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咲う鶯燕地
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小鳥のさえずりや朝日の爽やかな日差しで目を覚ましたのではなかった。
亮は、くうっと鳴った自分の腹の虫で目を覚ました。時計を見ると、すでに正午を回っていた。
このままもう一度眠っても良かったのだが、食事は三度必ず摂るようにと、喬一に釘を刺されているから仕方なく床を出ることにする。
誰もいない食卓を囲むのでは、食欲も沸かない。一人でこの屋敷にいるのを寂しく思った亮は、遅い朝食を摂りに街へ出ることにした。
食が細かろうと腹はきちんと減るもので、あちらこちらから漂ってくる昼時の良い匂いは、更に空腹感を煽る。
しかし昼時ということもあり、どの店も行列が出来ていてすぐにありつけそうになかった。
急かすように、くうっとまた腹が鳴る。
ふと、この近くに贔屓の肉屋があることを思い出した。そこは店頭で揚げたての手作りコロッケを売っていて、少し甘口に作られたそれは喬一のお気に入りでもあった。
肉屋に行くと、運良く揚げたてが店頭ケースに並べられるところで、空腹であることも手伝ってか、大きなコロッケを五個も買ってしまった。
ほくほくと湯気が立つコロッケの入った紙袋を抱えて、近くの公園へ向かう。
家まで持って帰ればせっかくの揚げたてが冷えてしまうから、すぐに食べてしまおうということである。
平日の公園は人もまばらだった。亮は木陰に腰を下ろして、さっそくコロッケにかぶりつく。サクッとした衣の中から、滑らかに裏ごしされた芋が肉汁と一緒に口中に広がった。いつものコロッケの味に思わず笑顔が零れる。
花も盛りの桜が小山のようになっていて、時折吹き抜ける風に、花びらが、ざあっと攫われる様は真冬のように吹雪いて見えた。
その桜吹雪の中を、手を翳しながらやって来る人影がある。
木陰にいると光の加減のせいでその姿を判別できない。コロッケを持つ手を下ろし、目を凝らしてみる。明らかに、その人物はこちらへと向かっていた。
すらりとした影が目の前に立ち、ようやく誰であるかわかった時、目の前の彼は満面の笑みを浮かべて、ようっと声を掛け手を上げた。
風が彼の匂いをわざとらしく亮の鼻腔へと運んでくる。ぬくぬくとした春の陽気が更にその匂いを煽るように、亮の全身を包み込む。
「美味そうなの、喰ってんな」
朝之はしゃがみ込み、食べかけのコロッケを指差した。
「お腹が減ってるの?」
「え、くれるのか? 催促したみたいで悪いなぁ」
やると言ったつもりはなかったが、朝之は貰う気でいるようだ。湯気が立つコロッケを期待に満ちた目でみつめている。
亮は、仕方がないなぁと笑いを堪えつつ呟いて、紙袋からひとつ取り出した。
朝之はそのままあぐらをかいて座り込んだ。対面する格好でコロッケに噛りつく青年を、気恥ずかしそうに亮はみつめた。
大きなコロッケを三口ぐらいで平らげ、指についた油を舐め取りながら朝之が視線をこちらへ向けた。
「こんな昼間の公園でなにやってるんだ?」
朝之は明け透けのない物言いで訊いてくる。図々しく袋に手を突っ込み中味を取り出して、自分の物のように噛りついた。
「そういえば、初めて会った時も昼間だったよな? 仕事とかしてないのか?」
仕事の話をされると俯くしかない。外へ出ることを喬一が好まないからそれに甘んじているだけで、彼の稼ぎで暮らしている自分については、正直、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。飾り人形のように、ただ傍にいるだけ……。
朝之が短く嘆息した。
「客の事情は聞かないに限る」
ズボンに付いた砂を叩きながら立ち上がった。
客、という言葉が引っかかり、亮は訝るような顔で朝之を見上げた。
「ぼくは客ですか?」
朝之は、不思議そうな表情を見せた後、笑いながら亮に食指を向けた。
「だって、お前……。俺を買ったじゃないか」
