――そう、全然痛くないんだよ。叩かれたときも、正直、大して痛いって思わなかった」
 と、ぼんやりとしたままの瞳で言った。
「痛くも無いし、怖くも無かったし。なんともないのに、ごめん。こんなことで呼び出して……」
 饗庭は項垂れる。こんなに元気が無い彼を見たのは初めてだ。
 俺は頬を撫でていた手を離し、今度は饗庭の頭をポンポンと叩いて、そのまま頭の上に乗せた。なんと言っていいのか分からなかった。
「何、めちゃめちゃ優しいじゃん。……もう、見返りくれる必要無いのに」
 項垂れたままの饗庭がぽつりと言う。そんな彼に堪らなくなって、俺は正面から饗庭を抱きしめた。体の冷たさがヒヤリと伝わってきた。
「俺が今日まで饗庭にどれだけのことをしてもらったと思ってるの。こんなんじゃ足りないよ。まだまだ、とても返し切れない。――それにこれはそういうんじゃないから。何かの見返りとか、そういうんじゃなくて。そういうの抜きで、俺がしたいからしてんの」
「有里……」
「俺が、饗庭に悲しい想い、して欲しくないんだよ……」
「うん……ありがとう……」
 饗庭はこてんっと、俺の肩に頭を落とした。俺は躊躇い勝ちに饗庭に聞いた。
「あのさ、言いたくなかったら言わなくていいんだけど、どうしたの? なんで叩かれたの? ――もしかして、普段から?」
「ううん、それは全然。……久しぶりだけど」
 ゼロでは無いことに、チラリと怒りが沸いた。
「なんで……、だって饗庭、叩かれるようなことしないでしょ?」
 饗庭はしばらく黙っていて、それからぽつりと言った。
「俺さ、最近浮かれてたみたい」
「え?」
「有里に会って、俺、楽しかったんだ。今まで楽しく無かったわけじゃないけど、でも、今までよりずっと楽しかった」
「……饗庭が楽しいと、駄目なの?」
 それが叩かれたこととどう繋がるのか、分からなかった。
 饗庭はそれには答えずに、あとさ、と言った。
「俺、やっぱり年々父さんに似てきてるみたいなんだよね。自分では勿論分からないんだけど、母さんによく言われる。母さんは、それが嫌なんだ」
「うん……?」
「嫌で……気に入らないし――多分、時々分からなくなるんだと思う。俺と父さんが別人だってこと。父さんが……父さんにそっくりな俺が、自分のいないところで幸せになるのが許せないんだ」
「何それ!」
 俺は憤慨して、思わず饗庭から体を離して彼の顔を見た。饗庭が苦しそうに笑ったのを見て無理矢理心を落ち着けた。
 きっと、単純な話ではないのだ。饗庭が静かに、一筋涙を零した。
「俺、有里のこと好きだよ。これからも一緒にいたかった。でも駄目だ。俺は母さんといてあげなきゃ。俺しかいないんだから」
「……ごめんね」
 俺は思わず呟いた。『俺には饗庭しかいないんだ』『饗庭だけいればいい』と、自分のことだけを考えて言った言葉が、彼にはきっと負担だっただろうと思った。
「饗庭は優しいね。俺、それって饗庭のいいところだと思うよ。そんな饗庭が好きだよ。でも――」
 俺は饗庭の肩に置いた手にぎゅっと力を入れる。
「でも、今の状態は良くない。どうにかしよう。ちゃんと、饗庭が辛くないように」
 饗庭の瞳が迷うように揺れた。
「ど……どうやって……?」
「分かんない!」
 俺がきっぱり言うと、饗庭は気の抜けた顔をした。
「お前さぁ……」
「だって分かんねーもん。そんな、一朝一夕でどうにかなることじゃないから、饗庭も困ってるんだろ?」
「……」
「でも、絶対見捨てない。独りにしないから。独りじゃないよ、饗庭。俺がいる。どうしたらいいか、一緒に考えるから」
 饗庭が手を離さないでいてくれたから。それがどれだけ嬉しくて、安心できることか、俺はもう知っているから。
