恋風

高千穂ゆずる

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ふた欠片の情夫(いろ)

(4)

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 飛ぶ燕の姿が彫られている欄間をじっとみつめていると、不思議と心が休まる。そこから差し込む橙色の明かりがよけいにそう思わせるのかもしれない。
 この部屋で行われる淫靡な催し──馨は、客との性行為をこう感じていた──を思えば、心が休まるはずなどなかった。
 地位のある者、財を成した者。皆が馨、つまり燕をこぞって求めた。
 料理を食す座敷とはまた別に、渡り廊下と反り橋を経た最奥に、鳥の名に因んだ部屋がある。
 雀、千鳥、翡翠、燕ときて更にその奥には鶯の間。
 あって、鶯の間は封印されている。従って、現在では燕が奥の間ということになり、上等の娼妓をそこで抱くことがステータスなのだという。望めば誰でも手にすることができる安っぽい代物ではない。だからこそ人は燕を求めるのだが……。
 馨は、そんな連中を鼻で笑う。
 欲しいのは唯一人。奪われたくないのは彼一人。それ以外の有象無象には興味などない。まったくない。
 奴らが欲するのは常に娼妓の燕である。無であり有である、また闇であり光である、好色な傀儡だ。
 奴らに穢された後は、とりわけ欲しくなる。彼の清浄さに浄化されたいと願い、その身を穿ちたくなる。彼の中へ自らの穢れを放つことで浄化されそうな気がするのだ。限りない優しさに癒されたいと甘えて抱かれる。その温もりは、犯した罪を赦してくれそうな気がするからだ。
 彼が傍に居てくれるだけで、生きていける。
 誰にも奪われたくない。
 だから朝之。
 鶯には近づかないでくれ────。


「燕」
障子越しに声を掛けられて、現実に引き戻された。
「はい」
 少し上ずる声で返事をした。
「みえられました」
 障子が少し開き、畏まった女将の艶やかな黒髪が垣間見えた。白い指先が畳の縁を、なぞるように揃う。
 廊下の灯りを背に黒い影が浮かび上がる。馨はそれを見上げ、鬱々とした表情を一瞬だけ見せた。
「ようこそ、おいでくださいました。岡田さま」
艶を帯びた声を出す。
 女将が開けた障子の向こうには、馴染みの岡田と見慣れぬ男が立っていた。
 怪訝な顔で女将に視線を送るが、彼女は終始下を向いたまま立ち上がり、部屋を下がって行く。
 仕方なく燕は岡田に視線を遣り、こちらの方はどちらさまですかと訊いた。
 初老の老人という風情の岡田は、顔の色艶からして六十に差し掛かったばかりと思ったが、実際はとうに七十を越している。
その男がにやりと笑った。
「この男が気になるか? 燕よ」
「そりゃあ、気になりますよ。こういった場所が不慣れな印象がありますもの」
 棒のように突っ立っている男へ顔を向け、にっこりと笑った。
 男は憮然とした顔で、顔を逸らす。
 その様を岡田は楽しそうに見つめ、しわがれた声で笑った。
「最近可愛がっているなんだよ」
「……と言いますと。では、こちらの方もでいらっしゃるんですね。これは凄い」
「何が凄いものか。この男───初めて抱いたが忘れられないなどと言って、女遊びもしなけりゃ酒も嗜みやしない。そんな男のどこが凄いものか。だから、なあ燕。ここは折り入っての頼みなんだが、聞いてはくれまいか」
「はい、なんでしょう」
花のような笑みを返す。
「お前が相手をしてはくれまいかの」
 窺うような視線を男へ向けた。何が気に喰わないのか、憮然とした顔で正座している。立場上断れず、ここまで連れて来られてしまったのだろう。ここは一旦、岡田に部屋から出て行ってもらうのが懸命だと思った。
「承知いたしました。つきましては私からもお願いが……。岡田さまが同席されては、こちらの方も遠慮がございましょうから……ねえ? 今夜は別席にてごゆるりとお過ごしくださいませ」
 岡田は、おおそうかと脂下がる。
「ではな、田畑くん。後はこの子に任せていればいい。燕の味を知れば、そんな昔の色事など忘れさせてくれる」
 眉一つ動かさない男の肩を二度ほど叩き、燕の間を後にした。
 田畑と呼ばれた男は軽く会釈をして、燕の方を向いた。
「きみを抱く気はさらさらない。少しの間、時間潰しをしてくれればいい」
 部屋の中央へとやって来ると、どかっと座って胡坐をかいた。
 はっきり抱く気はないと言われて、拍子抜けした。そんな風に言われては、こちらも少し意地になってしまう。
 座卓を挟んだ向かいに座る男は、胸ポケットから煙草とライターを取り出し、ひとりで火を点け、面倒臭そうに紫煙を天井に向けて吐き出している。
 気持ちがいいくらいに失礼な男だった。
「田畑さまで……よろしいのですか?」
 男はまったく視線を合わせずに、ああとだけ答えた。
「私がお嫌でしたら、他の子を紹介いたします。田畑さまはどういった子が好みですか?」
「私は彼にしか興味が湧かない」
 どきりとした。自分と同じことを思う男を凝視する。
「きみとは明らかに違う。──夢のような少年だったんだよ」
 わざと燕の顔にかかるように紫煙を吐きつけた。
 燕は目を瞬かせ、こほんと軽く咳き込んだ。
「きみに用意できるのかねえ」
「それは、お話を伺ってからでないと……」
 田畑は、まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けながら言った。
「あの子は……どんな辱めを受けても、ただひたすら黙って耐え続けていた。その時の、彼の泣き声と零れていく涙が忘れられないんだ。泣けば泣くほど、嫌がれば嫌がるほど……酷いことをしたくなる。そんな少年だった」
 鶯──。
 思わず口をついて出た名前。そして脳裏に浮かぶ青年……。
 燕は田畑の手の上に、自らの手を添えた。
「それなら、良い子がいます。きっと気に入りますよ」
「人を担ぐものじゃない。彼のような子がいるものか」
「一度だけ。騙されてやってはくれませんか? 会うだけですよ。それだけです」
 田畑はようやく気づく。
 すぐ近くに寄せられた燕の笑みが、妖艶なものに変わっていることに。
「都合がついたらから連絡をいたします。その時は……鶯の囀りを聴きに来たと言ってくださいませ」
 いいですねと念を押す。
 鶯の囀りですよ、と────。

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