そう答えられて、脳裏にあの日のことが鮮明に浮かぶ。
誘蛾灯に集まる蛾のように、あるはずのない愛しい匂いに誘われて買ってしまった街娼の男。
まるで雪也に抱かれているような錯覚に陥りながらも、その手管に、こんな風に彼は抱かないと頭のどこかが否定していた。
それでも、青年の匂いは充分すぎるほどに雪也を思い起こさせ、亮を高みへと昇り詰めさせた。
いやだ、と小さく呟いて亮の頬が朱に染まる。朝之の手管を思い出し、数十センチ先から漂ってくる、咽返る匂いに釣られて身体の中心が熱くなる。
「なんだ。思い出してるのか?」
朝之の声が呆れているように聞こえて、亮はさらに耳朶まで赤くした。
獣みたいな自分の性欲に半ば呆れ、そして悲しくなる。抱き締めて欲しいと願うのは未だに忘れられないあの人であって、目の前の男ではないはずだ。
それなのに、朝之の匂いに誘われてしまう自分が情けなくて仕様がない。元々弱い涙腺が緩み、ぽろぽろと涙を零す。
「泣くほど良かったって感じの泣き方じゃあないな。それ……」
朝之はもう一度しゃがみ、俯いている亮の顔を覗きこみながら呟いた。
「泣くのを忘れてしまうくらいに感じさせてみようか?」
亮はどきりとして、涙もすぐに止まった。
鼻腔をくすぐる甘い匂いが、濃密さを増して近寄ってくる。朝之はぐいと亮の手首を掴み、ブラウスの袖口から覗く紐で括られた例の痣を一瞥した。
「向こうに人目のつかない場所があるんだ」
亮を強引に立ち上がらせ、歩き出した。待ってくださいと亮は何度も訴えてみたが、朝之はまったくのお構いなしだ。
藪の中を右に左に曲がりくねり、散々連れまわされて、ようやく辿り着いたのは大きな山桜の木が立っている少し拓けたところだった。
青々とした葉と白い花びらが混在している様はとても綺麗で、朝之の言う行為をするには不似合いな場所だと思った。
手首を締めつけていた力が無くなり、見ると朝之は着ていた白い上着を木の根元に敷いている。
さあ、と言って亮を上着の上に座らせると、急かされているように顔を寄せてくる。
亮は咄嗟に顔を背けた。
「あ、あなたを買った覚えはないですよ」
「買われてはないけど。さっきのコロッケのお礼のつもり」
「あれは、朝之さんがお腹を空かせていたみたいだったからで、こんなことしてもらうためじゃありません」
「だけど、結局四つも喰っちゃったからね」
朝之の手が亮の頬に宛がわれて、上向かせる。
すぐ傍から漂う雪也の匂いに、亮は辛そうに顔を顰めて目を閉じた。
「どうせ、五つも食べられないのだし、朝之さんには食べてくれてありがとうって言いたいくらいです」
そう答えながら震える少年を見て、朝之は出会った時の……正確に言えば買われてすぐに亮が口にした言葉を思い出した。
抱き締めてくれるだけでいい。
なるほど、と一人妙に納得した朝之は、震えている肩を抱き寄せ腕の中にすっぽりと収めた。
驚いて身を固くする亮には構わずに、相変わらず細い身体を強く抱き寄せた。胸元から小さな呻き声が聞こえたかと思うと、それはすぐに嗚咽へと変わった。
朝之は少しばかり身体を離してやり、治まったばかりの涙がまた溢れ出した亮の顔をみつめ、訊いていいかなと訊ねる。
「何でそんな泣き方をするんだ? 俺がなにか酷いことでもしたのかな」
消え入りそうな声で、亮は違うと答えた。
「ぼくが悪いんだ」
そう答えて、しゃくり上げる。
「お前のどこが悪いんだ?」
朝之がそう訊ねても、ぼくが悪いんだと繰り返すばかりである。
「ぼくがしっかりしていれば済むことなんだ」
ようやく別の語彙が出てきたかと思えば、やはり自分を責める言葉に変わりはなかった。
「しっかりって、どういう風に」
「惑わされないように」
「なにに惑わされないようにだ?」
「匂いに」
朝之の言葉は、亮の頑なになっている心を少しずつ解していく。言葉にしていくことで気持ちが軽くなることもあるのだと、朝之が教えているようにも見えた。
「何の匂い? 誰の匂い?」
「雪也さんの匂い。朝之さんの匂い」
ここで固有名詞が出てきた。
