恋風

高千穂ゆずる

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想いは滔々と

(5)

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 不意に視界が広々として、見覚えのある天蓋が飛び込んできた。
 腕を誰かが擦っているのに気づき、視線を向ける。
喬一だった。
 心臓を鷲掴みにされたかと思うほどの激痛が亮の胸を襲う。痛みの理由はわかっていた。もう誤魔化しようのない、雪也への恋心。
 天秤にかけたら雪也の方が重いとか、そう単純に結論付けられたらどんなに気が楽だろう。
 燕のように自分と朝之との間に割り込む者すべてを憎めたら。自分と雪也との間に割り込んでくる者すべてを憎めたらどんなに楽だろう。
 亮の視線に気づいた喬一が、顔を近づけてくる。何事か話しかけているが理解できなかった。必死な顔と、ぱくぱくと何度も開閉を繰り返す唇を凝視するだけで何の反応も返せないでいる。
 喬一の唇は常に思いやりの言葉を吐き、両腕は温かく優しく抱き締めてくれる。
 喬一を憎めたらいいのに。燕のように自分の恋を貫く為に、邪魔な存在を憎めたらどんなに気が楽だろうか。
 睫毛が堰き止めていた涙がほろりと落ちた。
 憎めるはずがない。喬一を憎めるはずがないのだ。亮は、生まれて初めて他人を羨んだ。人を憎める燕を羨ましいと思ったのだ。
確かに、燕がそこまでに至った経緯はわからない。生まれたときから人を恨んだり憎んだりするはずがないのだから、きっと何か大きな出来事があったのだろう。それでも、彼のように己と朝之のみの存在しか許さない、煌く刀の切っ先のような想いが羨ましいのだ。
 自分は弱い。こうしていざ喬一の顔を見ると、自分の愚かさが露呈されてとても嫌な気持ちになる。喬一の指が頬の涙を拭ってくれる。彼が語りかけてくる言葉はあいかわらず理解できないままだ。頭を引き寄せて、そっと抱き締めてくれる。
 以前喬一は、自分と別れたかったら亮の口からそれを告げろと言った。オレを嫌いになったと、そう言えと。
言えるわけがない。嫌いじゃないのだから。また涙が零れた。そして喬一が悲しげにそれを指先で拭う。
 燕のように──。朝之を愛して鶯を憎んで。
 羨ましい。
 掠れる声で喬一の名前を呼んだ。喬一の表情は途端に明るくなり、何度も亮の頬を擦る。胸に押しつけられる格好で抱き締められた後、ゆっくりとヘッドボードに凭れさせられた。やはり理解できない科白を吐きながら喬一は部屋を出て行った。
 ぱたん、と扉の閉まる音が聞こえた。
 音は聞こえるのだ。喬一の言葉だけが理解らない。
 どうして理解できないのか。音としても捉えられないのか。脱力するとヘッドボードがぎしっと軋んだ。視界に入ったテラスの窓辺に人影を見た気がして、亮はゆるゆると顔を向けた。
 そんな莫迦な話はない。ここは二階だ。そうして顔を戻していると、扉が目に入り、肩が跳ね上がった。驚きで全身が総毛だつ。
 扉がうっすらと開き、そこに一筋の闇があった。
 見間違いだろうかと凝視する。夢の続きが始まり、今にも雪也の声が聞こえてきそうだった。
 ベッドから下りた。ひたり、と裸足独特の足音がする。これはやはり夢の続きで、闇の向うにいるのは雪也なのだ。
 亮は、ひたひたと扉へと近づいていく。
 数歩歩くと、扉がすごい勢いで開かれ、目の前に一人の青年が躍り出てきた。
 赤く腫らした目からは止め処なく涙が流れている。
「燕さん」
 亮は小首を傾げながら呟いた。どうして彼がここにいるのか見当もつかないが、対峙している理由はわかる。
 憎くてしようがない。邪魔でしかたがない。だから消えて欲しいと思っている。
 部屋の中央で二人は対峙していた。
 涙を拭う燕の右手には小刀が握られていて、収めるべき鞘もないその刃は突き立てられるのを待ち望んでいるように煌いた。
 青年の後ろから朝之が飛び込んでくる。それよりも素早く身を翻した燕は、その名の通り、俊敏に亮の懐へ一気に飛び込む。
 押されるように亮はニ三歩後ずさった。引き剥がされるように燕が離れると、今度は喬一の悲鳴が耳に飛び込んでくる。
 先ほどまでの静けさが嘘のように、溢れる泉の如く声が押し寄せてきた。
 燕の泣き叫ぶ声。朝之の怒号。喬一の悲鳴。
 亮は不思議そうに小首を傾げた。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
 すとん、とその場に尻餅をつく。慌てて駆け寄ってきた喬一の手が赤く染まっていた。流れ出していく血を見ても、安堵の方が強過ぎて痛みがわからない。
 これで嘘を吐き続ける必要がなくなったのだ。喬一に対する強い罪悪感ももうお終いである。欺かなくていい。自分の心に正直になっていいのだ。
 亮は、二十歳の青年とは思えないあどけない笑みを浮かべた。最早、誰が自分を抱き締めているのかもわかっていない。喬一のこともわからなくなっていた。
「──好き」
 震える唇が僅かばかり開き、か細い声で呟いた。
「好き」
 もう一度呟く。その瞳には誰も、なにも映っていない。
 喬一が狂ったように名前を呼んでも、あどけなく笑う青年は消え入りそうな声で切ない恋を吐き出すだけ。
「好き。……雪也さんが……好き」
「オレは喬一だ!」
叫んでも亮の耳には届いていない。どんなに力強く抱き締めても、開いていく瞳孔と輝きを失っていく虹彩の中に喬一の姿は映らない。
 雪也の名前を最後に呟いて、大きくひと息ついた後、亮の呼気は止まった。
 口元に仄かな笑みを残したままで。


