恋風

高千穂ゆずる

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暗転の岸

(2)

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 事務室へと続く薄暗い廊下を、足をもつれさせながら亮は急いでいた。喬一に渡さなければならない売春の証拠とも言える書類を手に入れるためにだ。亮は、彼女らを救う手立てを雪也に求めたが、彼はそれを拒んだ。
「君に触れさせない為なら、ここの女が何人犠牲になろうと構わないと思っている」
 そう告げられた。そして悩んだ末に出した結論は、あの嵐の晩──。唯一、手出しをしなかった若い医師に頼ることだった。その彼が、釈放証明などの書類を取りに行ってから、すでに一時間近く経っていた。
 不安と焦り──。もしや途中で雪也にでも知れて阻まれていやしないかと心配で堪らない。
 到着した事務室は、一部を除いてすべて明かりが消えていた。点灯しているのは、彼が書類を探している場所のものなのだろう。弾む息を整えるのも忘れ、事務所内へ入った。
 灯りは保管庫のある続き部屋から洩れていた。声を掛けながら奥へ進むと、整理棚の向こうに白衣が見えた。亮は胸を撫で下ろして棚の向こう側へと回り込むと、なにかに躓いて転んでしまった。
 棚の角で額を打ち据えてしまったものだから、痛くてすぐには起き上がれない。少しずつ痛みが薄れてきて、躓いたものに目を遣ると、若い医師がうつ伏せになって倒れていた。
 取り縋って声を掛けると、う~んと呻き声をひとつ上げ、うっすらと瞼を開けた彼が何事かを呟いた。亮は耳を寄せた。
「……ここから早く……出て」
 彼の言葉が終わると共に、背後からいきいきとした楽しげな声が聞こえてくる。
「いけないなあ。勝手に重要書類を持ち出したりしちゃあ」
 その声に、亮の全身が総毛立つ。かたかたと身体が震え出すのを抑えられなくて、膝の上に乗せていた青年の頭に覆い被さった。
 足音がゆっくりと近づいてくる。
この書類をなにに使うつもりだったのかと訊ねる男を振り返り、上ずる声で姐さんたちを守るためだと反論すると、男の口角がにやりと上がる。その顔は亮の背筋に冷たいものを走らせた。
「どうして彼女らが慰み者になっているのか、君は知っているのか?」
 男の喋り方は粘着質で、身体にねっとりと纏わりついてくるようだ。
「雪也センセイがね。君を抱かせないかわりに、彼女ら相手ならなにをしてもいいって言ったんだよ」
 顔をこわばらせている亮に、男は眉根を寄せながら話を続けた。
「こんな姑息な真似をしなくても、君がその身体を差し出せば僕はいつだって手を引くさ。女なんかよりも遥かに君の方が具合がいいんだ。さあ、どうする?」
 男は持っていた書類を部屋中にばら撒いた。亮は散らばったそれらを眺めながら逡巡する。願いは初めから只ひとつ。彼女たちが酷い目に合わないこと──。
 それならこの男の言うように、自分を差し出した方が解決するのも早いのではないだろうか。よろめく足で立ち上がり、男の元へと歩き出した。雪也の顔がふと脳裏に浮かぶ。利己的ではあったが、彼は彼のやり方で自分を守ってくれていたのだと思うと胸が痛んだ。
 男の傍まで近づくと、ぐいと引き寄せられた。無骨な手で頤を掴まれ、嘗め回すように唇が顔中を這いずり回る。固く目を閉じてひたすら耐え抜くことだけを考えていると、部屋から駆け出していく足音が聞こえた。
 青年医師が雪也を呼びに行ったのだろうか──。
「君はこういうのが好きなんだろう?」
亮の耳朶に息を吹きかけながら囁いた。何故だか亮はぎくりとする。男は亮の心を見透かしたように、にやりと笑い、続けた。
「だから、雪也センセイを拒めないんだよ」
 男の指が亮の胸の突起を摘み、捻るような愛撫を加えた。刺さるような痛みが走る。
 雪也を拒みきれない理由はそれなのだろうか──。胸の奥がまた痛む。
「君はこうして嬲られて、犯されて、視られることで快感を得る嗜好の人間なんだよ。彼から逃げられないのは、その快感を与えてくれるのが誰であるかをこの身体が理解しているからだ。──違うと思うかい?」
 亮は、違うと消え入りそうな声で反論したが、その小さな顎を上向かせられて苦しげに呻いた。
 愛しているのは喬一だけだと叫んでいる心の奥底で、もう一人の自分が囁く……あの疼きを忘れたか──。目を逸らすのは快楽に溺れるのを怖れたからだろう?
 雪也の涼やかな瞳を思い出した。切れ長の綺麗な瞳は、ぞくりとするほどで、まるで心を見透かすようにじっと見つめる。冷たいあの視線で睨めつけられると怖くて動けなくなる。目を逸らさないと……心が囚われそうで怖い。
 それを雪也に惹かれている証拠のようにこの男は言い、亮の身体はそれを理解しているとも言った。喬一を愛しているのに、躰の深い場所では雪也を求めているというのだろうか。