「その匂いに惑わされてはいけないのか?」
「あなたは雪也さんじゃないから」
言葉はそこで止まり嗚咽が始まった。
「ぼくが悪いんだ」
その呟きに、朝之は少し苛立ったような声を出した。
「俺の匂いが誘惑してるんだろう。だったら、俺が悪いんじゃないのか?」
亮は泣きながら首を振り、それは違うと言った。
「ぼくがしっかりしていれば誘惑なんかされない。ぼくが淫乱なのがいけないんだ」
「それじゃあ、俺にはまるで魅力がないってことか」
亮はすぐに顔を上げて朝之を見た。
「そういう意味じゃありません。ただ、ぼくが一番悪いっていうだけで」
朝之は焦れたように、自責の言葉を吐く少年を押し倒し、ズボンの上からそれを撫で上げた。
亮は驚いた顔でその手を払ったが、怒ったような表情で睨みつけている朝之を見て、思わず肩を竦ませる。その隙に引っ張り出された亮の中心部は、男の強引な愛撫を受け始める。
信じられないといった表情で身を固くしていると、朝之は更に行為を進ませて先端を口に含んだ。
亮の反応を確かめると、勃ち始めた茎を口から解放する。口角を伝う唾液を拭うこともしない。
「朝之が悪いって言ってみなよ」
「嫌です」
亮は即答した。
朝之はもう一度亮の茎を咥えて口淫する。ひとしきり舐め上げてまた離し、
「俺が誘惑してるんだ。朝之が悪いって言ってみな」
同じ言葉を繰り返し言う。
亮は、朝之さんは悪くないと答えて、頑として従わない。
次に含んだ時には強く吸い上げてやる。すると先端からじわりと蜜が溢れ出してきた。
「朝之が悪いって言わないと、止めてやらないよ」
ぺろりと舌で蜜を掬い取る。
「朝之が悪い」
囁くように朝之が言う。下肢を嬲る愛撫に堪えきれなくなった亮は、その言葉を復唱した。
「トモユキガワルイ」
それを口にした途端に、心の奥底にあったいろんな思いが堰を切って流れ出した。
「トモユキガワルイ」
もう一度呟いた。
亮の中に溢れてくる思い──。
恋しい雪也を身近で感じることができないどうしようもない辛さ。雪也を死なせたのは、自分が追い詰めたからではないかという自責の念。心の底から愛し、大切にしてくれる喬一への裏切り。その負い目から、いつ捨てられても可笑しくはないと思う、怯えて過ごす日々。
喬一の優しさにすべてを委ねるのが怖いのも、いつか雪也のように追い詰めてしまうかもしれないからだ。
血縁である伯父に公娼宿へ追いやられたのも、役に立たない自分の無能さが引き起こしたことで、それらはすべて自分に責任があり、けして彼らが悪いわけではない。
すべては自分が──。自分が悪いから引き起こされた出来事であると、亮は疑わなかった。
しかし、朝之は言うのだ。
誘惑される亮が悪いのではなくて、誘惑している朝之が悪いのだと──。
「トモユキガ……ワルイ!」
これは心が軽くなる呪文だろうかと亮は思いながら呟いた。
声を限りに叫んだら、楽になれるだろうか。大声で朝之が悪いと叫んだ後、誰憚ることなく声をあげて泣き出した。
朝之は、自分が乱してしまった亮の服装を宥めるように整えてやり、落ち着くのを待った。
肩を上下に揺らしながら、徐々に落ち着きを取り戻した亮の頭を撫でてやりながら抱き寄せた。
「誰かのせいにしたっていいんだ。なにも、ぜんぶお前が背負わなくたっていいじゃないか。なにがお前をそこまで責め立てるのか知らないけど……」
亮は思わず朝之に縋りついた。
「お前は世界が狭すぎるんだ。もっと自由になればいい」
そう優しく声をかけたかと思うと「友達はちゃんといるのか?」などと小さな子供に訊くような質問をする。
すっきりとした気分を喜んでいたのに、朝之のこの質問で一気に表情が暗いものへと変わる。
目に見えるほどの動揺に気づいた朝之は、二十五らしい好青年の笑みを浮かべた。
「じゃあ、俺が友達だな。それとも街娼なんかやってるような友達はいらないか」
亮は首を思いきり振る。
「朝之が友達ならすごく嬉しい」
はにかみながら笑って見せると、つられるように朝之も満面の笑みで返した。
