恋風

高千穂ゆずる

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春の染み

(1)

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 駅の構内は出勤途中の人の波で溢れ返っていた。
 この街も、都心への乗り入れが短縮されたおかげで、やれ夢のマイホームだのなんだのと派手な宣伝をしたせいも手伝って、所謂新興住宅というものが挙って連立されていった。
 必然的に人口も爆発的に増えるから、こうして洪水のような人の波ができる。
 喬一が幼い頃過ごしたのどかな風景など、街の中心部に至っては垣間見る事すら不可能になってしまった。
 取材旅行から戻って来た喬一は、それらの人の波とは逆方向に歩いていく。
 戻って来たのだから当たり前なのだが、出勤する多くの人たちの中をかき分けて駅を出るのは、実に骨が折れた。
 電車一本遅らせれば済むことだったが、喬一には一刻も早く帰らなければならない理由があるのだ。
 昨日の亮の様子は明らかにおかしかった。
 おかしいと呼ぶのもまた可笑しい話なのだが、とにかく喬一にとって、昨日の亮は明らかに今までの彼とは様子が違っていたのだ。
 雪也の死からようやく二年が過ぎてくれた。喬一はそう思っている。
 兄を失ったばかりの亮は惨惨たるもので、いつその後を追うやら気が気ではないほど憔悴しきっていて、目が離せなかったものだ。
 抱いているときは良かった。縛り上げた両手から感じる苦痛だけが、亮にとっての現実でたったひとつの世界だった。その世界の中で生きているのは誰かなんて、考えるべくもない。それでも亮が望むから……。
 絶頂に達するとき、雪也の名前を呼んでいた亮がいつのまにかそれを口にしなくなった。果たしてそれがすべてだろうか。
 疑えばきりが無い。──まだ雪也を想っているかもしれない。
 心の内までは覗けないのだから、亮の中に兄はまだひっそりと、そして確かに存在しているのかもしれない。だから幾度抱こうと不安は拭いきれない。
 亮が望むように抱いてきた。手荒な真似は極力避けてきた。誰にも会わせず外界からも遠ざけた。亮には自分しかいないとわかってもらうために……。
 そして気づいた時には亮の顔から笑顔が消えていた。
 出会った頃はもっと笑っていたはずだ。娼館で酷い扱いを受けていても、喬一の傍ではコロコロと表情を変えながらよく笑う、可愛い少年だった。
 大声で笑い転げることはなかったが、それでも、いたいけな少年の柔らかな笑みと鈴の音のような笑い声はとても耳に気持ちよくて、それが聞きたいばかりにくだらない話をたくさん喋っては笑わせていたものだ。
 笑わなくなった亮……。表情が乏しくなった少年が、以前のような張りのある凛とした喋り口で言ったのだ。
 会いたいよ、と──。
 早く仕事を終えて帰ってきてね、と──。
 普通ならば喜ぶべきなのだろうと思う。それが自分の影響なのだと胸を張って言えるのであれば……。
 仕事で家を空けている間に起こった何かの影響だとするならば、喬一にとってそれは脅威でしかない。
 そもそも後を追いかねない亮をこの現世に留めていられるのも、自分の想いがあればこそだ。だから一刻も早く家に戻り、確かめずにはいられなかった。
 それが、取るに足らない塵のようなものであることを確かめなければいけない。
 亮には喬一が必要なのだし、欲するものすべてを与えられるのは喬一だけなのだ。食うことも眠ることも、そして快楽もすべて、与えることができるのはこの世に一人だけ……。
 それを乱す何かが起こったのだ。
 喬一は、混み合う構内を抜けてようやく外に出ることが出来た。
 旅行鞄を抱え直すと、ちょうど目の前の信号が青に変わり、人の流れと共に歩き出した。
 ふわりと風が舞ってなにやら甘い香りがする。
 穏やかで、甘くて──。
 ああそうだと、気づいた喬一の足が横断歩道の中ほどで止まる。
「オレと同じ香水だ、これ」
 つい口に出してしまった。
 匂いは強さを増していく。身につけている人物が近づいているのだろうと思いながら、視線はその匂いの主を探していた。
 舶来物のこの香水はとても値が張っていて、そうそう手に入るものではないのだ。
 しかしその香りは確かにこの雑踏の中にあり、近づいて来てもいる。そして、その人物は泳ぐように人の波の間をすいすいとすり抜けてやって来た。
 喬一は何気に彼をみつめる。
 綿の白いコートの裾を翻しながら颯爽と歩いてくるのは、自分と同じくらいの年恰好の青年だった。
 彼が近づくにつれて、同じ香水であるはずの残り香が、別のものへと変化する。記憶のすべてから抹消してしまいたい誰かのそれと、まったく同じなのだ。
 すれ違いざま、驚愕の表情で彼を凝視していると、視線に気づいたのか、白いコートの男がこちらを向いた。
 嫌味なくらいに顔の造作が整った男である。男の表情が僅かに変わった。驚いているようにも取れたが、喬一にはまったく面識のない男だ。
 視線が絡み合う中で、彼の香りは更に喬一の中へ、恐怖にも似た感情を呼び起こす。
 白檀の甘く清廉とした残り香は、喬一の場合あまり強くない。むしろ沸き立つように、それが残り香であることすら忘れてしまいそうなくらいの華やかな匂いへ変化させるのは、雪也の方だった。
 催淫効果もある白檀の香りを独特の残り香に変えて、男は誘うように喬一の横を通り過ぎていく。
 絡み合った視線のまま、すれ違う二人の間にひとつの影が飛び込んできた。
 喬一の意識も現実へと呼び戻されて、闖入者へと顔を向けた。
 小柄な女性が、白いコートの男に後ろから抱きついている。喬一の嫌いな、どこか裏のある瞳を男に向け、殊更甘えた声を出す。わざと自分の胸を押し付けて、媚びた瞳で男を見上げている。
 男がもう一度こちらへ視線を向けた。目を逸らすのが何だか癪に思えて、睨みつけてやると、その男はこれ見よがしに女の肩を抱き寄せた。
「久しぶりに燃えてみる? 俺と」
 挑むような双眸を向けてくる。
 何だか無性に腹が立った。喬一は大仰に鼻息をふんと鳴らし、点滅を始めた信号に促されるように駆けだした。
 横断歩道を渡りきって振り返ると、コートの男の姿はどこにもなかった。
 雪也の残り香に憧れて、こっそりとつけたこの香水も、身に帯びた人間の体臭如何でどのようにも匂いが変わることを知った昔。
 けして雪也と同じ甘い残り香を醸すことはできなかったのに、あの男は──。
 女の肩を抱き寄せて、下品な言葉を発した男が兄と同じ匂いだとは思いたくなかった。
 雪也は、雪也はと、心の中でその名を連呼している自分に気づき、くしゃりと髪を掴み上げた。雪也が潜んでいるのは自分も同じではないか。
 喬一は歯軋りした。
 二年も過ぎているのに、匂いひとつで思い出してしまう。雪也はまだ──現世にいる。

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