 強引に上向きにされたおかげで呼吸がし辛く、考えがうまく纏まらない。堂々巡りで答えが出ない。
 男の愛撫の手が止まり、亮の耳朶を口に含んだまま囁いた。
「目を開けてごらん。ほら……雪也センセイが視ている」
 男の舌から逃れるように身を捩り、薄目を開けると、棚に並べられた書類の隙間に息を切らせて駆け込んできたらしい雪也の姿が目に飛び込んできた。
 思わず亮が名前を叫ぶと、雪也の視線がこちらへと注がれる。
 雪也の視線を全身に感じると、身体中に電流が走ったかと思うほどの衝撃を受けた。それを否定すればするほど血は逆流を始める。
 男が握る亮の茎に血液が集中していき、むき出しにされていた性器の先端の割れ目には、はしたない体液が滲む。ほうら、と男が喉を鳴らして笑った。
 亮は俯いて棚に掴まり、雪也から目を逸らした。身体の反応を認めたくなくて歯軋りをする。
「ほら、聞こえますか? この音が──」
 男はわざと音を立たせて雪也に聞かせた。亮の滑りは男の台詞で更に溢れ出してきて、薄暗い保管室に淫猥な音が響き渡る。震える躰から小さな悲鳴があがった。
 男が亮の身体を引き摺り棚の前へ移動すると、雪也は身じろぎもしないで戸口に立っていた。
 痛いほどの雪也の視線を感じて、亮の身体も頭も痺れ始める。足が縺れて床に倒れ込む。注がれる視線が熱くて堪らない。
 涼やかな視線に晒されて少年の躰は激しく脈を打つ。
「は……あ。……ぁ」
 堪えきれずに艶っぽい声が唇から洩れた。その声に一番驚いたのは亮自身だった。ただ雪也の視線がそこに在るだけなのに、自分の躰がひくひくと攣れながら反応をする。
 追い討ちをかけるように男が亮のシャツをたくし上げ、雪也の視線の前に裸体を晒した。十八という歳の割りに出来上がっていない細身の躰。
「君はこうして陵辱されるのを望んでいるんだ」
「ち……がう」
「じゃあ、どうしてこんな風になる?」
 亮の視界に雪也しか見えない。これではまるで彼に愛撫されているようだ。自分の下腹部を強引に、愛情の欠片もなく愛撫しているのは下卑た別の男だと頭では理解しているのに、躰の奥は雪也に愛されている気がして火が灯る。自分の唇から洩れてくる吐息は雪也のせい──。
 雪也の視線が愛撫している、その心地よさを認めるしかなかった。
 助けを請うように、愛撫を求めるように亮が面を上げる。涙で滲んだ雪也の姿が紗にかかったようにぼやけていく。
 ぐいと腕を持ち上げられて、雪也の声がすぐ傍から聞こえた。
「よすんだ、亮」
 雪也は亮を立たせて、ふらつくその身体を支えてやる。肌を薄桃色に上気させた少年は、震える足で何とか立ち上がり、涙で霞む瞳で声の主を見上げた。
 男の怒号が狭い部屋を突き抜けると、縋っている雪也の纏う気が怒りに満ちるのを感じて視線をうろつかせた。見つけた顔は怒りで赤黒くなっていた。唾を飛ばしながら怒鳴り散らしているその男へ、雪也は冷たい視線を浴びせる。
「手を出すなと言ったはずだ」
 次はない。雪也は亮を抱え上げて言い放つ。最後に侮蔑を込めた一瞥をくれ、部屋を出た。
 歩きながら雪也は溜息を吐き、泣きべそをかいている亮へ、次の面会日には喬一と帰るようにと言いつける。しかし亮は素直に頷けない。彼を突き放せない理由がわかってしまったからだ。
 雪也に心惹かれるもう一人の自分が、こんなにも躰を疼かせている。喬一にはけして感じない、切ない疼きと痺れで身体が言うことをきかない。吐き出したくて堪らない──心も身体も麻痺していく。
 涙が溢れてきた。
 部屋に着いた亮は、雪也に縋りついたまま離れなかった。視ていてと告げた亮は自慰を始める。
 戸惑う雪也の膝の上で、快楽と切なさとに揺さぶられながら亮は達する。放出した亮の体液は、自身を覆うシャツが受け止め、じんわりと染みを滲ませていた。
 呆然としているのは亮だけではない。膝の上の細かな痙攣と同時に達した雪也も、放心状態に陥っていた。
 ズボンの中で苦しそうに吐き出された体液は生理的な不快感を与えたが、それ以上に高い高揚感を齎した。無意識に亮の身体を抱き締める。疎外感を感じることのない情事がこんなに愛しいものだとは思わなかった。
 熟れた果実のように甘みが増す吐息……艶めかしい喘ぎのような悲鳴。それを自らの腕の中で感じることが、こんなにも幸せなものなのか。
 抱き締める腕に力が篭る。その中で亮が泣いていた。晒したこの痴態を恥じているのだろうか。それともあの男に言われた言葉に傷ついているのだろうか。
 泣き止まない亮の柔らかな髪に唇を寄せながら、
「喬一と帰るんだ。いいね」
 懇願しているように目を瞑る。泣きそうになるのを堪え、いいねともう一度言った。
 身体を覆う高揚感や幸福感とは裏腹に、胸が酷く痛んで仕方がない。泣きじゃくる亮の背を擦りながら、それでももう少しこのままでいたいと願ってしまう自分の浅ましさを……雪也は呪った。
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