 ――俺だって君のこと、独りにしたりしない。
 饗庭の顔がぐにゃりと歪んで、彼は想いを吐き出した。
 小さな頃からずっと、母を怒らせないようにしてきた。
 常にいい子でいようと努力して、できていると思っていた。
 しかし父親に似ていることが叩かれる理由になるのなら、もうどうしていいか分からない。
 楽しそうにしていることが母にとっての罪になるのなら、どう生きていけばいいか分からない。
 父を信じていたいけれど、こんなときに頼ることもできない。やはり自分には父親はいないのだ。
 饗庭はそんなことを、声を上げて泣きながらぐちゃぐちゃに言って、俺はただうんうんと頷いた。
「なんで今日、こんなに悲しいんだろう。自分でも、よく分からない」
 饗庭が力なく言う。俺は饗庭を元気付けたくて、彼をもう一度抱きしめた。
「お前、辛くないって言ってたけどさ。本当はずっと辛かったんじゃない? それが全部、今日吹き出しちゃったんだよ。多分」
 俺はぎゅっと腕に力を入れる。
「よく頑張ったね」
「……うん」
 饗庭は俺の背中に手を回して抱き返してきた。こんなときなのに、力を入れずにそっと重ねるような腕の置き方に、こいつは本当に気ぃ遣いだなと思った。
「――そういえば。有里、ここまでどうやって来たの」
 ひとしきり泣いて、少し落ち着いて。饗庭が腕を離して頭を上げた。
「あ、父さんが送ってくれて……」
 そういえば父さんを車に待たせたまま暫く経つ。
 饗庭が落ち着いたなら、もう帰らないといけないけれど……
 ――このまま、独りにしたくないな。
 そう思って、閃いた。
 俺はバッと体を離して、饗庭の両肩に手を置いて言った。
「饗庭、うち泊まりに来なよ」
「え」
 饗庭は戸惑った顔をする。
「独りで置いていけないから。うちに一緒に帰ろう!」
「いやでも、別に俺、いつも独りだし。家の人に迷惑だろうし……」
「迷惑じゃない!」
 俺は自信を持って断言した。
 迷惑がる家族じゃない。
 それに、もし仮に迷惑だったとしても、それでも大丈夫。自分は彼らの息子で、だから父と母を頼って時に迷惑を掛けても良いのだと、もう気が付けたから。
「絶対大丈夫。ちょっと、父さんに言ってくるから。饗庭、泊まりの準備しといて。別に何にも要らないけど……でも、明日うちから学校行けるように!」
 俺はそう言い置いて、返事も待たずに饗庭の家を飛び出した。


 有里が家を飛び出して行った後、取り残された俺はぽかんとしてすぐには動けなかった。
 ――あいつ、あんな騒がしかったっけ。
 有里の中に家族を頼るという選択肢ができたことは、素直に良かったと思う。そして少し、羨ましい。
 一方的に自分が助け、支えるばかりの相手だと思っていた。でもどうやら、それは自分の勝手な侮りだったようだ。有里はとても頼もしく、心が救われる気持ちがした。
 俺は独り笑ってゆっくりと立ち上がり、部屋の明かりを点けて泊まりの準備を始めた。


 しばらくすると有里が帰ってきて、俺は母に一応置き手紙をして家を出た。
 車から降りて待っていてくれた有里の父は、恰幅の良い、見るからに鷹揚そうな人で、有里の母に会ったときと同じように随分イメージと違った。厳格で堅い印象の人を勝手に想像していた。
「あの、すみません。本当にいいんでしょうか」
 有里父は穏やかに笑う。
「勿論うちは構わないよ。――どうぞ、乗って」
「はい! あの、お世話になります」
 俺はぺこりと頭を下げて、有里に促されるままに車の後部座席に座った。
 車が出てすぐ、有里がスマートフォンを見て言った。