端正な朝之の笑顔は思いのほか子供っぽいものだと思いながら、初めてできた友達なるものに、亮は強い感動を覚えていた。
亮は、くうっと鳴った自分の腹の虫で目を覚ました。時計を見ると、すでに正午を回っていた。
このままもう一度眠っても良かったのだが、食事は三度必ず摂るようにと、喬一に釘を刺されているから仕方なく床を出ることにする。
誰もいない食卓を囲むのでは、食欲も沸かない。一人でこの屋敷にいるのを寂しく思った亮は、遅い朝食を摂りに街へ出ることにした。
食が細かろうと腹はきちんと減るもので、あちらこちらから漂ってくる昼時の良い匂いは、更に空腹感を煽る。
しかし昼時ということもあり、どの店も行列が出来ていてすぐにありつけそうになかった。
急かすように、くうっとまた腹が鳴る。
ふと、この近くに贔屓の肉屋があることを思い出した。そこは店頭で揚げたての手作りコロッケを売っていて、少し甘口に作られたそれは喬一のお気に入りでもあった。
肉屋に行くと、運良く揚げたてが店頭ケースに並べられるところで、空腹であることも手伝ってか、大きなコロッケを五個も買ってしまった。
ほくほくと湯気が立つコロッケの入った紙袋を抱えて、近くの公園へ向かう。
家まで持って帰ればせっかくの揚げたてが冷えてしまうから、すぐに食べてしまおうということである。
平日の公園は人もまばらだった。亮は木陰に腰を下ろして、さっそくコロッケにかぶりつく。サクッとした衣の中から、滑らかに裏ごしされた芋が肉汁と一緒に口中に広がった。いつものコロッケの味に思わず笑顔が零れる。
花も盛りの桜が小山のようになっていて、時折吹き抜ける風に、花びらが、ざあっと攫われる様は真冬のように吹雪いて見えた。
その桜吹雪の中を、手を翳しながらやって来る人影がある。
木陰にいると光の加減のせいでその姿を判別できない。コロッケを持つ手を下ろし、目を凝らしてみる。明らかに、その人物はこちらへと向かっていた。
すらりとした影が目の前に立ち、ようやく誰であるかわかった時、目の前の彼は満面の笑みを浮かべて、ようっと声を掛け手を上げた。
風が彼の匂いをわざとらしく亮の鼻腔へと運んでくる。ぬくぬくとした春の陽気が更にその匂いを煽るように、亮の全身を包み込む。
「美味そうなの、喰ってんな」
朝之はしゃがみ込み、食べかけのコロッケを指差した。
「お腹が減ってるの?」
「え、くれるのか? 催促したみたいで悪いなぁ」
やると言ったつもりはなかったが、朝之は貰う気でいるようだ。湯気が立つコロッケを期待に満ちた目でみつめている。
亮は、仕方がないなぁと笑いを堪えつつ呟いて、紙袋からひとつ取り出した。
朝之はそのままあぐらをかいて座り込んだ。対面する格好でコロッケに噛りつく青年を、気恥ずかしそうに亮はみつめた。
大きなコロッケを三口ぐらいで平らげ、指についた油を舐め取りながら朝之が視線をこちらへ向けた。
「こんな昼間の公園でなにやってるんだ?」
朝之は明け透けのない物言いで訊いてくる。図々しく袋に手を突っ込み中味を取り出して、自分の物のように噛りついた。
「そういえば、初めて会った時も昼間だったよな? 仕事とかしてないのか?」
仕事の話をされると俯くしかない。外へ出ることを喬一が好まないからそれに甘んじているだけで、彼の稼ぎで暮らしている自分については、正直、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。飾り人形のように、ただ傍にいるだけ……。
朝之が短く嘆息した。
「客の事情は聞かないに限る」
ズボンに付いた砂を叩きながら立ち上がった。
客、という言葉が引っかかり、亮は訝るような顔で朝之を見上げた。
「ぼくは客ですか?」
朝之は、不思議そうな表情を見せた後、笑いながら亮に食指を向けた。
「だって、お前……。俺を買ったじゃないか」
そう答えられて、脳裏にあの日のことが鮮明に浮かぶ。
誘蛾灯に集まる蛾のように、あるはずのない愛しい匂いに誘われて買ってしまった街娼の男。
