恋風

高千穂ゆずる

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ふた欠片の情夫(いろ)

(6)

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 寝返りを打ち、伸ばした指先のシーツがひやりとして、瞳がぱちりと開いた。
 横で休んでいた喬一の姿がいつのまにか消えていて、あるはずの温もりがなくなっていた。
 太鼓を打つような脈動が心臓を激しく追い立てる。怖くて胸に手を当て何度もそこを擦った。
 大丈夫、と口にしてみる。
「大丈夫。喬一はぼくを置いてどこにも行ったりしない」
 きっと自室で原稿を書いているに違いない。連載を依頼されたばかりだから、きっとそうだ。
ベッドを下り、裸足のまま廊下へ出た。
 無音だった。
 柔らかな日差しが窓から差し込む廊下を、ひたひたと歩く。
 大丈夫だと言い聞かせながら、隣りの喬一の部屋を覗いてみる。がらんとしていて、人がいた形跡すら窺えない。遮光カーテンは閉じられたままであるし、机の上の原稿用紙は昨日とまったく同じ位置に置かれていた。
 夢見でも悪かっただけだろうか。
 それでも激しく動揺している自分がいる。今まででも、喬一が所用で家を空けたことは何度もある。今日とてそうなのだろう。それなのに、この激しい動悸が治まらない。むしろ、酷くなっていく。
 考えては駄目だと、自分を叱責する。考えたら──後は止め処なく不安が溢れ出すだけだからだ。
 いなくなった雪也を必死で探したあの雨の日の、怖ろしいほどの孤独……。
 死んでしまった雪也を求めて足掻いた、押し潰されそうな文目もわかぬ漆黒の闇。
 亮は呻き声を上げた。
 喬一は変わらず傍にいると誓ってくれた。だから、自分もそれに応えるために、生きようと……思っている。
 では、何故。───喬一はいない?
 力の入らなくなった両足は、がくがくと激しい痙攣を起こした。へたり込むようにその場に腰を落とす。
 用があって出かけたのだ。慌てていたから、書置きすることをうっかり忘れてしまっただけ。
 いないのではなくて、出かけているだけ。
 滲んだ汗が一つに纏まりこめかみを伝う。
息苦しくて、浅い呼吸を何度も繰り返した。
 昼近くで明るいはずの周囲が暗くなっていき、自分の息遣いしか聞こえてこない。まるで、この世の中でたった独りきりになってしまったような気がする。
 もしや秘密を知られてしまったのだろうか? 裏切り続けている心の奥底を、喬一に見られてしまったのだろうか? では、これは罰なのか。
「ぼくには耐えられない」
 死んだ者をいつまでも恋しがることへの戒めか? それとも胸に空いた穴を埋めるために喬一の傍らを選んだ──罰。
息が出来なくて、胸を掻き毟る。爪の中に肉が食い込み、柔肌に血が滲む。
 独りは嫌。独りは嫌。───独りは、イヤ。
 口にしたい。その名を呼びたい。大声で、雪也の名前を叫びたい。そうしたら……。迎えに来てくれるだろうか。
 もしも、ただ出かけただけの喬一が戻ってきて、雪也を呼ぶ自分の姿を彼が見たら。そう思うと、喉の奥が詰まって声にならない。
 しかし、秘密を知られて捨てられたのだとしたら……この先、どうしたらいいんだろう。
 呼吸が上手くできなくて、意識が混濁し始める。亮、と呼ばれたがすぐには反応できなかった。
 耳元で、誰かが何事かを話しかけているようだが、さっぱりわからない。
 その場から抱き起こされ、ふわりと香る白檀。
 亮の瞳が一瞬見開かれた。焦点は定まっていなかったが、光が戻ったように瞳が煌く。
「今、喬一が医者を呼んでるから。しっかりしろよ」
 朝之だった。
 見開かれた双眸に涙が溢れていく。
 それは眦に集まり、──違うと亮が呟いた後、血の気が失せて真っ白な頬の上を一筋伝い落ちた。
 自分の身体を包んでいるこの白檀の香りは雪也のものではない。
 彼が現れるはずもないのに、どうしてこの香りがすると期待してしまうのだろう。
 込み上げる嗚咽。
 朝之の手が背を優しく擦ってくれた。慌てて駆け寄ってくる喬一は、途中躓いて転びそうになっていた。
 二人が交互に声を掛けてくれ、けして世界で独りきりなどではない事を教えてくれる。
 しかし、心配そうに伸びてきたその手を、亮は取れないでいる。
 雪也への恋慕が、涙という形になって溢れ出してしまっている今、その手を取ることはできない。
 独りは嫌なのに、ひとりにさせて欲しいと二人に懇願した。喬一と朝之は互いに顔を見合わせている。
 自力でどうにか立ち上がり、部屋へ戻ろうと、痙攣している足を懸命に動かした。 壁に縋り、ずるずると歩く。涙の染みが足跡のように亮の後へ続いた。
 喬一が堪らずに手を差し出すが、首を振ってそれを断る。
「いい加減にしろ!」
朝之が声を荒げた。亮はびくりと肩を跳ね上げた後、その場に立ち尽くした。
「喬一の気持ちを考えろよ。そんな状態で目の前を歩かれて、平気なヤツがいるもんか」
 亮は、生気のない唇を黙って噛み締めた。その唇を掠めるように涙が零れていく。
 雪也が恋しくて泣いている今の自分に、それは許されるはずがないと思っていた。首を振り、強情なまでに喬一が伸ばした手を押し戻す。
「今のお前を支えてやれるのはコイツしかいないだろう? 居もしない人間にいつまで捕らわれているつもりだ」
 くいと顎をしゃくる。
「ほら、喬一。手を貸してやれよ」
指図するが、言われた喬一は戸惑っている。強く嫌だと言われると何もできないのだ。亮の嫌がることはしたくない。
 壁に縋って俯いている顔を覗きこむ。
 亮もそれに合わせて喬一の方へと顔を向けた。
「……亮?」
亮は弾かれたように縋りついてきた。喬一の背に両腕を回し、顔を胸に埋めて、しゃくり上げる。
 こうして抱き締めてくれるのも、喬一だけだということは理解っている。それでも雪也が恋しいのだ。
「──独りにしないで」
 そう呟いた細い身体を、喬一はきつく抱き締めた。それしかできないのだと言わんばかりに、きつく、思いきり抱き締める。

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