「母さんが『饗庭君はご飯食べた?』って」
「ええと……、食べてない……けど、大丈夫」
「大丈夫じゃない。俺達もまだ食べてないから、一緒に食べよ」
 言いながら有里は母に返信する。俺はそれをボーっと眺めた。
 しばらくしてスマートフォンから視線を外した有里が、座席に置いてあった俺の通学鞄に目を留めた。
 何かあったと言わんばかりに、キーホルダーの部分だけがファスナーからぶら下がっている。
 俺はポケットからジンベエザメを取り出して、掌に載せて有里に見せた。
「千切れちゃった」
 ジンベエザメのぬいぐるみの頭の上の部分。キーホルダーに繋がっていた所の布が裂けて、中の綿が見えていた。
「せっかくくれたのに、ごめん……」
「いいよ!」
 俺がしゅんとすると、有里は勢い込んで言う。
「いいよ、後で直そ! うちに裁縫道具あるよ」
「あと写真……」
「写真?」
「修学旅行の、使い捨てカメラで撮ったやつ。二人で写ってるの、貰ってきてたんだ。見せようと思ってたんだけど、そのままになってて。燃やしちゃった……」
「そっか……。残念だけど、いいよ。写真はまた撮れるよ。これからいっぱい撮ろ!」
「うん……」
 ――それでも、あの写真は一枚しかない。
 俺はそんなに物に執着するタイプでは無いと思うのだけど、今はあの写真をかけがえのない大切な物のように感じていた。喪失感に暗澹とした気持ちになった。
 ――これからもこうして、大切な物を理不尽に失っていくのだろうか。
「でも、写真って?」
 有里が不審げに眉間に皺を寄せた。
「いつどこで撮ったやつ? 修学旅行中ってことでしょ? あの使い捨てカメラで、二人で撮った覚えないんだけど」
「ああ、えーと……」
 運転席の有里父をチラリと見る。こちらの会話を聞いている風では無いが、当然聞こえていると思う。お父さんの前で、一緒に寝ている写真だと言うのはなんだか気恥ずかしかった。
「いいんだ、もう無いんだし……」
「えー――」
 有里は恐らく「見たかった」と言い掛けて、責めるわけにもいかないと思ったのか、少し話題の矛先を変えた。
「フィルムカメラって不便だな。昔の人はよく写真一枚で満足できてたよね。友達同士で写真撮っても分け合ったりできないわけだろ? いちいち誰かの家に行って見せてもらってたのかな」
「そうだよな……。今は写真にする時にデジタル化してスマホに入れたりもできるようになってるらしいよ。でも今回はしなかったんだって。先生達が、皆に写真で見てほしいと思ってそうしたらしい。デジタル画像にしちゃったら、やっぱり皆そっち見るし」
「ふーん……」
「ネガは無いのかい?」
 それまで黙って運転していた有里の父が、突然口を挟んだ。
「ネガ……?」
 ぽかんと運転席の方を見ると、バックミラー越しに有里の父と目が合った。
「最近の子は分からないか。使い捨てのフィルムカメラだろう? ネガがあれば焼き増し――何枚でも同じ写真が現像できるよ。現像したときに写真と一緒に渡されなかった?」
「担任の先生から写真だけ渡されたので……」
「じゃあ先生が持ってるかな。聞いてみるといい。写真屋か……電気店なんかでも、ネガを持っていけば欲しいやつだけ写真にしてくれるはずだから」
「そうなんですか?」
「分からなかったら、綺羅、貰っておいで。父さん現像してくるから」
「う、うん、ありがとう!」
「ありがとうございます……」
 気持ちが少し明るくなった。知識があり、頼れる大人がいることにホッと安心感を覚えた。二人で顔を見合わせて笑った。






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