まるで雪也に抱かれているような錯覚に陥りながらも、その手管に、こんな風に彼は抱かないと頭のどこかが否定していた。
それでも、青年の匂いは充分すぎるほどに雪也を思い起こさせ、亮を高みへと昇り詰めさせた。
いやだ、と小さく呟いて亮の頬が朱に染まる。朝之の手管を思い出し、数十センチ先から漂ってくる、咽返る匂いに釣られて身体の中心が熱くなる。
「なんだ。思い出してるのか?」
朝之の声が呆れているように聞こえて、亮はさらに耳朶まで赤くした。
獣みたいな自分の性欲に半ば呆れ、そして悲しくなる。抱き締めて欲しいと願うのは未だに忘れられないあの人であって、目の前の男ではないはずだ。
それなのに、朝之の匂いに誘われてしまう自分が情けなくて仕様がない。元々弱い涙腺が緩み、ぽろぽろと涙を零す。
「泣くほど良かったって感じの泣き方じゃあないな。それ……」
朝之はもう一度しゃがみ、俯いている亮の顔を覗きこみながら呟いた。
「泣くのを忘れてしまうくらいに感じさせてみようか?」
亮はどきりとして、涙もすぐに止まった。
鼻腔をくすぐる甘い匂いが、濃密さを増して近寄ってくる。朝之はぐいと亮の手首を掴み、ブラウスの袖口から覗く紐で括られた例の痣を一瞥した。
「向こうに人目のつかない場所があるんだ」
亮を強引に立ち上がらせ、歩き出した。待ってくださいと亮は何度も訴えてみたが、朝之はまったくのお構いなしだ。
藪の中を右に左に曲がりくねり、散々連れまわされて、ようやく辿り着いたのは大きな山桜の木が立っている少し拓けたところだった。
青々とした葉と白い花びらが混在している様はとても綺麗で、朝之の言う行為をするには不似合いな場所だと思った。
手首を締めつけていた力が無くなり、見ると朝之は着ていた白い上着を木の根元に敷いている。
さあ、と言って亮を上着の上に座らせると、急かされているように顔を寄せてくる。
亮は咄嗟に顔を背けた。
「あ、あなたを買った覚えはないですよ」
「買われてはないけど。さっきのコロッケのお礼のつもり」
「あれは、朝之さんがお腹を空かせていたみたいだったからで、こんなことしてもらうためじゃありません」
「だけど、結局四つも喰っちゃったからね」
朝之の手が亮の頬に宛がわれて、上向かせる。
すぐ傍から漂う雪也の匂いに、亮は辛そうに顔を顰めて目を閉じた。
「どうせ、五つも食べられないのだし、朝之さんには食べてくれてありがとうって言いたいくらいです」
そう答えながら震える少年を見て、朝之は出会った時の……正確に言えば買われてすぐに亮が口にした言葉を思い出した。
抱き締めてくれるだけでいい。
なるほど、と一人妙に納得した朝之は、震えている肩を抱き寄せ腕の中にすっぽりと収めた。
驚いて身を固くする亮には構わずに、相変わらず細い身体を強く抱き寄せた。胸元から小さな呻き声が聞こえたかと思うと、それはすぐに嗚咽へと変わった。
朝之は少しばかり身体を離してやり、治まったばかりの涙がまた溢れ出した亮の顔をみつめ、訊いていいかなと訊ねる。
「何でそんな泣き方をするんだ? 俺がなにか酷いことでもしたのかな」
消え入りそうな声で、亮は違うと答えた。
「ぼくが悪いんだ」
そう答えて、しゃくり上げる。
「お前のどこが悪いんだ?」
朝之がそう訊ねても、ぼくが悪いんだと繰り返すばかりである。
「ぼくがしっかりしていれば済むことなんだ」
ようやく別の語彙が出てきたかと思えば、やはり自分を責める言葉に変わりはなかった。
「しっかりって、どういう風に」
「惑わされないように」
「なにに惑わされないようにだ?」
「匂いに」
朝之の言葉は、亮の頑なになっている心を少しずつ解していく。言葉にしていくことで気持ちが軽くなることもあるのだと、朝之が教えているようにも見えた。
「何の匂い? 誰の匂い?」
「雪也さんの匂い。朝之さんの匂い」
ここで固有名詞が出てきた。
「その匂いに惑わされてはいけないのか?」
「あなたは雪也さんじゃないから」
言葉はそこで止まり嗚咽が始まった。
「ぼくが悪いんだ」
その呟きに、朝之は少し苛立ったような声を出した。