 薄暗いリビング。
 喪服に身を包んだ喬一が、背を丸めてテーブルに向かっていた。
 ぎい、と蝶番が軋んで扉が開くと、朝之が顔を覗かせた。
 夕闇で、庭先は濃い群青色の闇に覆われかけている。朝之は部屋の明かりを点け、喬一の傍らへ腰を下ろした。
 かける言葉がみつからない。ただ黙って寄り添うしかなかった。大事そうに抱え込んでいるのは、骨壷を収めている桐の箱である。
 亮は、口減らしで公娼宿へ売られた。その時点で天涯孤独のようなものだから、彼の身内を探し出すのは困難だった。けっきょく通夜も葬式も、喬一が一人で仕切って行ったのだ。
 田上の両親は、人目を憚って知らぬ存ぜぬを通した。それもしかたのないことだ。亮は雪也と心中事件も起こしているのだから。
 馨は癲狂院だか巣鴨病院だかに頭の病だと言われて強制入院させられた。罪には問われないと聞いたが、一生籠の鳥である。
 それでも、客を取る必要がなくなったことはせめてもの救いだ。馨の心が壊れ始めたのは、己の意思に関係なくその身体を男共に貸し与えなければならなかったからだ。
 喬一の肩がゆらりと揺れて、視線を朝之へと向ける。開かれた唇からは酷く掠れた声が出た。
「オレは、亮とずっといっしょに生きていくつもりだったんだ」
「ああ、わかっていたさ」
「こんな……小さな箱に入った亮と……生きていくんじゃないんだ」
 朝之の眉間に深いしわが刻まれる。返答ができない。
 喬一は、子供のように肩を揺らしながら、
「こんな形で亮をひとり占めして。オレは──しあわせか?」
 しあわせだと言えるのか。
 掠れて上手く言葉にはならなかったが、朝之には充分通じていた。腕を伸ばし、喬一の頭を抱え込むと、少し癖のある髪に唇を寄せた。
「亮はしあわせだと思う」
我ながら勝手な言い草だとは思うが、亮のしあわせを第一に考えてきたこの男にかける言葉があるとするなら、これ以外にはないと思った。
 喬一の吐く息の温度が上がり、胸はそれだけで焦げつくように痛む。
「亮は喬一と一緒にいて……しあわせだったと思う」
 朝之の言葉に、すべて吐き出したと思っていた亮への想いがまた溢れ始め、喬一はぼろぼろと泣き出した。
 この想いはいつの日か枯れるかもしれない。枯れずにこのまま泣き暮らすのかもしれない。それでも、亮を想って泣くこの一瞬は、枯れることなく永遠に喬一の胸を焦がし続けるのだ。

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