「俺の匂いが誘惑してるんだろう。だったら、俺が悪いんじゃないのか?」
亮は泣きながら首を振り、それは違うと言った。
「ぼくがしっかりしていれば誘惑なんかされない。ぼくが淫乱なのがいけないんだ」
「それじゃあ、俺にはまるで魅力がないってことか」
亮はすぐに顔を上げて朝之を見た。
「そういう意味じゃありません。ただ、ぼくが一番悪いっていうだけで」
朝之は焦れたように、自責の言葉を吐く少年を押し倒し、ズボンの上からそれを撫で上げた。
亮は驚いた顔でその手を払ったが、怒ったような表情で睨みつけている朝之を見て、思わず肩を竦ませる。その隙に引っ張り出された亮の中心部は、男の強引な愛撫を受け始める。
信じられないといった表情で身を固くしていると、朝之は更に行為を進ませて先端を口に含んだ。
亮の反応を確かめると、勃ち始めた茎を口から解放する。口角を伝う唾液を拭うこともしない。
「朝之が悪いって言ってみなよ」
「嫌です」
亮は即答した。
朝之はもう一度亮の茎を咥えて口淫する。ひとしきり舐め上げてまた離し、
「俺が誘惑してるんだ。朝之が悪いって言ってみな」
同じ言葉を繰り返し言う。
亮は、朝之さんは悪くないと答えて、頑として従わない。
次に含んだ時には強く吸い上げてやる。すると先端からじわりと蜜が溢れ出してきた。
「朝之が悪いって言わないと、止めてやらないよ」
ぺろりと舌で蜜を掬い取る。
「朝之が悪い」
囁くように朝之が言う。下肢を嬲る愛撫に堪えきれなくなった亮は、その言葉を復唱した。
「トモユキガワルイ」
それを口にした途端に、心の奥底にあったいろんな思いが堰を切って流れ出した。
「トモユキガワルイ」
もう一度呟いた。
亮の中に溢れてくる思い──。
恋しい雪也を身近で感じることができないどうしようもない辛さ。雪也を死なせたのは、自分が追い詰めたからではないかという自責の念。心の底から愛し、大切にしてくれる喬一への裏切り。その負い目から、いつ捨てられても可笑しくはないと思う、怯えて過ごす日々。
喬一の優しさにすべてを委ねるのが怖いのも、いつか雪也のように追い詰めてしまうかもしれないからだ。
血縁である伯父に公娼宿へ追いやられたのも、役に立たない自分の無能さが引き起こしたことで、それらはすべて自分に責任があり、けして彼らが悪いわけではない。
すべては自分が──。自分が悪いから引き起こされた出来事であると、亮は疑わなかった。
しかし、朝之は言うのだ。
誘惑される亮が悪いのではなくて、誘惑している朝之が悪いのだと──。
「トモユキガ……ワルイ!」
これは心が軽くなる呪文だろうかと亮は思いながら呟いた。
声を限りに叫んだら、楽になれるだろうか。大声で朝之が悪いと叫んだ後、誰憚ることなく声をあげて泣き出した。
朝之は、自分が乱してしまった亮の服装を宥めるように整えてやり、落ち着くのを待った。
肩を上下に揺らしながら、徐々に落ち着きを取り戻した亮の頭を撫でてやりながら抱き寄せた。
「誰かのせいにしたっていいんだ。なにも、ぜんぶお前が背負わなくたっていいじゃないか。なにがお前をそこまで責め立てるのか知らないけど……」
亮は思わず朝之に縋りついた。
「お前は世界が狭すぎるんだ。もっと自由になればいい」
そう優しく声をかけたかと思うと「友達はちゃんといるのか?」などと小さな子供に訊くような質問をする。
すっきりとした気分を喜んでいたのに、朝之のこの質問で一気に表情が暗いものへと変わる。
目に見えるほどの動揺に気づいた朝之は、二十五らしい好青年の笑みを浮かべた。
「じゃあ、俺が友達だな。それとも街娼なんかやってるような友達はいらないか」
亮は首を思いきり振る。
「朝之が友達ならすごく嬉しい」
はにかみながら笑って見せると、つられるように朝之も満面の笑みで返した。
端正な朝之の笑顔は思いのほか子供っぽいものだと思いながら、初めてできた友達なるものに、亮は強い感動を覚えていた。
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